『公研』20020年5月号

池内 恵・東京大学先端科学技術研究センター教授 

1 年末年初の茶番劇

 2020年の年明けは騒がしかった。前年の大晦日には、保釈中のルノー元会長のカルロス・ゴーン被告が12月29日に国外逃亡し、祖国レバノンに帰還していたことが明らかになった。日本のメディアは喧騒に包まれ、普段なら関心を持つことのない、東地中海の小さな特殊な国に記者が詰め掛けた。そうこうしているうちに、1月3日にイラク・バクダード空港で、イランのイスラーム革命防衛隊司令官ガーセム・ソレイマーニーを、米軍が無人攻撃機で爆殺した。イランによる報復は「第三次世界大戦」を引き起こす、といった針小棒大な報道もあり、国際報道は緊張に満ちたものとなった。

 今となっては別世界のように感じられる、年初の一連の出来事である。中東を中心に国際関係をめぐる情報・分析を行っている者から見れば、大晦日や正月が年中行事ではない中東が、日本の機関やメディアが連休で隙が大きくなっている時期に大きく動くことは稀ではない。ある程度心の準備ができている、むしろ通常業務の妨げなく情報収集や分析ができるという意味で好都合な感さえある。

2 年明けの大事件

 米イラン間の緊張は首脳間の口頭での激しいやり取りとメディア報道の加熱とは裏腹に、現実には早期に収まっていった。年初の騒動で急増したメディア向けの仕事を一つずつ終え、生活に平静さを取り戻していく間にも、大学の教員としての仕事は、例年通り忙しく行っていた。1月に秋・冬の授業を締めくくり、授業にまつわる諸々の手続きを終えた後の、2月と3月が、現地調査や国際会議の書き入れ時である。

 教育と研究に関する事務を一手に引き受け膨大にこなすことが必要な現代の大学教員にとって、調査研究に専念できる期間は一年のうちにそう長くない。この時期にまとめて海外に出かけ、外国からの賓客をもてなし、講演・講義・会議・セミナーを内外でどれだけこなせるかが、一年を通じての研究の進展を大きく左右する。

 ただし2月と3月には、日本の大学教員にとって、特に国立大学教員にとって逃れることのできない義務がある。それは「入試監督」である。センター入試や各大学の入試の各試験会場を、教員一人ひとりが担当し、全国・全学で文字通り一分一秒も違わぬ、一糸乱れぬ日程で遂行するのが、日本の高等教育現場の、人類学的にも興味深い制度・慣行である。

 入試問題・回答用紙の配布・回収・集計、不正防止、空調施設の稼働、音響施設の管理、急病者対応まで、一つのミスもなく終わらせることが、毎年の教員に課された義務であり、これを大学事務当局の職員は「一年で最も重要な行事」と言って憚らない。そのための長時間の講習会を事前に受ける。教員たちは大講堂に集められ、事務職員が年々厚みを増すマニュアルを表紙から後書きまで読み上げていく。

3 ベイルートの豊かな廃墟

 この「より重要な行事」の合間を縫ってのことだから、2月・3月の海外出張は細切れとなる。私の場合は、今年の2月は3回、中東を含む西欧との間を往復した。まず、1月末に出発し、2月の最初の週を過ごしたのがレバノンである。トルコ・イスタンブールを経由して、経済崩壊と反体制デモで膠着状態に陥っていたこの魅力的な国の首都ベイルートを訪れた。

 この美しくも禍々しい東地中海の都市ベイルートには、1990年の内戦終結からさほど遠くない時期に初めて訪れたことがあった。それから30年の間に、ペルシア湾岸産油国から流れ込んだオイル・マネーを原資に大規模に進められた巨大土木・建築工事によって、内戦で最も大きな打撃を受けた中心部の街区は一掃され、欧米で活躍するデザイナーを多く産んだこの国の研ぎ澄まされた美的センスによる最新の意匠を施した壮麗な建築群として蘇った。

 現在は、この法外な公共事業の乱費によって積み上がった政府債務が、米国・サウジアラビア・カタール・イランといった、この中東の美しい国を構成するモザイクのような諸集団のそれぞれを支援する各国・勢力の仲間割れや対立によって、返すあてのない、担い手のない借金として、庶民に降り注いでいる。それがレバノンの経済危機である。レバノンの国籍を持ち欧米で活躍する富裕層は、国内にも国外にも、高層マンションや、瀟洒なヴィラや、ワイン畑を保持しているが、祖国に税金は払わない。

 30年前とさほど変わらないのは、かつては中東のパリと呼ばれたベイルートのかつての繁華街ハムラ地区である。今は学生や知識人(しばしば左翼的な)の溜まり場としてのみ活況を呈している。カフェやビストロに知的階層が群れ活発に議論を交わし、書店や出版社、知識人のサロンも健在である。

 私にとってベイルートの原風景とも言えるのは、内戦中、諸勢力の対立の前線に位置しており、砲撃によって全ての階の壁面の隅々まで砲撃痕で埋め尽くされた、旧ホリデイイン・ホテルである。権利を持つ軍閥間の争いでもあって建て直しが困難なのだろうか、不思議とこの建物だけは、内戦時の崩壊した姿をそのままに残している。あまりに煌びやかとなったベイルートの新しい中心部で、ふと郷愁を感じ、内戦の記念碑であるかのような旧ホリデイイン・ホテルの現在の姿を写真に収めるだけのために、少し回り道をした。

 初めてベイルートを訪れた時、深夜に到着した閑散とした空港から(なぜか隣国シリアのハーフィズ・アサド大統領の写真が飾ってあった)タクシーに乗り、習いたてのアラビア語を交えて「ホリデイイン・ホテルに行ってくれ」と運転手に告げたところ、「本当にいいのか? 本当に?」と繰り返し尋ねられた。「ここだ」と降ろされたのは暗闇の中だった。目が慣れてくると、廃墟として打ち捨てられた港湾地区に立ちすくむ、剥き出しのコンクリートの柱と壁となった旧ホリデイイン・ホテルの残骸が現れてきた。私が予約したのは、新しくできた別のホリデイインであったが、運転手はそちらをまだ知らず、中心部の有名な、内戦で荒れ果てたホリデイイン・ホテルに私を連れてきたようだ。単に私のアラビア語が通じていなかったのである。タクシーが廃墟に私を残して走り去った後、どのようにして別の街区の新しいホテルにたどり着いたかは、記憶がない。

 ガラス張りの高級コンドミニアムやオフィスビルが立ち並ぶ中で、奇妙に時間が止まったかのように取り残された旧ホリディイン・ホテルの廃墟は、この国の水面下での禍々しい闘争の過去と現在を、無言で物語っている。

 ベイルートでは、文化的に豊かな、知的に専門的な人々から、しばしば高度に洗練された物乞いを受けた。貧しさに対してではなく、空虚な魅惑的な豊かさに対して施しを与えよという要求を受けるたびに、残骸となったホリデイインホテルの建物を思い出す。

 2月前半のベイルートでは、新型コロナウイルスは遠い中国の話題と受け止められていたが、MERS(中東呼吸器症候群)も経験したことから、警戒心はあった。ただしもちろん、在住者が街中でマスクを着用するなどという雰囲気は微塵もなかった。

4 会議場の喧騒と飛沫

 ベイルートでの現地調査から、拠点・経由地のイスタンブールを経て一旦東京に戻った後、2月の半ばから後半には、ウィーンとプラハを会議・会合のために訪れた。国際会議の頻度は増し、私のように、「国際会議屋」を自称できるほどの闊達な語学能力や社交能力をなんら持たない人間にすらも、しばしばお声がかかり、得難い場であることも多く、お引き受けして四苦八苦して報告をこなし、人間関係を作る。しかしそうしていると次々に依頼が来るようになり、全て引き受けていれば、日本の大学教員としての義務は到底果たせない。私のように附置研究所での研究業務が主たる任務である末端の教員ですら、出席しなければならない会議、作成・提出しなければならない事務書類、行わなければならない面談は数多い。国内で関与している会議・研究会での出席を要する行事も多い。その中で時間をとって毎年関与し渡航して出席する国際会議が、およそ三つ四つあるが、そのうち一つがこの時期に例年行われる。

 2月の半ばから後半にかけての西欧の国際会議の場では、新型コロナ問題は現実の脅威として認識され始めていた。参加者に配られる名札やプログラムのブックレットや連絡書類のバインダーに、「新型コロナウイルスの感染から身を守るために」といった注意書きの一枚紙が急遽挟み込まれ、「手洗いをせよ、咳・くしゃみをする時は口を覆え」といった指示に加え、「握手をするな。挨拶で抱擁をするな。キスをするな」といった、西欧社会の文化・慣習の奥深くを侵食しかねない項目が含まれていた。これが実行されていたかというと、半々であったように思う。1年ぶりに再開すれば思わず抱擁する風景もここかしこで見られた。しかし確かに人々は挨拶に控え目であり、握手の手を差し出すのを躊躇した。間合いを見て相互に合意したと見て取って、ほんの形だけでも手を握ることが多かったが。若干の距離を取ろうとする試みが若干は行われていた。

 とはいえ、そもそも長い距離を飛行機に乗ってきて集まる理由は、身近に顔を突き合わせて話し合うためであり、しばしば口角泡を飛ばして激論を交わすことである。その中で次々と友人知人を紹介しあい、新しい仕事相手を探してより多くの見知らぬ人々と1分でも立ち話をすることであり、気の合う相手とは場所を移し席を寄せ、相手の表情を見ながらより注意深く双方の見解を確認し合うことである。それらを大量に短期間に行うことができる効率の良さから、会議に参加するために万難を排して長い旅路に着くのである。

 これらの目的の前には「感染を防ぐために」というガイドラインは、やがてあからさまに破られるようになり、会議の終了時には誰もそのような制限があったとは覚えていないかのようだった。入り乱れて延々と議論の続く会議場の熱気と喧騒の中に、多大なる量の「飛沫」が飛び交い、吸引されていたであろうことは想像に難くない。

 この時点で、西欧の会議場に位置している限り、新型コロナウイルスはあくまでも「中国発」であり「東アジアで流行」している伝染病だった。そのグローバルな広がりは危惧され予想されてはいたが、生活様式を決定的に変えることを強いられるという実感、あるいは覚悟や諦めは、まだなかったように思われる。もちろんマスクを着用するものなど、数百名の参加者の中に一人もいなかった。

5 中国という課題

 私はその中で、「唯一のアジア人」だった。これは必ずしも異例なことではない。新型コロナウイルス問題によって初めて引き起こされたことでもない。これまでに参加した中東に関する国際会議では、私が唯一の東アジア人(ごく稀に香港人や台湾人が混じることがあった)であることは稀ではない。むしろそれが通常である。中東をめぐる国際的な場は、米・英・仏やその他欧州の参加者が、中東諸国、あるいは中東諸国出身で欧米の機関に身を置く参加者たちと共に主導するのが常であり、そこに日本、韓国、中国といった東アジア諸国からの参加者の姿はほとんど皆無と言っていい。

 1916年の「サイクス=ピコ協定」で英仏が中東の地図を描くことを当然視していた時代から現在まで、どれだけ多くの変化があってもなお、中東は今でも西欧人や米国人の専管領域である。欧米人でも特に、米英関係や米欧関係に力を持つ「環大西洋」の人脈が、そこから延長して中東に影響力を及ぼし、中東から情報を吸い上げ、各国の首都につないで政策に結びつけている。中東に関与するのは、米国であれば東海岸のワシントン・ニューヨーク・ボストンといった都市周辺に拠点を持つ政・財・学の人間たちが圧倒的に多く、日本の米国人脈や米国のアジア人脈が足がかりを築きがちな西海岸の「環太平洋」の人脈とは別世界を形成している。日本に向き合うのとはいわば「別人種」の人たちが、米国や西欧で、中東に関連する政治や外交を仕切っているのである。

 中国の台頭と、実体としてあるいは潜在的な形での中東への進出が目撃され、あるいは予想・期待・危惧されるにつれて、過去5年ほどの間に、こういった中東をめぐる国際会議の場でも、中国からの参加者が少しずつ見られるようになってきた。主催者側・企画運営に多少とも関係を持つようになると、「中国問題」すなわち、中国をどのように課題として設定するか、中国からの参加者をどの程度組み込んでいくか、あるいは、その先に、中国からの資金をどのように取り入れていくかが、大きな検討課題となっている。

 いうまでもなく中東でさえも中国が大きな存在となっていることは否定し得ない事実であるものの、中国からの参加者を入れてみると、一方的に、時に強圧的に共産党政権の主張をまくし立て、議論にならない、という光景はしばしば見られる。そのような事態を恐れ、主催者側がやんわりと中国からの参加者の招待を先送り・見送りするという光景も近年多く見てきた。

 時には、私がいわば中国人の代わりとして「東アジアの立場」を代弁したり、「中国に関する現場に近いところからの知見」を提供する役割を、暗黙のうちに負わされていると感じる場面もあった。

 これらの舞台裏での葛藤を経て、昨年ごろから、中国から参加者を積極的、定期的に招き、それと共に(ここが肝心でもあるのだが)中国からの資金導入に期待するという方向に、各会議では舵を切り始めたと見られたところだった。むしろ「中国からの参加者が多くなったが、日本からはお前だけでいいのか、誰かいないのか、急いで紹介せよ」と問われることが多くなっていたのが、過去2年ほどだった。

 2月中の西欧での会議では、初めて大々的に参加が決定していた中国からの参加者が、全て参加を取りやめる事態となった。中国をめぐるパネルで、私が「唯一の東アジアからの参加者」として話す場面も増えた。中東に関与する欧米や中東出身の人たちにとって依然として未知で不可解なものである中国や東アジアから、未知の致死的なウイルスが今まさに伝播しようとしているという、漠然とした危機感が広がる中での、唯一の東アジア人としての議論は、奇妙な切迫感や臨場感を持って受け止められていたようである。

6 パリに別れを

 日本の大学教員の最大の義務である入試監督業務のために東京にとんぼ返りした後、2月の末に、パリに「弾丸出張」に出向いた。到着して夜の会合で知己と旧交を温め、ホテルで休み、翌日に講演と面談と会食をこなして、その日の夜の飛行機で帰ってくる。かつては企業の幹部職員でもなければやらなかったこういった出張が、当たり前になってきていた。依然として「国際会議屋」としての私の能力はさほど上がっていない。

 それでも「慣れ」でなんとかこなせるようになる。下手な英語で冗談も言うようになる。そして聞く方も慣れてきて、日本からやってきた中東研究者の下手な英語でも、耳が慣れてきて、聞く気になっているのである。これがグローバル化の結果ということだろう。海外出張も、外国語での講演も、一世一代の機会でもなく、日々のルーティンとしてこなしていく。そういう時代が来て、私のようなものにまで番が回って来た。そのように、淡々と受け止めてこなしていた。

 2月も末になると、パリの市民の顔にも不安の色が出てきていた。それは日本から訪れる客をもてなすような、東アジアの情勢に接することの多い人々に特有の高い関心と広い視野、特別な情報収集力によるものだったかもしれない。しかしイタリアに現れた大規模な感染の兆候により、西欧社会がもはやこのウイルスから無縁ではないこと、やがてなんらかの災厄に見舞われる可能性が高いことを、多くが予感し、警戒していたようである。テレビをつけると、一般チャンネルでも、朝から晩まで、話題はNouveau Coronavirusであるようだった。おなじみの夜中の討論番組でも、知識人たちが口角泡を飛ばしてウイルスの脅威を議論していた。高まる危機感と、欠落した対処策が同居した、「コロナ直前」のフランスの風景を、弾丸出張の一瞬の間に垣間見ただけでも、体力を削る海外出張に意味はあったと、今となっては思う。

 パリ発・羽田行きの夜行便に乗るためにホテルをレイト・チェックアウトする前に、1時間ほど時間が余った。ふと、学生時代に、中東への渡航の前後に目的もなくパリに立ち寄った時に、ユースホステルで同宿した学生(広告代理店に就職が決まったと言っていた)に誘われて、特に興味もなく訪れたモンマルトルを見てみようという気になった。ホテルの目の前の地下鉄駅から乗れば、乗り換えなしで15分ほどで着く。駅の周りを一回りして帰って来れば1時間もかからない。パリでようやく一般化したICカードを記念品に手に入れたかったというのが主たる目的で、「試し乗り」にちょうどいい目的地を思いついたというだけである。15分でついたモンマルトルの地下鉄駅前の、世界中からの観光客が群れる風車は「こんなに小さかったのか」という感慨が一瞬あったが、それも作られたものかもしれない。というのはそもそも学生の時にこの風車を見たかどうかも思い出せない。人間の記憶とはその程度のものである。

 2月の末、中国人観光客が跡を絶ったパリは殊の外歩きやすく、気候も良かった。この頃、東アジア系と見える観光客は、大抵は韓国人のようであった。長く中国人観光客に占拠されていたかのような国際的観光地を、それ以前からの「老舗」のお客さんである韓国人や日本人が、しばしの間、心地よく歩く、そんな一瞬の静けさが訪れていた。その直後から、世界が疫病の爆発的蔓延に襲われ、各国が国境を閉ざし、観光客であれ出張であれ人の自由な移動が途絶し、海外の在住者すらもが、難民のように母国に帰国するか、あるいは不安定な立場に甘んじて居住国にとどまるかの選択を迫られるとは、この時点では誰も想像していなかったのである。

 地下鉄で、新しいICカードを手にした、極めてささやかなセンチメンタル・ジャーニーの後、淡々とホテルから荷物をピックアップし、空港への車窓から殺風景な郊外住宅地を眺めながら、パリに別れを告げた。深夜便で目覚めると、3月1日の早朝の羽田だった。

7 緊急事態と自主隔離

 3月前半に、西欧、そして米国へと、新型コロナウイルスの大規模な感染爆発が連鎖して行き、中国や日本などとは比較にならない規模の感染者数・死者数を記録していく中で、各国は次々と国を閉ざしていく。日本には、3月後半に、米国や西欧からの帰国者に由来すると思われる感染の第二波が生じ、相次ぐ「自粛」の要請から、4月前半から5月末までの「緊急事態宣言」による、経済活動や都市生活の大規模な制限が課されていく。

 この情勢を受けて、筆者は3月の半ばから、自主的に自らに隔離生活を課すようになった。東京を離れ、縁のある、とある街の一角に居を構え、必要な買い出しと運動以外では外出することなく、人混みを避け、自炊して過ごしている。この生活は、5月の連休を越して続いている。

 なぜ早期に極端な自主隔離に踏み切ったかと言うと、4月から主催する研究室を大きく拡大するための予算が入る見通しが、この時期に立ち始めたからである。一定の人員を雇用し、大規模なプロジェクトを運営していくための、複数の大規模予算を、大学の文系の研究者が通常求めるのとは別の源に求めて来たところ、それに対して前向きな反応が返ってきた。それらによる資金のうち少なくとも一つあるいは複数が、4月から導入されることが、3月の後半には明らかになった。それらの予算が、3月の年度末から4月の年初にかけて決定された場合、速やかに受け入れ体制を整え、人員を確保し、行政的に執行しなければならない。その時に、起案する権限がある者が制度上私しかいない。

 これまでは「一人研究室」で、資金や人員は不足するものの、大幅な行動の自由を得ていたものが、人を雇い、貴重な資金を預けられることになれば、その一部を失うことは当然のことであり、予想もしていたことである。しかし新型コロナウイルスの、ちょうどこの私の研究室運営にとって決定的に重要な時期の蔓延により、より最新の対応が必要となった。もし私が感染して入院、あるいは万が一命を落とすというようなことでもあれば、私の発案に応えていただいて発足しようとしている、若手の研究者たちの雇用を生み、多くの参加者を募ることが可能なプロジェクトそのものが、立ち消えになってしまう可能性が高い。

 「私が伝染病にかからないこと」あるいはさらに譲って「私が生存していて意思決定をできること」が、この段階では私の学術的な最大の貢献であると考え、あらゆるアポイントメントを解除し、自主隔離で安全な一室に閉じこもることに決めた。職場の部局は理系が多いこともあって、3月の前半には会議の全面リモート化に先んじて踏み切っていた。4月からの授業もリモートで行うことが内内に決まっていた。

 ちょうど、3月の20日から22日の連休の頃であった。桜が咲き始めていた。後にこの3連休は、新型コロナウイルスの感染の第二の波を生み出し、全国を「緊急事態宣言」に追い込んだ「気の緩み」として、悔恨とともに、国民的に記憶されことになるあの連休である。

8 「コロナの時代」の戦略思考

 ここまで記してきたのは、いわば「コロナ前」の最後の瞬間の、一人の大学研究者の目からの記述である。今となっては、なぜあのような生活をしていたのか、不思議に感じられる部分もある。「このような生活をしていたからああなったのだ」と後知恵で思わないでもない。

 その後、世界が一変したことは、改めて記すまでもない。この後、世界がどのように展開していくか、誰にもまだ予想できていないだろう。

 認識は日々移り変わってゆくひと月前の状況や文脈が、すでに思い出せなくなっている。国内についてでさえそうであり、ましてや、その時点で中東や西欧がどうであったか、現地の状況や、相互関係を正確に覚えていることは至難の技である。

 この短期集中連載では、「コロナ時代」あるいはそこから「ポスト・コロナ時代」にかけての特異な時期を、記録していきたい。連載の期限は設けていないが、できるだけ短期に終わることを望む。数号で終わって欲しいものである。ただしそれが数号で終わらないかもしれないという予感も、おそらくは読者と共有されていることだろう。

 新型コロナウイルス問題が収束、あるいは終息した時に「世界は変わっている」あるいはそこには「新しい常態」が出現しているだろうとはよく言われる。それがどのような状態であるか「予想」することは難しい。高度に専門的な対象である感染症や公衆衛生に関して素人談義をする意味もさほどない。

 しかし「新しい常態」を模索し、それをできるだけ日本にとって好ましい方向に導いていくことは、現在の最も重要な戦略的課題だろう。それは公衆衛生の領域にとどまるものでもなく、経済政策によってのみ達成されるものでもない。特に、グローバルなウイルスの伝播が引き起こした、グローバルな政治・外交的な反応によって現在の特異に分断された国際情勢が生じているのであるから、今後の課題の多くは政治・外交的に取り組まれなければならないだろう。とある街の一室から発信される「『コロナの時代』の戦略思考」に、しばしお付き合い願いたい。

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