『公研』2022年5月号「めいん・すとりいと」

 

 ロシアのウクライナ侵攻への各国の対応について、見ている。西欧や米国、あるいは日本、そして中国の動向に関心が高まるが、私の専門からは、中東諸国の動きを見ることになる。トルコやイスラエル、サウジアラビアやUAEなど、中東の地域大国・有力国の動向である。

 公式・非公式の反応を、直接・間接に確かめ、その特徴を探るうちに、「プリマコフの囁き」という言葉を思いついた。ロシアの政治家エフゲニー・プリマコフは、ソ連崩壊後のエリツィン政権期を代表する政治家で、KGBから分割された対外情報庁長官(SVR)を199196年に務めた上で、外相(96─98年)に就任。98年から翌年にかけては首相も務めた。日本ではプリマコフは、外相時代に北方領土交渉の相手となったことで、あるいはプーチン政権期に商工会議所会頭として経済交流の相手となったことで馴染み深い人も多いだろう。ただし、プリマコフの「本業」は中東専門家である。

 実質上のスパイ養成校として知られたモスクワ東洋学院(現在はMGIMOと略称されるモスクワ国際関係大学に統合)を53年に卒業。専攻はアラビア語で、イラク方言を操ったと言われる。90年の湾岸危機から翌年の湾岸戦争にかけては、ゴルバチョフ大統領の特使として、2003年のイラク戦争の開戦前にはプーチン大統領の特使として、イラクに赴き、サッダーム・フセイン大統領との折衝に当たっている。

 『プラウダ』紙の中東特派員、あるいはロシア科学アカデミー傘下の世界経済国際関係研究所(IMEMO)の研究員という体裁で中東に頻繁に出入りした。水面下で何をやっていたかは、ロシア専門家ではない私からは窺い知れないが、表面に見えるところだけでも、非西洋世界の世論、特にインテリ向けの情報発信に長けた人物であったと言える。そのプリマコフが残した言葉が「多極世界(Multipolar World)」である。ロシア側の専門家による英訳では「多極世界秩序(Polycentric World Order)」とされることがあるようだ。米国の圧倒的な力と先進性によって支配・指導される「一極世界」に対するアンチテーゼ、あるいはオルターナティブとして、「多極世界」は、かつての「第三世界」を中心に、非西洋世界のインテリ、あるいは西洋世界の中の反体制陣営に受容される概念となった。「多極世界」の内実や構造は明確ではない。その内実が明確でないことにこそ、「多極世界」概念の眼目があり、提唱の意図があるのだろう。

 「多極世界」は学術的な分析概念というよりは、ロシアの対外宣伝工作のキーワードとしての様相が色濃い。米一極集中と支配に対する、世界各地のさまざまな反発や反感を、緩やかに糾合し、反米潮流に結びつける。米国による支配に綻びの箇所を見つけ、各国の指導層に囁き、国際メディアや各国メディアに載せて人口に膾炙するよう仕向ける。米国による支配は盤石ではない、世界は多極化している、その中であなたの国は現在とは違った高い地位を占められるかもしれない、乗り遅れるな、という囁きは、非西洋世界の政権や、西洋世界の野党・反体制勢力にとって特に甘い響きを持っている。

 「多極世界」論は、「多国間主義(Multilateralism)」とは似て非なるものである。「多国間主義」が、米国一極集中を和らげ、米国を含む国際社会の協調と協力を促す建設的・前向きな論理と行動を総称するとすれば、「多極世界」は、米国による支配への反感や反発のネガティブな感情を刺激し、超大国の「足を引っ張る」ことを共通項とした破壊的・後ろ向きの不和雷同を助長する。

 「世界秩序」を大所高所から論じるような立場にいる、世界の政治家やインテリ層にとって、「米一極支配に対するオルターナティブ」はいかにも魅力的である。ロシア発の露骨なプロパガンダや、あからさまなフェイク・ニュース、むき出しの反米論は、その誤りも容易に指摘される。それに対して、誰もが反対しにくい多元化・多国間協調に繋がりそうに見える漠然とした「多極世界」論には、大きな隙が見当たらない。

 しかし「多極世界」には、「米国という圧倒的な極が失われる」ということ以外には秩序がなく、それどころか確固とした「極」がほとんど見当たらない。混乱と無秩序を加速する撹乱の論理であり、代替肢というよりは、米国に支配されない「並行世界」を夢見る感情の発露といったほうがいい。しかし、非西洋世界の指導者にとっては魅力的な、「プリマコフの囁き」である。

 東京大学教授

 

 

おすすめの記事