『公研』2020年11月号

東京大学先端科学技術研究センター教授 池内 恵

1 コロナ禍がもたらした「人心一新」

 先の見えぬコロナ禍の、閉ざされた日常の生活に根差して、新たな時代を手探りで模索するこの連載を続けるうちに、気づけば米国では、新しい大統領が誕生する模様である。どうやらコロナ禍は、一人の特異な米大統領を葬り去ろうとしているようである。勝者は正式には決定されていないが、民主党のバイデン候補が現職のトランプ大統領の再選を阻んだと見るのが、米主流メディアの共通した報道である。

 圧倒的に現職に有利な米大統領選挙の制度のもとで、トランプ大統領の再戦が、通常の投開票の示す結果の限りでは、高齢で非力な、長く「二番手」に甘んじてきたバイデン候補によって阻止されたようだ。トランプ大統領の言動がどれだけ型破りで、しばしば物議を醸すものであっても、時に超大国の首脳としての品位や見識を疑われるものでさえあったとしても、トランプを大統領職から追い落とすという選挙結果は、コロナ禍の介在を抜きにしてはあり得なかっただろう。

 この連載では触れなかったものの、前々回の9月号のための原稿を書いていた頃にはすでに安倍前首相が辞任の意向を表明しており(8月28日)、前回10月号の原稿を書いていた頃には、もう菅義偉新首相が就任していた(9月16日)。安定・長期政権を誇っていた安倍政権がこのような形で突然の退陣を余儀なくされるとは、年初の段階で予想していた人は誰もいなかっただろう。健康問題が首相の退陣の直接の理由とされたが、政権への求心力の急激な低下をもたらし、「人心一新」を不可避とする「空気」を醸成し、安倍前首相を追い詰めたのは、結局のところ、党派対立でもイデオロギー闘争でもなく、汚職批判でも憲法問題でもなく、疫病であり、それによって引き起こされた経済への打撃だったようだ。非常に巨視的に見れば、同様のことが米国にも起きたと言えるだろう。

 日本と米国は国家の来歴や体制も、選挙制度も大きく異なり、全く異なる論理と経路によってそれぞれの指導者が退陣し、別の指導者がその跡を襲ったのだが、「疫病の蔓延により民の竈が疲弊し、人心一新を求める声が高まり、指導者がその地位を追われる」という、古来より人間社会で行われてきた「まつりごと」のサイクルに、それぞれが従ったと捉えるならば、大きく見れば世界共通の災厄への共通の反応と言える。

 結果として、日本は米トランプ政権の退陣に先立って首相を替えていたことになり、米政権の交代に伴う対米外交のリセットと再スタートも、おそらくかなりやり易くなったことになる。

 コロナ禍への対応にせよ、対米外交にせよ、入念に作り込まれた戦略に基づいて行われているようには見えない日本政府の動きは、定期的にこのような「結果オーライ」と呼ばれる現象を経験して、事後的に承認される。果たしてそのことが良いのか悪いのかはわからないが、日本の政治とはこのような進み方をする以外にはなさそうである。

2 開票の政治

 今回の文章を書き、入稿し、校了するまでの、11月初頭の1週間余りの間に、米大統領選挙の投票が行われ、開票が進んだ。即日開票が深夜・明け方に及び、翌朝以降も各地で紆余曲折ある開票が続き、その状況が詳細に報じられていった。それを日本では、半日の時間のズレを伴いながら目撃し、開票の進展と共に引き起こされていく政治的な紛議の広がりをも克明に見つめていくことになった。見つめるための媒体は、米主要メディアが不断に提供する開票速報の映像と、それを用いて報じる日本のテレビ局の番組であると共に、それらの映像や図像の断片を、出所不明の映像や発言を取り混ぜて発信する無数のSNSアカウントだった。

 投票日の11月3日(火曜日)の投票終了から、11月7日午前11時半ごろにバイデン候補の「当選確実」との報道が、米CNNを筆頭に、ABCなどの3大テレビやフォックスニュースなどの米主要ケーブルテレビ、あるいはAP通信やニューヨーク・タイムズ、ワシントン・ポストなどの主要な新聞・通信社によってなされ、そして同日夜にバイデン候補が地元デラウェア州でカマル・ハリス副大統領候補と共に勝利演説を行うまでの間の時間は、丸4日間に過ぎない。しかしこの4日間がどれほど長く感じられたことだろうか。その間、話題の焦点、議論の争点は半日ごとに移り変わり、報道の論調と有識者の認識は二転三転した。この短い期間での社会の「気分」の激しい移り変わりや、その時々の「見通し」の変化について、記憶の新しいうちに、記録しておこう。

 この原稿を書いている時点ではまだ、トランプ大統領は敗北を認めていない。「当確」がほぼ確実なものとなった段階で、敗者の側がまず敗北を受け入れる声明を出すという米大統領選挙の恒例の手順を拒否し、選挙の不正を訴え、法廷闘争に出ることを表明している。この頁が印刷され、手元に届く頃には、少なくとも「開票」作業は全て終了しているだろうが、集計結果をめぐる法廷闘争が続き、再集計や票の無効化も一部で話され、依然として当選者の確実な判明には至っていない可能性もゼロではない。

 「誰が誰に投票したか」という「事実」は一つしかないが、それは開票・集計というプロセスで確定されるしかない。開票のプロセスは時間がかかり、その段階によって「見え方」が異なってくる。往々にして事実はその「見え方」によって意味が変わり、政治的な帰結を異にする。11月3日の投開票日の深夜から翌4日未明までは、中西部や南部の、特に郡部の、トランプ大統領が根強く支持層を持つ地域の開票結果が先行して集計され報じられたことで、テレビの開票速報を見る限りでは、トランプ大統領が有利であるかのようにも見えた。しかし現地時間の4日朝には、大都市部や郵便投票の開票結果が遅れて反映され、バイデン候補が優勢との報道に転じた。

 この変化を不正によるものと主張するトランプ陣営が法廷闘争に主戦場を移す中で、各メディアの「当確」の報道は遅れた。開票の焦点となったのはペンシルベニア、ジョージア、アリゾナ、ネバダなどの「激戦州」の帰趨だったが、7日午前までに、その中で最大の選挙人枠を持つペンシルベニア州で、バイデン候補の勝利が確実になったことで、獲得選挙人数で過半数を得ることが確実となり、ようやく各メディアが当選確実と報じた。

 各有権者の投票という事実そのものは投票日までに確定しており、その深夜から翌日の間に、あるいは一部でその後も長引いた開票作業の間に、大規模な不正さえなければ、変化するはずはない。しかし「開票」の手順や速さによって、州や地域、投票方法によって開票・集計にかかる時間に違いがある。そして州や地域、投票方法によって支持する候補が大きく割れるが故に、開票速報の初期の段階と中盤、そして終盤で、結果の「見え方」が異なってくる。

 開票・集計の最中に両候補が抜きつ抜かれつの争いを繰り広げているわけではないのだが、人間がメディアを通じて世界を認識する限り、開票の各段階での集計結果が報じられる過程で、多くの人々は偽りの印象を得てしまう。

 人々にこのある種の偽りの印象を与えて興味関心を惹くことそのものは、官製の統制メディアでない限りは、自由な商業メディアである限りは、必然的に伴ってくることである。それはやはりメディアの「飯の種」の欠かせない一部と言う他はなく、完全に否定することは難しい。民主主義に不可欠の選挙の、開票時の混乱を避けるために、逐一の開票速報を規制する、あるいはメディアが自主的に止めるといったことがあれば、結果的に民主主義に不可欠であるメディアの機能を損なってしまう。規制が不可能であるならば、偽りの部分を含む印象をどう操作するか、操作された印象に基づいてどのような政治的な言明を行っていくかが、民主主義における政治闘争の大きな部分となってしまう事態は、望ましいことではないと誰もが分かりならも、今後も必然的に生じ続けるだろう。

 開票の時間差による、結果の見え方の違いを利用し、自らに有利に選挙結果を導こうとする戦略を、トランプ陣営は意識的に採用していたようである。事前の世論調査で明らかになっていた劣勢の情勢から、もっぱらこの時間差を利用した「逃げ切り」に勝機を見出したのだろう。

 トランプ候補は、開票の初期段階での「優位」を根拠に、投票日から日付が変わってからさほど時間が経たない11月4日未明に、早々と勝利宣言を行い、大規模な郵便投票を可能とする現行制度そのものと、その運用に重大な不正があると主張し、その後の開票を差し止めようとする法廷闘争に戦いの場を移した。

 これは現行制度の信頼性を米国内部だけでなく世界規模で毀損する、重大な禁じ手だろう。現職の大統領がそのような手段を採用したというところに、トランプ政権の特異な側面が現れているだけでなく、米国政治の陥った危険な局面が現れていると言わざるを得ない。

 「民主主義で重要なのは誰が投票するかではない。誰が開票するかだ」という冷笑的で深淵なフレーズは、スターリンのものと言われている。権威主義体制と呼ばれる自由や民主主義の制約された国々では、選挙や投票を表面的には行うものの、その結果が民意を反映するとは限らず、政権や体制に影響を与えることが少ない。そのような国々の、結果が最初から分かっている選挙・投票が行われるたびに、スターリンのものとされるこのフレーズは思い返されてきた。

 しかし米国社会が分裂を深める中で、また米大統領選挙がその複雑な成立の経緯から多様性と杜撰さを内包していることにより、制度の設計や運用により、政争や司法闘争をしばしば招くことから、「投票より開票が重要」というフレーズは、米大統領選挙に際しても、米国民の自嘲や、他国民による呆れや風刺に、しばしば用いられるようになっている。これは各国に顕著なポピュリズムの傾向と合わせて、自由民主主義体制の権威主義化とも言える傾向として由々しきことである。かつては、世界の権威主義体制は順次崩壊し、自由民主主義体制に移行すると、広く予測されていた。ところが現在、この見通しに陰りが生じている。自由民主主義体制への移行が進んでいる、あるいは確固たる自由民主主義の体制である見られていた国々が、再び権威主義体制に向かう事例が多く見られる。その中で米国が、独特の選挙制度の不備をつく現職大統領によって、権威主義体制に典型的な「開票」による支配に陥りかねないという状態は、世界の自由民主主義体制のリーダーとしての地位を揺るがせると共に、自由民主主義そのものへの信頼を損いかねない。

3 思い返される「2000年米大統領選挙」

 米大統領選挙が「投票」よりも「開票」をめぐる政治と司法の闘争の場となり、世界の関心を集めた事態として思い起こされるのは、ジョージ・W・ブッシュ対アル・ゴアが争った2000年である。この年の米大統領選挙は、現在の国際政治をもたらす現代史の「起点」であり、その前後の経緯を含めて、現在の現役世代にとっては、国際社会についての共通認識を形成する共通の記憶となり、世代によっては、国際政治と米国に関する「原体験」であるかもしれない。

 2000年の大統領選挙で、ジョージ・W・ブッシュ候補は、高い人気を誇ったクリントン大統領の、才気に溢れ力強い副大統領であったゴア候補と大接戦を演じた。ブッシュ候補は一般投票の総数で過半数を獲得できなかったが、弟ジェブ・ブッシュ氏が知事をしていたフロリダ州を僅差で制したことで、選挙人団の過半数をかろうじて獲得し(271名)、勝利した。

 フロリダ州ではゴア陣営が再集計と一部の無効票の有効票参入を求め、法廷闘争が繰り広げられた。しばしば党派的な偏りがある判事によって構成される司法と、党派だけでなく親族・血縁の繋がりさえある州レベルでの行政の裁量が関与した「疑惑の判定」の介在によって次期大統領が決まるという、不明朗な展開が、関係する諸機関・人物の一挙手一投足と共に、世界に伝えられた。パンチカードの穴を見つめて有効・無効を判定する、超大国アメリカという印象に似つかわしくない奇妙な光景は、アメリカの権力の内側の混乱を印象づけ、その掲げる理念への信頼性や威信に陰りをもたらした。

 この光景はその後、国際政治に関与する、特に中東に関与する人間の脳裏に、幾度となく過ぎ去ったに違いない。アメリカがブッシュ大統領選出の際に曝け出した不手際・不明朗さは、その後の国際政治の不吉な展開の前触れとして、思い出されただろう。

 そして中東では、2000年の米大統領選挙の混乱は、並行して進んだイスラエル・パレスチナの緊張・衝突と、そこで活発化したイスラーム主義過激派の活動と、重なっていた。ブッシュの前任のクリントン大統領は、その任期の末に、ノーベル平和賞狙いもあってか、半ば強引に中東和平に決着をつけようとした。クリントン大統領は7月11日から25日までの長期間に渡り、キャンプデービッドにイスラエル・パレスチナの首脳を呼び寄せ、直々に仲介の労を取ったにもかかわらず、妥結を見なかった。ここで決着を妨げた争点であった東エルサレムをめぐって、イスラエルの右派の野党リクード党のシャロン党首がイスラーム教の聖域(ハラム・シャリーフ)を強行訪問して挑発したことをきっかけに、9月末から「第2次インティファーダ」の騒乱が発生し、イスラーム世界各地で過激派が刺激される。米大統領選挙の開票が混迷し、米国の威信の揺らぎや、次期政権の不透明感が増すのと並行して、イスラエルではイスラーム過激派による自爆テロが頻発する。この文脈の上に、翌年の9・11事件に至る国際テロリズムの活発化があると共に、イスラエルでは分離壁の建設につながっていく。

 一般投票の総数では「実際には負けていた」ブッシュが、フロリダでは「疑惑の判定」によってかろうじて権力の座に押し上げられた、という政権の成立における「負い目」は、その後、ブッシュが大統領として困難で大きな政策選択を迫られた際に、ある種の方向での決断を行うのに背中を押す一因となったのではないか。2001年1月に就任した段階では、選挙でのゴタゴタを背景にして、正統性の上で非力・弱体と見られていたブッシュ大統領が、この年の9・11事件で、いわば「天啓」を受け、イスラーム主義勢力による挑戦を迎え撃つという世界史的な使命を見出す。そこで元来の内向き志向を転換し、中東を中心拠点に広く活動するグローバルな対テロ戦争に、米国と世界を導いていった。

 ブッシュの個人史は、その大統領としての政策、特に外交・安全保障政策に色濃く影響を及ぼしていたと考えられる。父ジョージ・ブッシュ大統領は、名家に生まれ学生時代に第二次世界大戦に志願して名を挙げ、事業にも成功するなど、エリート街道を突き進み万全の状態で大統領に就任した。就任直後に冷戦の勝利を経験し、その直後に発生した湾岸危機・湾岸戦争に、軍事的にも外交的にも完璧に勝利した。しかし一期で終わった。これに対して息子ジョージ・Wは、落第寸前だった学業や事業の失敗など、明らかに能力においては見劣りがするものの、父の威光や血筋、そして一般国民への好感度の高さで台頭した。一時は酒に溺れるなど「出来損ない」の息子として、父ブッシュを幾度も失望させ、その手を煩わせてきた息子ブッシュの、「父に認めてもらいたい」という内心の希求が、父と並ぶ大統領職への到達と、偉大な父をして果たし得なかった大統領再選へと向けて、突き動かしていたと推測される。

 父と戦って生き残ったサダム・フセインとその体制を打倒し、各地に民主化をもたらして、父のなし得なかった「新世界秩序」の建設をもたらすという、息子ブッシュの個人史に基づいた目標と、その達成に向けた使命感が、ブッシュ政権の外交・安全保障政策を内的に方向づけていると見ることができる。米国の特異な選挙制度の引き起こした問題と、テキサスの「ブッシュ王朝」の父子のドラマが渾然一体となったストーリーが、21世紀の最初の20年の国際政治の「背骨」、あるいは「魂」をなしたと言っていい。

 ここで米国の圧倒的な武力の矛先を向けられたのが、中東でありイスラーム世界だった。中東を中心にしたイスラーム世界の中から現れたイスラーム主義者たちは、固有かつ普遍性を主張する信念体系によって、国際社会において西側世界の価値と支配に挑戦した。これに対峙し、西側の価値観と支配を守り抜くというのが、息子ブッシュ大統領の世界観だったと言えよう。

 多分にブッシュ大統領の個人史や、そこに影を落とした米国の独特の大統領選挙の制度と経緯が、2001年の9・11事件に対する苛烈な反応を引き起こし、2001年を起点にその後の国際政治が展開したのであれば、20年の時を経て、ブッシュの始めた対テロ戦争が締めくくりの時期に至った時点で争われた米大統領選挙が、またも選挙制度の不備・不全にまつわる大規模な紛議に彩られたことも、必然と言えるかもしれない。

 ブッシュ大統領の下で大規模に展開されたグローバルな対テロ戦争によって深まった中東関与から、米国が引いていく展開は、すでにオバマ政権期に開始されていた。ただしオバマ政権期の中東からの撤退の動きは、それまでの政策との整合性に苦労しながら、激変を避け慎重なかたちで進められるものだった。トランプ政権によって、それはよりあからさまな、なりふりかまわぬ動きとなった。

 トランプ大統領の再選は阻まれたと、現段階では言えそうだが、それによって米国が再び積極的に世界に関与していく、特に中東地域に再び関与するという流れは、生じそうもない。今回の大統領選挙は、米国特有の選挙制度の旧態依然さや、政治化した司法の抱える問題をそれらの不備をついて自らの権力の維持に用いようとするトランプ陣営の手法によって一層明らかにされ、米国の民主主義への信頼を、国際社会の中で揺るがせる結果をもたらしただろう。

 米国の大統領選挙の制度の不備、運用の不明朗さへの注目は、否応なく、20年前のジョージ・W・ブッシュの当選にまつわる不明朗さを思い出させる。「対テロ戦争」という現代の国際政治の大枠も、それを生み出したブッシュ政権の誕生にまつわる不明朗さによって、その功罪の再考を迫られるだろう。このようにして、一つの時代は、終わりに近づいていく。

4 危機の20年代

 「トランプ時代」とは何だったのか、何を残したのか。まだそれらを判断する時期ではないだろう。ここまでに記したような、米国の内政と世界の中での地位が相対的に変化する中での、後退局面において出現した、過渡期の存在と見ることが、おそらくは長期的には正しいのではないかと思われる。

 戦略家ジョージ・フリードマンの『2020─2030アメリカ大分断 危機の地政学』(濱野大道訳・早川書房、2020年)によれば、2020年代のアメリカは、政治・制度面での80年周期の変化と、社会・経済面での50年周期の変化が重なる、稀な危機の時期にある。この過程では、「大統領が誰であれ、今後10年にわたってこの国の空気は恐怖と嫌悪に覆われ続ける」という(11頁)。

 現在の制度的サイクルは、2020年代なかばの危機とともに終わる。そして社会・経済的サイクルは、そのあと数年以内におきる危機によって終わる。ふたつのサイクル移行がこれほど接近し、事実上重なり合うのは米国史上はじめてのことだ。当然ながらこれは、2020年代がアメリカ史のなかで非常に困難な時期のひとつになることを意味している。とくに、世界のなかでアメリカが担う〝役割〟について考えると、このサイクルの重なりはより大きな意味を持つことになる(12頁)。

 この視点からは、トランプ政権は「いまの時代と次の時代の前触れ」でしかない。トランプを「大胆で精力的な大統領だと考える人もいれば、下品で無能だと考える人も」いる。しかし「トランプは──そして私たち国民もみな──アメリカというジェットコースターの乗客にすぎない」(12頁)。

 米国民ではない我々も、好むと好まざるとにかかわらず、この「ジェットコースター」に否応なく乗せられているようである。フリードマンは、2020年代の混乱を越えて、米国に再び「自信と繁栄の時代」が訪れると予言するのだが、この予言に「乗れる」か否かを、世界各地から、テレビやSNSを通じて米大統領選挙の進展を逐一見つめる人々が、内心に思案しているところだろう。

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