『公研』2022年8月号「私の生き方」
日本・ラテンアメリカ婦人協会会長 橋本久美子
先祖のことは結婚の時に知った
──1941年のお生まれですね。どのようなご家庭でしたか。
橋本 私が生まれたのは11月27日、太平洋戦争の始まる1週間ほど前だったから一応戦前生まれです。
太平洋戦争の時、父の中村久次は陸軍技術研究所に入りました。当時は陸軍なのに潜水艦もつくるような変な時代でしょ。大学で理学部出身だった父は、戦地に行く兵隊ではなく潜水艦などの船体や兵器をつくる要員としての兵隊だったんです。だから終戦後には復員しました。機械工学の、特に音響が好きな研究者タイプの人間で、戦後世の中が落ち着いてきた頃に自分で音響会社の不二音響工業株式会社を立ち上げたみたいです。
私が生まれた頃は、父は軍に行って家にはいないから母と母の両親と一緒に過ごしました。父は晩年千葉県知事になった加納の次男で、一人娘だった母のところへ婿養子に来ました。母の家族と一緒に暮らしていたからか、なんとなく私から見ると、かかあ天下だったように見えていました(笑)。母は叱るときは怖いのだけど、愛情深い人でした。
──お母様方のご先祖に渋沢栄一さんがいらっしゃるそうですが、何かお話を伺ったことはありますか。
橋本 渋沢栄一さんには二人お嬢さんがいらして、下のお嬢さんの琴子さんが私の曽祖父にあたる阪谷芳郎さんと結婚したんです。阪谷芳郎さんが亡くなったすぐ後に私が生まれたので、芳郎さんの生まれ変わりだとかそういった話を聞いてはいたけれど、その程度しか知りませんでした。
阪谷芳郎さんのお父様の阪谷さんという方は岡山県井原市で漢学者として、興譲館(現在の興譲館高等学校の前身)という塾をつくって教えていたんですね。朗廬さんと渋沢さんは知り合いだったらしくて、そのお嬢さんの琴子さんをお嫁にもらったみたいです。芳郎さんは岡山から東京へ出てきて、琴子さんとの間には子供がたくさんいたのだけど、その中の八重子さんという娘が、私の祖父の中村貫之さんのところにお嫁に来て、生まれたのが私の母です。
こういった詳しい先祖のことは、龍太郎さんと結婚するときに選挙区である岡山の地元の方たちに「どこの馬の骨かもわからない娘と結婚させられない」なんて言われちゃ困ると、主人の母の様が調べてわかったことなんです。私は、そこで初めて先祖の渋沢栄一さんと阪谷芳郎さんは龍太郎さんの選挙区である岡山県井原市とつながりがあるということを、知ったわけです。
最近渋沢栄一さんが大河ドラマで取り上げられたときに、いろいろな方からも先祖であることを言われたけれど、私は渋沢家の栄耀物語にあるようなおこぼれも何も預かっていません(笑)。父の転職先の会社のサンウェーブ工業も一時期経営が傾いていましたしね。
そういえば昔、龍太郎さんが「久美子は華族の出で、俺は農民の出。岡山県総社市の橋の下の〝橋本〟だから。本当は俺が結婚なんてできないような良いお家柄の奥さんをもらったんだ」と秘書に言ったらしいです。私は龍太郎さんがそんなことを言ったのは聞いたことないのですけれど(笑)。
幼い頃からお転婆娘
──太平洋戦争中でも、ご家庭が裕福だったと感じたことはありますか?
橋本 物心ついた時は、戦争の真っ只中で東京に住んで居られなかったから、私も疎開をしていました。疎開先の御殿場で防空頭巾をかぶって押し入れに入ったとか、その程度の記憶で特別怖い目にあったことはありませんでした。
中村の曽祖母(中村仁子)、祖父母(中村貫之・八重子)、母と私たち三人兄弟の四世帯で一緒に御殿場に住んでいたのだけれど、当時80歳くらいだった曽祖母には御殿場の冬が寒く感じたようで、もっと暖かいところに住みたいと三浦郡葉山町に疎開引越しをしました。何をもって裕福というのかはわかりませんが、引っ越しましょうという時にきちんと家があるというのは満たされていたのかなとは思いますね。
1945年、私が小学校に上がる前に終戦を迎えました。母の実家があった港区麻布飯倉片町あたりは焼け野原だった。祖父(中村貫之)が、渋沢さんのコネか何かだったと思うのですが──清水組(現・清水建設)に勤めていて、建築業界も戦後復興でたくさん家を建てなければという時でしたので、その流れで麻布に家を建てました。バラックのような長屋に私の両親と、曽祖母、祖母・祖父、四世代で暮らしていました。
祖母が遠くの小学校は通学が危ないからと言って、麻布の家から近い東洋英和女学院小学部へ通うことに。1948年頃、子供たちが疎開先からまだあまり戻ってきていない頃だったから、私立の小学校は生徒集めに必死だったこともあって、なんとなくお家柄がわかって、そこそこのお嬢さんだったら入学試験の点数は関係なく入れてくださいました。
父は元々カトリック信者だったから私たち兄弟も生まれてすぐに洗礼を受けていました。でも東洋英和はキリスト教でもプロテスタントだったから、通学する傍ら聖心女子学院初等科の父の縁先に当たるシスターから教養を聞きに通っていたんです。兄と弟は学習院初等科に通っていて、一緒に通学していた親戚の麻生太郎さんや兄の友人達も一緒に聖心のお話に来ていましたね。
教会のシスターのすすめがあって、小学校5年の編入試験を受けることになり聖心女子学院初等科に転校しました。聖心女子学院は都電に乗って通うような少し遠い場所ではあったけれど、徒歩での通学にも飽きちゃっていた私は編入ができて嬉しかったのです。それに私は萎縮するような性格ではないから、友達からも「本当に5年編入?」と言われるくらいすぐに馴れ馴れしく馴染んでいましたね(笑)。そのまま大学まで聖心女子学院に通学しました。
私は兄と弟に囲まれて育ったから、幼い頃からチャンバラや竹馬に乗ったりとお転婆だったのね。だからしょっちゅうシスターに怒られるような女の子で、私が中学校の頃、母はよく呼び出されていました。「いつでもお辞めになって大丈夫ですよ」と言われるくらいの悪い子でした(笑)。
でも中学校3年生のある日、クラスメイトの子たちとテストが嫌だから授業をエスケープしようという計画が出たの。当然私もそのうちの一人だったのだけれど、ちょうど実行に移る時お手洗いで席を外していたのです。戻ったら、クラスの半分くらいの生徒がいなくなっていてシスターは激しく怒り、学校中を探し回りました。その時は私も先生と一緒に探す側に立ったので、急に先生が私を見る目が変わったのね。たまたま私は教室に居てエスケープしなかっただけで、私自身は変わっていないのですがその時をきっかけに私は高校に入ってからも勉強はさておき、割と良い子でした(笑)。
──大学ではテニスダブルスの関東大会で優勝されました。
橋本 本当は短大でもよかったのだけど、とにかく中学から大好きだったテニスを少しでも長くやりたかったから大学を選びました。優勝したのは偶然なのよね。元々強い先輩が、手を負傷してプレイできなくなってしまったの。だから代わりに私を誘ってくださって、私が3年生の時に関東学生テニス選手権大会ダブルスで優勝できました。その後全日本学生テニスなどインカレの試合にも出場することができたから、テニスを充分満喫できた大学生活でしたね。
──就職活動などはされたのですか?
橋本 当時、就職をするような学生は学年で10人程度かしら? 他はみんな花嫁修行をしていたから。学生の間に、お見合いをしたり、婚約した人も何人かいました。
大学の卒業が1964年、ちょうど東京オリンピック開催年でした。オリンピックの選手村で電話交換士をするNTTのアルバイト募集のポスターが大学に貼ってあるのを見て応募しました。3回くらいの試験をクリアして、卒業後4月から半年間ほど代々木の青少年センターで電話交換業務や英会話のトレーニングをしていました。大学は英文科だったからちょっと活かせたかな、トレーニング中でも月給1万5千円くらいいただけましたよ。24時間体制のお仕事なので夜勤もあったけれど、楽しかったですね。
オリンピック開催期間中は、選手が乗ってくる飛行機がたくさんあって帰路は空っぽになるので、当時それを利用した安いツアーがあったのですが、母はそれでヨーロッパなど海外旅行に行っていましたね。娘が東京オリンピックの仕事をしているのに、競技も見ていないという(笑)。
仕組まれた縁談
──花嫁修行をされている方が多かったとのことですが、久美子さんの恋愛は?
橋本 聞いちゃう?(笑) 何回かお見合いはしましたけれど、お互い気持ちが通う方はなかなかいませんでした。あまり話したことはないけれど実はこの人でいいのかな、と思った人がいました。ちょうどオリンピックのアルバイトをしていた時だったかしら。10歳くらい離れていた方で、何度もデートをして婚約までしたけれど、そのうちなんか気持ちが離れてしまい──。母は、『ブライド』という雑誌など買って結婚の準備を着々としていたのだけれど、私が婚約を解消したいと言ったら「婚約を断るなんてとんでもない!」と怒られました。でも私は絶対嫌だと思って自分で断りに行きました。「私はあなたと居ても幸せになれるような気がしない」なんて──今思えばよく言ったものでした。他に好きな人がいたわけではなく、その男性と一緒に生活をしてウキウキしている自分の姿が思い描けなかったのです。とても理解のある方で、指輪もお返しして婚約は解消させてもらいました。
その後は、オリンピックのアルバイトで稼いだお金で車の運転免許を取って、スキーに行ったりして私も気持ちを整理しました。
そうこうしているうちに私の祖父と龍太郎さんの叔母の間で、私と龍太郎さんが一緒になったら良いんではないかと勝手に話が進んでいたのです。祖父は「龍太郎さんが久美ちゃんを欲しいって言っている」と私に話し、龍太郎さんの叔母は「久美ちゃんが龍太郎さんのことを好きみたい」と龍太郎さんに話しました。もちろん、二人ともそんなことは言ってもいないですから、完全に仕組まれていたんですね(笑)。
私は代議士の嫁なんてとんでもないと思っていたし、実は歳の離れた男性と破談になった後、憧れの男性ができて友達に紹介してもらう予定があったんですね。だから「ノーサンキュー! 断ってきて」とまず母に断りを入れました。ところが話の言い出しっぺが祖父だったので、それでは困るわけです。「知らない間柄でもないし一回会うだけでも良いから──」と言われて私も断りきれず龍太郎さんとの初デートに至ったのです。
心の内側が見えたことで気持ちが一変
──龍太郎さんと初めてお会いされたのはいつですか。
橋本 初めて会ったのは小学校5、6年くらいの時でした。私の母方の祖母が亡くなって、残された祖父と、龍太郎さんの叔母にあたる方が再婚をしたので血縁関係はありませんが遠い親戚となって、時々遊ぶようになりました。
高校の時だったかしら、後楽園ゆうえんちが開園したとき、龍太郎さんのお父様が文部大臣をされていた関係で特別招待券をもらったからと、正様のお誘いで龍太郎さんと三人で遊園地へ行ったことがありました。正様は乗り物に乗らなかったから、二人でジェットコースターに乗ったりして満更でもないっていう(笑)。だから「会うだけでも」と言われて嫌な感じはなかったけれど、結婚するという感じではなかった。初デートの当日は、友達に会いに行くような感覚で「久しぶりー」と再会しました。その時、帝国ホテルでお食事をしたのですが、まあ自分のことをよく喋ること(笑)。自己顕示欲のかたまりのような人だなと思いましたね。政治家ってそんなものなのかしら、と思いながら食事を終えました。その後、龍太郎さんが「映画『愛情物語』を観よう」というので映画館へ行ったのね。『愛情物語』は、継母と息子の物語だったの。龍太郎さんは生後5カ月でお母様を病気で亡くして、6歳の時にお父様が正様と再婚された。龍太郎さんはこの映画と自分の生い立ちは重なるところがたくさんあるのだと、私が知らなかった正様と龍太郎さんの成長過程で起きた、さまざまな葛藤を話してくれたのです。そのような龍太郎さんの心の内側を聞いて、私は彼を知っているようで全然知らないなと思ったの。そこで、私の気持ちが変わったのです。
私の母は、龍太郎さんが継母である正様と本当の親子のように愛情を通わせられているのは、正様も立派だし彼も素晴らしいと、尊敬して褒めていました。それに父も龍太郎さんのことを非常に気に入っていたのです。だから、余計に気持ちがなびいたんですね。
新しい母に心が開けなかった龍太郎さん
──久美子さんから見て、龍太郎さんが子供の頃お母様のことで寂しい思いをされていると感じられたことがありましたか?
橋本 小さい頃のことはわからなかったけれど、結婚してからいろいろな場面で感じることはありました。初対面の人には心を許さないから、懐に入るまでがたいへんなのね。でも、一度心を開いて懐に入ったら、その人に裏切られようが何をされようが、最後までずっと面倒を見るんです。だから最初から心をオープンにできないのは可哀想ではあるけれど、ある意味それでよかったのかもね、政治家としては──。あの性格で最初からオープンだったら、デレデレで好き勝手に使われていたかもしれないしね(笑)。
でも、子供の頃にもらうような無償の愛をわずか半年ほどで奪われてしまったわけです。それまでずっと仏壇の中にお母様がいるのだと言って育てられてきたのに、六つの時に新しいお母様がいらして「今日からこの人がお母さんだよ」とお父様に紹介されたけれど、なかなか心は開けなかった。でも戦争中、疎開して命からがら逃げることもあり、正様にたくさん守られて「頼る人はこの人しかいない」とやっと心が開いたと思ったら10歳で弟が生まれた。皆、「大ちゃん、大ちゃん」と弟の大二郎さんに目がいくわけです。10歳というのはまだまだ心も幼いし、微妙な年頃よね。麻布高等学校に通っていた頃も学校でしょうもないことをして、正様はしょっちゅう呼び出されていたようです。ただ、龍太郎さんは本が大好きで、本さえあれば自分の世界に入れるから、心の拠り所としても益々読書にのめり込んで行ったようです。そのおかげで、知識はどんどんついていったのかも知れませんね。
当時のことを彼の祖父母からも聞いたことはあったけれど、皆だんだん話さなくなったし彼も口にしたことはほとんどなかった。だから弟の大二郎さんは大学に入るまで、龍太郎さんの実の母親が違うことを知らなかったのです。大二郎さんがこのことを初めて知ったのは、お父様である龍伍様のお葬式で親戚の方々が昔の話をしていた時でした。叱る時だって兄弟でなんの差もなかったですし、ずっと本当の母と子のように過ごしていたから、わからなかった──。それくらい絆が深かったのでしょうね。正様が分け隔てなく二人をお育てになった証拠だと思います。
愛情は計れはしませんが、私にはある意味血の繋がっている大二郎さんより、龍太郎さんのほうがお母様に対する愛が無償のように感じました。
──ご結婚のことにお話を戻します。プロポーズはあったのですか?
橋本 結局、憧れの男性を友達に紹介してもらう直前のタイミングで龍太郎さんと会ったので。私が「実は他に憧れの君の人がいて──」と話をしたら、自分に好意があると思い込まされていた龍太郎さんは「え! 何それ!?」という反応だったわけです。そこで仕組まれたことに二人は気づいたのだけれど、私は一晩お話しして気持ちが変わったのです。だから龍太郎さんにはお返事を少し待っていただくお願いをしました。
こんなふうに私の気持ちの変化があまりにも激しかったので、毎週お茶の稽古で一緒だった従姉妹は「久美子ちゃんてば、先週会う前は断るって言っていたのにやっぱり結婚するって、どうしたの?」と驚いているほどでした。
結局、紹介をお願いした友達と、憧れだった男性に自分でお断りをしにいくことにしたのだけれど、父は私の気持ちが揺らいだらいけないからと心配をして約束の場所の前までついてきて「きちんと断るか戻ってくるまで待っている」と見張っていましたね(笑)。こちらから友達にセッティングをお願いしていたから、お相手の方も驚かれていました。
その後、気持ちが龍太郎さんへと向いていることを伝えようと再び龍太郎さんに会いました。龍太郎さんは「いつまで待てば返事をくれるんだ」と言うから「いいのよ」とお返事をしました。まあ、運命を感じましたね。なんて、こんなにほじくり返してお話ししていたらお空の向こうから「よく喋るなお前は」なんて言われちゃうわ(笑)。
急に決まった岡山の生活と選挙活動
──ご結婚後、政治活動が活発になられて岡山に住まなければならなくなったと──。
橋本 政治家になって二回目の選挙は、私が東京にいて最初の子を妊娠中でしたから、正様が岡山の地元で選挙活動を支えてくださっていた。選挙の結果、当選はしましたけれど一度目に花形でトップ当選した時と比べてガクンと落ちてしまったの。だから正様は「あなたたちがちゃんと岡山に住んで、たった2票でも自分に投票すべきよ。それでなければ、もう次の選挙はあぶないと思ったほうがいいわ」とおっしゃって、それからすぐに岡山に土地を購入して家を建てました。有無を言わさず、急展開でした。
結婚当初は、拠点はあくまでも東京で選挙の時だけ岡山に手伝いに行く程度、子供も野球チームができるくらい欲しいしね──、なんて話していたけど、結婚して2年半後に引っ越しして以来岡山での生活は20年ほど続きました。
──見ず知らずの土地での生活は、不安ではなかったですか。
橋本 岡山の家にはお手伝いさんがいましたが、秘書室もあっていろいろとコミュニケーションしなければいけないこともあって、結構ストレスフルな毎日でした。だから最初の1カ月は龍太郎さんが週末岡山へ戻るたびに、愚痴をこぼして泣いていたんです。そうしたらある日、龍太郎さんが「そんなに君が嫌なら、代議士を辞める」と言ったのです。その言い方がひどいでしょ(笑)。だってそのようなことが起きたら地方紙とかでも報道されるだろうし、「女房が嫌がっているから代議士を辞める」なんて不味いなと思って。それからは泣いていられないと「なんとか頑張ります」と宣言して泣かなくなりましたね。こんな言い方されたらね(笑)。
そう言えば結婚当初、松野頼三先生(元厚生労働大臣)が自動車をお下がりで龍太郎さんにくださったとき、「最新式の電動ものは使いにくい」とアナログ派な年配の運転手さんが不満を言ったことがありました。そしたら龍太郎さんが「ではその車は捨ててください」って言ったの。運転手さんはびっくりしちゃって──。その後、彼は議員会館の運転手仲間に教えてもらって、松野先生にいただいた車を使いこなせるようになったのです。そうしたら今度は便利さがわかったみたいで、すごく喜んでいました。でも龍太郎さんのその言い方がね(笑)。
──久美子さんも選挙運動を共にされ、地元岡山での信頼は龍太郎さん以上だったとか。
橋本 選挙運動は思い返してみれば、結婚した時に頂いた祝電のお礼状の住所・氏名を書くように言われた事から始まりました。選挙区の地名は何回も書くうちに頭に入りました。岡山県総社市に移ってからは転居挨拶の戸別訪問を家の周囲から次第に広げて、ひたすら歩く日々でした。
私が選挙カーに乗るようになったのは、主人が厚生大臣を拝命し、自分の選挙活動があまりできなくなってからでした。当時は立会演説会というテレビの政見放送もまだなくて、一人20分各候補者が政見を語る会合が選挙区内で開かれていて、主人が出られない会場は私が代わって出ました。私は「主人をどうぞよろしく」という程度で余った時間はただ座っているだけでした。その時は他候補の地元だったので、冷たい視線とヤジが──。この体験から主人の後援会の方々といろいろお話をするようになり、距離も近くなったことで皆様とご一緒するのがとても嬉しく思えるようになりました。
選挙運動の下働きをしているうちに多勢の方々と知り合えて選挙が楽しくて、好きになりました。
もちろん、選挙カーで廻る事はスポーツ的で、区内の方々のお宅に泊めて頂いたり、主人が帰れない分頑張り甲斐がありました。選挙区の皆様方に育てて頂いたという思いで、今でも感謝しています。
──龍太郎さんが政界を去る危機を脱する為に、久美子さんご自身が立候補されそうになったことがあったということですが。
橋本 地元の方々から「奥さんが出れば絶対当選させる」とか言われて、考えも浅く、私が選挙区立候補したら主人を比例候補にして頂きたいと申し出たのです。とても選挙を侮辱した、傲慢な態度だったと反省しています。でも選挙運動は素晴らしいものだと思います。且つ候補者が尊敬できる、ぶれない政治理念と政治姿勢を持った人物に限りますね。
──議員生活33年で総理大臣に、ご家族のお気持ちはどのようなものでしたか。
橋本 急になるんじゃなくて、やっぱりステップを踏んでいってるでしょ。その前に何度か「総理になるかもしれないね」といったこともあったから、来るものが来たという感じでした。もう結婚とかよりも、よっぽどすんなりに感じました。
龍太郎さんの二つの顔
──総理大臣のご家族として、プライバシーがなくストレスを感じることはありましたか。
橋本 そうですね。子供の気持ちは子供たちに聞いてみないとわからないけれど、末の娘は小学校の時に東京に越してきて、龍太郎さんが総理になってからは突然、総理官邸から中学校に通う生活になったからいろいろ身辺の変化は大きかったとは思います。それから長男は、父親が政治家だと知られると、周りの人からいろいろ干渉されるから、昔からとても嫌だったようです。だから名古屋の大学に通っていて、3年間父親が誰だかバレなかったのが自慢だと言っていました(笑)。でも卒業の年に、私たちが夫婦で息子のところに行ったせいで「バレちゃった」とガッカリしていましたね。
一方で私は、子供が何か問題を起こしてお父さんの足を引っ張ることをすごく恐れていたから、成績なんかどうでもいいから、とにかくまともに学校に通学し、進学して欲しいと思っていました。
それ以外は、特に気にしてはいなかったかもしれない。
──世間がイメージするクールな龍太郎さんと、ご家庭で見せる素顔。そのギャップをどう感じられましたか。
橋本 私のそばにいる龍太郎さんと総理の龍太郎さんは別者と捉えていました。世間では怒る、拗ねる、威張るとか、いろいろ言うじゃない。評判が悪いのはもう重々承知でございますっていう感じでしたね。
もちろん私と一緒にいるときだって不機嫌そうなときもあります。子供たちなんかパパのご機嫌を察知するのが上手いから、怪しいときは「触らぬ神に祟りなし」とか言って(笑)、ちゃんと小さい頃から心得ていたわね。どういうふうな話をするとご機嫌がいいかとかね。パパが喋りたいときは一生懸命聞いてあげると喜んでいろいろ喋るとか。
龍太郎さんも使い分けていたんじゃないかしら。朝家を出る前、毎日ぶつくさぶつくさ言ったりして、朝ぐらい気持ちよく出かけたらいいのにと思って送り出す。でも家の前で記者さんたちが待っていたりすると、「おはようございます!」とか言って急に姿勢が変わるのよね。だからそういうところはすごく上手なんじゃないかしら。
とにかく子供が大好きだから、一番下の娘が公邸で一緒に住んでいたり、長女が里帰りで赤ちゃんを連れてきたり、その後も次々孫が生まれて赤ん坊が絶えず公邸にいたというような生活が気分転換になっていたのだと思います。そうでなければやっていけないでしょうね。
ちなみに夫婦喧嘩をすると私は黙ってしまうほうなのだけれど、黙ると龍太郎さんは困ってしまうみたい。言いすぎたなと思っているのだと思います。まあ、単純じゃないからいろいろね。
ファーストレディとのお喋り
──橋本龍太郎元総理は外交面でのご活躍も顕著でした。外交に同行された時、海外のファーストレディとの交流はいかがでしたか。
橋本 私が初めてサミットに同行させていただいたのは、龍太郎さんが大蔵大臣で海部俊樹さんが総理大臣のときのヒューストンサミットでした。各国のご夫人が集まっていた時、イギリスの当時大蔵大臣のジョン・メージャーさんの奥様が、本当に気取らず気持ちのよい対応をされていた。その後飛行機でご一緒したときも、私の下手な英語でも楽しくおしゃべりさせていただきました。この経験があって、そんなに肩肘張らずに気楽にしていたらいいんだなと、総理大臣になる前の外交の予行練習になりました。おかげで総理になってからはその延長という感じで参加できました。
外交では、意気投合すると趣味を一緒にさせていただいたこともありましたが、あれはある程度はつくられたものじゃないかなと思います。本当はもっと踏み込んでお手紙を書いたりとか、後のお付き合いができればすごく身になっていただろうと思うのだけど、私はあまり深いお付き合いをしなかったから──。ファーストレディの方々とのお付き合いに関しては申し訳ないのですが、正直私はある意味で演じている部分がありました。
──ファーストレディ同士、どのようなおしゃべりをするのですか?
橋本 「この間こんなことで子供に激怒した」とかいうような子育てのこととか、たわいのない話をしていましたね。一応通訳さんは入られるけど、言ってらっしゃることはわかるので何かわからない単語をちょっと聞いたりするくらいですね。私自身は、ご夫人方との交流はあっさりしたものでしたが、龍太郎さんは違った。例えばロシアのエリツィンさんとは、総理を辞めた後も別荘に呼ばれて釣りをしたりしましたね。エリツィンさんのお嬢様が英語を話せるから、その時は私も彼女といろいろお話ししました。もちろんナイーナ夫人ともケーキの話とか。
そういえば不思議なのだけれど、龍太郎さんが総理を退任した後もビル・クリントン元大統領、フィデル・カストロ元国家評議会議長、エリツィン元大統領もそうでしたが、「龍に会いたい」と言って訪ねて来てくださる方々がいたのですよね。カストロさんがいらしたときは、当初龍太郎さんとは朝食会だけの予定で後に小泉さんと昼食会があったのですが──。「昼食会が終わったらまたくるから、もう少し話をしよう」と言って結局その後の予定をすべてキャンセルなさって、8時間くらい話し続けていましたね。他にもフランスのシラク元大統領とも仲良くさせていただいていました。普通だと総理大臣の座を引退した方とは会わないそうなのですが、龍太郎さんがフランスに行った時はわざわざ大統領府の玄関先まで迎えに来て歓迎してくださいました。龍太郎さんが言うことに非常に耳を傾けて下さった方の一人だと思います。
そういった方々とは、政治の話はもちろんですが、昔話や龍太郎さんが好きだった歴史の話なども話題にしていたようです。あと、通訳の松田弥生さん(当時外務省一等書記官)という方が本当に上手に彼のニュアンスが伝わるようにお話ししてくださったのも大きいと思います。だからたぶん私なんかが奥様方とお話するよりはよっぽど通じていたのだと思いますね。
とにかくいつでも剣道をしたかった
──久美子さんから見て、龍太郎さんの目が一番輝いていると感じたのはどのような時でしょうか。
橋本 剣道ですかね。──いえ、私を見ている時かしら(笑)。
──ご馳走様です(笑)。
橋本 でもね、剣道は本当に大好きでした。ロシア、フランス、中国、メキシコ、どこへ行くにも大きな防具を抱えて持って行っていました。とにかくいつでも剣道をやりたかったみたいです。仕事が終わった後も母校慶應大学の火曜会・木曜会と毎週必ず剣道をしに道場へ行っていました。
剣道錬士六段を持っていて、運輸大臣時代には「陸海空運・運輸大臣杯争奪剣道大会」を立ち上げたこともありました。
剣道をする時に、秘書なんかがその場に仕事を持ち込もうとすると、「何しにきたんだ!今、俺は剣道をしているのだ!」と、剣道場で秘書の顔を見つけようものなら、もう怒りで震えていましたよ(笑)。
──総理大臣をされているとき、久美子さんから見た龍太郎さんは?
橋本 ピリピリしているっていうのはわかりましたけどね。一方でエンジョイもしていたのだと思います。例えば予算委員会だとかで、毎日毎日大きな課題があるわけです。「いっちょやるぞ!」と試合に臨むような感じで一つひとつクリアしていくのを楽しんでいたのかもしれません。そういう気持ちがないと多分乗り切れないですよね。だからその多忙な日々が終わっちゃって、逆に張り合いがなくなって萎んじゃうのではと心配したこともあったほどです。
──2005年に議員バッジを外されたときはどのような面持ちだったのでしょう。
橋本 そうね、あのときは結局1億円献金事件(「日本歯科医師連盟」から自民党旧橋本派「平成研究会」への1億円ヤミ献金があったとされる事件。橋本龍太郎氏は不起訴処分)も引きずっていたし、まだ辞めたくなかったのかなと未練を感じられるときもありましたね。当時の小泉総理は、中曽根元総理・宮澤元総理を全員排除したから、龍太郎さんだけ残すっていうのはなかなかできなかったのだと思います。
2002年に龍太郎さんは心臓の手術をしました。その後は彼にいつ何が起きるかわからないと私は思っていました。龍太郎さんは心臓の手術の後にワーファリンという、血液をサラサラにするお薬を飲んでいました。その副作用で、一度旅先で鼻血が出てしまったことがあって、そのときは蛇口をひねったように尋常でない量の血が出たことがありました。だから海外へ会議に行く時でも、秘書は24時間共にいられるわけではないから、私が看護師さん代わりみたいな感じでずっと一緒について行きましたね。タイ、南アフリカ、モンゴル、最後の頃はいろいろな場所へ一緒に行けたのはよかったです。もちろんすべて会議で訪問をしたのですが、最後の4年間でしたから、今思えばそのような中でもちょっとほっとする時間に一緒にいられたのは大きかったですね。
ただ、龍太郎さんがパソコンに熱中し始めたから、家に帰って来るとパソコンがある部屋に閉じこもっちゃって、誰かとメールやらなんやらで連絡を取っていたから家ではゆっくり話す時間はほとんどなかったですね。でもそのおかげで、いろいろな方とお話しができたみたいです。元々通産大臣の時からパソコンをしていたので、当時の議員の中ではデジタルに着手したのが早かったのではないかと思います。当時は今のようにどこにでもLANがあるわけではなかったから、モンゴルに会議で行った時も秘書に国際電話で電話回線を繋いで欲しいとお願いしていたりしていました。秘書官だったり、橋本の番記者だったり、とにかくパソコンで人と繋がっていたかったようです。そのことでまた情報がいろいろ入ってくる喜びもあるんだと思いますよ。
一方で、秘書はなんの話をしているのかわからないから、不安な面もあったようです。見えないところで話が進んだりしていることもあったようですからね。
そろそろ久美子と二人でデートがしたい
──2006年7月、龍太郎さんがご逝去されるまでの1年間は、どのような時を共に過ごされましたか。
橋本 龍太郎さんがバッジを外した時、警察庁、警視庁のSP担当が今後の警備に関して打ち合わせに来たのです。秘書はスタッフが少ないからもうしばらくSPをお願いして欲しいと言っていたのにそれを押し切って、「今までありがとう」と断ってしまったそうです。秘書が理由を問うと「僕はもう43年国会議員をしていて、生活の半分ぐらいSPさんがついていた。だから、もうそろそろ気を遣わずに久美子と二人でデートがしたい」と言ったそうです。でもね、それで散歩に行くのかなと思ったら行かないんですよ(笑)。
でもSPの方が付かず、本当に最後に二人でお食事に行けたのがお蕎麦屋さんでした。それから唯一、二人でドライブできたのが、千葉で執り行われた従兄弟のお通夜に、私の運転で行った時です。その時の最後のお清めのお食事会では、いつもならさっさと帰るのに、大勢の従兄弟と会って珍しくゆっくりおしゃべりしていたから、最後に皆に挨拶していたのかなと思いました。それは龍太郎さんが倒れる2~3日前の事でした。
──龍太郎さんが、もし今の日本を見たらなんとおっしゃるでしょうか。
橋本 どう思っているかしら、私も聞いてみたいですね。
『Vision of JAPAN──わが胸中に政策ありて』という本を総理になるずっと前に書いたのですが、この本のタイトルにもあるように、日本の未来に向けて何が必要なのかをずっと考えていましたね。そういう意味で、もし龍太郎さんが今いたら指南役になっていたかもしれないですね。特に水問題に関しては、ヨハネスブルグ・サミットで水問題が世界の最重点課題の一つとして認識されたことを受けて、日本水フォーラム創設や、アジア・太平洋水フォーラムを立ち上げるなど、国内だけでなく途上国における水・衛生環境の改善、政策提言、日本の技術の発展を積極的に取り組んでいました。だからいろいろシナリオを考えていたんじゃないかしら。
いろいろ目の前に問題は山積みですが、もう少し長い目で見て芯のある日本であって欲しいなと私は思います。それから、そういった山積みの問題に対して日本はどういうスタンスでいなきゃいけないのか、それを上手にわかりやすく説明してほしいですよね。やっぱり政治家というのは説得力だと思います。
──ありがとうございました。
聞き手:本誌 並木 悠