『公研』2020年4月号「めいん・すとりいと」

池内 恵

 コロナ問題により、この3月グローバル化は音を立てて急停止した。感染症の全世界での爆発的な拡大に対する予防措置としての「一時的な停止」である、とその瞬間は誰もが思おうとした。しかし、事態はより深刻であり、長期化し、恒久的に人類社会のあり方を変えてしまいかねないことが判明しつつある。

 グローバル化は停止しただけでなく、急速に「巻き戻し」ている。一国が他国人に国を閉ざすのではなく、あらゆる国が相互に国境を閉ざす。各国は自国民に早期の帰国を呼びかけた。それによって一時的に膨大な人の移動が発生した。自国の国境が自国民に対しても閉じられる前に、あるいは国境がわずかに自国民には開いていたとしても、移動する手段、飛行機の便などが急速に失われていく。国境が開いているうちに、あるいは運航休止となる前の帰国便に「滑り込み」で乗り込み、祖国に辿り着いた。この喧騒が収まった時、静寂が訪れた。人類は記憶する限り最も人の動きが制約された期間を過ごしている。

 影が薄くなりかけていた国民国家がコロナという見えない外敵の前にその存在感を取り戻し、構成員に「総員点呼」を呼びかけているかのようだ。

 冷戦後の時代、世界の一体性とその中での可動性は高まる一方だった。観光、留学、駐在、出張などで国際会議で人々の国際的な移動はより安価に、より気軽により頻繁になる一方だった。IT化による情報の流れの増大と加速はこの傾向と並行し、拍車をかけた。スマホで予約し、クレジットカードで決済した電子チケットの画面をかざすだけで、人々は気軽に飛行機に乗り国境を超えていた。それが急停止した。

 人の動きとIT化による情報の流れに「デカップリング」が生じている。人の動きは止まった。人々は国境の壁にこれまでに経験したことがないかたちで遮られており、その間の動きは極小となった。これは近代始まって以来の人の動きの縮小だろう。

 同時に少なくとも今のところは、グローバルな情報の流通は妨げられていない。人々は海の向こうで、地球の裏側で進むコロナ感染の数と状況を刻一刻と伝えられる。情報の上で、世界はコロナという一つの問題をめぐって、一体化を強めている。人類の諸民族は多様だが、コロナの脅威は普遍である。人文学や政治外交がついぞ達成できなかった「普遍」の夢を、コロナウイルスは易々と達成している。

 しかし、国民国家の時代が再びやって来たかと言うと、そうでもない。国家による「総員点呼」に応じた後、国民は何をするでもなく、早々に動員解除され、それぞれの都市に地域に、そして個々の家に戻り、隣人と接することを避けて閉じこもることを余儀なくされた。

 国民の一体性であれ、都市の社交的つながりであれ、いずれもコロナの脅威に対抗するには有害でしかない。人々は集まれず、顔を合わせ、会話することができなくなった。大勢で集まり、唾を飛ばして議論をするという行為は、人間がかたちづくる共同体の原型であり基本であろう。しかし、これはコロナの時代には共同体の自滅をもたらす行為となった。

 それどころか、家族ですら潜在的な感染源として相互に恐れる存在になりかけているのではないか。コロナは人間同士の繋がりを強制的に切っていき、バラバラの個人として閉じ込める。

 感染が急速に世界に広がる中、「ソーシャル・ディスタンシング(社会的隔離)」の必要性が広く知られた。しかし、事態が長期化する段階においては「フィジカル・ディスタンシング(物理的隔離)」がより望ましいと、WHO(世界保健機関)の専門家たちも提唱している。

 人々が集まって意見を交わし、相互に「近づく」ことは、人類という決して強くはない種がここまで存在し得てきた根拠だろう。コロナに対して生き延びるために、物理的な距離は絶たれた。しかし人類の生み出した情報技術の媒介によって距離を縮め、繋げること。これが今、全世界で部屋にこもっている人類の一人ひとりが深く考えていることだろう。

 この伝染病の致死率から見て、人類が滅亡しないことは確かなようだ。生き残った者たちが人類の「社会」の繋がりをどう復活させるかが、人類の叡智の見せどころである。東京大学教授

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