『公研』2024年5月号 第651回「私の生き方

 

(後藤さくら撮影)

社会学者
上野千鶴子


うえの ちづこ:1948年富山県生まれ。京都大学大学院社会学博士課程修了。平安女学院短期大学助教授、シカゴ大学人類学部客員研究員、京都精華大学助教授、国際日本文化研究センター客員助教授、ボン大学客員教授、コロンビア大学客員教授、メキシコ大学院大学客員教授等を経る。93年東京大学文学部助教授(社会学)、95年から2011年3月まで、東京大学大学院人文社会系研究科教授。12年度から16年度まで、立命館大学特別招聘教授。11年4月から認定NPO法人ウィメンズアクションネットワーク(WAN)理事長。著書に『資本制と家事労働 : マルクス主義フェミニズムの問題構制』『おひとりさまの老後』『ケアの社会学』『女ぎらい ニッポンのミソジニー』等。


 

「普通の最低な両親」

──1948年富山県上市町のお生まれです。

上野 上市町は両親の疎開先でした。もともと、両親は富山市で暮らしていたのですが、空襲によって上市町に疎開し、終戦後にそこで私は生まれます。そして3歳の時に富山市に戻ったため、生まれた上市町の記憶がほとんどありません。その後は中学生まで富山市で過ごし、両親の引っ越しのため高校時代は金沢市で過ごします。

──富山市と金沢市は上野先生にとってどのような場所でしょうか?

上野 子ども時代を過ごした富山市と金沢市に特別の郷土愛があるわけではありません。これを言ったら地元の方々に怒られてしまうかもしれませんが(笑)。子どもは自分が生まれ育つ場所を選ぶことができませんし、家庭と学校という狭い世界しか知ることができませんので。

 私にとって地元とは、一言で言うと「親がいるために一刻もはやく出たいところ」でした。不仲な両親のもとで娘として育つことは、子どもにとってあまり嬉しいことではないですよね。親がいるところでなければどこでもいいと、大学に入るまで感じていました。

──ご著書の中では、お母様のことを「普通の最低な母親」と表現されていました。

上野 私の両親は不仲だったのですが、もともとは恋愛結婚でした。不仲の原因の一つが嫁と姑の確執です。北陸地方の長男の家に嫁いだことが原因の一つです。マザコンの父は、嫁と姑の確執が起きた時、嫁ではなく母に付く最低な夫でした。これも日本によくいる普通の最低な夫です。自分の環境を母は嘆き、「離婚したいけどお前たちがいるからできない」と、最低なセリフを子どもに吐きます。これも日本社会でよく聞く話ですが、親として最低なセリフですよね。自分の不幸の原因はお前たち子どもにあるのだという呪いの言葉ですから。

 Jewish Mother(ユダヤ人の母)」という言葉をご存じですか? ユダヤ教も非常に強い家父長制の文化を持っていて、ユダヤ人の母親の常套句として、“Look! What You’ve Done to Me”というセリフがあります。英語圏ではジョークとして使われることもありますが、「あなたが私に何をしたか見てごらん」と、責めるようなセリフを子どもに言うのです。自分の不幸の原因を子どもに押し付けて、子どもをマザコンに仕立て上げる。その構造をアメリカで学んだ時、「なんだ、日本の母親と同じじゃないか」と感じました。

 

「こんなのやってられない」

──そんなセリフを言われたら母を憎みそうですが、逆にマザコンになるのが不思議です。

上野 子どもにとって母親ほど絶対的な存在はいません。母の不幸は僕に責任がある。だから僕が母を守らなきゃいけないと子どもは考え、マザコンの息子が誕生します。

 娘である私も、小さいときは母に同情の気持ちを抱いていました。これはこのような環境にいる子どもの最初の反応です。次に、私は両親を観察しました。母は恋愛結婚で父と結ばれたので、自分の不幸を人のせいにはできないと。母は「自分には男を見る目がなかった」とこぼしていました。さらに、父と母の関係をジーッと見ていると、父も極悪人ではないことに気が付きます。普通によくいるマザコン男です。普通だけど最低。そんな両親でした。

 そんな中、10代のある時に気が付いたのです。「お母さん、夫を変えてもあなたの不幸はなくならないよ」と。「この構造にはまってしまったあなたの問題であり、そして構造の問題なのだ」と。ですから、子どもの時から不仲の両親をジーッと見つめる意地の悪い娘だった私は、この構造には決して入るまいと思い、10代で結婚はしないとすでに決心していました。わかりやすいでしょ(笑)。

──五つ上にお兄さん、二つ下に弟さんがいます。

上野 そのような家庭で娘として育つか、息子として育つかはずいぶんと違います。娘は母親と同一化するので、自分の将来、女として生きる道は母のような人生になると予想しますよね。それを見て娘の私は「こんなのやってられない」と思いました。

 一方で息子たちはどう思うのか。やはり母の不幸を目の当たりにするので、母に同情をします。そして素晴らしいことに、親の背を見て学習した私の兄と弟は、父のようにはなるまいと思い、妻思いの夫になりました。両親から学んだ兄と弟は父と違って、自分の妻と姑である母との確執があると、妻側に付いたのです。これは素晴らしい学習効果でしたね。

 しかし、母は嘆いてこうこぼします。「自分の夫は母に付き、自分の息子は妻に付く。私の側に付くものは誰もいない」と。そんな愚痴に対して、「まあまあ、息子たちの夫婦関係が良いのが一番でしょ」となだめるのが私の役割でした。嫁というのはどこの家庭でも最底辺の立場にいて、姑が権力を握り、その権力を陰で支えるのが家督相続人である息子です。私はそれを皇太后権力と呼んでいます。日本の家父長制は女性の共犯のもとに、マザコンの息子を再生産し続けてきたのです。

 

父親からのペット愛

──上野先生とお父様とのご関係は?

上野 愛されていました。ただ、愛にもいろいろな種類があって、可愛がられていたと言ったほうがいいかもしれません。後になって父からの愛が「ペット愛」だったと気が付きます。長男が生まれた後、5年間子どもができなかったところに生まれた、待ちに待った一人娘ですから、ベタ可愛がられの対象でした。私自身は、意地悪な可愛げのない子どもでしたが(笑)。

──ペット愛。なかなか強い表現ですね。

上野 父は私に何も期待をしていなかったのです。息子たちには厳しく、娘には甘かった。それはペットだったからです。

 ここには家庭内の力学があります。母は子どもたちにとって目の前に立ちはだかる巨人、権力者です。ところが、その権力者が顔色をうかがうもう一人の権力者がいることに子どもは気が付きます。それが父親です。そして、その父親が私にだけはメロメロだったので、その権力を借りて私は威張っていました。母親にとっては本当に嫌な娘ですよね。

──権力者に甘やかされるということは、家の中が居心地良かったのではないのでしょうか?

上野 そうはなりません。そうなれば、母は息子たちを味方に付けます。家の中で父側と母側の対立が生まれるわけですから、居心地が良いわけありません。家族関係とはそんなに甘くないのです。

 ある日、母は「離婚をするとしたら弟を連れて行くが、お前はお父さんっ子だから置いていく」と私に言ったことがありました。この言葉に物凄い絶望を感じたことを覚えています。子どもにとって、とてつもなく傷つくセリフですよね。私は「自分は置きざりにされるのか」と衝撃を受けました。そう簡単に受け止められる言葉ではありません。家庭内の人間関係の確執が渦巻いていた子ども時代を過ごしました。

 

家父長制を研究して気づく家庭内の力学

──ご自身の家庭環境に納得できる日が来たのですか?

上野 そうですね。やはり、時間が経って家父長制を研究することで家庭内の力学に気が付きました。「ああ、こういうことだったのか」と、するすると糸がほどけるように理解できました。私の家庭は、普通の最低な家父長制の家庭だったのです。だから、親の性格が特別に悪かったわけでも、極悪人だったわけでもない。普通の善良な庶民でも、この家父長制という仕組みにはまると、こんな不幸を生み出すのかと学びました。

──子ども時代に夢中になったことはありますか?

上野 それがあまり夢中になったものがなくて。強いていうなら読書です。現実があまり楽しいものではなかったので、フィクションの世界に逃避していました。

──上野先生は学生時代に飛びぬけて成績が良かったとどこかで見ました。

上野 結果として良かったですが、勉強をして成績を上げようとしたわけではありませんでした。当時の女の子は勉強ができる必要がなかったですから。娘はただ可愛ければいいので、かえって「勉強するな」と言われていましたよ。

 本を長時間読むことを禁止されていたので、隠れて布団の中で読んでいたら、視力がどんどん落ちてしまったことがありました。それが父親にバレて、しまいには「勉強をするな」「本を読むな」と強く言われていたぐらいです。父は医者をしていましたから、息子には進路のレールを敷きましたが、私は何をやってもよかった。ペットは役に立たない存在ですから。

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