『公研』2020年6月号

池内 恵・東京大学先端科学技術研究センター教授 

1 記憶の更新と改変、認識のズレ

 恒常化していた海外との頻繁な往来は3月初頭から全面的に停止し、無数に繰り返してきた国内出張や講演は3月後半から次々にキャンセルとなった。私自身が新年度の複数の大型予算の獲得が視野に入り、新事業・新組織の発足を短時間に、単独の責任主体として速やかに進めなければならない見通しとなったことから、これを頓挫させかねない自身の感染という最悪の事態を避けるために、自主的にかなり厳格な自己隔離生活を3月の後半に開始した。それから2カ月以上が経った。

 この時点に至ると、もはや以前の生活を思い出すことは、そう容易ではない。月に3度も北米や西欧・中東と往復していた日々は、想像もつかない過去の時代の他人の出来事のようにも感じられる。満員電車に詰め込まれて毎朝晩通勤することが、きわめて苦痛、あるいは非常識なものに思えてきて、新型コロナ禍が終息したとしても、その生活に戻れるとは信じがたい。また、戻りたいとは到底思えない。分刻みで場所を移動して面会を繰り返し、無数の名刺を交換し、寄り集まって長時間の打ち合わせを行い、食事をとりながらの研究会で発表し質疑応答していたことが、いずれも非現実的な異質な文明の特異な様式のように思える。

 そうとは言っても、新型コロナウイルスCOVID-19が突如として地球上から雲散霧消する可能性はある。人間側の適応力が意外に大きく、大多数にとっては実は無害であったと分かる可能性もある。そのような場合には、意外に早く、社会は元どおりに復元し、「新しい常態」と喧伝され予告された社会生活の変容も、大部分は生じないのかもしれない。

 その場合、今度は、緊急事態宣言下の社会情勢も心理状態も、その時々に人々が交わしていた議論も、そしてインターネット越しの不自由な議論に伴った、奇妙な開放感も、やがて思い出すことは困難となるに違いない。

 新型コロナウイルス問題という、未曾有の規模の災厄がグローバルに人類を襲い、その素早い進展が逐一、高度に進化した情報メディアによって伝えられ、議論され、拡散された。それによって、われわれは短期間の間にあまりに急激に、そして頻繁に、世界認識を変化させ続けた。つまりは、われわれは新型コロナウイルスをめぐって幾度も認識を変え、記憶を更新した、つまりは改変し続けたのだ。

 新型コロナウイルスが中国から韓国へ、日本など東アジアへ、そしてイタリアを皮切りにヨーロッパ全土へ、そして米国へ、あるいはイランやトルコやインドやロシアやブラジルへと四方八方に雪崩を打って広がる過程で2週間ばかり前の認識すら思い出せない状態が続いた。思い出せていないということにすら、我々は気づけなくなる。

 私自身が、意を決して自己隔離の生活に早期に入るに至った3月半ばから後半の認識や見通しを、おぼろげにしか思い出すことができないし、その記憶と思われるものも、どこまでが当時の認識をそのまま残しているのか、あるいは後から振り返って後付けで解釈した、つまりは捏造された過去の記憶なのかは判然としない。

 閉じこもった生活の、限られた社会関係の中だからこそ敏感に感じ取った外界の情報を元に、自らのみと向き合う生活の中で、週ごと、二週ごと、あるいは月ごとの周期で段階的に感じ取った、ミクロな範囲で視界に入る社会と生活環境と、それを通じて想起した広い外界についての思索、そこから自らの内側に去来した心境とその変容もまた、近い将来に、記憶の彼方に混濁し、思い出せなくなってしまうに違いない。そうであれば、書いておかねばならない。

 こうして書いているうちにも、書いている私の意識自体が、日々の一刻一刻に、変容していく。

 前回のこの「戦略思考」の連載第1回を入稿し、辛うじて校了にこぎ着けてからのひと月の間にも、この第2回の原稿の下書きを起こし、書き加え、書き直しを行うそれぞれの段階でも、新型コロナウイルスをめぐる政治と社会と、それに直面し認識し対処する私の公的・私的な環境は、大きく変化し続けている。

 どの時点で今号の連載の筆を置くべきなのか、決めかねている。5月25日に緊急事態宣言が、東京一円と北海道でも解除された。この以前と以後で、社会の雰囲気は大きく変化している。この前後のどちらの時点に視点を置くかで、認識や将来見通しは異なってくる。より精細に見ていけば、三つの段階に渡って緊急事態宣言が解除されていく過程で、解除された地域と緊急事態が継続した地域では、現状認識と振り返り方、将来展望に、ズレが生じてきているだろう。

 そもそも、月刊誌である『公研』が読者の手元に届いた時点では、書いた時点での認識や前提を共有できなくなっているかもしれない。とはいえ、これは印刷メディアである限り避けられない宿命である。月刊であれ週刊であれ、あるいは日刊であれども、タイムラグの問題は避けられず、常に若干(あるいは大いに)古びた情報が読者の手元に届きかねないという本質は、程度の差はあれども、変わらない。

 タイムラグを回避しようとすれば、最初からインターネット媒体を選び、原稿ができるたびにアップロードし配信するという別種の方法を用いるしかない。それはもはや出版というよりは、SNS的な情報コミュニケーションの一種というべきなるだろう。

 SNSを極めれば、情報理工学で「ライフログ」と呼ぶものに近くなる。できるだけ精細に、時間の途切れなく記録を取り続ける技術は日々に進歩している。その時に収集され、伝達され、記録される情報は、言語表現というよりは、体温や血圧や位置情報といったデータが主となるだろう。それらは人間が意識して選択し発信する言語表現よりも、場合によっては多くのことを自ら物語っている。それらはまさにCOVID-19対策のために集められ解析されようとしている医療や公衆衛生のデータと分かちがたい。

 しかし私がこの連載でめざすのはそのようなデータの集積ではなく、新型コロナ禍の影響下の社会と政治と、そこにおける人間の生活と思考を、その場のその瞬間においての文脈と、その時点で見えている風景、見通しと共に、書き記すことである。そのような時間と空間の「足場」を定めることで、新型コロナ禍の打撃を受けた国内の政治経済、あるいは社会の、そして国際的な関係の再構築の「戦略」を練っていくことが、可能になるだろう。放置しておけば忘れてしまい、経緯を順序立てて認識することができなくなってしまう激動期の認識変容を、定期的に、節目ごとに書き記し、その時点での時間的前後関係と国内・国際的な相互関係を記録にとどめておきたい。

 そのような目的には一見して古いように見える印刷メディア、それも執筆期限が定められ、発売期日が予定された月刊誌の媒体はかなり有効である。日々に即時に記録し共有できる電子的媒体は、日々に改変されることも容易であり、後から振り返るのには適さない。電子媒体は一分一秒の単位で細分化して変化の一瞬ごとを記録することも可能だが、これは突き詰めれば現実の時間の流れと同一である。そのまま記録された現実をそのまま振り返るには、その現実の時間をもう一度生き直さなければならないことになり、これは人生が有限である以上、端的に不可能である。人間社会の「追っかけ再生」はできないのである。

 それに対して、締め切りが決まっており、印刷後に直すことの困難な定期刊行物は、不自由で不便なように見えるが、実は、ある時点での認識や見通しを記録し振り返るには適している。その瞬間における、ある場所のある人にとっての「来し方行く末」を、半永久的に残すことができるからである。

 これは究極的には「岩に刻む」ことに等しい。

 紙の雑誌は、瞬時に気持ちや主張を伝えられるSNSや、頻繁に更新できるブログに比べれば機動性に乏しいかもしれないが、岩に比べればはるかに移動に適し、複製・配布が容易である。いつまで続くのか、続けられるのか、続けなければならないのかが見えにくいこの連載だが、「岩に刻む」つもりで書いていきたい。

2 忘れ得ぬ逗留者たち

 中国で新型の伝染病の感染爆発が発生し、武漢が厳重な都市封鎖の下に置かれ、全土で交通が遮断され、国内外の旅行が制限された、という驚天動地の情報が伝わった1月末から2月、日本では多くが狐につままれたような面持ちだっただろう。

 不思議なことに、海外と繋がった中国の富裕層・知識層には、1月の末からの春節の休暇を利用して、国外に出ていたものが多かった。なぜそれに気づいたかというと、国際会議で一度か二度会った程度の中国の「知人」が、この時期、なぜか次々と私の研究室を訪れたからである。世界の王者然と振舞っていた国際会議での立ち居振る舞いとは対照的に、いそいそと腰低く、手土産を多く持って。話を聞くと、休暇といっても仕事も絡めて、一人ではなく、家族で、家族の職場の同僚や、上司までもが、日本に来て、長逗留を決め込んでいるようだった。

日本が、世界が、喧騒に包まれる中、一定期間を日本で過ごし、やがて姿を消したこの人たちの後を追うことは、当面は棚上げにしておこう。いつの日かまた合う日が来るかもしれないし、来ないかもしれない。まずは、目の前のこの日本の、多分に取り散らかした状況を収拾することに、専念しよう。

3 ささやかだけれど、不可欠な物たち

 2月初頭からダイヤモンド・プリンセス号が横浜に停泊して検疫に入り、あたかも「黒船(実際には白と青の客船だが)」のように、日本人の眠りを冷まし恐怖心を高めた上で、2月半ばに日本で最初の感染者が確認された直後に起こったことは、トイレットペーパーをはじめとした、基礎的な生活必需品の買い占め・買い溜めだった。オイル・ショックの再来であるかのような、世代を超えて繰り返されたパニック行動は、国民の記憶として、あるいは国民の負の物語のように、反復し語られ続けるだろう。

 3月にはスーパーやコンビニの棚からマスクが姿を消し、やがて各地で闇市のように、怪しげな店舗・店頭で出所不明のマスクが高額で取引された。このことも、いくつかの象徴的・代表的な映像が繰り返し流されることで、単純化され、歪曲され、肝心なところを大いに省略されながら、記憶に焼き付けられ、伝えられていくだろう。消毒液と液体石鹸のボトルが店頭から姿を消したことも記憶に留められるだろう。体温計と、体温計の電池が品切れになったことも、苦い教訓として脳裏に刻み込んだ人はいるかもしれない。

 しかしさらにその次に、順に目の前から消えていったものが何だったのか。正確に、順を追って、思い返すことのできる者が、まだ日の浅い現時点でさえ、どれだけいるのだろうか。

 緊急事態宣言の発出と共に、大手スーパーで競って買われていったのが、パスタとパスタソースだったことはよく知られているし、実際に買い溜めに加わった人、あるいは空の棚を呆然と目撃した人も多いだろう。パスタが売り切れるのは、調理が手軽で保存が効くからと容易に推測できる。他方で手軽な食事の代表のパンは、外食先で消費されることが多いようで、小麦の消費量は減るとも言われた。日本では外出自粛だからといってすぐに家でパンを焼くようにはならないようだ。

 実際には米も、私が近所のスーパーで観察している限りでは、普段に比べ格段に店頭での売れ行きが良くなった。無洗米は最初になくなり、その後、大袋ではほとんど見ることがない。スーパーで朝に米袋を店頭に積めば、夕方には着実に半減か、あるいはほとんど残りが少なくなっている。しかし棚が全く空になるということは滅多にない気がする。やはり5キロや10キロの米袋を一人でいくつも持って帰れる人は少なく、買い増すにもおのずと限界があるようだ。しかしその代わり、来るたびに一つずつ買い足していく人たちがいるのだろう。毎日見ていると、あまり聞かない産地の、少し割高な米も積まれるようになり、それらも飛ぶように売れていく。

 それにしても、長く続いた「コメ余り」の時代にあれこれ苦心してきた人々は、現在の光景を見てどう思っただろうか。食生活の変化により、長期低落傾向の定着していた米に突然脚光が当たったが、一斉に買われていった大袋の米の多くは、各家庭で死蔵されるのではないか。そうであれば、米問屋の倉庫の在庫が一時的に各家庭の納戸に移っただけなのかもしれない。

 テレビでは連日、家庭での調理があたかも「銃後の暮らし」の要諦であるかのように、著名な料理人や有名人を動員したある種の「国策番組」にも見紛う料理番組が、放映されていた。新聞でも、特に地方紙では、あらゆる種類の簡便な調理法を伝授する記事が、連日のように紙面を埋めた。親子でホットケーキを焼くといった、家族外出の代わりとなるイベントも広がり、ホットケーキミックスが払底したようである。それに続いてお好み焼き粉・たこ焼き粉も売り切れたとも言われる。

4 安酒と電球と

 緊急事態宣言の直後に一気に売れたものがもう一つある。酒である。特に安い酒が、飛ぶように売れていた。私が居を構えた街でも、緊急事態宣言の範囲が拡大されて及んだその日の夜に、スーパーのアルコールの棚の、安い酒のコーナーが、ぽっかりと空になっていた。

 日々に居酒屋でどれだけ多くの酒類が供されているかは、人々が「家呑み」に移った時に、安酒の大瓶が根こそぎなくなったスーパーの棚から、推し量ることができる。その副作用で、緊急事態宣言下の巣篭もり生活において、どれだけのアルコール中毒が、肥満が、家庭内暴力が増えただろうか。安い酒を割るのに使うのだろうか、炭酸水の大瓶の棚も空いていた。仕入れが足りていないわけではなさそうであるが、配架が追いつかないのだろう。

 「巣篭もり消費」の特定の品目への殺到が一巡すると、人々の向かう先はホームセンターへと移った。確かに、各自がこれまでにない長い時間を、一斉に自宅で過ごすという事態は、前例のないことである。自宅なのだから、人生で最も長い時間を過ごす、最も大事に手をかけられた場所であるかと思いきや、往々にして、そうではない。新型コロナ禍は多くの人に、これを思い知らせたのではないか。

 単純に、いつもより多くの人数が、いつもより長い時間を家で過ごせば、随所に負担もかかり、いつもより頻繁に電球も切れれば、設備の不具合も増えるだろう。そもそもこれまでは寝に帰るだけだった自宅の、あちこちの故障や不具合を、気づかずにいたか、気づいても直す時間を取れず、目をつぶって済ませていた場合もあるだろう。「巣篭もり」の日々が長引くにつれて、否応なく「巣」の傷みに気づかされ、普段は足を向けないホームセンターに、多くが向かったのだろう。そのための時間的自由も、リモート勤務の普及によって、見出せた。

 ホームセンターは外出のための手頃な「言い訳」ともなったことだろう。長引く外出自粛による鬱屈を晴らす、息抜きの外出の目的地としてホームセンターは正当化しやすい。

5 ヘッドセットを探して

 3月の間に突如として、新学期を全面リモートで行え、というお達しを受けた大学教員たちは、右往左往しながら、自前で設備の整備を図り、どうにか間に合わせた。ここで必需品となったのが、カメラ付きマイクとヘッドセットである。4月の初頭には、各地の量販店で、カメラ付きマイクの在庫は底をついていた記憶がある。

 帰省や訪問を控えることを要請された緊急事態宣言の前後の期間に、離れ離れで過ごさなければならなくなった親と子や親族をつなぐ貴重な手段としてテレビ電話はいっそう定着したようである。多くがカメラ付きマイクを買い求め、快適な操作環境を求めた。ここで打撃を受けたのが、4月から新学期に突如、オンラインでのリモート講義の実施を求められた、全国の大学教員である。

 私も、授業や講演が次々とリモートに切り替わったことから、カメラ付きマイクの購入を検討した。しかし外付けカメラはパソコン本体の環境によっては接続の相性が良いとは限らないと知った。また、ラップトップ・パソコンに内蔵されているカメラは、下手な外付けカメラよりも遥かに性能は良さそうである。

 しかしマイクについては別の話である。放送局やインターネット局では、複数の参加者がテレビ会議システムを通じて番組に参加する場合、各参加者がマイクを使用していないと、それぞれが話し始める瞬間の音が、うまく拾えないことを恐れるようだ。どうしても発言の立ち上がりの音が切れるか弱まってしまう。また、スピーカーからの音声を自分のマイクが拾ってハウリングしてしまうことを防ぐには、イヤホンの着用が必要である。

 外付けのマイク付きヘッドセットを、市中の店舗と、インターネット通販サイトで探したところ、残っているのは高性能で高額な、大げさなヘッドセットにマイクがついたものだった。「ゲーマー」と呼ばれる人士が愛用するものらしい。VRを取り入れた躍動感あふれるゲーム映像に付随した、立体的な音響効果を十分に堪能できるそうである。大学教員の授業や研究会のためにはスペックが高すぎる気がするが、他に選択肢がない。数万円の大枚をはたいて購入した。

 しかしこの最高級ヘッドセットが、私がテレビ会議で利用することが多いChromebookでは、機能しなかった。WindowsMacのOSをインストールせず、Googleが開発したChrome OSを搭載し、パソコンの本体にはほとんどデータを保存せず、もっぱらChromeのブラウザーでインターネットに常時接続しながら機能するChromebookは一般に安価だが、機体がかなりハイスペックのものが安売りになっていた時に、インターネットで動画を見るといった「お遊び」用のおもちゃのつもりで買ってあった。動画を見ている時間もないため死蔵していたのだが、これを掘り出してくると、カメラや映像処理の面ではかなり高性能なようで、テレビ会議の相手方には最も評判が良かった。メインのパソコンを操作しながら、このChromebookをテレビ会議用カメラのように固定して便利に使っていた。しかし私の買ったハイスペックの「お遊び用」高級ヘッドセットは、このハイスペックの「お遊び用」のChromebookには、対応していなかったのである。

 再び外付けマイクを探したところ、意外なところで用が足りてしまった。近所の100円ショップである。使い捨て風のイヤホンが各種並ぶ一角に、マイク付きイヤホンが、2色の色違いで、どうということもなくぶら下がっていた。半信半疑で買って使ってみると、可もなく不可もなくだが、使える。それを確かめて、急ぎ100円ショップにとって返した。3つ4つ、手あたり次第に取ってレジに向かった。どうせ安いものだからとありったけ買い込んだ。こうして私も晴れて買い溜め・買い占め客の一人となったのである。なお、中国製であった。

6 兵站は伸び切った

 緊急事態宣言下での研究・教育が長引くうちに、外付けの付属機器ではなく、本体のパソコン自体に、限界が出てきた。なにしろ研究室や教室といった物理的空間で実施していたことすべてを、一台のパソコン上での情報のやり取りで置き換えたのである。これまでになく酷使されたパソコンは、次第に悲鳴を上げ始める。テレビ電話会議システムといった、大量のデータを処理しやり取りする重いアプリケーションを連日、一日中、多用するようになったのであるから、無理もないことである。

 しかし機器の更新で、壁に突き当たった。基本的に、日本の大学では教員が研究や教育に使うハードウェアについての、大学事務当局からの支援はほとんどない。ソフトウェア・アプリケーションについても、包括的な契約を大学が結んでアクセス権限を配布してくれることはあるが、使用法の訓練や、環境整備などは、個々の教員の自助努力に委ねられており、つまり支援なく放置されていると言ってもいい。

 そこで、各教員は、(もしあれば)手持ちの研究費など公費で機器を更新しようとする。しかしそれを処理する大学事務当局が、緊急事態宣言により、大幅に活動を縮小したのである。行動の「8割削減」を実現しようとする監督官庁の指示に従い、各大学本部が厳しい施設利用制限・出勤制限を課したことで、大部分の事務職員は出勤できなくなった。そうすると、教員が印刷しハンコを押して提出して、大学事務当局の閲読を受け受領し処理を願い出る日々の事務作業は、大幅に滞ってしまう。つまり、機器を買う支出ができないのである。

 研究費というものは(もしあれば)一切個々の教員が手に触れることなく、大学事務の経理操作によって、指定業者に払いこまれることになっている。世間でそれほど知られていないことだが、研究費は研究者本人ではなく大学の口座に振り込まれる。それを教員が多くの事務手続きを行って、大学事務当局に支出を申請することで、大学当局から納入業者に支払いが行われる。大学事務当局という、研究と教育を行うのではなく、教育と研究を行う教員たちを監視し管理する事務当局の窓口に教員が書類を揃えて日参して提出して閲読を経て受理されて初めて、研究費は備品や出張旅費として使用される。大学事務の施設が閉鎖され、在宅・リモート勤務に移行し、処理可能な事務手続きが限られたことによって、大学事務当局による支出手続きを必要とする機器の導入は、大幅に停滞した。

 そもそも、機器を納入してもらおうにも、大学生協など、大学キャンパス内に店舗を構える指定業者は、キャンパスの閉鎖によって休業している。そのため新たな注文は受け付けられず、すでに注文され、倉庫に届いている物資の配送もなされない。

 教員たちは、研究・教育用の機器を公費で購入する際に、大学の構内に店舗と事務所を構え、大学事務当局と緊密に協力する、大学生協を利用することが多い。大学生協がない大学もあるが、その場合も、各大学の事務当局とのやりとりに長けた特定の出入り業者から機器を購入することがほとんどである。それ以外のところから機器を購入しようとすれば、研究資金の不正使用を疑う大学事務当局から要求され、膨大な書類や始末書の作成によって、研究そのものの進展が阻害されかねないがゆえに、極力避けるものである。

 新学期早々の緊急事態宣言を受けて、大学の施設利用は厳しく制限された。しかし研究を続けなければ、立ち遅れが取り返しのつかないところまで進むことは目に見えている。新学期の授業の開始は待ったなしである。全国で教員たちの、孤立無援の死闘が繰り広げられた。日本全国で大学教員たちが、その乏しい給料で確保した住居を、研究室に、あるいは教室に転用し、古いパソコンにカメラ・マイクを備え付け、家庭用のインターネット回線とルーターを使って研究と授業を決行した。

 私自身は、非常事態宣言の発出の見通しが高まった3月末の段階で、備品の供給の途絶を何よりも危惧した。研究室の人員を、大学生協の店舗に走らせた。店頭に残るパソコンのうち、最も性能の良いものを、どんなに割高でも、デザインが無骨でも良いから、買って持ち帰っておくように、と命じた。同時に、機器の注文を前倒しで行った。

 結局、緊急事態宣言の発出による店舗の閉鎖のため、注文した物品が手元に届いたのは、緊急事態宣言が解除された後の、6月初頭だった。

 4月から5月に、全国の大学がリモート化への未曾有の転換を、補給の支援が乏しい中で一気に進めた激変の日々において、私個人、および私の主催する研究室は、大学の一研究室としては異例の規模の予算を受け入れ、実施組織を構築する作業を、厳しい移動・行動制限の下で、各地に分散しながらリモートで進めていった。5月の連休中に、緊急事態宣言の月末までの期間延長が宣言された後は、「消耗戦」の様相を濃くした。

 大学の附置研究所という現場から見る限り、5月末において、組織の末端はすでに限界に達しつつあった。6月にもなお緊急事態を継続させれば、備品・設備の補給の途絶の長期化が、ある限界を超え、研究も教育も、継続が困難となる地点に到達しただろう。包括的で無差別な施設利用制限をもたらす緊急事態宣言を、これ以上形式的に延長したところで、実施は困難、つまり現場で守られることはなかっただろう。

 この間の大学当局や監督官庁からの指示は、つまるところ「研究はやりたければやれ、やらなくて業績が出なければそれは自己責任。ただし研究室は使うな、研究室の要員も、共同研究会も、集まるな。出勤も移動もするな」というものである。これに反する研究上の支出は事務手続き上、多くが差し止められた。つまりこの間、教員達は「勝手に、好きだから、自前で」研究をやっていたのである。

 教育に関する指示はといえば、つまり「対面することなく教育はやれ。方法はそれぞれが考えよ。資材と環境は現地調達せよ。後でよしなに取り計らってやる」ということであった。物資補給を現場の創意工夫と「現地調達」に頼るのは、やはり日本という国が組織として持つ宿命なのだろうか。旧軍の悪評高い伝統は、軍国主義の問題よりも、官僚主義の問題に、より多くが起因するものだったのだろう、と大学教員たちが思い知らされた春だった。

 ここまで書いてきて、すでに今号も、想定された紙幅を超過しており、迫り来る校了の期限からも、ひとまず筆を置かなければならないことを悟った。ここまで記してきたことのどこが「戦略思考」なのか、と訝しく感じる読者もおられるだろう。「戦略」というよりは「戦略の欠如」に関する愚痴や不平でしかない、と映るかもしれない。確かに、ここまでのところは、そうである。「戦略」を考えるにあたって、まず自らの足場となる広い意味での社会インフラをミクロに見つめ、視点の地固めを行ってきた。それはやがて「コロナ時代」に必要な戦略への思考に、そしてそこで不可欠な国際的な視点に、不可避に繋がっていくだろう。

 この文章が無事に印刷され、読者の目に届くことを祈っている。もしなんらかの不具合が生じてこの文章が今は陽の目を見なかった時は、岩に刻んでおけば良い。数百年後、数千年後の読者には届くに違いない。

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