『公研』2023年6月号「私の生き方」

 

美術家 横尾 忠則

 

 

 

模写することが絵だと思っていた 

──1936年のお生まれです。幼い頃、一番印象に残っている記憶は?

横尾 最初の記憶は2歳の時です。僕の住んでいる街を流れている川が洪水になって、川に架かっていた高くて大きな橋が半分流されてしまったんです。水が引いた後、流れた部分に板だけ渡した仮設の橋ができて、そこを父親が自転車を引いて歩いている様子を、川岸で母親の背中におんぶされた僕が眺めているっていう、これが最初の記憶ですね。

 かなり高くて非常に危ない状態だったと思うんですけどね。なぜ渡ろうとしていたのか、そんな詳しいことはわからない。だって2歳だったから。もちろんその時自分が何歳だったかはわからなかった。母親の背中におんぶされて、まだ小ちゃかったんですよね。記憶だけが残っていて、後から洪水がいつ僕の街であったのかを調べてわかったことです。

──その記憶はなぜ強く残っているのでしょうか。

横尾 なにか親子の愛情みたいなものを感じたんじゃないかな。洪水で川が流れるって大きな事故ですよね。そこを母親におんぶされて、全身には母親の体の感覚があって、視覚的には父親が高い橋の上で自転車を引いている光景を見ている。両親に守られているっていう安心感かな。子どもの頃だったから何を思ったかわからないんだけれど、今思うとそういうものかと思います。

──幼い頃、絵の模写に熱中されていたそうですが、きっかけはありましたか。

横尾 あんまり覚えてないんだけれども、僕は落書きをしたっていう記憶がないんですよ。子どもというのは、クレヨンとか描けるものを手にすると家の壁とかふすまに落書きしたりするけれど、僕は家にあった子ども向けの絵本の模写をしていた。最初から誰かが描いた絵をそのまま写し取ることに興味があって、自分で想像するとか写生をすることにあまり興味がなかったのです。模写することが絵なんだ、と小学校から中学へ行く頃までのかなり長い間そう思っていましたね。別にプロになろうなんて思っていないけれど、でも絵を描くのは好きでした。兄弟がいないから、ほとんど家ではそのようにして遊んでいました。

──どんなものを一番多く模写した記憶がありますか。

横尾 戦前から出ていた『講談社の絵本』という、子ども向けのいろいろな人物の伝記ものです。当時は非常に有名で多く出版されていました。例えば桃太郎や金太郎の童画の絵本や、宮本武蔵、日本武尊、新田義貞、木村重成とか伝記の人物も紹介する絵本があったんですよ。シリーズで何十冊も出ているんです。挿絵画家じゃなくて、その当時の日本画家や洋画家とか、専門の美術をやっていた人が、バイトで描いたのかな。この本の絵はなかなか素晴らしかった。戦後にはなくなってしまいましたが、40年くらい前に復刻版が20冊ぐらい出たので、全部買っちゃいました。当時僕が模写したものが今も残っています。

──模写ではなく対象物の絵を描こうと思ったのはいつからですか。

横尾 小学校は美術教育がきちんとしていなくて、美術教育が始まった中学からです。中学になるといろいろ専門の先生が教える教科が出てきて美術の先生も来ました。でも僕は、静物画とか人物を描くとか、写生には全然興味がありませんでしたね。現実の風景とか何かを描くっていうのは慣れていなかったし。

 

幼少期の模写作 「武蔵と小次郎」 1941年
338×498mm 紙に鉛筆、クレヨン

 

郵便局員に憧れて

──いつからデザインに興味がでてきたのでしょうか。

横尾 その頃は将来何になるかなんて考えてはなかったからね。僕は小学校の頃からずっと切手を集めたり文通したりすることが好きで、郵便に関する仕事がしたいなと思っていて。高校を卒業したら郵便局に勤めたかったんです。大学はもう全く経済的に無理でしたから。

 僕は養子だったので、育ての親のところに行った時はすでに他の家よりも両親は年老いていたんです。だからもう高校の頃は老人で、ほとんど無職だから経済的な余裕が全然なかった。高校に行くのも危なかったから、中学3年生の時に、町の商社に面接に行ったのを覚えています。中学の先生から「高校へ進学しなさい」とうるさく言われていなければ、中卒で商社へ就職していたと思います。両親は、僕が高校を卒業したらすぐにサラリーマンになって、できれば自分たちの分まで生活費を稼いで欲しいと思っていたんじゃないかと思いますね。僕もそう思っていたから、郵便局員が面白いと思っていました。

 絵は好きだったけれど、絵の道を進むと言ったってプロになるのは無理だと思っていたわけです。東京のような都会だったらいろんなチャンスがあるけど、地方に住んでいるから一切なかった。ただ、どこかの団体や会社のマークを募集していたり、新聞なんかがカットを募集したり、いろんな懸賞募集があって、僕はそこに応募はしたりしていました。入選なんかすると、300円ぐらいの賞金をもらったりしていましたね。

──そのように多くの入賞や賞金をもらっていたら、ご両親も画家への期待が出てきそうですが。

横尾 いや、画家なんかになったら食べていけないから、なってもらいたくないという気持ちだったと思いますよ。画家とか役者なんかは、当時地方では、社会の脱落者の職業のような河原乞食って呼んでいましたからね。だからクラスメイトの仲間とか周りの人も、絵描きになるなんて考えている人は一人もいなかった。僕も趣味として、郵便局に勤めながら日曜画家みたいに描いていられたらという程度の考えでした。

 

先生の勧めで受験勉強を

──当時憧れていた画家はいましたか。

横尾 やっぱり挿絵画家に興味がありましたね。『少年王者』とか『少年ケニヤ』の劇画風の絵を描いていた山川惣治とか、そういった挿絵画家には多少は憧れていました。だからゴッホとか、ゴーギャンとかセザンヌとか、そういう西洋絵画の純粋芸術の画家にはあんまり興味はなかった。学校の教科書にはそういった人たちの作品は出てくるのだけれどね。だから油絵を描くことにも興味はなくて、僕は挿絵や漫画的な絵を描いていました。当時はイラストっていう言葉がなかったから、挿絵画家って呼んでましたね。

──郵便局員ではなく、デザイナーの道へ歩まれます。

横尾 僕は郵便局員になりたいと思っているのに、高3の時に校長先生と美術の先生が、「地方にくすぶっているよりも、東京の美術大学で絵を勉強しなさい。先生が応援するから」と言うんです。経済的に応援してくれればよかったんだけど、勉強の応援でした(笑)。うちには大学に行く経済力が全然ないといった不安はあれど成り行き任せで、と思っていました。

 

美術大学受験前日に帰郷させられる

横尾 僕には郵便局へ行きたいということ以外、大した強い意志はなかったんですが、それを学校側が東京の美術大学に入るように仕向けてしまったわけですよ。それで高校3年の頃、受験しなきゃいけなくなったんです。受験勉強なんか全然していないし、受験自体したくないわけですよね。でも1年間、家庭教師を3人つけられて、徹底的に受験勉強させられてね。

 デッサンの勉強もしなきゃいけないんだけど、学校に唯一いた絵の先生が、僕が高校3年の時に東京に帰ってしまった。だからその先生を追っかけて、受験の10日ほど前から先生のアパートに下宿してデッサンを教えてもらいました。僕は別に美術学校に行きたいと思っていないのに、周囲がそういうふうに盛り上げていくからさ。しょうがないなと思って、抵抗もせず受験するつもりで行きました。でも、先生からいきなり「明日が受験だけれども、受験しないで郷里に帰りなさい」って言われて……。1年間ガリ勉させられて、それで明日いよいよ試験だっていう前日の夜にね。それで僕は「あ、そうですか」って故郷へ帰りました。

──その時横尾さんは怒らなかったのですか。

横尾 全然。僕はね、もう成り行き任せっていうのか、そういう性格なのです。年寄りの両親に育てられて、自分が主体的な意思を持たない教育を受けたんでしょうね。だから親が全部やってくれて、僕はただじっとしているだけだったし、学校の先生の言う通りにしていた。

 でもそこから僕の人生が狂うわけです。受験しないで帰ってきたので、「どうして受験しないで帰ってきたんだ」と先生たちは驚くわけですよ。校長先生は何とか東京の美術大学に入れようと「とにかく横尾くんをあの美術大学へ入れてくれ」と絵の先生に頼んだので、しょうがないから先生は僕を引き受けた。でも、もし僕が受験に合格してしまうと、学費もいるし生活もしなきゃいけない。僕の家庭の事情を考えると、そんなお金一銭も持っていない。僕はバイトで稼ぐ、なんて偉そうなこと言っていたらしいんだけども、そんなもん現実的に不可能だと絵の先生が判断したのだと思います。

 

 

展覧会会場で就職が決まる

横尾 故郷に返されたけど、もう他の大学に入ると言ったって願書なんか出していないから、どこにも行けない状態でぶらぶらしている間に、印刷屋さんに勤める話が舞い込んできて就職しました。

 印刷屋さんに勤めている間も、いろんなところにイラストカットを描いて投稿していたんですよ。兵庫県の県民紙である神戸新聞にも投稿していて、よく入選していました。

 ある時、僕みたいな投稿少年が5人ぐらい集まって、神戸で展覧会をしないかと声をかけられたんです。紙面上で名前だけは知っていましたけれども、全員知らない連中でした。その中の一人が音頭を取って、個展グループをつくったわけです。僕もそのグループに入れられて、神戸の喫茶店の2階で展覧会を開催しました。それを、たまたまお茶を飲みに来た神戸新聞のデザイン課の課長と、イラストレーターの灘本唯人さんが見て「この子面白いから神戸新聞に入れたら」と、灘本さんが神戸新聞の人に僕を推薦したんですよ。それでその場で神戸新聞に就職が決まってしまったんです。

──展覧会がきっかけになったのですね。

横尾 イラストレーターという名の職業も知らないし、本来は絵を仕事にするという気持ちが一切ないから、その時はなんだか他人ごとみたいな感じがしました。

 兵庫での神戸新聞の存在はすごく大きいものだったんですよ。だからそんな会社に入ってデザインをすると言うのは、夢のまた夢のようなことだと思っていました。言ってみれば、普通だったら高卒のままでは会社に入れないのに、なぜか突然一流企業に入ることになったわけだから。

 

運命に任せるのが僕の宿命

──当時は想像できなかったようなことが、起こっていったのですね。

横尾 それはね、僕につきまとっている一つの宿命っていうのか、運命的なものだと思うんですよ。僕は横尾家に生まれたわけじゃなくて、別の親から生まれて、僕の意思と関係なく横尾家に養子に行かされたわけです。もうそのこと自体が僕の運命であり、一つの宿命です。

 だからそういったことで、自分の意思で何か行動するということには、なんとなく興味がなかったような気がするんですよ。いろんな人たちが、いろんなふうに僕を導いてくれた結果、そうなった。神戸新聞に入ってから今日に至るまで、自分の意志でもって何かことを起こすっていうことはほとんどしないできました。周辺の誰かがサゼッションしてくれたり、運命の路線に乗っかるのは僕の宿命だと思っているので。与えられれば、その時点で今度は主体的な行動に移りますけど、その前のシチュエーションを設定するのは僕ではなくて、全部他人だったんです。

 自分の意志で何かやりたいと動いた場合は、怪我したり病気したりして、あんまり良くなかった。あるがまま、なるようになる、そういう一つの法則みたいなものが働いていて、その法則に乗っかっていれば、生きていけるんじゃないかっていうことを、僕自身の体が覚えてしまっていたような気がするんですよ。仕事に関しても人間関係にしても。相手が与えてくれたものに対して、それを受け入れていた感じだから、楽と言えば楽ですけれどね(笑)。学歴があるわけでも、絵の専門教育を受けたわけでもない、完全な独学ですから。他力に任せるしかなかったんです。

 

田中一光さんに誘われてビックリ

──そこから、日本デザインセンターに勤められるまで、きっかけはどのような流れだったのですか。

横尾 3年間神戸新聞に勤めた後、大阪のナショナル宣伝研究所に1年間だけ、勤めたのも声がかかったことがきっかけでした。僕の作品が展覧会で賞をもらって、それを見た人が大阪のナショナル宣伝研究所の所長に僕を紹介して、会った瞬間に「明日から来てください」と言われたのです。しかし、会社の事務所が東京の六本木に移ることになったので、それに便乗して突然東京に出て行くことになったのです。そして東京へ来てすぐ、関西でもお会いしたことのあったデザイナーの田中一光さんのところに挨拶に行ったわけ。そうしたら一光さんが、「今度、日本の優秀なデザイナーが集結した『日本デザインセンター』という会社ができるから、来ないか」って言われて「ええっ!」ってビックリして(笑)。東京オリンピックのポスターをつくったデザイナーの亀倉雄策さんが重役の会社でした。僕だってナショナル宣伝研究所で東京に出てきたばっかりですよ。そもそも関西から出てくるときに、所長からは「東京へ行って一旗揚げようなんて考えるような者は連れて行かない」って言われていたし、僕自身もそんな気持ちもなかったんです。でも、東京へ来て1週間も経たない時期に一光さんが、棚からぼた餅みたいな良い話をくれた。そうするとね、やっぱりそちらのほうがレベルがうんと高いので行きたいと思いました。日本のトップクラスのデザイナーが集結しているわけですから。

──日本を代表するデザイナーの方々に突然囲まれてご苦労はなかったのですか。

横尾 神戸新聞に3年、ナショナル宣伝研究所に1年いたから、デザイナーとしては4年のキャリアがあるんです。関西にいた時にも、デザインコンペに応募すると、入選入賞はしていましたが、見渡す限りトップクラスの人たちばかりのいる会社で、僕は彼らと肩を並べるだけの力もなかった。それがプレッシャーになりました。だけどなんか知らないけども、ススーっていけてしまったわけです。

 その後、そこを辞めてまもなくして僕の個展の会場で三島由紀夫さんを知ることになるわけです。

 

「なんて無礼な芸術だ」

──三島さんは最初、横尾さんの作品をご覧になって「なんて無礼な芸術だ」とおっしゃったそうですね。

横尾 三島さんはね「作品はむしろ無礼な作品を描くほうがいい。だけど日常生活の中で無礼な行動を起こしちゃダメだ」って言うんですよ。僕の作品の評価の仕方として「無礼な絵だ」と言われたんだと思うんです。だから否定的な批評じゃなくて、三島さんとしては最大の褒め言葉なんですよね。そのことで、メディアの人や、いろんな人たちが理解し始めたんですよね。

──三島由紀夫さんがおっしゃった「無礼」とは、具体的にどういったことが無礼になるのでしょうか。

横尾 やはりエロティックな絵を描いたりね。僕はポスターをつくっても何をやってもルールから外れる。それを無礼と言われたんですよね。

 三島さんから評価をもらった作品を描いた時は、今も東京・京橋にある南天子画廊から、油絵の展覧会の依頼を受けたんです。でも油絵なんて、そんなの描いたことないわけです。だけど、頼まれた以上、何とか描いてみようと思った。その作品を三島さんだけでなく、澁澤さんが買ってくれたり、いろんな人たちが買ってくれたんですよ。

 三島さんから、初めて依頼されたのは「『女性自身』の連載をやるから、挿絵を描いて欲しい」ということでした。その挿絵を見た人たちから仕事の依頼がどんどん派生して3─4年の間に、寺山修司さん、舞踏家の土方巽さん、小説家の澁澤龍彦さん、そういった時代をつくった方々の間での評価が高くなって、短期間で60年代の文化の担い手の人たちと交流が広がったんです。

三島由紀夫氏が「無礼だ」と称賛した作品 「よだれ」1996年 キャンバスにアクリル 530×455㎜ 徳島県立近代美術館蔵

 

 

美術教育を受けていないからできる表現

──みなさんは、横尾さんの作品のどこに惹かれていたと感じましたか。

横尾 あの時代はね、デザインの世界ではモダニズムの時代と言って、合理的機能主義の当たり障りのないモダニズムデザインが時代の主流だったんですよ。だから田中一光さんとか、亀倉さんなんかは非常に正統派のデザインだった。でも僕はデザイン教育を全く受けていない人間だから、無手勝流でしかできないわけ。それが、その時代の日本の近代デザイン(モダニズム)に対して、反モダニズム的な立場の作品をつくってしまったわけですよね。僕自身が独学でデザインの教育も、美術の教育も受けていないので、好き勝手なことができたわけです。それを文化人たちが評価してくれて、「自分たちが求めている時代の絵だ」っていうふうに解釈してくれたと思うんです。だから文化人を通して仕事が増えていったんですよね。

──そう思うと、大学受験1日前で帰ったことが分岐点だったように思われますね

横尾 そうなんです。別れ道ですね。もしあのときにね、受験して通ったとすると、上野の団体展に出品しているような、どうってことない面白味もない作家の一人になっていたでしょうね。まあ、それ以前に経済的に無理だったと思います。

──ご自身に一番影響を与えたと思う人はどなたでしょうか。

横尾 三島さんは、人間的っていうのかな、人間形成の上でずいぶん影響を与えられた方です。

──三島由紀夫さんが自決されたことは横尾さんにどんな影響を与えましたか。

横尾 三島さんがデザインの道をつけてくれたのが非常に大きかったので、もう三島さんには頼れないと感じ、自立精神が養われたと思います。

 

アートの巨匠たちとの交流

──海外アーティストの方々との交流も多くされていますが、その方々からの影響は?

横尾 実際会っていないけれども、ピカソとか、もう亡くなった芸術家からの影響も多いですよね。もちろん現実に会ったジャスパー・ジョーンズだとかロバート・ラウシェンバーグやアンディ・ウォーホルとか、そういったアメリカのトップアーティストを知ったことは大きかったです。

 アメリカは、ファインアートとコマーシャルアートの世界が完全に分かれていて、両者の交流が全くゼロなんですよ。日本では交流はありましたが。だけど当時僕はデザイナーでありながら、アメリカの現代美術の巨匠たちと交流が起こった。これも不思議だなと思って。

──横尾さんの作品をアートだと捉えていたのでしょうか。

横尾 それもあったかもわかんない。「デザイナーの割には、なんかアートの世界に踏み込んできてるな、コイツ」っていう感じですかね(笑)。そういうことで興味を持ってくれた、というところもあるかもわかんないね。

──アメリカの現代アートの巨匠たちに会ったきっかけは?

横尾 1967年に初めてニューヨークに行った時、僕の作品をコレクションしているアメリカ人のライターに電話をしたら、「昨日ウォーホルが家に来て、君の作品を見て感心していたよ」って言うんです。彼は日本へ旅行したときに僕の作品を買って帰っていて、それを訪ねてきたウォーホルが見たらしいのです。「会いたいかい?」と聞かれたのでお会いしました。

 また、ジャスパー・ジョーンズのところへ行ったら、「ラウシェンバーグのうちへ遊びに一緒に行こう」と誘われて行ったり。僕が無意識で求めたものかもしれないけれども、そこに現実的な運のようなものが関わってこないと、なかなかこういった方々に会えないですよね。その後、僕がニューヨークへ行った時、ジャスパー・ジョーンズに連絡をしたら、「ちょうど明日ハロウィンのパーティーやるから遊びに来ないか」と誘われて紹介された人が、ジョン・レノンだった。次の日にオノ・ヨーコさんから電話がかかってきて「家に遊びに来ない? 」と言うので遊びに行くわけですよ。

 

オノ・ヨーコさんとの交流

──どんなお話をされるんですか。

横尾 僕は英語もできないから、ヨーコさんとは日本語でいろいろお話ができました。彼女は日本のことに関心があるから、僕にいっぱい質問を投げかけてくるんです。特に日本のメディアに興味があったようです。つまり、「ビートルズを解散させたのはオノ・ヨーコだ」っていう考え方は日本のメディアの中にもあったわけですよ。だから、そういったことがヨーコさんとしてはすごく気になっていましたね。状況がどういう具合なのか、というようなことを僕に聞きたかったのだと思います。

 ヨーコさんのところに行ったら、日本の週刊誌とか、雑誌がたくさん山積みであったから、びっくりしました。週刊誌は誰かが送ったのか、自然に集まってきたのかは知りませんが。そうこうしているうちに、ヨーコさんとはすごく仲のいい友達になりました。今でも日本に来ると、誰にも会わないでいきなり僕のところにいらっしゃる。この前も電話でニューヨークに来ないかと誘われたけど「体調が良くないので、ちょっともう一生行けないよ」と言ったら1週間後に電話がかかってきて「今東京にいるんだよ。会いにきたよ」って、コンビニに買い物に行くみたいな感じで(笑)、車いすで来ちゃうんだもん。びっくりするね、あの行動力っていうのは。

 そういう人たちとの交流の中から、彼らの考え方、生き方、生活の多くに触れることがまた僕の影響にも繋がっていってると思うんですよね。

──それは作品からもでしょうか。

横尾 作品にも生き方にもですね。作品をつくることと生き方、生活はもう僕の中で一体化されていて別のものじゃないわけです。朝アトリエへ来て準備したり、絵を描いたりすることがもう僕の生活になってしまっているわけ。例えば旅行に行くとか、コンサートに行くとか芝居を観るとかいうそういう特別なことじゃなくて、朝起きてご飯を食べたりするように、絵を描くことが生活の一部なのです。
 
昔は別だと思っていたのですが、段々近づいて今は一つになっちゃった。これは、コロナのせいでもあるよね。「外出するな」と小池さんが言うからさ、素直に「はい、わかりました」って、ずっとアトリエにいるわけですよね。外へ出なくなったから絵を描くしかすることなくなっちゃって。コロナ様々ですよ(笑)。

 生活ってのは、よくあることが生活になっちゃう。今こうしてお話しているのも、生活の一部であると同時に、絵を描くことと僕の中で繋がっているわけです。

 

ピカソ展で電流のような衝撃が全身を走る

──1981年ニューヨーク近代美術館でピカソ展を観たことをきっかけに、「画家宣言」をされました。何が横尾さんをそうさせたのでしょうか。

横尾 何が僕を画家に転身させたかは謎です。画家になりたいなんて考えたこともなかったんですが、雷が落ちたように僕の全身を電流のような衝動が走って、まるで「画家になれ!」と天から命令を受けたような衝撃の前では従わざるを得なかったんです。すでに語りましたが、僕は常に他力によって行動を促されてきました。与えられたものには抵抗できないのです。

──デザイナーからアーティストへと転身をされて、ご自身の中で一番変化したと思うことは何でしょうか。

横尾 デザイナーはお仕事という職業でしたが、アーティストは生きることの実践でした。

──画家への転身は、経済的な不安はありませんでしたか?

横尾 デザインをやっているときは経済的に豊かでした。でもアートに転向した途端、役に立たないことをやり始めたために、経済的にはものすごくピンチに襲われましたね。絵はある程度売れるけども、デザインでの稼ぎの足元にも及びません。描いたものが全部売れるわけじゃないですからね。でも不安はゼロです。描きたいっていう気持ちが最優先しているために、他のものは寄せつけませんでしたから。

 それと、妻が経済的なことは一言も僕には言いませんでしたから、お金のことは全く考えませんでした。

 僕の運命は、必要なときに必要な人が現れたり仕事が来たり、僕に必要なときに必要なものが与えられると思っているわけで、不必要なものは与えられないと思っている。その代わりに、これ以上のことをしたいとか、それ以上のものを求めるっていうこともあんまりしません。だから悲しんだり苦しんだりは一切ない。それは多分うちのかみさんもそうだと思う。だから画家宣言の時も同じ気持ちだったんじゃないかな。

 

現代人は運命に逆らっている

横尾 運命に対して、従って生きていくタイプと逆らうタイプと二通りあると思いますが、現代人はほとんど運命に逆らっていると思う。もっといいことが起こるんじゃないか、もっといいものに出会うんじゃないか、そのために努力したりする。でも僕は運命に逆らわない。それをただ待っているだけだから、そのための努力はゼロです。

──運命はみんな平等なのでしょうか。

横尾 みんな平等にあると思います。でも自由意思は神様が与えたと思う。「運命に従うのか、逆らって生きるかはあなたの自由です」──そういう自由を与えたわけ。僕の場合はちょっと怠け者的なところがあって「運命に従います」と僕の魂が語ったんだと思う。

 今以上のものを求めたらいくらでもあると思うけど、僕はそういう努力をする必要がないわけだから。それ以下のものも求めない、ただ与えられたものを受け入れるっていうタイプで僕は生きてきた。でもこういう話をすると、みんな驚いて「どうしてそんなことができるの? 」って聞かれるんだけど、それは面倒くさいことはしたくなかっただけの話。だから運命に逆らって生きていく人は大体面倒なことをするのが好きな人が多い。与えられたものをそのまま受け入れたらいいのに、と思います。

 僕が結婚する時も、一人気になる人が新聞社の中にいたけど、積極的に僕から行動を起こしたわけではないんです。その気になる女性が向こうから、第三者を通してアプローチしてきたんです。そして、ひょんなきっかけで喫茶店で会おうとなったのだけど、当時の僕はお金を持ってないから、コーヒーとか紅茶とか、ご飯を食べたりするお金も全然ありませんでした。そのことを彼女は知っていた。僕はお好み焼き屋さんに下宿してたんだけれども、会ってから1週間もしないうちに、彼女が新しくアパートを借りたの。普通はアパートを借りるとき、一緒に住むかどうしようかっていう相談をすると思いますけど、勝手にアパートを借りてきたんです。僕は下宿の身で本が何冊かと着替えが少しある程度だったから、そのままタクシーでついて行って以来、70年一緒にいるんです。結婚とは一般的には重要だけど、僕にとっては運命の流れに従っただけです。

 うちのかみさんはね、あんまり話をしないからよくわからないんです。観念的な話とか、一切興味ないので話さない。だから何を考えてんのかわからないけれど、それはそれでいいと思う。

 つまらないことで喧嘩もするけど、ものの考え方が違うために喧嘩するということはありませんね。

 

何を描いても死の世界が現れる

──日々の生活の中で、「死について考えない日はない」とご著書の中でおっしゃっていましたが、それはいつからですか。

横尾 もう子どもの頃からです。小学校3年生が終戦だから、戦争の最中に育ったのですよね。B─29が上空を飛んできたり、グラマンていう戦闘機が機銃掃射で歩いている人たちを撃ったりする。「死」は戦争と直接結び付いていたわけです。

 もう一つは僕の両親が老人だったから、そんなに長生きしないこともわかってしまう。よその両親はみんなもっと若いのに、なんでうちの両親だけこんな爺さん婆さんなんだろうと思っていた。だから、早く両親と別れることになるだろうな、一人っ子だからその時はどうしたらいいんだろうとか、自分が死ぬことよりも、両親が死ぬことに対する恐れが、ものすごく強く僕の中で生まれていたんです。

 戦争は自分が死ぬことに結び付いていたし、死に対する考え方が子どもの頃に植え付けられてしまったんだと思います。

 僕は、何を描いても死の世界が作品の中に知らず知らずに、現れてくるんですよね。死をテーマにして描こうなんて思っていないのにもかかわらず、死に対する考え方が自分の体の中で血肉化してしまっている。そこから発想してくるものは、やっぱり死を通過しているわけです。想像力そのものが絵に定着していくから。例えば絵にリンゴや猫を描いても、死にまつわるリンゴであったり、死にまつわる猫であったり、何か全てが意識しなくても死が作品に現れてくる。観る人たちは、僕の作品と死という問題を結び付けたり、批評してくれるから、それはそれでいいのかなと思うしね。

──今は日本にいて、銃撃で殺される可能性は少ないので、個人的には死は身近ではないと感じています。

横尾 僕はね、そこに直接的な死がなくても、例えば東京のような発展した大都市の風景を見ていると、こんな風景が永続きするはずがない、いつか破滅を迎えるに決まっている、というものの見方をしてしまう。

 死と反対のものである幸福や平和だったりするものを見ても、その背後には必ず死があるんだと考えています。有名なスターほど早く死んでいるのを見ると、その死と引き換えに世の中で際立った存在になっているんだなと思うわけね。

 それから、老人から見ればこれから残っている時間はそんなにたっぷりはない、少ない時間の中で生きてるっていうことも、これも生きながら一種の死の体験をしていると思うわけ。何を見ても、なんて言うか、静かに死が潜んでいるっていうのかな。物陰から静かに死がこの世界を覗いていて、いたるところに死が蔓延していると感じるんです。だから生だけ考えることはできない。必ず死が同時にある。僕は死を考えることで特別焦ったり、恐れたりは別にしませんね。

 

目に見えない背後にもう一つの現実

──生と死は一体のものであると。

横尾 そうですね。この瞬間でも、ウクライナとロシアで戦争している人がいるわけだから、どこかで死の現実と向き合っている人たちもいる。今この瞬間に交通事故で死んだ人がいるかもわかんない。常に、生の背後には死が影のように潜んでいる。そういうふうに物事を捉えていかないと、一面的にしか物事を見なくなってしまうわけだからね。

 目に見えないその背後に、この現実と分離したもう一つの現実がある。現実の背後には必ずもう一つ、この現実ではないもう一つの現実がある。それはもう全てに言えることだと思います。ネガティブなものとポジティブなものは常に一つになっている。美があれば、醜いものがある。男がいれば女がいる。電気がプラスだけでマイナスがないってことはあり得ないんだから。必ずそういうものが対になって一つのものになっている。

 全ての背後にあるものに光を当てて、そのことも同時に考えなさいとは言わないけれども、必ずそういう両面があるんです。どんなに偉い人でも有名な人でもみんないつか死ぬ。死なない人間は一人もいないわけだから、必ずみんな同じ運命を辿るんです。

──幼少期は恐れていた「死」を恐れなくなったのは、何故でしょうか。

横尾 それは死を避けるのではなく、恐れの対象である死の側に立って、死に関する様々な死の事象に自らを位置づけ、死と一体化することで、死の恐怖を乗り越えようとしたからです。

──言葉について伺います。横尾さんは非常にたくさんのインタビューや対談、ご著書も出されています。言葉にすることと、絵にすることは対極にあるように感じますが。

横尾 僕は言葉にならないものを表現しているので、それだけで十分だと思うんですよね。だけどそれだけだったら僕が何を考えている人間だか自分もわかんないわけ。だから自分が何を考えている人間なんだろうということを、エッセイを書くことによって、言葉に置き換えるとこんなことを考えていたんだと確認するためにしています。

 僕の中では、言葉と絵との関係はそういうことです。

 

「記憶の鎮静歌」
1994年 キャンバスに油彩、アクリル 1818×2273㎜

 

 

「気分」を大事にすること

──絵のタイトルも言葉ですが、どこまで言葉にするかしないか。その境目みたいなものは何かあるのでしょうか。

横尾 あんまり考えたことないですね。そのときの思いつき、そのときの「気分」そのものを大事にしているので、何かそこに意味を持たせるとか、言葉で何かを言いたいとかはありません。

 気分なので僕の絵のタイトルはでたらめが多い。例えばテレビを見ていて面白いセリフを喋っていたりすると、セリフをそのままタイトルにしちゃったりする。ピカソみたいに花とレモンがあると、「花とレモン」というタイトルをつける。これでもいいんですよ。

 だけど観る人はそこに何か意味を付けて観るじゃないですか。それはそれで、その人の問題として面白いと思う。僕から離れたところで、僕の絵と言葉が独り歩きしているわけだから。

 僕はこういうふうに感じなさい、こういうふうに読んでください、こういうふうに観てくださいというコンセプトや要求は一切しません。中にはそれを要求する作家はいますけれど、僕は全然しない。本当にそのときの気分を一番大事にしています。絵を描くのも気分。何か食べるときも、話をするときも、全て気分です。だから絵を観る人も、その時その時の気分で十分だと思う。一つの絵でも、今日と明日ではまた違う意味を見るかもわからないしね。

 僕自身が何か、絵に示唆を与えていないから。見る人の経験と、その人の思索(思想)、それを自分の中で一つにして感じてくれればいい。わかろうとすることは必要ないと思う。感じるっていうことでいいんじゃないかな。

 

感じることの大切さをアートで示している

──世の中には何でも答えを出したくなったり、定義づけしたくなることがよくあるように思います。

横尾 それは答えが出ないと安心できないみたいなものが、どっかにあるのかもわかんないね。答えなんか出すこと自体、そんなもん答えはないと思う。

 いつでもわからなきゃいけない、こうせねばならないという大義名分を持ってでしか行動しない人、あるいは損得ばかりを考えて行動するような人が多すぎる。社会的に地位のある人の中にもそういう競争意識しか持っていなくて、理屈でものを言っている人は多い。それは面白味がないように思います。

 僕は以前、座禅をしに行っていろんな経験をしたけれども、答えなんかないんですよ。禅の修行で、老師が何か公案(問題)を投げかけて、それを弟子の雲水(若いお坊さん)たちが応えようとしますが。最初から答えのない質問を、若いお坊さんは真剣に考えちゃう。それも一つの禅の修行です。

 その日の気分によって、今日の答えはAだけれども、明日になると答えがBになるかもわかんないし、どんどん変わるから答えなんてないんです。

 自分に質問を投げかけて答えようとする。その答えに対してまた質問を投げていく。質問と答えをどんどん繰り返して最終的に、人類は核をつくるようなことにまでいってしまった。地球も人類も破壊するようなところに答えを持っていったわけです。答えを出そう、応えようとする気持ちが最終的にそうさせてしまった。そんなものは最初からアンタッチャブルなもので、触れなきゃいいのに、人間の知性がそうさせてしまったんです。だから頭でものを考えるよりも、感じるっていうことがいかに大事かっていうことを、アートが示そうとしているわけです。ところが、そのアートが考え(知識)を要求させる。おかしいと思いませんか。

 

現代美術は観念になっている

横尾 現代アートは、言葉で答えを出そうとしている作品があまりにも多い。だから今の現代美術の最先端はみんな観念ですね。僕がやっているのは観念ではない。最先端の美術が観念だから、若い人たちがみんな、観念芸術に興味を持ってくる。すると頭でっかちになってしまう。社会のためにとか、プロパガンダ的にどうとか。セザンヌみたいにただヴィクトワール山を描いてリンゴを描いてる、それだけじゃ現代アートはダメだ、もっと意味のあることをしなきゃいけないと、意味をいっぱい詰め込んでいる。役に立つような方向へ行きつつある。作家もそれなりの難しいことを発言することによって、尊敬もされるし地位も名誉も上がるかもわからない。そうすると最終的に破滅の世界に行ってしまう。

 我々は答えのない世界に住んでいるわけですよ、実は。

──答えのない世界ですか。

横尾 目の前にある絵を見て、綺麗か汚いか、気持ち悪いとか良いとか感じるだけでいいのに、その意味を探したり求めたりするわけです。描いている人間はそんなこと考えていないのです。自分が何をしているのかわからないのが僕たちの一つの仕事。何をやってんのかわからない、自分でも。それを見る側が勝手に感じ取る、それはそれでいいと思う。

 

やっぱり「気分」が大事

──タブーや余計な規則など、そういうものがない世界があったら、人間の本来の姿が見えやすいのかもしれませんね、原始人みたいな。

横尾 多分そうでしょうね。原始人には言葉があったかないか知らないけども、人間の本来というのはその原始の持っている想像力とか生命力は、今でも我々は持っているんです。だけど自分は現代人、近代人であるということの意識が強すぎて、それを全部言葉で置き換えて納得しようとする。我々はそういう世の中に今住んでいるわけですよ。どこもかしこもみな言葉ばかりでさ。言葉で納得して、言葉で安心して、言葉で恐れているみたいなところがあるわけ。だからさきほどから何度も言っている、「気分」がやっぱり大事なんですよね。それしかないんです、考えた結果。

 ただ、気分というのは非常に感覚的で曖昧なものですよね。だから、観念的で理屈っぽい人にとっては、気分とは、恐れる対象なんです。マイナスのフレーズに捉えられる可能性すらあると思います。僕はそのように取られてもいいから、あえて「気分」という言葉を使っているんです。

 今は何か物事をするにも必ず目的を持っていないといけないと思っている。損するか得するかを鑑みて、損することは皆しない。気分には理屈がないから、損得も利害関係も何にもないわけ。だから、そんなことは意味がないっていうことをアートで示そうとしている。意味のあることをする必要はないわけですよ。アートはどちらかというと意味のないこと、役に立たないことをやっているんです。デザインというのは役に立つことしかしない。クライアントが商品を売るためにやることですから。

 

アーティストからアスリートに

──今年の9月に東京国立博物館で個展「横尾忠則 寒山百得」展を開催されるとのことですが。

横尾 今年の9月までが締め切りだったけど、もう去年中に100点描き終えてしまいました。これもコロナ様々だと思う。することと言ったら絵を描くことしかないから。去年の夏ぐらいに急性心筋梗塞になって、死なないで生き返ってきたんだけれども、その1年間でちょうど100点描けました。

 僕の中では、45歳か50歳ぐらいの時に1年間で35点描いたのが一番多かった点数。その時たくさん描けたとびっくりしていたのに、今はもっと描けています。体力もパワーもそんなにないけれど、描こうと思うと何かが手伝ってくれるんじゃないのかな。無意識がそうしたのか、自分の中のエネルギーが手伝ってくれるのか知らないけれども。それで100点描かせてくれたのだと思う。たくさん描けたのは、頭から観念と言葉を廃除したからです。すると描くことにスピードが出ました。アーティストではなく、アスリートに変わったんです。だから早く描けたんです。

 描き終えた時、たまたま次の展覧会の話が来たから、今はその準備をしています。展覧会まで2年あるので、病気しなければ十分描けます。

──それは楽しみです。ありがとうございました。

聞き手:本誌 並木悠

 

ご経歴
よこお ただのり:1936年兵庫県生まれ。72年にニューヨーク近代美術館で個展。その後もパリ、ヴェネツィア、サンパウロなど各国のビエンナーレに出品し、パリのカルティエ財団現代美術館など世界各国の美術館で個展を開催。2012年神戸市に横尾忠則現代美術館、13年香川県に豊島横尾館開館。95年毎日芸術賞、11年旭日小綬章、12年朝日賞、15年高松宮殿下記念世界文化賞、20年度東京都名誉都民顕彰、23年日本芸術院会員。著書に小説『ぶるうらんど』(泉鏡花文学賞)、『言葉を離れる』(講談社エッセイ賞)、小説『原郷の森』ほか多数。

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