『公研』2023年6月号「めいん・すとりいと」

 

 5月19日から21日まで広島で開催されたG7首脳会議を、イスラエルのテルアビブからUAEドバイおよびアブダビ、そしてまたイスラエルに戻ってくるという中東での調査研究・拠点形成の過程の中で、垣間見ることになった。日本からは高揚感と賑わいが伝わってきた。平和・反核を象徴する広島を地盤とする岸田首相の任期中の開催、対中・対露でいつになく足並みを揃えたG7首脳たちが確認した「西側」の結束、そして現代の国際政治のいわば「ロックスター」とも言えるゼレンスキー大統領の登場など、見どころの盛りだくさんなイベントであり、それ自体、成功であったと評価できるだろう。しかし、中東から見ていると、G7首脳会議の成功は、G7という枠組みや「G7世界」そのものの限界、あるいはその「相対化」の印象を、払拭するものではなかった。そもそもが、G7首脳会議はG7の外ではそれほど報じられていない。当然のことだが、自分が参加せず、呼ばれていない会議に関心を持つものは少ない。ではG7に呼ばれなくて悔しいか、呼ばれたものを羨ましがるかというと、おそらく世界の多くの地域で、そうではなくなっている。

 日本では、中国が5月18-19日に西安で開催した中央アジア5カ国の首脳との会議がG7首脳会議にあたかも「ぶつけた」かのように言及されることもあり、G7首脳会議へのゼレンスキーの登場が中国の対抗する会議を「霞ませた」かのように論じる向きもあったようだ。しかしそういった認識も、あくまでも日本の中、あるいはG7の中のものだろう。日本の外に出れば、「一方で中国が、他方で米国が、自陣営を固める首脳会議をそれぞれ開いた」というざっくりとした認識にまとめられる。どちらにも参加していない大多数の国々にとっては、「米中対立・競争の間で、自国がどれだけ利益を得るか」に大きな関心が寄せられる。

 「G7の結束は、G7の外には及ばない」という事実は、日本の内側にいては、感じにくいことかもしれない。私自身もまた、この時期に日本国内にいれば、おそらくは喜びや驚きの渦に身を任せていたことだろう。誰も祭りの賑わいに水を差したくはない。しかしG7諸国の外では、G7首脳会議は世界の「頂点(サミット)」の会合とは認識されておらず、仰ぎ見る憧れの頂、普遍的な基準の担い手とは自動的にはみなされなくなっている。

  G7に属していない、呼ばれていない国々にとって、G7の決定や提言を世界の中心からの先進的・普遍的な指針として受け入れる発想は、年々に乏しくなっている。それは一方でG7の推進してきた人権や民主化が顧みられなくなる後退であるが、世界が豊かさや力の面で平準化し、国と国の間の関係がより「民主化した」ということでもある。結局のところ、G7は「西側」の価値を共有する諸国の集まりであり、そのことを隠しもしていない。そして今や、隠す必要もないだろう。同時に、G7の「外側」の世界が、G7と基本的な価値を、エリートの個人のレベルではともかく、国民の大多数及びそれに支えられた指導層の立場というレベルにおいては、結局のところは共有していないこともまた、隠されなくなっており、そのことによって咎められるものでもなくなっている。その顕著な表れが、5月19日にサウジアラビアの首都リヤードで開かれたアラブ連盟首脳会議である。ここでは米国の影響力の低下と共に、人権や民主化への顧慮をあからさまに放擲した米同盟国たちが、自国民の大量殺害を反米宣伝で正当化するシリアのアサド大統領を、再び輪の中に迎え入れた。G7はこれを黙殺し、非難の声を上げなかった。

  グローバル化の結果、世界は概ね、より豊かになった。豊かになった国々は、G7諸国に対して、もはや従属して教えを乞う立場にはなくなったと自負しており、そこからG7への関心を低下させた。これは日本にとっては寂しいことだが、世界の大多数の人々にとっては、原則として歓迎すべきところでもある。

  G7にはなおも守るべきで、広めるべきでもある価値があり、その外側の人々が達成し享受することを喜ぶ高い生活水準があると、私は個人的には信じる。しかしG7諸国がなおも世界において指導的立場に立ち、その信じる価値を広めるためには、G7の外側にG7の価値は及ばなくなっている、という現実を踏まえ、出発点としなければならない。

東京大学教授

 

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