『公研』2016年10月号「対話」

武内宏樹・サザンメソジスト大学准教授×池内恵・東京大学先端科学技術研究センター教授

世界では未だに紛争が絶えることはない。政治学の研究の蓄積は、人類を平和に導く「答え」を提示できるだろうか。独裁国家の内実を知ることは、そのためのヒントになるのではないか。

人類は独裁体制のもとで生きてきた

武内 政治学の観点から見ると、人類は独裁体制のもとで生きてきた期間が圧倒的に長かったと指摘することができます。今でも世界の過半数の人々は独裁体制のもとで生きています。中国が民主化するようなことがあれば、歴史上初めて民主制度のもとで生きる人が過半数を超えることになりますが、中国は未だに民主化していないわけです。にもかかわらず、政治学の多くが民主体制を対象にしていて、独裁国家に対する研究は遅れていました。

 しかし、このところ独裁に関する良質な研究が出てきました。主に中国や中東を対象とする若手によって研究が蓄積されてきたわけです。こうした研究を比較政治学の中では「比較権威主義」(comparative authoritarianism)と呼んでいて、私自身も自分のことを比較権威主義の研究者と位置づけています。比較権威主義の研究では、主に独裁体制の「強靭さ」(resilience)の背景について議論がなされてきました。そこから見えてきたことは、持続性のある独裁体制は独裁者が何でも独りで専制的に決めている体制ではなくて、制度化の進んだ体制であるということです。それから、政治学で「包摂」(co-optation)という概念がありますが、独裁体制が社会のいろいろなグループとの利害調整を進めることで体制を維持してきたわけです。ですから、「独裁」(dictatorship)という呼び方は違うのではないかということが言えます。独裁者がすべてを思うままに決めてきたわけではない。

 今回の「対話」では独裁国家の仕組みについて様々な角度から考えていきながら、社会に安定をもたらす統治のあり方についても検討することができればと思います。まずは、中東地域が研究対象として注目が集まるようになっていった経緯と、研究を担う学者たち自体にどのような変遷があったのかお聞かせいただければと思います。

池内 政治学は近代のヨーロッパで始まり米国で発展していった学問ですから、民主体制は正しいものであるという価値規範を持っている人たちによって担われてきたところがあります。暗黙のうちにも、民主化へ向かうことは普遍的な道筋だと捉えている。「独裁体制もいずれは民主体制に至るのだ。客観的に見てもそういう趨勢にある」ということを前提に研究することは、米国では当たり前だったように思います。それに対して権威主義体制を研究している人たちの中には、自分が研究対象としている、たとえば中国や中東あるいはラテンアメリカでは、そうした前提が成り立たないのではないかという疑いを持っている人もいるのだと思います。

 今、比較権威主義の研究対象として中東に大きな関心が寄せられています。別に私は中東研究を代表しているわけではありませんが、それをうれしいと思う反面、そんなに期待してもらっていいのだろうかとも感じています。確かに、200010年くらいの十年間で、特に米国では中東を研究対象とする優秀な人材が集まってくるようになりました。そういう意味で武内先生の認識には納得できますが、同時に「アラブの春」が起こったことで大混乱が生じていることをまずはお伝えしなければなりません。

新しいタイプの人材が中東研究に集まった

池内 2000年代に集まってきた研究者の中から、かつての地域研究を名実ともに否定する人たちが現れました。彼らには「文化、言語、宗教を細かく研究することなどはどうでもいい。茶飲み話みたいなことをしていないで科学的にやるべきだ」という明確なスタンスがありました。数値を使うなどして普遍的なモデル化をめざしました。それまでは、中東政治にはそうしたアプローチは適用できないと考えられていました。政治的自由がなく、自由なメディアがないわけですから、人々が本当に何を考えているのか、政治社会の実態を調査しにくいわけです。データが集まらなければ、客観性を重視する方法論をとる学者は手を出せません。

 ところが2000年以降になると、中東政治研究でもある程度科学的にやって成果を出せるのではないかと考える人が増えていきました。中東のメディアの一部に一定の公開性や透明性が出てきた。研究者が見て、そこにデータがあると感じられるように状況が変わったわけです。私自身90年代から中東研究をやっていますが、2000年代半ばくらいまでとそれ以降とでは大きく状況が変わりました。

 それまでは、一生を賭けて政治学上のほんの一項目についてデータを集めていました。たとえば、ある地域のエスニシティごとの投票行動などは「こんな感じだろう」ということを、長い時間をかけて現地の感覚を身につければ、ぼんやりとした趨勢はわかります。しかし、それでは時間がかかるし、数値として出てこない。必死に現地のメディアの情報をつなぎあわせて、現地の人に話を聞いて、現地の人が本当のことを言っているか、そもそも本当のことを知っているのか、相手の顔色を伺って社会的背景を調べて裏を取ってといった職人芸を積み重ねていたわけです。

 ところが、そうしたデータあるいは元データがインターネットを経路として発信され、流通するようになったんです。以前よりも根拠のあるデータが、はるかに短い時間と労力で集められる時代になりました。以前なら職人芸で何年もかけて割り出したデータが、もっと正確な形でネット上にポンと載っているという事態が起こったわけです。それを敏感に感じとった米国の若手政治学者が、中東研究に乗り出していきました。彼らは中東に興味があったり特別な愛情を持っていたりするわけではなくて、テーマとして面白いからやってくるんです。それに「データもあるじゃないか」と。

 また、中東への関心が高まった背景には、やはり9・11事件があります。9・11の前後で中東研究に入ってくる人の質が変わったんですね。突然中東が米国の安全保障上の最大の関心事になったことで、お金もポストも回ってくるようになった。それまでは一部の特殊な学科にしか中東を研究する先生はいなくて、そこに言語、文化、宗教を専門とする人たちがいました。中東の文化史を研究しているような先生──結婚相手が現地の人だったりします──が実は現地のことをよく知っていたりしました。そういう先生が現地の有力者や知識人にツテがあって、そこから政治をめぐるデータをもらってくる、といった秘伝のような経路で中東に関する知識が伝授されていたわけです。

 それが、「中東は政治学を使ってきちんと解明しなければならない」ということになった。あらゆる大学が競って若手の政治学者をアシスタント・プロフェッサーとして雇ってみるということが起こります。そこに市場があるわけですから、優秀な大学院生が中東をテーマに選ぶようになったんです。そのチャンスに飛びついた人たちの中には、中東系の人が多いんです。米国育ちでも、親との会話などである程度言語ができたり、親戚のつながりで中東内に情報源があったりします。そういった人たちが中東研究をやれば有利だし、そこには機会があるとなると殺到します。

 それと同時に、政策に近い分野には今までとまったく違ったタイプの人がいたりします。米国のエリート教育を受けて、従来なら中東研究にあまり目を向けなかった、たとえばニューヨークで弁護士をやっていたような人が転職してシンクタンクでアナリストをやっていたりするんですね。「どうしてシンクタンクで働いているのか?」と聞くと、「9・11のときにイスラエルと米国の運命が自分に深く関わっているのではないかと考えるようになった」なんて言っていました。ユダヤ系だけどイスラエルに行ったこともなかったが、事件を契機に強い関心を持ったそうです。「金儲けは十分したから、大学院にもう一度行って勉強し直したんだ」と(笑)。そのくらい米国では学問の分野もスクラップ&ビルドが激しいし、人間自体も人生の中でキャリアを何度も切り替えていく。そのときに大学院は重要な役割を果たしているんですね。

 一方で中東のエリート層との血縁やコネなどがあり、生まれつき言語もできる人たちが生データを持ち込んで政治学で勝負しようとする。逆に中東研究と無縁だった米国内のエリート層にとって、中東研究の市場としての魅力が増した。外から見ても中東研究には今までにはなかったおもしろさが加わりました。政治学の発展にも貢献していると言えるところがあったと思います。けれども、当事者たちは「アラブの春」にものすごく狼狽することになります。

デモクラティック・ピース

武内 当然そうでしょうね。

池内 さらに前に振り返ると、米国では中東の民主化に関する議論は冷戦終結後の90年代に盛んになりました。イスラエルとアラブ諸国との関係を改善するために中東和平に本気で乗り出し、93年にはオスロ合意の仲介にも成功した。中東和平を押し進める際には「デモクラティック・ピース」という考え方が根底にありました。私から見ると順序が逆だと思うんですが、この議論によれば、民主化している国同士はあまり戦争が起こらない、ゆえに中東も民主化すれば平和になるはずだというのです。日本では冗談のように聞こえるかもしれませんが、90年代のアメリカの文脈では割と普通に聞こえたみたいですね。

武内 その考え方が最高潮に達したのが、9・11テロを受けてアフガニスタン、イラクの打倒を打ち出したブッシュ・ドクトリンであり、中東民主化論ですね。

池内恵・東京大学教授

池内 ブッシュは中東政策について非常に強い軍事的な介入を行いました。ただし、独裁政権を倒すだけではなくて、同時に戦争が終わった後には民主的な「ステート・ビルディング」をやるということを主張しました。日本では真剣に理解されていない気がしますが、ここはかなり重要だと思うんです。ブッシュは毀誉褒貶がある人ですが、彼のキャラクターが特異だったからアフガニスタンやイラクでの戦争を押し進めたという認識は当たらないと思います。デモクラティック・ピースは、クリントン政権の時代から超党派的に信じられる共通の前提になっていました。民主党系であれ共和党系であれ、それを実現するために用いる手段は違ったとしても共通していたと思います。

 ブッシュはそれを人為的、外的介入によって実行可能であると考えて、政策の指針として露骨に打ち出したわけです。ブッシュはナイーブだったとは思いますが、当時は民主化が世界の趨勢でした。実際、民主化していった実例は多くあったわけです。ただし、その中でも中東は後れている、特にアラブ世界はうまく波に乗れていないという認識がありました。中東和平を契機に波に乗せてやろうという民主化推進論があって、これがクリントン政権からブッシュ政権までずっと続いていたわけです。

 研究する側からすると、90年代にはアラブ世界の民主化に関するいくつかの大きなプロジェクトが行われました。このプロジェクトもデモクラティック・ピースが前提になっていて、嫌な話ですが、その前提に基づいて予算が出ているんですね。中東が民主化する方向に向かっているかどうかを調べ、民主化している事例があればそれを取り上げる。うまくいっていないのであれば、その原因を探ろうというスタンスです。原因を取り除けば民主化するかもしれないし、オスロ合意もうまくいくかもしれないというわけです。これは論理的にはややいかがわしいんですが、いろいろな思惑があって研究が進みました。

 このときに出た結論は、「アラブ諸国はまったく民主化していない」というものでした。プロジェクトのレポートでは、「民主化しない原因は何なのか」「何が足りないのか」といった問題を挙げています。「市民社会が元気じゃない」とか「大統領に権限が集まり過ぎている」などが「説明」として挙げられました。これらは原因の説明ではなくて現象を描写しているだけですよね。それから、中東諸国の選挙制度についても研究が進みました。そこで明らかになったのは、選挙をやっているが実際にはきちんとやっていない実態です。個々人のレベルで平等に投票させてもらえないというのもあるが、根本的に制度自体がフェアーではなく制度運用によって絶対に現政権が勝つようになっている。誰でも立候補できるようになっていたとしても、有力な野党の候補者が出ると逮捕されるようになっていたりする。簡単に言えば、ありとあらゆる手段で独裁は維持されるようになっていたわけです。つまり、そこでは「見せかけ(facade)の民主主義」が行われていたわけです。

 ですから、プロジェクトの当初の趣旨からは外れるわけです。中東も民主化するはずだという期待が当初はありましたが、実態はそこから非常に遠いことがわかってしまった。そういう結果が度重なって出るとなると、いくらなんでも研究は下火になります。それが2000年くらいになると発想の転換が起きてきます。中国では未だに体制が持続しているし、ラテンアメリカなどでは権威主義体制に逆戻りする事例が出てきた。つまり、「中東は例外ではない」と解釈が変わっていきました。すると胸を張って「中東は権威主義体制です」と言うようになったんですね。

 前置きが長くなりましたが、それがアラブの春でさらに状況が激変します。民主化の期待を裏切って長期間持続してきた、今後も磐石なように見えていた権威主義体制がチュニジアやエジプトでパタッと倒れた。北米の研究者は心の底から民主主義が好きだし、普遍的だと思っているリベラルな人たちですから、中東の政治体制も文化や宗教や人種などで決まっているとは考えないわけです。90年代の研究の結果「中東の権威主義体制は強靭だ」ということを思い知らされ、2000年代の研究ではなぜ強靭なのかを理論的に説明してきましたが、民主化が進展する事態になると、それを歓迎する人が多かったことを憶えています。

 そういう人たちは2000年代に発表した自分の理論は否定されてしまうのだけれど、学会などで個人的に話してみると結構それを喜んでいる。まあ理論が誤っていたとわかると、テニュア(終身雇用権)をまだ得ていない人にとっては命取りなので、「ジョブ・セキュリティが……」とぼやくのが通例でしたが、すでにテニュアがある人は露骨に、「自分の理論が間違っていた」と喜んで認めていたりしました。

 アラブの春が起きた当初は、そういった動揺しながらも高揚した空気が米国を中心とする中東政治研究者の間にはありました。しかし、その後の5年間を見ると話はそう単純ではないことがわかります。さらなる混乱です。独裁的な政権が大きく揺れたのだけれども、民主化が実現するケースは極めて少なく、一部では露骨に独裁が復活してくる。現地の政治の右往左往と混迷を反映して、研究者ももはや混乱してしまって確固たる方向性を提示できていない状態になりました。

 しかし、研究者たちは概ね二つの立場を打ち出しています。一つは、権威主義体制の永続性は違う形で証明されたと考える立場です。自分の理論の普遍性をディフェンスする立場として、「実は2011年には大きなことは起こっていない。アラブの春は糠喜びだったのだ」と認めざるを得ないと考える。もう一つは、アラブの春を好機と捉え、「混乱を超えて民主主義を推していくべきなのだ」というアクティビスト的な立場です。

 いずれもちょっと無理があると私は思います。今はもっと複雑になっていて、突きつけられているこの難問に対して真剣に考える人たちはものすごく悩んでいます。そのあたりの微妙なところもぜひ武内先生には、微妙に読み取っていただきたいなと思うんです(笑)。

イラクとエジプト

武内 確かにアラブの春が起きて、中東でも民主化が進むかのように見えたわけですね。池内先生が昨年の日本国際政治学会で2011年以前は、「中東は独裁者しか治められない」と思っていたが、アラブの春以降を見ると「中東は独裁者でも治められない」に変わったとお話しされていたのが印象に残りました。

 2011年以降は、政治体制にしても国ごとにバリエーションが見られるようになりました。それまでは中東政治という一つの体系があるかのように語られてきましたが、それが国ごとに違う道を歩み始めている。チュニジアのように民主化の道を比較的順調に歩んでいる国もあれば、エジプトのように権威主義にまた戻ってしまった国もある。また、シリアやリビアのように内戦が始まってしまった国もあります。

 こうしたバリエーションは社会科学者にとっては歓迎すべきことです。冒頭でもお話ししましたが、民主主義体制の研究が進展しているのに対して権威主義体制の研究はまだまだ大雑把なところがあって、「民主主義以外はすべて権威主義である」というところから話が始まるんです。もちろん、権威主義体制にもいろいろな種類があるわけですが、民主主義以外はすべて権威主義であるということになると、その体制の仕組みについて理論的な説明を付けていくことがものすごく難しくなる。

 アラブの春については、民主化した国もあったがそれがうまくいかなかったがゆえにまた権威主義に戻ってしまったという説明がなされます。この場合にしても、元々の権威主義体制と民主化を経た後に再び戻った権威主義体制とがまったく同じであるとは考えられないわけです。ですから権威主義体制内のバリエーションを考えるという意味で、今の中東は非常におもしろい対象だと私は思うんです。

 エジプトは典型的だと思います。長く続いたムバラク政権は権威主義体制でした。それがアラブの春で民主化しました。しかしながら、選挙で民主的に選ばれたムルスィー大統領をクーデターで追い出して、そしてスィースィー政権になった。このスィースィー政権は、かつてのムバラク政権よりも権威主義的であるという人もいるわけです。

 イラクは外から民主化を植え付けられました。フセイン政権は米国によって倒され、そこに民主体制を外から植え付けたわけです。選挙を経てマリキが首相になりましたが、結局これが倒れて今の新体制が誕生します。しかし、どうもこの体制では民主主義が機能していないのではないかと指摘されています。そうすると、民主主義ではないのだからこれもまた権威主義ということになる。それでフセイン政権と同じラベルを貼られていますが、今の体制は明らかにかつてのフセイン政権とは違います。

 このあたりのバリエーションやパターンを踏まえて、2011年を前後して起きた中東の権威主義体制の変化について、どのように説明できるでしょうか。

池内 そこが今まさに中東研究者が迷っているところだと思います。ここで辛いところは、中東の独自性や多様性を再び認める必要があることです。ご指摘にあったエジプトとイラクもそれぞれに固有のものがある。それは中国のケースとも違うし、中東域外ではあまり起きないことも起きています。そうすると、一時的には普遍化をめざす方向からは外れることになる。例外事例を集めるようになるので、これは挑戦だと思うんです。

 90年代ぐらいまでの中東研究は、むしろ例外の話をしていればよかった。「中東は例外です」と言っていれば、それで済んでいたんです。けれども先ほどお話ししたように、2000年代にはそうしたことを否定して普遍化をめざすスタイルに転換しました。ですから、そこから再び外れて中東諸国の固有性について集めていくことはかなりハードルが高い。比較的新しい研究者は、そうしたかつての地域研究的なアプローチには抵抗があるわけです。それでも今は、やはり中東の多様性をきちんと見ていかなければならないのだと思います。そうした事例を集めることで世界全体の権威主義体制の研究の蓄積を豊かなものにして、そこから再び何らかの普遍性を見つけ出す形で政治学に貢献できるのではないかと私は考えています。

 個別の事例としてイラクとエジプトが挙がりましたが、この二国は近代アラブ史上に並び立つかつての大国です。エジプトのほうがちょっと大きいですが国の規模も似ているし、いずれも権威主義体制が続いてきました。両国とも1950、60年代にクーデターもしくは革命によって共和制の国を建国した歴史があります。新しい中間層が出てきて、民族主義的な結社あるいは民族主義政党をつくり、そうした勢力がいずれの場合も軍の中枢を握ったわけです。そして、大佐・中佐レベルの軍人が主力になって政治・社会革命を根拠とする体制をつくった。それが世襲化したり、終身化したりすることで長期政権になったわけです。ある種同じタイプの権威主義体制をつくってきた。

 この似た体制の二つの国が2003年と11年に相次いで倒されましたが、この二国にも違いが出てきています。まずイラクでは、宗派主義的な要素が顕著になってきていますが、エジプトではそれはあまりありません。それからイラクでは、そうした宗派に相応する民兵集団が組織されていて、軍事力の多元化が起きています。世界史を振り返って、われわれが知っている民兵集団は南米のゲリラ組織に代表されるように反体制派ですよね。体制とは異なるエスニシティやイデオロギーを掲げるわけです。冷戦構造が存在していた時代は、体制とは逆側の陣営から支援を受けていたりしました。

 しかし、イラクで多元化したそうした民兵組織への援助は、まずは政権内の違う部門から来たりしています。宗派ごとに何らかの資源を持っていて、それを使って民兵集団を組織する。さらには、同じ宗派でも違う民兵集団が出てきている。そういった形で、イラクでは特に宗派による社会的な亀裂が深まっています。さらには地域主義による亀裂も明確になっていて、それぞれが軍事力を持っています。至るところから支援を受けていて、イランからもどんどん支援が入っています。イラクでは国軍よりも強い民兵組織がいくつかあって、それが政権側だったりします。つまり、政権内部も割れているわけです。政権の外部でも割れていて、そこにもさまざまな形で軍事力が蓄積されています。その極端な例が「イスラーム国」ですが、それだけではなくて他の集団も武力を持っている。このようにしてイラクでは軍の多元化が進みました。

 それに対して、エジプトでは軍が一体性を保っています。ムルスィー政権が軍主導のクーデターで倒されたのは、クーデターをやれるような一体的な軍があったためです。エジプトはその一体的な軍が強力なために民主化が進展しないとも言えますが、イラクではクーデターもやれないくらい国軍は弱体化しています。選挙をやり続けて、その投票結果を根拠にして政権は入れ替わっていますが、実際にはその政権が力を十分に発揮できていない状況ですよね。そして、統治手法自体は非常に独裁的です。ただし、国土の一定面積が「イスラーム国」に奪われていたりして、政権の統治が及ばない状況が生まれています。また、クルド人の自治政府には中央政府がほとんど影響を及ぼせないような状況になっています。イラクとエジプトは元々似た体制でしたが、様々な要素が両極に対称的に分岐するような事例を見つけることができます。こうしたことがいま中東全体で起こっています。

 チュニジアのように国家にある程度のまとまりがあって二度の選挙で二度政権が代わることができた体制があるかと思えば、イエメンのように新体制を作る上で選挙をやらずに諸勢力から代表者を出して国民対話をやって結論を出そうとした国もあります。けれども、選挙をしていませんから、民意を反映したという意味での正統性があるわけではない。その結論に基づいて新体制をつくろうとすると、納得しない勢力が力で覆してしまう。そうすると今度は地域大国であるサウジアラビアなどが軍事介入を行うなどして、自国の問題を自国内部で解決できなくなるという事例もあります。リビアもイエメンに近いところがあって、何度選挙をやってもその結果が十分な正統性を持てないでいます。今回の選挙で勝った勢力と、前回の選挙で勝ったと称する勢力とがそれぞれに自分たちの正統性を主張して、激しく対立する状況が生まれてしまっています。今度は国連のお墨つきで第三の政権を設立して決着を付けようとしています。リビアでは、選挙という正統性の源も分裂していて、その裂け目にイスラーム主義のような異なる理念に基づく非国家主体も入ってきている。

 中東ではこうした特殊と言える事例が出てきてしまっています。けれども特殊さを強調し過ぎると、中東という枠も意味がなくなってしまいます。「エジプトとイラクは違いますね」「リビアは特殊です」「イエメンは特殊です」ということを言い始めるとすべての国を別個に見ないといけなくなります。しかし、おそらくそうではなくて、こうした多様性から何を読み取るかが今後重要になってきます。注目しているのは、内戦やクーデターで荒れている状況がどのように終結していくかです。そして、どういう体制で安定するのか。それらの事例はやがていくつかに収斂していくのだと思います。それを踏まえた上である種の普遍的なものを見出していけるのではないかとは思っています。

百年の呪縛

武内宏樹・サザンメソジスト大学(SMU)准教授

武内 エジプトで選挙を行うと、一番組織されているムスリム同胞団が必ず勝つという結果になりましたよね。他の利益団体が十分に組織されていないので、選挙をやる限りはムスリム同胞団が政権に就くことになる。それに既存のエリート集団、特に軍が危機感を抱いてある意味では住民を焚きつけてクーデターを起こし、ムルスィー政権を倒した。それで軍中心のスィースィー政権を作ったという流れがありました。

 中東から外に目を向けると、この構図はタイの事例によく似ていると思います。タイでは農村部に強い基盤を持つタクシン派が、選挙をやれば必ず勝ってしまう。これに既存のエリートである軍、官僚組織、ビジネス、それから王室とつながったグループがみんなつながって、タクシン政権を追い出し、その妹のインラック政権もクーデターで倒した。今は軍出身のリーダーが権威主義体制を敷いているわけです。もちろんタイとエジプトだと市民社会の浸透度はタイのほうがはるかに深いですから、それゆえに混乱も少なくて済んでいるとは思います。

 どういう社会環境のときに、持続的に選挙がきちんと行われるかを考えることはとても大事です。一つ言えるのは、ある程度組織化されたグループが複数なければ選挙を継続させることは難しいということです。そうした条件が整っていなければ、組織化されていないグループが危機感を覚えて結局選挙を阻止しようとする。ですから、国の中でどのくらい社会団体や組織化された利益団体が育っているかということは重要な要素だと思います。そういう意味では、エジプトの事例は中東だけの特殊事例に留まらないところがあると思います。ウクライナやバングラデシュを見ても、特定の利益団体間の力関係で選挙の結果が決まるということは、新しく民主体制を取り入れた国で見られて、それはおもしろい比較対象だと私は思います。

池内 アラブ諸国でアジアやラテンアメリカの国と比較しやすいのは、エジプトとチュニジアではないかと思います。その理由としては、この二国は国民国家の統合や市民社会の形成がそれなりに進んでいることが挙げられます。アラブの国家を他の地域と比較する場合は、他地域では当然とされている国家機構の形成、国民社会の統合という前提がなければ難しいと思うんですね。エジプトなどはファラオの時代から中央権力があると言われていて、歴史的にも国家が確立されている。政権はどんどん変わって異民族に支配される期間があっても、国家自体は大昔からあるという発想があります。「アラブ民族主義」といって、よその地域のアラブ人とアイデンティティを共有するという思想はあっても、実際には「自分たちはエジプト人である」という意識を強く持っています。同じことはチュニジアにも言えると思います。

 ただし、「例外」という言葉をあまり使ってはいけませんが、この二つの国はアラブ世界では典型事例ではないこともわかってきました。リビア、イエメン、シリアなどは国民統合がそんなに進んでいない。あるいは、そもそも国家というものがきちんと確立されていなかった。それは、内戦になったことからも明らかです。政権が弱体化すると、すぐに地方が独自に動き始めてしまう。アラブ世界の場合、こういう事例が非常に多い。これがアラブ人の文化的な特殊性で永遠に続く条件と言っていいのかどうかはわかりませんが、ここには歴史的な経緯が大きく影響していることは間違いないと思います。

 オスマン帝国の崩壊以後、この地域では百年近い時間をかけて国家形成、国民統合が進められてきましたが、それは独裁政治によって無理に行われてきました。ずいぶん長い時間を経ても、実際には社会のなかにある様々な集団や特定のエスニシティに帰属意識を持っていたわけです。権威主義体制のもとにいた彼らは、それを表現する機会がなかった。アラブの春を契機にそれが表出するようになる。リビアやシリアやイエメンは、それが内戦状態という形で現れているわけです。こうしたアラブ諸国の国ごとの違いは、おそらく国民統合と国家形成の歴史の違いによって大きな差が出ているのだと思います。考えてみれば、エジプトのように何千年も前から国家形成が進んでいた国家とつい百年前にそれが始まった国家とでは違いが出るのは当たり前かもしれません。

 このあたりのオスマン帝国の崩壊とその後の変遷については、最近私が書いた『サイクス=ピコ協定 百年の呪縛』でも解説しています。よく悪口を言われるように、1916年のサイクス=ピコ協定はオスマン帝国の領土分割に際して、きちんとした国をつくれるような線引きにはなっていなかった。しかし、1920年のセーブル条約のように民族ごとに線引きをしようとすると、無数の極小国家ができてしまって、そこにも民族問題が起きてしまう。

 結局1923年のローザンヌ条約で定式化されたように、中東の近代の国家体制はトルコが力を持って領土を可能な限り確保し、支配下のクルド人もギリシャ人もアルメニア人も制圧しました。一部では追放したり住民交換をしたりして、実力で支配して国民国家をつくった。アラブ諸国はイギリス、フランスとの関係が良かった勢力が力を持ってイラクやヨルダンやシリアなどを建国し、見せかけの国民統合を支配下の国民に受け入れさせてきたわけです。国家自体がきちんと確立されていませんから、政権が揺らぐ事態になるとその瞬間に国家が揺らぎ、国民社会も分裂してしまうことになる。アラブの春ではそういうことがいくつかの国で起きました。これらの事例は中東では多くのバリエーションとして現れましたが、他の地域ではあまり見られないパターンです。少なくとも同時代的にはあまりありません。

統治のカギは官僚制?

武内 独裁体制が機能する要因として挙げられるのが官僚制の存在ですね。中国の権威主義体制は、官僚制がうまく確立されてきたから続いていると考えることもできます。特に中国共産党が一党支配を維持できた背景には、非常に強固な官僚制の存在があります。中東諸国でも統治がそれなりに機能している国は、やはり官僚制が機能している国です。民主主義の国の例としてはトルコがあり、権威主義の国の例としてはイランがあります。両方とも、強固な官僚制度が確立されているという意味では中東で1、2を争うと言えると思うんです。ですから、統治が機能するかどうかは、民主主義か権威主義かはあまり関係がありません。実はこの議論は新しいものではなくて、サミュエル・ハンチントンが1968年に書いた本で「統治のカギは官僚制である」と指摘して、米国とソ連を同じ枠組みに入れたことがありました。当時は冷戦真っ盛りですから、米国とソ連を同じ政治的な仕組みの中に入れることはものすごくショッキングなアイディアだったわけです。けれども、確かに民主主義の米国も共産主義のソ連も官僚制が確立されているという点では共通しています。

 権威主義体制が強靭で持続性のあるものになるのか、それとも脆弱なものになるのかを分ける一つのポイントは官僚制にあるのだと思います。私が今注目しているのは、アラブ諸国のなかでは比較的うまくいっているとされるチュニジアが今後どうやって官僚制度をつくっていくのか、そして政治の意思決定をどのように制度化していくのかという点です。

池内 アラブ世界ではチュニジアが注目されることは少ないんですよね。小国であることもありますが、以前から文化的に欧州の影響を受けている。欧州の制度や理念をストレートに取り入れざるを得なかったし、混血も進んでいます。作られた伝統だとは思いますが、古代フェニキアの時代からの海洋民族であるという明らかに他のアラブ諸国の人たちとは違う認識がある。それから教育水準も非常に高い。官僚制度がきちんと機能するかどうかは別にして、それを担う人材がいることは確かです。逆にそうした人材の頭脳流出が盛んでもあります。

 今後チュニジアがどうなっていくのかは誰にも予想できませんが、いくつか好材料があります。先ほど組織化された社会団体の存在が選挙に与える影響についてお話がありましたが、チュニジアには市民社会の強さ、団体としての組織力があります。人権団体や労働組合あるいは弁護士組合などの職能団体も組織されています。2015年にはこうした社会団体の合議体「チュニジア国民対話カルテット」がノーベル平和賞をもらっています。

 こうした組織化はエジプトもかなり強いのですが、エジプトの場合は野党的な強さなんです。それに対してチュニジアの場合は与党的な強さです。そうした市民社会の成熟があって、それを担う中間層がいる。それが組織化されているのがチュニジアの特徴だと言えます。他のアラブ社会では見られませんから、そういう意味ではチュニジアだけが独走する事例になる可能性はありますね。

後継者の制度化に成功した中国

武内 アラブの春が起きた直後に『フォーリン・アフェアーズ』が中東の特集を組みました。そこでテキサスA&M大学教授のグレゴリー・ガウス先生が「米国の中東研究者はなぜアラブの春を見損なったのか」という疑問を投げかけていました。最初の池内先生のお話にもあったように、中東諸国の権威主義体制がいかに強靭であるかという議論が一般的で変化は当分訪れないだろうと見なされていました。その後、私はガウス先生と直接お話する機会があって、「これから中東研究者は何に注意すべきか?」と尋ねたことがあります。彼は「もう一度原点に立ち返って、中東でどのように統治が行われてきたのかを考えることが大事だ」と言っていました。

 中東地域のガバナンスの普遍性を見出す作業はこれから行われるという池内先生のお話もありましたが、中東をずっと見てきて、地域のニュアンスというものを感じとっていると思うんです。そうしたニュアンスを踏まえた上でこの地域の統治の特徴を考えたときに、どのような一時的な結論を導き出せるでしょうか?

池内 どんな状況になっても変わらない中東の特徴というのはあるのだと思います。問題はそれを何と呼ぶかです。これまでは、パトロン・クライアント関係(patron-client relationship)に基づく「個人支配」(personalized rule)と呼んだりしています。たとえば、フセインが独裁者だったとしても、一人で何でもできるわけではない。その体制は何らかの制度化はしているんですね。ただ、その制度化が非常に人的なもので、人間に依存している。人間の鎖でつながっているわけです。かなり西洋化されてリベラルなチュニジアも、よく見るとイスラーム主義側も旧体制側もそれぞれの政党に結集していますが、そのつながりをよく見ていくと根本は人のつながりなんですね。

 でも、やはり人同士のつながりなので時間軸による変遷の影響を強く受ける。年を取るとか、仲が悪くなるとか、キー・パーソンを刑務所に入れてしまうとか、そういう形でものすごく変動にさらされるわけです。こうした個人支配による制度化のようなものをどう捉えるのか。地域研究的な見方からすると、「中東というのは人間の力がすごく強いんだ」と言ってみたくもなりますし、そういう雰囲気は時々伝えなければならないのだと思います。こうした特徴は世界中どこにでもあると言えるのかもしれません。けれども、中東のガバナンスの今のところ見える特徴であり、もしかしたら普遍的な事象なのかもしれません。

武内 個人支配は代替わりが難しいというのは、権威主義体制にとって非常に重要な問題ですよね。それは中華人民共和国創設以来の課題です。王朝時代は、皇帝が普通は自分の息子に継がせていきます。1911年に辛亥革命が起きて中華民国ができましたが、中華民国は代替わりという問題の前に中国本土から追い出されてしまいました。

 毛沢東がずっと悩んでいたのが、この「誰を後継者にするか?」という問題です。最初に有力と見られたのが劉少奇でしたが、大躍進運動後の経済改革をめぐって毛沢東と対立し、その後文化大革命中に事実上殺されたような形になったわけです。劉少奇の後継者は林彪です。林彪は、文革中に毛沢東に対してクーダターを企てた、いわゆる林彪事件で失脚し、ソ連への逃亡を企てて乗った飛行機がモンゴルで墜落して亡くなりました。それがオフィシャルな見解です。実際には何が起こったのかはわかりません。

 その次に出てきたのが「四人組」ですが、毛沢東が死んで文革が終わった直後に華国鋒によって逮捕され、投獄され、そして江青などは自殺した。結局、毛沢東が死ぬ直前に選んだのが華国鋒でした。華国鋒は、本人そのものは能力のない人でした。逆に言えば、能力がないからこそ毛沢東が選んだところがある。華国鋒は自分に能力がないことをわかっていたので、「毛沢東のやってきたことをこれからもやる」と宣言したわけです。それを聞いた国民は「それだけはやめてくれ」という話になりました(笑)。

 それで、鄧小平が出てきた。華国鋒はある意味では自分の能力をよくわかっていた人で、鄧小平を復活させないと国が治まらないことを理解していたのだと思います。鄧小平が戻ってきたら自分はもう指導者ではいられないことはわかっていたにもかかわらず、鄧小平を戻しました。それで鄧小平が、党主席の肩書は持たずに「最高指導者」としての地位を確立していきます。しかし、鄧小平も後継者に悩むことになります。最初に候補になったのが胡耀邦です。ところが胡耀邦は、1987年に起こった学生による民主化運動のときに、鄧小平から「民主化運動に対して同情的すぎる」と批判を受け失脚します。そして趙紫陽が党主席の座を継ぎますが、趙紫陽もまた1989年の天安門事件で民主化運動に対して同情的過ぎるとして失脚した。ということで、江沢民が突然出てきます。

 ここまでは中国も後継者選びがまったく制度化されていませんでした。それを制度化したのが江沢民です。彼は、後継者と目された人が次々に失脚してきた中国の現代政治史をよくわかっていましたから、後継者選びの制度をきちんと確立させることが必要だと考えた。まず共産党大会を五年に一回必ず開催すること、そして国家主席を党主席が兼務する指導者のポジションとして規定し、そこに任期制を取り入れました。二期十年と任期を限ったわけです。その通りに実行するのかなと世界は注目していましたが、2002年に一応国家主席を胡錦濤に譲り、かなり激しい権力闘争はあったものの、中国では初めての平和的な指導者の交代になった。自身の指導力を確立できなかった胡錦濤も紆余曲折はありましたが、かつての混乱に比べるとはるかにスムーズに今の習近平に政権を移行しました。今後どうなるのかはわかりませんが、少なくとも後継者選びが制度化されてきたと言えます。そういう意味では、代替わりの制度化は独裁体制が続いていくための大事な要素になると思います。

池内 中国が激しい権力闘争を行いながらもある段階で指導者の交代を制度化できたことは、世界史的に見ても稀ですね。終身化はラテンアメリカや中央アジアなどをはじめ世界各地で見られます。二期八年や十年と制度上は決まっているのに、独裁者の任期が切れる頃になると国民投票をやって憲法を改正するなどして任期を延長する。そうして任期を伸ばしている間に世襲化しようとする。世襲化がうまく行かないと政権が倒れる。だから、他の権威主義体制に対して「中国を真似すべき」とはなかなか言えないですが──学者の間ではよく冗談で言っていますが──独裁者がいなくなった後には必ず混乱が起こる。

武内 中国人は時々、「朝鮮戦争の最大の功績は毛沢東の子どもが死んでくれたことだ」と言いますね。半分冗談で半分本気だと思うんですが、中国にとっては幸運だったとも言えます。その意味では北朝鮮とは違います。中国の共産党一党支配はいつまでももたないだろうと言われていたにもかかわらず、今に至るまで存続している理由の一つは、やはり後継者の問題も含めて制度化を進めることができたことにあるのだと思いますね。

イラクの民主化はなぜ失敗したのか?

武内 米国はイラクのことをよくわかっていないのに、とにかくフセインを追い出して、そこに民主主義を導入すればあとは何とかなるだろうという楽観的なところがありました。しかし、結果的にはイラクは大混乱に陥ったわけです。私はブッシュの見通しが甘かったこと自体は事実だと思うんです。けれどもそこで終わりにせずに、なぜイラクでのステート・ビルディングがうまくいかなかったのか、民主化の成功と失敗について丁寧に見ていくことは意義があります。

 米国は、フセイン政権を倒した後のイラクに連邦制を取り入れました。イラクにはシーア派、スンナ派、クルド人などの対立がある。シーア派とスンナ派のどちらが多数かという人口動態は簡単には変わりませんから、多数決で選挙をやると常にシーア派が勝つことになります。それを是正するために連邦制を導入するというのが結論でした。私はその結論は良かったと思うんです。イラクで民主主義が機能するとしたら、連邦制は必要条件でした。ただし、連邦制の議会は二院制でなければ機能しません。米国も上院と下院からなる二院制ですが、下院は人口に基づいた選挙区で代表を選出し、上院は人口の多寡に基づかない代表を選出しています。

 私は、イラクで連邦制を機能させるためにはきちんとした二院制が必要だったと考えています。イラクでは上院に似た機能を持つ大統領評議会が設置されましたが、マリキ政権は任期中にこの評議会のメンバーでスンナ派の代表だった副大統領を解任し、なおかつ逮捕状を出しました。いわばシーア派独裁という体制をつくってしまったわけです。ここは大きな転換点だったと思います。

池内 大統領評議会は、選挙を経ずに選出された宗派や民族を代表する副大統領が何人かいて、慣行上は全会一致にしないといけないから拒否権を持っています。ですから、上院の機能を単純化したようなものになり得たんですが、実際には権限を持っていないんですね。それで、司法・行政と警察権限を掌握している首相が副大統領を逮捕しようとする事態が起きました。この事件はイラクの統治がうまくいかなくなる、まさにターニング・ポイントだったと思います。

 逮捕状が出て逃げるときには、露骨にクルド人の地域に逃げるんですね。クルド人の地域は連邦の自治を法的にも実態的にも獲得していますから、中央政府の警察も追ってこない。与党にはスンナ派の指導者もいますが、実力がない人ばかりが入るんです。実力者に対しては「テロの元締めだ」と言いがかりをつけて追い出してしまう。イラクの事例は、やはり制度のあり方と運用の失敗として刻むべきだと思うんですよね。

 連邦制というのは、これから重要なキーワードになっていくと私も思います。先ほどサイクス=ピコ協定の話が出ましたが、オスマン帝国が統治していた領域は元々ウィーン近辺にまで及んでいて、ハンガリーや旧ユーゴスラビアも統治していました。オスマン帝国が崩壊した後に国民国家をつくるという百年間の作業は結局上手くいかなかったわけですが、先行するように90年代にはユーゴスラビアで民族紛争になってしまった。ユーゴ紛争は、実際は宗教コミュニティ戦争ですよね。人種的にはほとんど同じような人が住んでいましたが、カトリック、ギリシャ正教、イスラーム教で実際にはエスニシティが違っていた。それが冷戦崩壊後にソ連の重しが効かなくなったときに対立が先鋭化して、噴き出してしまった。

 同じようにアラブ世界で国民社会が分裂してしまっているのは、実は同じかつてのオスマン帝国の支配地域なんです。この地域には宗教、宗派、あるいは民族によって実際には帰属意識が違っていた人たちが住んでいましたが、そこにイデオロギーとしてアラブ民族主義を被せたわけです。言語もアラビア語を使うと。ですから、クルド人であってもクルド語を使うことはほとんど許されていませんでした。イラク北部で自治が確立した90年代からはクルド語が使えるようになったので、今の若い世代はクルド語ばかりを使っています。シリア北部でも、アサド政権が揺らぐと自治が進んでクルド語を露骨に使うようになっているようです。これは本来あり得なかったことだったんです。

 中東の場合はユーゴと違って、冷戦の重しで抑えられていたわけではないんです。50年代、60年代に国民統合を進めたときには、各国がそれぞれにアラブ民族主義を掲げました。先行したトルコの民族主義的国民国家建設を真似して、住人はみんなアラブ人ということにしてしまったんです。それで、クルド人もアラビア語を話すことを強制されたわけです。別にクルド人の存在を否定するわけではないんだけど、すべてアラビア語を使わせて国民統合しようとしました。クルド人もキリスト教徒も表面上はアラブ文明に根ざしたアラブ諸国の国民として振る舞っていましたが、実は本気ではなくフリをしていただけでした。ですから、2003年のフセイン政権の崩壊や11年のシリアのアサド政権の揺らぎのような大変動が起きると、それまで装っていた仮の姿をやめて本来の姿に戻ろうとする。

 こうした国際環境の中では、これまで連邦制はタブーでした。アラブ民族主義の中では、現実的には社会が多様であることはみんな知っています。だから「連邦制」と言った瞬間、「それは分離主義だ」ということになります。アラブ諸国に連邦主義を持ち込んだら国が分裂することがわかっているわけです。民族・宗派ごとに連邦自治区を主張し、いずれは独立するに決まっていると。だから誰も言わなかった。ですから、91年以後にクルド人が居住していた地域が自治化して──あくまでも米国が飛行禁止区域を設けて強制したから実現したわけですが──それがイラクの憲法でも認められた2005年は画期的だったんです。

 今のシリア情勢を見ると、やはりこの地域は連邦制以外の仕組みではそんなに簡単には統治できないのかもしれません。しかし、制度設計によっては連邦制はとめどなく民族・宗派による分裂が進み、より悲惨な事態を引き起こす可能性も頭に入れておかなければなりませんね。連邦制は民族主義の観点からすればこれまでは絶対にタブーでしたが、一つひとつ崩れていって気がついたらアラブ地域でも連邦制が標準になっていくのではないかと思います。

権威主義体制下における経済活動

池内 次に、グローバリゼーションと権威主義体制下における経済活動との関連についてテーマを移したいと思います。中国共産党の幹部が親族や子弟を海外に住まわせて、そこへ不正な送金をして蓄財をしているのではないかという報道がなされています。本当かウソかはわかりませんが、その額は我々が想像もできないような規模ですね。

武内 不正の送金というのは、権威主義体制とグローバル経済の関係を考える上で興味深い切り口になると思います。結局、中国人は自国政府が作った私有財産保護の制度を信用していないんですね。「いつか国家は自分たちの財産を召し上げるのではないか」という不安を強く持っています。だから、移せる資産はみんな国外に移してしまおうというインセンティブがすごくある。独裁国家は、自分の財産を国家が守ってくれるという信頼を確立することが、実はとても難しいんですね。そこが民主主義の国家との大きな違いでもある。

池内 中国は、政治面では権威主義体制の制度化を着々と進めてきました。けれども、経済面ではいろいろな綻びが見えています。海外への不正送金などは、表では見えない裏の部分ではまったく違う動きをしているようにも見える。そのあたりの問題はたとえばパナマ文書やスノーデン事件なども含めて、裏の世界を暴露する動きとして出ていますが、こうした動きが今後どうなるのかは注目ですね。

 今おっしゃったように自らの富を国が守ってくれるかどうかという意味では、民主主義のほうがより信頼はあります。けれども、民主主義でも税金を取られたくない自国から逃げるという現象もある。逆に言えば、権威主義のもとで政治的には不自由であったとしても、経済は活発に動いている例は中東にもたくさんあります。中国の人たちも政治的には不自由だけど、日常の経済活動は自由にやっているように見える。国と関わる経済とは別の経済の論理があって、そこで法をすり抜けることも含めた自由な活動が行われるのであれば、政治はどうでもいいのかもしれません。大多数の中国人は「本当の人生」をグローバル経済の中で生きていて、国内政治には無関心なのかもしれませんね。グローバル経済に中国経済が一層組み込まれていく状況の中で政治体制は安定するのかしないのか。今後の中国を考える上で大事なポイントであるように思います。

 今日は中東諸国のバリエーションについて話をしてきましたが、中東の特徴としてはものすごく大きな富を持つ国が存在していることがあります。しかも、産業化していない産油国が経済的には非常に繁栄しているわけです。しかし、その政治体制は独裁の極地です。国自体が特定の家族の私有財産のように運営されています。それでも、国内は安定しているように見える。しかし私有財産が中途半端な規模だと、かえって不安定化の要因になるところがある。シリアのアサド政権くらいの規模では一部の人間にしか利益供与もできませんから、膨大な取り残された市民の中から反対勢力が出てくるわけです。

 そうではなくて王族の側が資源を100%私有財産として持っていて、それをある程度国民の側に分けている状況では国民もあまり文句は言いません。アラブ首長国連邦のドバイやアブダビあるいはカタールのように、巨大な資産を持つ株式非公開の多国籍企業の社員のような扱いを国民が受けているケースです。政治的な権利はないけど、経済的な分配はされています。ドバイなどは、グローバル経済のなかでうまくやっていけるような仕組みを行政が整えてくれています。ドバイの人たちは市民権を持っているから、ドバイで非常に有利にグローバル経済に参加できる。欧州人を顧問にして、日本人をエンジニアに雇ったり、フィリピン人を召使いにしたりしながら、ドバイの人たちが一番儲かるようになっている。だから明らかに国家は必要なわけです。ただし、少なくとも今のところは、国の政治には関与したいという気持ちはあまり起きないのかもしれない。そうなると、国民に権利がほとんどなくても、独裁国家の雇われ人になったほうがずっと安定するのかもしれません。

キャピタリスト・ピース

武内 これは本質的な問題を五つくらい混ぜた問いですね(笑)。それぞれが十分なものにはならないと思いますが、一つひとつ考えていきたいと思います。まずはグローバリゼーションの歴史を振り返ってみたいと思います。

 私が中東に興味を持ったのは、1978年から80年まで子ども時代をサウジアラビアで過ごしたということがあります。ちょうどイラン革命があったときですが、79年を境にサウジでも社会がむしろ保守化していった様子を見てきました。

 あの当時に世界中の人に「中国とサウジのどちらが21世紀経済のリーダーになり得るか」という質問をしたら、おそらく多くの人はサウジと答えたと思うんです。当時サウジは、石油収入の独占に成功してふんだんにお金がありました。開発経済学によれば、経済発展の1つのカギはインフラ整備にあります。発展途上国はどこもインフラを整備したいわけですが、お金がないために発展速度が鈍い。ところがサウジはお金のある発展途上国ですから、インフラにお金をかければ自律的に経済は発展するだろうと考えられた。中東産油国は、21世紀の世界経済をリードするようになっていくのではないかというバラ色の未来への期待が現実に存在しました。

 翻って中国は、文化大革命の混乱が10年にわたって続き、新しく鄧小平が指導者にはなったものの最初は権力基盤も脆弱で、80年代を通して権力闘争をしていました。「毛沢東時代の計画経済に戻るんだ」という人たちを押さえ込んで市場経済へ舵を切ったわけですが、それがうまくいく保証はまったくありませんでした。けれども、その後何が起きたのか。「21世紀は中国の時代」とまでは言いませんが、世界経済をリードする国の一つであることは間違いありません。しかし、3、40年前は必ずしもそれは明らかではなかったわけです。

 冒頭で90年代の中東和平を推進するにあたり、「デモクラティック・ピース」という考えが根底にあったというお話がありましたが、政治学のもう一つの大きな考え方に、「コマーシャル・リベラリズム」があります。盛んに貿易している国同士は、なかなか戦争は起こらないという理論です。貿易相手国と戦争する理由はないはずだという考え方で、理論としては単純ですが説得力があります。ただし、実証的に見ると必ずしもそうだとは言えないところもある。貿易相手国と貿易上の利害をめぐって対立することもあるかもしれませんし、一番問題になるのは貿易しているから平和なのか、平和だから貿易が増えたのかがわからないことです。実際はその両方だと思います。

 コマーシャル・リベラリズムは、同時に「キャピタリスト・ピース」とも呼ばれています。その地域に平和が確立されているときに、それは民主主義が原因なのか、それとも資本主義が原因なのかという議論があります。テキサス大学教授のパトリック・マクドナルド教授が2009年に出版した本で、この問題について洗練された議論を展開しています。ちょうどイラク戦争が行き詰まっているころです。彼はその著作で「なぜ資本主義国同士は戦争をしないのか?」という問いかけをしています。市場経済の制度を持った国ほど対外政策は平和的であることは実証されていて、彼はデモクラティック・ピースに基づいてイラク戦争が始まったが、「あれはキャピタリスト・ピースであるべきだった」と言っています。つまり、資本主義が根づいていない国に平和をもたらすことは難しい、まずは私有財産を保護する制度を確立することが必要であるという議論を展開しました。どういうことかと言うと、私有財産を守る制度が確立されていると国民の側が政府に対して強い立場に立てるようになります。国民は戦争で財産を失ったり、ましてや生命を失ったりすることは嫌なので戦争に反対します。そうした市場経済のアクターによるプレッシャーを受けて、政府は戦争をしにくくなります。ゆえに資本主義を支える上での市場経済の制度、特に私有財産制度が確立されている国は戦争をしない傾向にあるという議論です。

 コマーシャル・リベラリズムへの反論としてよく出てくるのが第一次世界大戦です。当時もグローバリゼーションの時代で英国、フランス、ドイツは経済的につながっていて貿易量も増えていました。にもかかわらず、戦争は起きた。だから、貿易が平和をもたらすわけではない。しかし経済情勢を丁寧に見ていくと、当時は保護主義が台頭していたんです。今の時代に似たところがありますね。グローバリゼーションの敗者がきちんと救済されずに、国内に不満が溜まっている状況が続いていました。ヨーロッパ諸国では国民の政治参加が進んでいましたから、ポピュリスト的に保護主義への圧力が高まったわけです。それでも貿易量は増えていました。なぜかと言えば、そこに技術進歩があったからです。輸送コストが大幅に下がったために、全体の貿易量は増えていたんですね。実際には保護主義が高まっていたのに、グローバリゼーションが進展しているように感じられたわけです。

 民主主義と平和には直接的な関係はあまりありません。ですから、民主主義を入れれば平和になるわけじゃない。ただし、民主主義のほうが私有財産の保護を確立することはやさしく、マクドナルド先生の議論にあるように、私有財産を保護する制度を確立している国は戦争をしにくくなります。そういう意味で、民主主義と平和にそれなりに相関関係があると言えるのではないかと思います。

制度化された独裁

武内 それでは今日のテーマである独裁国家に引きつけて、権威主義体制における私有財産の保護について考えてみたいと思います。中国の指導者が一貫して追求してきたのは、共産党の一党支配を継続することです。鄧小平が毛沢東と決定的に違ったのは、計画経済を続けていたら一党支配がもたないと考えたことです。鄧小平の頭の中には民主主義などということはまったくなく、共産党支配を続けるためには経済発展が必要で、経済発展のためには市場経済が必要だと判断した。市場経済を機能させるには私有財産の保護をはじめとする市場経済を支える制度が必要になりますが、中国はそうした諸々の制度を整備してきました。それが機能してきたがゆえに経済は発展し、グローバリゼーションの恩恵も受けた。そして、最大の目的である共産党による一党支配も維持されています。

 今この時点で考えてみたいのは、「国民は中国政府による私有財産保護の制度をどの程度信用しているのか?」という問題です。この問いかけは「国家が私有財産を没収するのではないか?」という心配と裏返しになっているわけですが、私は一党支配を維持しながらこの懸念を払拭することは非常に難しいと考えています。自分たちが選挙で選んだ代表は有権者たちの財産を没収したりはしないだろうというのが国民の期待です。けれども、選挙制度がない独裁体制のもとでは、そうした期待を政府が得ることはそもそも難しい。

 制度というのはとても社会的な概念なんです。制度が法律として書かれてしまえばそれで制度が機能するわけではありません。制度が正式に確立されて、それを人々が信用することによって初めて意味を持ちます。それでは、人々の信用はどのようにして生み出されるのでしょうか。それは、他の人々もその制度を信用しているから自分も信用するわけです。それでは、他の人々がどうやったら信用するのか。それは、他の人々が信用しているから信用するんですね。こういう堂々めぐりみたいな話なんです。

 制度に対する信用を生み出すには、選挙によって正統性を得るのが最も説得力があります。けれども、中国共産党は選挙というメカニズムを使えませんから、とても難しいことをやろうとしている。そうは言っても中国は、一党支配のもとで市場経済に転換していき、それなりに市場経済に不可欠な制度を何とか確立し、機能させてきました。

 そういうシナリオがさらに成り立ちにくいのが中東諸国です。一つは産油国の問題です。産油国のリーダーは、市場経済を機能させるインセンティブをあまり持っていません。独裁者が国に市場経済を取り入れるインセンティブがあるとすれば、それは体制の維持に経済発展が必要だからです。別に独裁者は、国民に豊かになって欲しいと心から思っているわけではありません。国民が豊かになろうが貧しかろうが、独裁者にとってはどうでもいいんですが、体制を維持するためには税金を徴収する必要がある。なぜお金が必要なのかと言えば、自身が豊かに暮らしたいというのもあるのでしょうが、それ以上に反乱を起こしそうな人を手懐ける必要があるわけです。それに一番効果的なのはお金を配ることです。サウジアラビアなどの産油国が機能しているのは、天然資源による収入がたくさんあるので、それを配ればみんながハッピーだからです。富を配ってくれる体制に対して、民主化を要求して倒そうなどというインセンティブは働きません。

 その国に天然資源がなければ、独裁者は国内経済を発展させて税金を徴収する必要が出てきます。韓国の朴正煕政権は60年代から70年代にかけて経済発展のためにインフラ整備をし、経済発展に資する政策を次々に打ち出しました。政権からすれば、資本主義経済が機能しなければ体制を維持できないという危機感があったのだと思います。

 経済制度を整備すると二つのことが起こります。一つは先ほども説明しましたが、国民が経済的に力を持ってその国は戦争をしにくくなります。市場経済制度の整備によって、その国の外交政策が協調的になる。それから、国民がそれなりに力を得ますから民主化に向かいやすくなります。ここは重要なポイントだと思います。経済制度の整備と政治制度の整備には相関関係があるわけですが、タイムラグもあります。市場経済を支える制度を整備できた国は、民主化したときに民主化に必要な政治制度の整備も比較的スムーズに行うことができます。ただ興味深いのは、市場経済制度の整備は、独裁体制を支える政治制度を強化するのにも役立つという面があることです。つまり、「制度化された独裁」を確立するのにも役立つ。

 前者のシナリオを辿ったのが韓国であり、今のところ後者のシナリオを辿っているのが中国です。中国は経済制度が整備されたことで政治制度も整備され、制度化された独裁体制として国が回っている。ただ現在の習近平政権はこれまでの政治と経済の制度化を否定しているようなところがあり、これから中国の独裁体制の安定性にどのような影響が出てくるか注視しています。一方で韓国は経済制度ならびに政治制度の強化によって国民が力を持って、民主化へ向かいました。そのプロセスを見ると、これまでの他の地域の民主化の経験と比べても非常にスムーズだったと言うことができます。やはり、長年の市場経済の経験が民主主義体制の制度整備にも役に立ったのでしょう。

 中東の産油国に話を戻すと、独裁者は税金を徴収しなくても体制を維持できるところに大きな特徴があります。そうすると、経済発展のために市場経済の制度化を進めようというインセンティブは働きにくい。政治学の知見でも、天然資源を持っている国ほど税制をはじめとする市場経済制度の整備が遅れる傾向があります。

ヨルダン株式会社のCEO、主要な産業は援助獲得

池内 中東の特殊性の一つはやはり富が偏在していて、特定の権力者の手に最初からあるということですね。「課税なくして代表なし」と言いますが、入口からして課税する必要がないというのは、かなり特殊でそれが大きな影響を及ぼしている。湾岸産油国の富は自国の国民だけではなく、エジプトやヨルダンそしてシリアなどの天然資源に乏しい国の政治体制にも強く影響を及ぼしています。そうした地政学的重要性のある国に対しては、いろいろな形で援助が入る仕組みがあります。極端な例では、反体制側の勢力にやたらとお金が入る。そして、その目的は極端に限定されています。つまり「内戦をしなさい」ということです。根本的な福利や民生からすれば、まったくそれに反する紐付きの援助です。冷戦時代は抑制が効いていて紛争が極端に拡大することはありませんでしたが、今はむしろ盛大に内戦を続けさせるような形で援助が入っています。援助が開発や発展を助けるのではなく、援助による戦争の持続という負のスパイラルに陥っている。

武内 援助は独裁体制を延命させるのに大きな役割を果たすわけですよね。米国の最大の援助先はエジプトです。地政学的要因でそうなったわけですが、これが結局エジプトの独裁体制を長く延命させる大きな要因だったと言えます。エジプトがアラブの春で民主化したことを米国は歓迎しましたが、その後一層独裁的なスィースィー政権に戻った。だからと言ってすぐに援助をやめるわけにはいきません。スィースィー政権は足下をきちんと見ている。

 アフリカ諸国を見ると、特に冷戦時代にはとんでもない独裁体制が援助によって生き延びました。米国が援助をやめると今度はソ連が援助をしました。独裁者からすればどちらからの援助であっても同じですからね。困っている国を助けることは人道的には良いことだとされますが、援助には副作用もあります。

池内 援助に関して言えば、一番スマートな例はヨルダンだと思います。ヨルダンは王様が援助の受け皿になっています。ヨルダン王室は預言者のムハンマドの子孫であるハーシム家という正統性があります。もともとアラビア半島のメッカ、メディナを支配していたのがハーシム家ですが、それがサウド家に軍事的に追い出された。英国は、第一次世界大戦中にオスマン帝国に対して「アラブの反乱」を行ったという正統性と秩序の形成に高貴な血筋は利用価値があるので、イラクとヨルダンをハーシム家に託したわけです。イラクでは1958年に革命がありましたが、ヨルダンはハーシム家による統治が続いています。

 ヨルダンには天然資源がほとんどありません。そのため、王様は世界中を駆け回って援助をかき集めているんです。その援助を使って、対テロ戦争に強い、よく訓練された特殊部隊を組織しています。ヨルダンの質の高い特殊部隊は中東各国が特殊部隊をつくるときに教官のような役割を担っています。他の中東諸国にインストラクターのような形で派遣されていて、それが稼ぎになっています。

 それから、技術あるいは能力の援助を受けて鍛えられた国民が中東で仲介者としても活躍しています。たとえば、独裁の国がちょっと民主化したときなど、破綻しかけている国の治安部門の改革や設計を行う際のコンサルタントのような役割を引き受けているんです。つまり、ヨルダンは人が資源となっていて、その上に王様が君臨しているわけです。私はヨルダンの王様がテレビに出て来ると「国王」というより「CEO」という紹介文が書いてあるような気になりますね。「ヨルダン株式会社のCEO、主要な産業は援助獲得」と(笑)。

 そうして獲得した援助を国民にバラまくのですが、当然そこには教育などにも投資しているので、国民の質は高い。国民の多くがパレスチナ難民であったりするので、彼らは個人的にも教育に投資をします。教育は持って逃げられるから。ですから、ヨルダンではお金と国民のニーズをマッチングさせているわけです。かなり独裁的だと言われながらも、国民はそんなに反乱を起こさない。別に国王を好きではないのかもしれませんが。そういう形でヨルダンの場合は、独裁者が市場経済を発展させてそこから税金をとるのではなくて、逆に王様が国外からお金を取ってくるわけです。

武内 援助と天然資源賦存というのは似た側面があって、大事なのはその受け皿なんですよね。受け皿が一つに確立されていないと取り合いになって、対立が悪化して内戦につながることもある。独裁者が倒れた後に民主化する場合にしても、その時に一番難しいのは便益をどのように配分するかです。選挙をするにしても、それはつまり便益の取り合いをめぐる選挙になってしまう。それは対立が解消されたわけでも、政治制度が確立されたわけでも、経済制度が確立されたわけでもない。そういう状況で選挙をやると、ただ単に対立が先鋭化します。選挙に負けたほうは永遠に便益を取れなくなるので、違う手段に訴えようとまた内戦になったりする。

 アフリカ西部にあるリベリアはおもしろい事例です。リベリアは冷戦期に米国から多くの援助をもらっていました。米国が援助していた最大の理由は、リベリアを西側陣営に引きつけておかないとソ連のほうに寝返ってしまうと懸念したわけです。リベリアはタンカーに対する規制を緩くしているんです。それで西側の国はリベリア船籍のタンカーがすごく多い。今でも世界中にありますね。そうした事情もあってリベリアは西側にいてもらわないと困る。

 ところが援助の受け皿となったリベリアの大統領というのがとんでもない独裁者でした。冷戦が終わって、リベリアがソ連に取られることがなくなったので援助をやめたら独裁政権が倒れた。独裁政権が倒れただけならば良いことのように聞こえますが、問題は独裁政権が蓄えていた富が配分されなかったことにあります。政権を倒したほうは、独裁者を半ば拷問して、「どこに財産を隠したんだ?」と追及しましたが、口を割らなかった。結局どこにあるのかわからなかったので、富は分配されなかったんです。それで、「それなりに強いが、それなりに弱い」グループが乱立することになって内戦が始まりました。内戦が終結し、曲がりなりにも民主的な体制になるまでにはすごく時間がかかりました。援助にしても資源にしても、誰かが独占できないと体制の不安定化につながります。資源の独占というと悪いことのように聞こえますが、実は一元化されたほうが国の統治としてはそれなりに機能する場合もある。

 1970年以前の石油収入が欧米のセブン・シスターズなどの資本に独占されていて現地の勢力に資源の便益が行っていなかったときのほうが、中東の政治体制は自由でしたね。ところが、国が天然資源に対するアクセスを持つようになってから独裁が強化されたところはある。

「わたくし化」される公的な制度

池内 当時は植民地主義への批判という意味から「民衆に力が移った」と主張されましたが、実際には君主制、共和制の違いがあっても、いずれにせよ一元的にかつて植民地主義者が抑えていた便益が政権に移管されたわけです。たとえば、アラムコがサウジ・アラムコになったように。

 その際に革命をやらなければならないケースもありました。エジプトやイラクを見ると共産主義陣営に属するつもりはないんですが、政権を奪った側はいわゆるアラブ社会主義という不思議なイデオロギーを掲げました。この両国では世襲王朝が続いた過程で、外の植民地主義者とつながっていた人たち、あるいは外国人そのものといった人たちが多くの財産を持つようになっていました。そして、それらを「民衆に渡せ」と主張したわけです。しかし実際は、それらの財産は政権が取り、国有化します。実力で有無を言わせず私有財産を放棄させて国有化したんですね。

 そのときに、「社会主義なんだ、資源の国有化だ」ということを理由に掲げました。ただし、実態としては民族主義が色濃く出ました。中東においては、資本家的な人はユダヤ人やギリシャ系が多かった。国によってはアルメニア系も多くいました。近代が始まったときにキリスト教系やユダヤ系のほうがグローバルな資本主義に結びつくのに有利な立場にあったわけです。イスラエルの建国に対して、アラブ諸国ではユダヤ人は外国人だから出て行けということになり、二束三文で資産を売って出て行きました。同じようにトルコではアルメニア人が出て行った。虐殺が起きて、それを避けるために出て行ったケースもあります。お金を持っているから、あるいは外国人であるからという理由で排斥され、財産を取り上げられた。

 こうして財産を国有化したわけですが、スローガンでは「民衆に配る」という建前だったのが、実は配っていないということに国民は気がつきます。さらには終身制にしたり、世襲化したりして、結局は独裁者や軍など特定の勢力、特定の宗派集団のネットワークなどに優先的に分配される私有財産になっているということを、何十年もかけて人々は認識することになる。それに気がつくと、制度を信用しなくなる。人々は、税金を払うことがむしろ倫理的に悪だと感じるようになります。たとえば、正規ルートでドルに替えることを、「これは犯罪だ」と言ったりします。実態とかけ離れた公定レートを政府が強制することが、公益のためではなく、単に特定の個人が他人から物を盗んでいるように見えるわけです。無理矢理低いレートで替えさせられるものだと。つまり、国が作る制度というのは公の制度ではなくて、国に巣食っている個人がやりたいようにやるための仕組みだと認識するようになるんです。自分がその中にいるときはそれを享受しますが、外に出るとその制度は個人的なものに過ぎないと考える。立場が変わると制度を信じなくなるわけです。

 社会主義の理屈を掲げていたので、政権もそれなりにやって見せねばならず、たとえばアパートなどを配っていたんですね。住民は月に数百円程度の格安の家賃を払い続けていて、その不動産は絶対に返さないわけです。そういう意味では、人々は一方では公の制度を享受しているわけです。「公的な制度だから使っている」と言いつつ、うまく利用して「わたくし化」してしまっているわけです。けれどもそこに格差が出てくると、政権の中枢が大規模に「わたくし化」していると人々は認識するようになって、政権への信頼が著しく低下します。みんなが寄ってたかって制度を利用しているので、体制は安定しているように見えたんです。ただし、それは不当に得をする人がいる制度であって、自分が得をするときは使う。あるときに「自分は得をしないな」とか、あるいは「基本的に不正義だな」と多くの人が感じるようになると、2011年のように人々は一気に政権を倒す側に回ることになる。

 ですから、制度自体は積み重なってきたんですが、きちんと制度化されてこなかった。それが中東の特色です。それは特異な環境ですよね。50年代、60年代に脱植民地主義化する際に民族主義化して、一時的にですが、誰一人信じていない社会主義を掲げました。それは力、富を一元化して国民国家をつくるためにも必要だった。それで一定程度安定しましたが、そんなふうにできあがった制度を公的なものだとは誰も本当は認めていなかったわけです。

米国とイランの核合意がもたらすインパクト

武内 今日は主に中東地域ではアラブ諸国が話題の中心でしたが、最後にイランについて考えてみたいと思います。米国とイランの核合意は、過去50年の国際政治の中ではニクソン訪中に次ぐくらいの長期的なインパクトを持つ出来事だと思っています。今、中東地域は不安定化してきていますが、イランは結構安定しています。それから、他の中東諸国に比べて官僚制が整備されている。その意味ではハンチントンの言う「官僚制によって統治が機能している国」に入るわけです。ですから、中国とも似ていると私は思います。

 イランが米国に敵対するのは国是のようなものになっていますね。『ニューヨーク・タイムズ』のコラムニストのトーマス・フリードマンがイランに行ったときに泊まったホテルで、反米スローガンが旗みたいに貼ってあるのではなくて壁に埋め込まれていたと言うんです(笑)。これはイランの反米の姿勢を象徴していますよね。まともな人はそれが時代遅れだとわかっているんだけど、埋め込まれているから簡単には外せない。

 イランの軍隊組織の一つである革命防衛隊は、諸悪の根源のように言われています。革命防衛隊はイデオロギー的には原理主義的で反米で、今回の核合意にも反対をしています。ただ、中東に詳しい米国の友人によれば、革命防衛隊が核合意に反対している最大の理由は経済にあると。彼らは金融、貿易、建設などを抑えていますが、核合意が機能して外資が入ってくるとそうした自分たちの既得権益が奪われることになる。それが嫌で反対しているのであって、別にイデオロギーの問題ではないというわけです。

 独裁体制内で生まれた既得権益というのは、やっかいなところがあります。既得権益が経済の発展なり市場経済が円滑に機能することの妨げになるわけです。なおかつ、既得権益を持っている人たちはグローバル経済と交わることに反対することが多い。自分たちの既得権益が侵害されると考えますからね。結果的に彼らが何を持ち出してくるかというとナショナリズムです。私は、ナショナリズムが盛り上がっているときは、それを文字通りにはとらえないで、背後にある経済的な既得権益構造を見るようにしています。それでかなりの程度説明できるんですよね。

 中国の国有企業改革にしても、国家資本主義に既得権益を持っているグループがナショナリズムを動員して政権の協調的な外交を妨げている。革命防衛隊が反米の姿勢をとって、イランが協調的な外交政策に舵を切っていくことを妨げているのも似た構図だと思うんですよね。それをどう乗り越えていくかは、イランが国際社会に復帰していく上で大きな課題になると思います。

 中国もイランも権威主義体制ですが、独裁を維持することは国の大方針なわけですよね。そのために経済を発展させるインセンティブはもちろんありますが、既得権益を作り出すことで独裁体制を維持してきたところがあるのでそこで自己矛盾を来たすわけです。それをどのように処理していくかは、グローバル経済のもとでの独裁体制の運営を考えていく上で非常に示唆に富む事例です。

池内 確かにイランは中東地域では安定していて、トルコよりも安全なように感じます。ただし、イランは情報を制限していますからインターネットはほとんどつながらない。グローバル化の中で閉じていることで安定がもたらされている国ですね。ほどほどに豊かで、形骸化したスローガンを一応叫んでいますが、本気ではないので紛争になる感じではない。けれども、これからもそれでもつのかというと、最終的にはもたないのだと思います。よく見ると、イラン人はなんだかんだ反米だと言いながら、できるとなるとさっさと移民しています。別に体制を倒す気はないのだけど、国内にいても機会がないので出ていってしまう。既得権益だけを守って国がスカスカになっていく一方ならば、どこかで開かないといけなくなる。安定を維持したまま国を開くという問題にイランは直面することになる。

環紅海国家としての動きを進めるサウジアラビア

武内 開かなくても不安定化するのであれば開いてしまおうというインセンティブが働くかもしれないですね。独裁国家がグローバル経済に入ることによるリスクはありますが、入らなくても独裁体制が倒れてしまうというリスクもある。そういう計算の上でグローバル経済に入っていったのが、過去30年の中国の歴史です。ベトナムもそうですね。そして、ミャンマーがそのベトナムを追いかけている。北朝鮮くらい閉じてしまうと、外に経済を開いた瞬間に体制が崩壊してしまうというコンセンサスができているからグローバル経済に入っていく兆しが見られない。それは極端な例ですけどね。そういう意味では、イランはターニング・ポイントにいます。イランは79年の革命時の特殊事情があって反米感情が埋め込まれていますから、経済的な計算だけでは反米をやめるわけにはいきません。それでもやはり経済のファンダメンタルがある国ですから、これから安定した経路を辿ってグローバル経済に入ってくると期待しています。

 最後に、私がいま最も興味を持っていることなんですが、そういうイランの姿を見て、他の中東諸国はどう思いますかね。地域大国と呼ばれてきたサウジアラビアやエジプトなどは、ゆっくりではあるけど着実なイランの変化を見て、どういう戦略を考えるのか。

池内 当然、われわれが考えるよりもはるかに敏感に感じているんだと思います。ただし、イランは今のところは核合意を受けて変わったところは少ない。でも、十年経ったらずいぶん変わっているはずです。しかし、ドバイやアブダビの首長のように、グローバル経済にどっぷり浸かり、英国のコンサルタントを入れて、「これからどんどん儲けるぞ」といった発想はないと思います。ドバイやアブダビはそれでどんどんビルが建ち、インフラが整備されていきましたが、それはその程度であるということです。つまり、社会の底が浅いんです。その点イランは、文化もあるし、長い歴史がある。いきなりテヘランがドバイになることはないと思います。本気でやればそれも可能でしょうが、それでは社会が壊れてしまう。

 幸運なことにイランは大きな国なので、すぐに大きな変化はもたらさない。周辺国はものすごく脅威に感じています。湾岸の小さい産油国は1971年に生まれたのですから、歴史がほとんどありません。国家を作って以来、本当の意味でイランに対峙したことがない。ずっと米国によって封じ込められていたわけですからね。だから、まったく未知数なんです。でも、結論はわかっています。あちらのほうがずっと強いし、ずっとそこにいるということです。ですから、イランがゆっくり歩もうが速く歩もうが、アラブ諸国にはそれを止める手段はもうないと思います。

 どうなるかは想像もできませんが、普通に考えたらイランが勃興したらアラビア湾はペルシャの湾岸ということになる。過去数十年、湾岸のアラブ諸国はしつこく「アラビア湾」と呼んでいましたが、湾岸のアラブ人ですら誰もそんなことを言わなくなって、また世界標準の「ペルシャ湾」と呼ぶようになるかもしれません。サウジは地域大国として表向きは頑張るでしょうが、ペルシア湾でイランと対峙することは避けて、むしろ紅海側に重点を置くかもしれません。今サウジは石油の積み出し施設や製油施設を紅海側に増強しています。またパイプラインでペルシャ湾岸からどんどん紅海側に流して、そこから積み出している。もちろん欧州やアジアにも送れるからですが、ペルシャ湾やホルムズ海峡がまるっきりイランのものになってしまう事態に備えていると見ることもできるかもしれません。

 サウジは環紅海国家としての動きを着々と進めていて、エジプトはもちろん、ジブチ、ソマリア、スーダン、エリトリアあたりとも外交関係を深めています。これらの環紅海国家は、サウジから見ると命綱になっています。ペルシャ湾岸では、本気でイランが出てきたら勝てるわけはない。だとすると、イランの影響の及ばない紅海側に行くしかない。イランはイエメンを通じて紅海側にも手を伸ばそうとしているのではないかと勘繰っているために、サウジはイエメンに対してあれだけ敏感になるわけです。湾岸の小さい国はイランと正面から対抗して勝つことはできっこないので、どうやってイランの懐で生き延びるかを考えるのだと思います。

 エジプトはイランとは距離がありますからそれほど問題はないですが、湾岸産油国がイランの支配下に置かれてしまうと、そこに投資している自分たちの資本が抑えられたらと困るなと警戒していると思います。そのため、エジプトはサウジと一緒に紅海をスエズ運河からバーブル・マンデブ海峡まで押さえるという方向にシフトしているのだと思います。サウジが本当に採用するのは、正面から戦うのではなくて「逃げる」という政策でしょうね。少なくとも、イランが有利なところでは戦わない。あるいはイスラエルと仲良くするなど、これまでとは違うことをやってくる可能性もあります。

イランとサウジは正の競争になり得るか?

武内 イランと戦うことになるのか、経済的な競争になるのかで、中東の未来は変わってくるかもしれないですね。経済的な競争になれば、これまで常に不安定だった中東が安定した地域になるかもしれません。けれども、それが軍事的な衝突まで行くようになると、覇権争いはさらなる不安定化の要因になる。

池内 現地の見方から言うと、軍事的にも経済的にもイランに勝てるとは思っていません。勝てない相手だから共存すると考えるのか、それとも足を引っ張ろうとするのかですね。イランはスタート地点では不利ですから、今はまだ有利な立場にあるはずのアラブの国が、産業の発展で競争するというポジティブな形になっていくのか。それとも、とにかく足を引っ張る側に回るのか。今はネガティブな競争になっているような気がします。

武内 逆に、イランに対抗しようという意識が国内改革に対するインセンティブになる可能性もあるのではないですか。そうなると開発の競争になって、イラン、サウジ、エジプト、それにイスラエルも含めたwinwinwinwin関係になるかもしれない。

池内 イランとサウジの関係は、今は負の競争になっていますが、考えてみれば正の競争になり得るという話はまあSF的には語られますね。イランに勝つには今すぐサウジの石油産業への投資を自由化すればいいんだ! と欧米のサウジ・ウォッチャーは冗談混じりに言います。欧米や、アジアの台頭する国がサウジに投資してしまえば、イランは手を出せない。体制の性質や米国の経済制裁の影響でイランへの投資が保護されるかわからない現段階のうちにサウジが国を開いてしまえば勝負がつく、と言う。サウジは国力の違いからすれば国内改革を真剣に考えざるを得ないはずなんです。けれども、湾岸産油国は極端な過去の惰性のなかで生きてきました。たくさん石油が出て、その間イランはずっと封じ込められていたわけです。そして、封じ込められていないイランを誰も知らない。

 サウジは人口が増え過ぎて、サウジ人が働くことになる未来を想定し始めています。ちょうど代替わりということで、今の王様の30歳の息子が副皇太子になりました。この皇太子への評価は極端に割れています。粗暴な人物だからイランと喧嘩するのではないかという見方もあれば、素晴らしい改革者になっていずれはサウジの国民が税金を払うようになるのではないかという両方の未来が語られています。サウジの今後あり得る将来の姿が、このムハンマド副皇太子という謎めいた人物の二つの評価として現れているのだと思うんです。個人のキャラクターに依存するというものでもないと思いますが、結果的には彼の判断も含めて、どちらに行くかが決まるのだと思います。

 彼は「ヴィジョン2030」という構想を掲げています。2030年までに外国人や石油に頼らない経済をつくる。それはまさに、国民から税金を取るということですね。そのような変革に社会が耐えられるのか。サウジには究極の既得権益が王族の中にも国民の中にもあります。そもそも「俺たちは働きたくない」と言っている人たちを働かせることができるのか。「俺はCEOしかやりたくない」という普通とはまったく違った既得権益があって、中流より上しかいない国民に対してどういう政策をとれるのかは未知数です。「頑張ろう」というやる気のある人にインセンティブを付けて働いてもらう方法はわかりますが、サウジの場合はこれまでよりインセンティブを下げながら、これまでよりたくさん働いてもらうわけです。誰もそんなことを考えたことがない。そこにイランが出てくるということは、もしかしたら効果があるのかもしれません。イランが勃興したらすべてを奪われてしまって、豊かな生活からまたラクダを引っ張らなくちゃいけない毎日に戻ってしまうかもしれない。そのぐらいの危機感がなければ、サウジは変われないのではないかと思います。

武内 今日は独裁国家をテーマにお話ししてきましたが、「民主VS独裁」という単純な話ではなくて、制度を含めた地域のニュアンスを丁寧に見ていくことは非常に大事だと感じました。やはりニュアンスというのは地域研究のエッセンスですからね。政治学の理論的な概念というのは、そこに補助線を引くような役割を果たすのだと思います。膨大な地域研究のニュアンスを、政治学の理論的な概念を使って整理していくことは非常に大事だと思います。中東地域は不安定な状況が続いていますが、将来の展望を考えていく上でもそうした研究の蓄積は意義のある役割を果たすのだと思います。 (終)

武内 宏樹・サザンメソジスト大学准教授
たけうち ひろき:1973年生れ。 カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)博士課程修了、博士(政治学)。UCLA政治学部講師、スタンフォード大学公共政策プログラム講師などを経て、2014年より現職。著書に『Tax Reform in Rural China: Revenue, Resistance, Authoritarian Rule』、共編著に『党国体制の現在─変容する社会と中国共産党の適応』(慶應義塾大学出版会、2012年)など。
池内 恵・東京大学先端科学技術研究センター教授
いけうち さとし:1973年生まれ。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。アジア経済研究所研究員、国際日本文化研究センター准教授、東京大学先端科学技術研究センター准教授などを経て現職。著書に『サイクス=ピコ協定 百年の呪縛』『イスラーム国の衝撃』『現代アラブの社会思想』など。

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