公研2025年12月号「めいん・すとりいと」
いずれこの稿の著者となる私にとって、「身辺雑記」は誠にありがたいお題である。
その昔、小学校の国語の課題で書かされた作文のテーマも、平明な言い方だったが、それに準ずるものではなかったか。ほのぼのと、懐かしさが立ち上がってくる。このお題、戴きます。
作文がカリキュラムの一環とは知らず、てっきり担任教師の即興と思い込んだ当時の私は、「読んでばかりいないで書いてみよう」という勇ましい方向転換にいたく発奮して、まるで雷に撃たれたように、初めての作文にのめり込んだ。爾来、私は作文の課題が巡って来るのを心待ちにするようになる。「君はツマらなそうな顔して、面白いことを言うね」と大いにウケてくれた先生に、もっと応えたい気持ちもあった。
身の回りで日常茶飯に起きる様々な不思議に驚くこと。自分の目線で、平常心を失わずに、ひたすら驚くこと。私の「身辺雑記」は、いまも昔も、それに尽きている。
「さて私の目線」と、おもむろに机に向かった私はつと手を伸ばし、胸元に吊り下げるように、蔓の両端を紐で繋いだ眼鏡をたぐり寄せた。
色々と眼科的な効能を併せ持ってはいるが、要するに老眼鏡だ。これを首に掛ける。
待てよ、考え事や回想にも眼鏡は必要だろうか。私はただ、自分の目線がピンボケであって欲しくないだけなのだが、まあ念の為。
それでなくても視力の衰えの速いこと。まさに鶴瓶落しだ。細字に至っては、昨日読めていたものが今日はもう読めない。
決して自らの老いを悔ったわけではない。眼鏡の携帯に不馴れなだけだったが、過日、うっかり裸眼のまま外出して、たて続けに酷い目に遭った。
先ずトイレに軟禁の一件。
間一髪、綺麗なトイレの個室に滑り込んだはいいが、偶々そこは新式の洗浄システムで、勝手が違う。用を済ませて見渡せば、私は、指の腹に埋まるくらい極小な押しボタンの列に囲まれていた。ボタンには夫々用途が記されているようだが無論私には読めない。
押し間違いを恐れて手も足も出ないまま数分が経過、無名長夜とはこのことか。これでは埒が明かぬと、堪らず当てずっぽうにボタンをまさぐると、どこをどう押したか、最初の一押しで魔法のようにスプラッシュが作動した。やはり私はタカを括っていたのだな。僥倖に救われるとは。
撮影現場に着くと、助監督に「今日は本読みから入ります」と告げられた。「聞いてないよ」と私。もとより台本は持参のうえ、台詞も九割方入っている積もりだが、それが問題ではない。本読みは文字通り本読みなのだ。暗唱や台詞合わせといった表芸からは最も遠い「情報確認」だ。目的地にたどり着くまでの行程を、地図の上で目視しつつ、指で注意深くなぞる行為に近い。
私はどうしたか? 自分の台詞部分を指でなぞりながら、その速度に合わせて、いわば「素読みのアフレコ」を試みたのだ。無茶苦茶だが、三歩下れば立派な本読みである。奇計ではあるが、この一回の本読みを恃む者が必ずいると思えば、眼鏡を忘れたぐらいでこの機会を潰すワケにはいかない。乗るか反るか、どこか──マメットの芝居を演じるような、必死の緊張感で決行に及んだ。
さて、老化は、日常が呈する不思議などと言っていられない、既成事実である。生きていくかぎり、本番体制は解除してはならない。
眼鏡は忘れてはいけない。いずれ補聴器も入用になるだろうが、それも忘れてはいけない。…忘れてはいけないということを、絶対に忘れてはいけない。
俳優
