『公研』2025年6月号「めいん・すとりいと」
夕方の取材まで少し時間があったので、開館したばかりの民主主義博物館を訪ねた。東急東横線の多摩川駅から新緑にあふれる公園の階段を上り、落ち着いた住宅街を少し進んだ交差点の先に博物館はあった。
クラウドファンディングでマンションの一室をリノベーションしたと聞いていたが、以前は店舗だったのだろう。部屋は広く道に面した一階にあった。南面はガラス張りで開放感があり、臆せず入ることができた。
平日の昼下がりだったが、中間テスト後の休みだという高校生が三人、壁に並べられた民主主義概念のパネルから「社会正義」を手に取って議論していた。高校生もだが、地域の方は当面入場無料とのことで、大学生や私と同年代と思われる方が訪れ、おだやかなにぎわいが生まれていた。
たたずむうちに、ふと前日のゼミでの議論を思い出した。政党政治と政治参加を扱うなかで、なぜ私たちは政治に距離を感じているのかという問いが示された。台湾やフィンランドのようすを知る学生からは同地の議員事務所や選挙小屋の例が紹介されたが、日本では、政治を専門とするこのゼミのメンバーでさえ議員事務所に入ったことはほぼ皆無であった。
果敢にも入ろうとしたという学生は、選挙期間は少し開放的になるが、日常的には気軽に入れてくれない事務所がほとんどだと話してくれた。一般的に事務所が交流や意見交換を目的とした場ではないのは当たり前であり、議員を責めるのは筋違いだろう。
地方自治は民主主義の学校というとおり、かつては町内会や自治会が精力的に活動し、それが公共の、行政の、政治の一端を担っていた。その構造と矛盾、現在地は玉野和志『町内会』に詳しい。それらが存続の危機に瀕する今、政治について話す場を失っているのは、学生や生徒よりも、私たち現役世代なのではないか。高校生たちの議論を聞きながら、頼もしく思うと同時に、自分たちの生き方を問い直されるように感じた。
子育て世代には、子どもを連れて集まり、日々のさまざまなことを話し、困りごとは行政への要望につなげていく場が、動きが見られる。他方、その少し上の世代になるとそうした機会がなかなかない。いや、ないのではなく、仕事が忙しいことや地域にいる時間が短いことを理由に作ってこなかった、参加してこなかったのだろう。
年初に出版されたジェイソン・ブレナン(玉手慎太郎ほか訳)『投票の倫理学』は、投票は義務ではない、わからずに投票するくらいなら棄権してもよいといった議論で耳目を惹いた。しかし、同書は投票だけを特別視することを問い直し、共通善を生み出す日々の積み重ねを重視する。その通りだろう。
ここのところ、大学でも議員や行政官を招いて学生と議論の場を持つ取り組みが増えている。私のクラスでも参議院選挙の告示前に各党の議員をお招きして学生と議論できるよう準備を進めている。民主主義博物館でも都議選前に同地の候補者を集めた公開討論会を行うそうだ。もう一歩、踏み出すタイミングが訪れている。
場は生まれてきている。帰途、公園の緑や子どもたちの歓声がいつもより身近に感じられたのは気のせいだろうか。
慶應義塾大学総合政策学部教授