『公研』2021年9月号
東は東、西は西
その二つが出会うことはない
大地と空が
神の偉大な審判の席に
並んで立つまでは
──ラドヤード・キプリング『東と西のバラード』
英領インドに生まれ、大英帝国最盛期から退潮期にかけての世界を旅した作家ラドヤード・キプリングの著名な詩の冒頭である。「白人の責務」を自任する、帝国主義の傲慢な伝道者とも、衰えゆく支配秩序の内在的な観察者とも様々に評価されるキプリングのこの一節は、アフガニスタンやイラクに代表される、米国と中東の「出会い」を軸とした現代国際政治を論じる際に、周期的に思い起こされる。そのような機会のたびに、この著名で議論の分かれる鮮烈な詩に、新たな意味と文脈が見出されると同時に、「東と西」のそれぞれと、両者の関係が、結局のところ「何も変わっていない」のではないかという疑いや驚き、そして諦めを感じることになる。
キプリングの「東と西のバラード」の冒頭はあまりに有名である。その文面だけを読めば、それは東と西の断絶を、一定の期間、架橋を試みた挙句に到達する、あまりに一般的な断絶の確認と諦念を表現しているように見える。しかしキプリングの詩はこう続いていく。
しかし東もなく、西もない
国境もなく、種族もなく、出自もない
二人の強い男が面と向き合って立つときには
たとえ二人が地球の両端から来たとしても
「地球の両端から来た」「二人の強い男」たちが向き合うときとは、どのような場面か。そこで現れる、国境も民族も出自も超越した普遍的な地平とはどのようなものなのか。その答えを知る手がかりは詩の中にはない。しかし『少年キム』に代表される、中央アジア・南アジア・中東にまたがった、帝国主義諸国による「グレートゲーム」を背景にした作品を多く表したキプリングによる、この暗示的な言は、これらの地域の地政学的な情勢の再認識を迫られるたびに、意味深く蘇ってくる。
「われら9・11世代」
9・11事件から20周年という節目を、我々は、どのように迎えるのか。密かにメディアの動向、国内や世界の論調を注視していた。私自身はなるべく身を低くして、極力、その議論には加わることなく、外から見ていようと考えていた。しかしここで編集部の緊急の依頼を受けて、ややおなじみと言える『公研』の読者の前に、若干不本意ながら、しかし半ば義務として、現れることをお許しいただきたい。
もし20年前に9・11事件がなければ、私のこの文章が、そして過去20年に生み出されてきた、私を含む様々な書き手による数多くの中東やイスラーム世界に関する文章、あるいは国際テロリズムとその対策に関する文章、ひいては米国とそれを中心とした国際政治をめぐるより一般的な文章の多くが、読者の目に触れることはほとんどないか、全くなく、生み出されることもなかったに違いない。
2001年に9・11事件が起こり、それに対して、米国が中東を中心としたイスラーム世界に発するイスラーム主義の過激派思想とその運動を外交・安全保障上の最大の脅威と認識し、グローバルに対テロ戦争を戦った。それがこの20年間の国際政治の、好むと好まざるとにかかわらず、大枠となっていた。2001年9月20日、テロ事件の後の初めての公的演説で、ジョージ・W・ブッシュ大統領は米連邦議会に向け、アメリカは自由を守る、悲しみは怒りに転じ、怒りは決意に転じた。正義はなされる、と軍事的手段による反撃と懲罰を宣言した。その際に、世界各国に対して「あなたたちは我々の味方か、それともテロリストの味方か(Either you are with us, or you are with the terrorists)」と選択を強いた(Address to the Joint Session of the 107th Congress, September 20, 2001)。日本をはじめとする米国の同盟国、あるいは少なくとも米国にこの点で敵対する意志のない同志国は、それぞれの対応を迫られた。
日米関係をはじめとする、米側の陣営に属する各国にとって最優先の外交・安全保障課題である対米関係は、中東・南アジア・中央アジアあるいは東アフリカ・西アフリカなどのイスラーム世界との関係と不可分のものとなった。米の同盟国や同志国は、中東などの地域の諸国との関係と、アル=カーイダを対象とした「テロ対策(counterterrorism)」、そしてやがてアル=カーイダに限らない「反乱鎮圧(counterinsurgency)」と、テロや反乱を生む土壌から改善するための、政府のガバナンス改善や開発支援、教育支援などを含む、総合的な「国家建設(nation building)」に関する諸施策を、米国と密接に連携しながら策定し、実施していくことになった。
20年という月日は、人事と教育の制度的な方向づけによって、それを受けた新世代がこれに合わせた教育・キャリアを選択することによって、対米関係と対中東・イスラーム世界との関係の両方に取り組む、一群の専門家・行政官、一部にはそれにまつわる産業の企業家が育っていった。9・11事件がなければ、中東問題の専門家と、日米関係の専門家が肩を並べ頻繁に議論をするなどという機会は、日本では生まれ得なかっただろう。いうまでもなく日米関係は外交の中軸であり、外交や防衛当局においては、大部分の資源と関心がここに注がれていると言っても過言ではない。それに対して、「地域屋」「特殊言語」の最たるものである中東や南アジア、中央アジアなどは、マイナーな対象で、そこに従事する者たちが国家安全保障の死活的な課題に参与することは通常はほとんどない、とみなされてきた。ましてやイスラーム教とその思想などという対象は文系知識人の趣味の領域であり、外交・安全保障の死活的な課題に関わる問題とは全く認識されていなかった。
これが9・11事件によって一変した。全世界的に、米国主導の「対テロ戦争」を大枠とした外交・安全保障政策と、対中東・イスラーム世界の外交・安全保障政策とにまたがる、「テロ対策」「反乱鎮圧」「国家建設」の諸分野にまたがる、ひとつながりの知的・政策的体系が形成され、それを担う人材と予算と組織からなる、いわば「対テロ戦争外交安全保障政策コンプレックス」とでも総称すべきものが生み出された。
この「コンプレックス」の中心が、ワシントンDCであったことは言を俟たない。ここ20年、ワシントンDCを訪れた者は、もし注意深く目を凝らし、耳を澄ませていれば、この地において肩で風を切って歩く人々の出自が知れただろう。そこには、アフガニスタンやイラクに何らかの出自や専門性を持つ(と称する)膨大な数の専門家が、政府機関のアドバイザーとして、シンクタンクの研究員として、NGO職員として、契約する民間会社のコンサルタントとして、無数に闊歩していた。その周りに、アフガニスタンやイラクやその周辺のイスラーム諸国に関わりを持ち専門性を持つ各国の関係者・専門家が集まっていた。私も、極東の、ほとんど無視できる数のイスラーム教徒しか国内に居住しない国の(これは世界的に珍しい)、イスラーム思想研究者・中東地域専門家という立場で、その末端の、そのまた辺境にかすかに引っかかっていた、というのが実情である。そのような最も外縁において属した私ですらも、この20年でワシントンに定宿ができ、客員という身軽な立場ながら、不釣り合いに豪勢な執務室を一時的にも与えられる機会を、いくつかの機関で得て、定期的に招き合うような知己もできた。それらは個人としては得難い経験であったが、自分自身の力や意志で得たというよりは、状況の中で否応なく強いられたという側面を感じざるを得ない。
9・11事件をきっかけに、否応なく米国主導の対テロ戦争を大枠とする外交・安全保障政策とその帰結するものごとに関わることになった、世界各地に散らばる専門職の間には、いわば「9・11世代」としての「同窓生」のような感覚があるのではないか。少なくとも私は、通常なら頻繁に顔を合わせることのなさそうな畑違いの分野の研究者、しばしば国籍や人種や宗教も異なる知己との間で、「われら9・11世代」とでもいうような共通の帰属意識と連帯感を感じることがある。「対テロ戦争」に関わるうちに気づけば過ぎ去ってしまった20年の年月を思い起こすときはなおさらである。
バイデン演説の「ちゃぶ台返し」
この「9・11世代」の多くは、現在、この瞬間に、大きな徒労感と空虚感を感じているのではないか、と私は推測している。私がこの文章を、あえて半ば「私語り」の形式で記しているのも、それが理由である。この20年間の米国の「対テロ戦争」の営為、中でも大きな労力を割いたアフガニスタンでの努力が、無駄ではなかったのか、という認識が、アフガニスタンから刻一刻と伝わってきて現前で展開していく光景によって強いられ、そしてそれを意味づけ正当化する米政権、大統領や国務長官の発言によって、いよいよ強まっていくのである。
2021年、米国はアフガニスタンの駐留米軍の拠点を8月末までに撤収させた。米軍の撤収の進展と共に、あたかも護衛が交代するように、ターリバーンの軍勢が各地を占拠し、8月15日には全く抵抗を受けることなく首都カーブルを制圧した。アシュラフ・ガニー大統領が国外逃亡し、雲散霧消するかのように瓦解し消滅したアフガニスタン政府は、米国と同盟国・同志国が多大な労力と資源を費やして行ってきた国家建設の努力を無に帰すかのように見えた。去っていく米軍に追いすがり、国外脱出の機会を求めてカーブル空港に殺到するアフガニスタン人の群衆の姿は、ここで終わった一つの時代を象徴する光景として、同時代の人々の目に焼き付けられた。
それでは、いったいどのような時代が終わったのか。
これについて、米国側からの、これまで公式には表明されていなかった本音の部分での認識を露わにし、前任者たちの公式見解を一つひとつ覆しながら、雄弁すぎるほど雄弁に、米大統領自身の口から語ってしまったのが、バイデン大統領が米軍アフガニスタン撤収を正当化する一連の演説だった。8月15日の急速な政権崩壊の翌日8月16日の演説、そして極め付けは撤収完了直後の8月31日の演説で、バイデン大統領は過去20年の米軍の対アフガニスタン政策、ひいては対テロ戦争の全体に対して、壮大な「ちゃぶ台返し」を行った。
8月16日の演説(Remarks by President Biden on Afghanistan, August 16, 2021)で、バイデン大統領は、「アメリカの部隊はアフガンの部隊が自ら戦おうとしない戦いを戦って死ぬことはできないし、戦ってはならない」と言明した。この言明は、バイデン大統領が自らによるアフガニスタンからの急速な撤収完了の政策を、それに伴って起きた混乱を含めてもなお正当化しようとする議論の流れの中に深く位置づけられている。
バイデン大統領は、これまで長きにわたり米軍をアフガニスタンから撤退させなかった前任の大統領たちを批判する。批判はまず、バイデンが副大統領として支えたオバマ大統領に向けられる。「私は長年にわたって、我々の(アフガニスタンでの)ミッションは対テロ作戦に狭く限定するべきであり、反乱鎮圧や国家建設を含むべきではないと主張してきた。だから私は、2009年に副大統領であった時、増派(surge)の提案に反対したのである」。
米国の現職の大統領が、米国の過去の政策を弁護するのではなく、米国の過去の政策、それも自らの属する党の政権の、自らが副大統領として関与した政策の過ちを指摘し、「自分は間違っていなかった」と自己弁護を行うという展開は、それほど頻繁に目にするものではないだろう。
2009年に着任初年度のオバマ大統領が行ったアフガニスタンへの「増派」、すなわち「撤退を目的とした増派」という何とも矛盾した政策の策定過程において、バイデン副大統領が軍からの提案やオバマ大統領の意向と異なる別のプランを温め、提起していたことは、確かに知られている。その過程は、翌年に早くも刊行されたボブ・ウッドワードの『オバマの戦争』(原著Obama’s Wars 邦訳は日本経済新聞出版、2011年)や、オバマ政権で国防長官を務めたロバート・ゲーツの『イラク・アフガン戦争の真実 ゲーツ元国防長官回顧録』(原著Dutyは2014年刊行、邦訳は朝日新聞出版、2015年)などで明らかにされており、そこにおけるバイデン副大統領の異論の提起は、しばしば筆者たちにより批判的な視点も加味して、記されている(なお私事になるが、2009年の対アフガニスタンの米軍の「増派」をめぐる議論が行われていた頃、私も様々な方々の手引きにより、ワシントンDCのウッドロー・ウィルソン国際学術センターに所属して研究活動を行う機会を得て、ちょうど進行していたこれらの議論をさまざまに伝え聞いていた)。
バイデン大統領はこのようにかつての「上司」の政策を批判した上で、次に前任のトランプ大統領を俎上に乗せる。「私が着任した時、私はトランプ大統領がターリバーンと交渉した取引を継承した。その合意によれば、米軍部隊は2021年5月1日にアフガニスタンから撤収することになっていた。私が就任してからたった3カ月余りの期間しかなかった」。バイデンはトランプ大統領が合意した撤収プランがそもそも非現実的だったと匂わせつつ、それに従うか、従わずに不利な状況下で戦闘を再開するかのいずれかの選択肢しか残されていなかった、と主張する。撤退の「やり方」の混乱があったならばそれは前任者の責任であり、かつ自分は前任者と同じ選択をしたのであって、批判をするならば前任者も批判されなければならない、というこれまた米国の政策としての妥当性の論証ではなく、自らの責任を回避することを主眼とした論理を展開する。
このように前任者の責任か、自分に責任はないことを主張した上で、バイデンは最大の責任をアフガニスタンの軍と政府に帰する。ここに、すでに引用した「アメリカの部隊はアフガンの部隊が自ら戦おうとしない戦いを戦って死ぬことはできないし、戦ってはならない」という決定的なフレーズが出現する。これを論証するために、バイデンは米国がアフガニスタンの軍と政府に与えたものを列挙する。曰く、米国は一兆ドル以上を費やした、30万人のアフガン軍部隊を訓練し、きわめて高度な装備を与えた。この軍部隊の規模はNATOの同盟国の多くよりも大きいのだ。彼らの必要とする装備は何でも与えた。彼らの給料を払った。空軍のメンテナンスの費用を払った。ターリバーンは空軍を持っていない。さらに米軍が空からの支援を与えた、等々。
これらは、あたかも「甘やかされた子供に親が与えてしまったもの」を列挙するが如くであり、米国の政策がむしろ自立した国づくりを阻害した側面を際立たせかねないところであるが、そこでバイデンは次のように断ずる。「我々は彼らに彼ら自身の将来を決めるあらゆる機会を与えた。我々が彼らに与えられなかったのは、将来のために戦う意志である」。そして通告する。「もしアフガニスタンが今、ターリバーンに対する真の抵抗をできないのであれば、1年経って、あと1年、いやあと5年、いやあと20年米軍部隊が駐留したとして、何ら変化をもたらすことはできない」。ターリバーンに抵抗できないアフガニスタンの軍を作ったのは誰か、それは米国の政策の結果ではないのか、という問題にバイデンは演説で一切触れない。
バイデン大統領は、撤収完了後の8月31日の演説(Remarks by President Biden on the End of the War in Afghanistan, August 31, 2021)でも、米軍の払ってきた犠牲を数え上げ、アフガニスタン側の犠牲については触れることがなかった。そして、高らかに、一つの時代の終わりを宣言するのである。「アフガニスタンに関するこの決定は、ただアフガニスタンのみについてのものではない。これは他国を作り替えるために大規模な軍事作戦を行う時代の終わりなのである」。バイデンは、「アフガニスタンにおける対テロの作戦、テロリストを捕縛し、攻撃を阻止するという目標が、反乱鎮圧と、国家建設に変容するのを我々は見てきた」とあたかも傍観者のように語る。そして「民主的な、凝集力のある、一体性のあるアフガニスタンの建設を試みてきた。それはアフガニスタンの数世紀に及ぶ歴史の中でなされたことがないことだ」と、あたかも今それを知ったかのように語る。そして「このような思い込み(mindset)を離れ、このような大規模な部隊の派遣を止めることで、我々はより強くなり、より有効に、自国をより安全にできるのだ」と、内向きの自国中心主義に急展開して自足するのである。
これらは、全くの部外者による米国の過去20年のアフガニスタン政策への批判であったならば、正鵠を射る部分を多く含む卓抜なものとも言えるかもしれない。しかし現職の米大統領自身が公的に発する発言としては異例のものではないだろうか。
演説で挙げられた諸点は、これまでの米国の歴代政権が否定するか、乗り越えられると主張してきたものだったからだ。それが失敗であったと認めるだけでなく、そもそも目標とするべきではなかった(と自分は最初から思っていた)と、現職の米大統領が公然と雄弁に語ってしまうことで、過去20年間に米国が世界に発してきたメッセージの多くの部分を否定し、同盟国・同志国に行ってきた要請・要求・約束を大きく覆すものであった。
米国で対アフガニスタン関与政策や対テロ戦争の諸施策に関与した人々、アフガニスタンやイラク等々のそれらの政策の対象となる国々から米国の側に立って呼応した人々、あるいは日本のように同盟国・同志国の立場から関与した人々にとって、壮大な「ちゃぶ台返し」と言うべき事態である。そのような歴史的な転換が行われた、少なくともバイデン大統領は明確に意図してそのような政策転換を目指している、と見るしかない。
軍事力によるリベラリズムの強制
ここまでは9・11事件以来の「対テロ戦争」をめぐる「政策コンプレックス」に広い意味で末端に連なる専門職の一人としての視点から見える景色を描写してきた。
ここで視点を転じて、私が研究の対象とする対象、すなわち、アフガニスタンであれ、イラクであれ、あるいはその他の中東諸国や広くイスラーム諸国であれ、社会の大多数を占める一般民衆、すなわち米国に大いなる憧れは持てども、それとさほどのコネクションもなく、英語もうまくない、入国ビザも取れる見込みもなさそうな、圧倒的多数の人々から見てみよう。それらの視点からは、バイデン大統領が渾身の弁護を試みて新たに提示した認識、すなわちアフガニスタンに中央政府が統治する統一国家を建設することの不可能性、民主化の困難さ等々は、常識として分かりきっていたことである。キプリングの『東は東、西は西』と端的に記した、長らく認識されてきた隔絶である。
「東と西」の間に歴史・文化的に位置する日本は、その隔絶と、隔絶を超えて介入し関与することの困難さと直面するジレンマを、最も内在的に認識できる立場であるかもしれない。「対テロ戦争」の枠組みの中で、米国の同盟国としての日本が、非西欧で広い意味でのアジアの一員としての立場を共有するアフガニスタンに関与した現場において観察された様々なジレンマの言語化・理論化の貴重な試みとして、国際協力機構(JICA)でアフガニスタンの平和構築・国家建設支援に関わった嶋田晴行氏による『現代アフガニスタン史 国家建設の矛盾と可能性』(明石書店、2015年)がある。この本では、歴史的経緯からも、地理的・民族的構成からも、政治・経済構造からも、国家建設が極めて困難であるアフガニスタンにおいて、外在的な要請から、なおも国家建設支援を試みるときに見えてくる諸問題を多方面から考察している。ここでは日本やカナダ、ドイツ、そしてトルコという、絶対的な軍事力や政治力を持たない「ミドル・パワー」として関与するという視点に立つことで、いわば米国と現地社会の「板挟み」になる立場から、内在的諸力をつなぎ合わせ、外からの関与につなげて国家建設につなげる僅かな可能性を模索し、それが常に行き当たる隘路を見つめ、それを回避する道を探っている。
米国のアフガニスタン介入は、歴史的経緯も、現地の事情も、現場の細心の努力も無視した乱暴な破壊的なものだったのだろうか。対テロ戦争のための中東への介入は、対象となる現地の文脈から見て、全く無益の、見当外れの企図であったのか。治安維持の局面においてはそう見えることも多かっただろう。米軍が、国家建設の前提となる治安維持の活動の多くを担ったことから、米国はしばしば「悪役」とみなされ、現地の社会から、異質の価値規範と制度を持ち込む、侵略する支配者として反発を生み、攻撃の対象となった。
しかしそうでありながら、米国とそれが率いる介入が、米国の強大な力と、そして強烈な意志に裏打ちされている限り、そこに何らかの価値があるものとみなされ、人々に目的を与え、社会を一つの方向に動かしたことも事実だ(その一部が反米活動であったにしても)。それが過去20年における「米国の覇権」を彩っていた光輝である。
キプリングの詩の後半は、このような一瞬の光のひらめきを掴み取ろうとするかのようである。「二人の強い男が面と向き合って立つときには」「たとえ二人が地球の両端から来たとしても」そこに国も民族も超えた、東も西もない、何らかの普遍的な地平が現出する。そのような、力と理念が一致したところで進む、世界史の力強い歩みを想起させるものが、2000年前後の一極支配の頂点に立った米国には感じられた。しかしアフガニスタン撤収を正当化するバイデンの演説は、恐れられ憎まれつつ保っていた米国の威信を支える「何か」を、決定的に取り払うことになるのではないか。
それは、個人としての人間を、世界を構成する基本単位とし、自律した個人の人権の尊重と、個人としての人間の能力の自由な開花・発露によって人類が進歩していくという、近代の基本的理念・信念としてのリベラリズムの担い手の地位を、米国が放棄することに他ならない。
米国による中東・南アジアやイスラーム世界への軍事介入は、米国内の政治的文脈では、あたかもリベラリズムの推進に反する動きであるかのようにも論じられてきた。「米国は女性の人権や自由の擁護を用いて米国の軍事介入を正当化した」といった批判は、米国内のこの文脈・政治対立に由来する問題構成に基づく。しかしアフガニスタンやイラクやその他の中東やイスラーム世界の社会に身を置く人々の視点からは、リベラルな価値規範を伝道し定着させようとする理念的な介入と、既存の指導者とその権力基盤を取り除き、異なる政治体制を設立しようとするしばしば軍事力を伴う介入にそれほどの違いはない。それらは「西洋」の介入という一つの事象の両面であり、互いが互いを裏打ちして押し寄せてくる。リベラリズムの理念を掲げて軍事介入が正当化され、リベラルな理念が軍事力による強制を伴うことで、土着の価値規範の縛りを排除して適用される。中東・イスラーム世界において、リベラリズムを受容しようとする勢力も、イスラーム教をはじめとした現地の固有の価値規範をもって立ち向かおうとする勢力も、リベラリズムの理念と、それを強制する軍事力は一体のものとして現れることは重々に承知してきた。「二人の強い男が面と向き合って立つ」からこそ、「東と西」の間でどのような立場を取るか、人々は模索し、それぞれの選択を行ってきた。
米国の大統領自身が、他国を作り変えるために軍事力を行使することはない、と述べて去っていくとき、人々を「東と西」の間の地平に押し出していた推進力は失われる。そこに残るのは今回も、「東は東、西は西 その二つは出会うことがない」という諦念なのだろうか。その諦念は、リベラリズムの世界への広がりを、少なくとも一旦停止するものである。 (終) 東京大学教授・池内 恵