『公研』2020年9月号

東京大学先端科学技術研究センター教授 池内

1 供養の季節

 灼熱の夏の盛りをどうにか乗り越えたところで、今度は大型台風が次々とやってくる季節に突入した。コロナ下の制限された生活も、すでに半年に及んでいる。お盆休みですらもほぼ空の新幹線が人気のない駅に行き来する様子がニュースで映し出されていた。経済の長期停滞による影響が、未曾有の規模で近く現れて来そうであることが、その非現実的な、しかし日常的な光景から、伝わってくる。

 盛夏は鎮魂の行事が重なる季節である。それらの行事の多くを、今年は通常の形で執り行うことができなかった。それでも街には供養の雰囲気が漂う。外出を避け、県境を越える移動を見合わせ、むざむざと経済が壊死していくのを座視するのは、棺を前にして死者が朽ち果てるのを待ちながら屋内で弔いを過ごす古代式の追悼の作法、「殯(もがり)」の儀式を復活させたかのようだった。

 感染症対策で社会の活動が一斉に鈍ったとしても、月日は巡り、四季は移り変わる。新入生や新入社員が社会関係の網の中に入れず滞留していくことをなんとか回避しようともがいた半年を過ぎ、不十分とは言え、一応の当面の目処をつけた頃に、今度は社会から退出していく、すなわち死が目につき始める。社会が活動を止めても、死は人間を待ってはくれない。定められた時に従って、順に幽明の境を超えていく。

 もちろんこれは直接的なコロナ感染死のことではない。現状では日本では、コロナ感染死は一部の社会的に著名な方々の不幸な感染と死(それらは大々的に報じられた)を除き、多くの社会の成員にとって身近なものではないだろう。そうではなく、コロナ下の生活も半年に及べば、その間に知人の逝去の知らせも届くようになり、この特殊な状況下でいかなる悼み方があり得るか、戸惑う。

 とは言え、人の死の悼み方に戸惑わないことなどないし、知己に物故者が増えてくるのは私の年齢がそういう段階に差し掛かったということを意味するだけである。そういう統計があるかどうかも調べる気が起きないが、酷暑によって、病への抵抗の最後の体力と気力を削られていくのか、夏の終わりに力尽きる老人は多いように感じる。昨年の8月30日、暑さがようやく峠をこえた頃、私の父が亡くなったことを、一周忌ということもあり思い出していたからか、ついそのように感じてしまう。

2 文化の企み

 今年の夏は山崎正和さんが亡くなった。8月19日に、86歳で。今回は山崎正和さんとのことを書こうと思う。

 山崎正和の追悼がなぜ「戦略思考」となるのか、それもなぜ私の個人的な関わりの回想が、という疑問を抱く方もあると思うが、そういう向きはそもそもこの連載に目を通してくださることもないだろう。気にせず記すことにする。山崎正和さんが実に長い間、日本における「文化の戦略」を司ってきたプロデューサーであり、監督であり、主演も助演も裏方も一身で務めてきたことを、知っている人にとっては当たり前のことであり、知らない人にとっては、縁のないことだろう。

 私が山崎正和さんに個人的に接することができたのはその最後の段階の一部で、それも表面的・断片的にしか過ぎない。私が文章を書いて生活するようになって間もなく、山崎正和が主導したサントリー文化財団の様々な企画、あるいは「仕掛け」のいくつかに、混ぜてもらって、そこに現れる山崎正和さんと額を付き合わせて(片耳が悪いから、と言いながら顔を少し近づけてくるので文字通りそういうスタイルになる)、語り合う機会が少なからずあった。このような経験を持つ同年代の研究者はそれなりに多いと思う。サントリー文化財団の主催、あるいは支援する研究会のいずれかに加わったり、サントリー学芸賞を受けたりすると、その頻度は高まる。

 しかし、山崎正和と対面で(この言葉は今や別の意味を持つようになってしまったが)語り合うというのは、私の世代の人間にとっては奇妙な体験である。山崎正和と言えば、高校生の頃、国語の教科書の文学史の年表に、1963年に戯曲『世阿弥』を発表して初演、と記されているのを憶えた、というのが多くにとって最初の出会いだっただろう。あたかも「歴史上の人物」が蘇って目の前に現れ、あまつさえ、「君の本を読んだよ」などと言い、質問をしてくる、議論をふっかけてくる、というのは、少し大袈裟に言えば「超常現象」に近い。この奇妙さは、存外に心地よく、最後まで抜けることがなかった。逆に言えば、直接会うようになってからも、「あの文学史上の山崎正和」のホログラムと対座しているような感覚が抜けなかったような気がする。そのため、死去の知らせを聞いても、どこか現実感がなく、悲しみというものも意外に湧いてこない。

 私が学生時代を送ったのは1990年代前半であって、その頃は山崎正和の名は頻繁に新聞の紙面や論壇誌の誌上に登場していた。実は大阪大学ではその頃まで教えていたはずで、普通に接することの可能な大学の先生でもあったはずだが、現役の学生というのはそういうことはあまり感じないものである。メディアに出ている遠いところにいる偉い人と、目の前にいる冴えない先生は別物、という感覚は、その後自らも教鞭をとるようになるようなタイプの学生も共有しているものである。

 「文学史の年表に載っている歴史上の作家」「遥か遠くにいる、政治的にも重きをなす言論人」という山崎正和の印象と、総合文化プロデューサーとして、文化財団や美術館や大学やイベントを組織し、運営し、自らそれらの活動の現場に現れ、持論であった「社交」のお手本を、押し付けがましいところなく実践して見せる山崎正和の姿は、あまり重ならない。そしてそれらはいずれも魅力的であった。

3 終演のハレ舞台

 山崎正和のキャリアは尋常ではなく長い。私はそのうち「晩年」と言うべき時期にしか、接していない。晩年の時期の印象のみを持ってして死者を語るのは、礼を失することにもなりかねない。しかし人は生まれる時期を選べない以上、私の目にした時期の山崎さんについて記すしかない。

 そもそも、ある人物の「最も良い時期」がいつだったかを正確に確定することは、容易ではない。特に山崎正和のような、長い人生の、その大部分を、公的人物として過ごした人について、「どの時期が特に重要である」と言い切ってしまえば、歴史的意義の全体的評価を、短絡的な基準で即断してしまうことにもつながりかねない。

 一般に「若い時」あるいは「人生の盛りの時」の事績を、最も「良い時」としがちである。その基準によれば、例えば「劇作家として鮮烈なデビューを飾った」「批評家として縦横無尽に筆を振るい、文壇・論壇の寵児となった」あるいは「政界・官界からもしばしば助言を求められた」といった事項によって彩られた時期を、「最も良い時期」と比定することになるのかもしれない。

 そうだとして、では、それらの「良い時期」を実際に共にし、適切に語れる人物が、どれだけ残っているだろうか。弔辞を読むべき最も適切な人物たちは、往々にして先立ってしまっている。偶然により長く生き延びたことによって、生前に故人ともっと親しかった、あるいはもっと適切に語れる先立った人たちを差し置いて、あたかも百年の知己であったかのように、最大の理解者であったかのように語ることは、死者に十分に報いることにならない場合もあるのではないか。

 私はここでは、私にとって最も記憶の新しい、山崎正和と会話をすることのできた最後の二つの場面について、振り返っておきたい。それは昨年の4月と6月の、二つの祝宴の席だった。

 山崎正和は2018年11月に文化勲章を受けている。翌年19年4月3日に、これを祝うパーティーが執り行われた。正式な会の名称は「山崎正和さんを祝う会」。サントリー学芸賞の授賞式で馴染みのある、東京會舘で行われたと記憶している。

 文化勲章の受賞のお祝いということになると、多くは絢爛たるものを想像するだろう。もちろん華やかなものではあった。山崎正和が文化勲章という、文化人として最高の名誉を受けたことを祝い、喜びを分かち合う場として出席した人たちも多くいただろう。それが間違っているとは言わない。

 しかし同時に、この集いは、山崎さんが、公的な立場で知り合ったあらゆる関係者をまとめて、別れを告げるための場であった。これは全くの私の個人的な感触であり、想像に過ぎないが、そう私は考えている。

 そのように推測するのは、これに至る数年間に、山崎さんがその全ての役職を退き、手がけてきた事業を後進に託していくことに意を尽くし、入念な手筈を整えていたこと、それがほぼ完成しつつあることを、間接的に耳にしていたからである。私のような山崎先生の関係者の最も外縁に属する人間には見せないものの、何度か体調を大きく崩したこともあったようである。

 「祝う会」の通知を受け取った時、私が直感的に悟ったことは、これは劇作家でありプロデューサーである山崎正和が、自らを主演とした舞台の最後の主演を演じる場である、ということだ。演者の性質から、それは華やかに、朗らかなものになるに違いないが、しかし生前にあらかじめ執り行う告別式のようなものとなり、山崎正和自身が、社会的な活動を共にした知己たちに一人一人自ら別れを告げる場になると予感した。出席者の多くにとっては、それが山崎正和と言葉を交わし、別れの挨拶をする機会になるだろう。

 後の報道によると、出席者は180名だったという。盛大な会ではあったが、山崎正和ほどの人物が公的人生を締め括る際の別れの会として、特に大きいとは思わない。その一人として出席できたことを誇りに思うし、呼んでいただいたことに感謝している。

 私はかねてより、山崎正和という巨大な公的人間の「花道」はどのようなものになるのか、なり得るのか、ということに関心を抱いていた。このような人物になると、そう簡単に「花道」は用意されない。山崎正和の場合、その花道は、自らが脚本を書き、演出して監督し、自らが演じて歩んでいかなければならないことは明らかだった。いかなる形で山崎正和は公的な立場から「身を引く」のか。

 「文化勲章」の受賞とそれをお披露目する集いがもたれると知った時、これはまたとない機会として設定されたものだ、と感じた。「文化と国家」を終生のテーマとした山崎正和にとって、文化勲章とそのお披露目以上に「終演」の舞台としてふさわしい場はあるだろうか。文化勲章受賞という一世一代の「晴れ舞台」を、自らの終演という「ケの舞台」に用いるという、その手があったのか、と私は勝手に想像し、舌を巻いた。私自身がそこに端役として呼んでいただいた形である。山崎正和が最後の公の場として設定した(と思われる)場に「出演」して、私は適切に振る舞えるだろうか。

 「祝う会」の当日は、山崎さんを支えてきた人たちが総出で、その最後の舞台を締め括ることを助けていた。式次第が全て進行すると、山崎先生は小さな椅子を出し、そこに座って、参加者たちからの挨拶を受けた。付近に陳列された文化勲章の本章と賞状に目を止める人はそれほどいなかった。誰もが山崎正和を、ひと目でも見に来ていた。延々と続いた伺候の列が一瞬途絶えた時に、私は近寄って、記念撮影をしてもらった。この時、少し前の研究会で山崎さんが私に問いかけた質問をなおも続けようとする雰囲気が若干ながらあった。しかしその言葉は過半で途絶えた。私はただ黙礼して微笑むしかなかった。山崎さんの体は、前に会った時よりもひと回り縮んだように見えた。

 山崎正和は、学芸の世界において、野球で言えば、GMで、監督で、エースで4番を兼ねていたような人物である。本人の専門に引きつれば、劇作家で、脚本家で、演出家で、監督で、主演俳優だった。自らの公的人生は、自らが脚本を書いて、演じて、締めくくらなければ、誰も終わらせてくれない。それを誰よりもわかっていたに違いない。社会的存在である山崎正和の終演を、人間であり体力と寿命に限界の現れてきた自身が書き、演出し、演じなければならない。演じ終わっても、拍手に応えて、幾度も舞台袖から中央に戻ってこなければならない。何よりもその疲労が色濃く見えた。私は、やはりこれは終演なのだと確信するに至った。そしてこの最後の演目に、私のセリフはない。私は黙ってその場を離れた。

4 アンコールの後で

 その後一度だけ、私は山崎さんの姿を目にしたことがある。「祝う会」は、実はもう一つあった。大阪大学文学部やその同窓会が主催する、文化勲章受賞を祝うフォーラム。山崎正和の講演と、かつての同僚たちの講義、山崎さんを囲んだシンポジウムからなる、どこか家庭的なイベントだった。招待状が来たわけではない。山崎さんが長く教えた大阪大学文学部のかつての同僚たちや、そして教え子たちが企画した、内輪の催しだったのかもしれない。しかしインターネット上で予約はできるようだったので、予約して、その日を待った。6月のある日のことだった。

 実はその日、大阪大学の会場からそう遠くない場所に前日から来ていたにもかかわらず、朝になって私はこの会のことをすっかり忘れてしまい、開始のすこし前になって思い出した。今から電車で行けば間に合わない。しかしタクシーを飛ばして高速道路で山中を突っ切れば、1時間ほどで着く。会の開始には間に合わないが、山崎さんの講演の最後ぐらいには間に合うかもしれない。迷わずタクシーを拾った。

 思いの外短時間で豊中の大阪大学文学部講堂にたどり着いた時、山崎さんの講演はとうに終わっていた。どうやら予定時間を残して簡潔に切り上げたようである。その後の山崎さんを囲むパネルディスカッションでも、山崎さんは言葉少なだった。淡白な、あるいはやる気がないようにすら見える様子で、かつての同僚たちから振られるどの話題にも深く食いつくことがなかった。私はその理由を訝しんだ。もしかすると、ここはかつて長く教えた職場であり、ケレン味たっぷりに楽しませて見せるのは野暮なこと、と考えておられるのかもしれない。

 演目の合間に、山崎さんを囲む人並みが一瞬途絶えたのを、遅れてきて確保した天井桟敷から目にした私は、階下に降りた。最前列の席に山崎正和は座っていた。いつもの研究会のように、私は親しげに近づいた。いつもどおりに、好奇心に満ちた目で、顔を近づけてきて、話に応じてくれることを期待して。しかし反応はこれまでになく、よそよそしいものだった。端的に言えば、山崎さんはその瞬間、私のことを思い出せなかった。これは晩年の15年ほどの山崎さんとお付き合いをさせていただいた中で、かつて一度たりともなかったことだ。会うたびに私の顔と名前と専門分野と書いた本を一致させて、話しかけ、議論を持ちかけてきた。その山崎さんとは別人の山崎さんが、そこにいた。

 かつての職場で身内に囲まれた会合に、東京の仕事で相手をしていた若い研究者が現れることを予想していなかったのかもしれない。そしておそらくその時点ですでに、山崎さんのお体は大変悪かったのだろう。

 しかし私は戸惑い、焦った。つい数カ月前まで親しく語り合っていた山崎さんの記憶から、どうやらこの瞬間、私は消し飛んでいるらしい。やがては誰にでも生じることである。しかしそれが他ならぬ山崎正和に起こっていると気づかされた私は、まるで幼児退行するかのように、若い学生のように、自己紹介を始めた。実際、私にとって山崎正和とは教科書の中の歴史上の人物であり、そのような人物に出会った時には、改まって最初から自己紹介をすることが正しいようにも常に感じていたのである。「イスラムを勉強しております」云々。

 山崎さんもまた若干狼狽しているようであった。この目の前にいる人物は誰なのだろうか。大阪大学の教え子にこのような「若者」がいたのだろうか。山崎さんは儀礼的に話を継いだ。「そうですか、イスラムを研究なさっているんですか。所属はどちらで。東京大学ですか。それはそれは。お励みなさい」等々。山崎さんは正面からこちらを見ることがなかった。目を伏せながら、絞り出すように、接ぎ穂のない儀礼的な会話をしばらくした。

 ここに至って私は、大きな非礼を犯していることに気づいた。山崎正和という劇のフィナーレは、東京で公的な関係者向けにすでに4月に済ませてある。最後のスポットライトを浴び、幾度も拍手に応えて、舞台裏に退いていた。その後は、社会的存在としての山崎正和はもういない、ということだったのではないか。

 6月の会は、山崎さんにとって、元の職場の同僚や、教え子たちの要望に答えて出た、内輪の席だったのかもしれない。衣装を解き、化粧を落としてくつろいだ役者の家に押しかけた粗忽者のようであった、自分の行動を恥じた。

 とは言え、私は山崎さんにもう一度会いたかったのである。もう一度会って、かつてのように研究会や懇親会で延々と交わした、はじめも終わりもない談議をしてみたかった。それは叶わなかった。しかし死出の旅路に就き、この先何度か峠を越えなければならない病の苦しみに身を折り曲げる一人の人間としての山崎正和の姿を一目見たことは、私にとって糧となっている。思えばタクシーで山中を疾走した時に、しばしの間、幽明の境を超えていたのかもしれない、とすら思う。

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