公研2025年12月号「めいん・すとりいと」
ひょんなことから、朝日新聞で二年間、文芸時評を担当することになった。文芸時評なんて、川端康成や小林秀雄など、とてつもなく偉い人が書くものだと思い込んでいた。だから声をかけていただいたときには驚いた。けれども、せっかく期待してもらった以上がんばってみよう。それで四月から始めて、半年以上が過ぎた。
文芸時評とは、毎月一回、その月に出た文芸誌を全部読んで、この作品がいいとか悪いとか評価する欄である。というか、かつてはそうだった。しかし担当者に訊いてみると、今ではだいぶ様子が異なっているらしい。文芸誌にかぎらず、単行本や翻訳など、日本語で読めるという以外、何も共通点がない作品を広く目配りして、これは、と思うものをお勧めするコーナーに変容していた。
雑誌や単行本を虚心で読んでいて、驚いた点が三つある。一つめが、女性作家の圧倒的な存在感である。近代日本文学史を紐解けば、夏目漱石も森鴎外も、最近では大江健三郎も村上春樹も、みんな男性だった。だが、たとえば、二〇二五年を代表する作品と言われて頭に浮かぶのは、多和田葉子の『研修生』、柴崎友香の『帰れない探偵』、あるいは市川沙央『女の子の背骨』などである。
なぜ、このような事態になっているのかはわからない。日本社会における女性の地位向上とか、読者中の女性の割合が多くなってきているとか、さまざまな理由が考えられるだろう。だが、どれも当たっているような、外れているような気がする。
このことは二つめの点につながる。日本の作家が海外の文学賞を受賞したり、あるいはそこに至らないまでも、候補になったりすることが増えたということだ。多和田葉子と柳美里は全米図書賞を獲得しているし、小川洋子はシャーリー・ジャクソン賞を獲っている。さらに市川沙央はフランスのメディシス賞の候補にもなった。言い換えれば、日本の現代女性作家たちの作品が、世界でも広く読まれているだけでなく、高く評価されているのだ。
現代日本文学では村上春樹だけが例外的に世界で読まれている、それは彼が、アメリカなど外国の読者にも読みやすい、国際的な様式で作品を書いているからだ、という議論がかつてあった。だが、様々な手法で作品を綴る女性作家たちが世界で受容されているとすれば、そこにはまた別の理由があると考えざるを得ない。
三つめは、韓国文学の圧倒的な台頭である。かつて日本で読まれている外国文学といえば、西ヨーロッパ各国にロシアとアメリカを加えた、欧米列強の作品だと相場が決まっていた。しかし、ほんの十年ほど前に本格化した韓国文学の紹介が現在、津波のような勢いにまで高まっている。ノーベル文学賞を受賞したハン・ガンだけではない。チョン・セランやチェ・ウニョンなどの女性作家、あるいはパク・ミンギュなどの男性作家と、若手から中堅、そして大御所まで、どっと一度に翻訳されるようになった。
韓国文学を読むには、心構えを変える必要がある。西洋の作品なら、彼我の圧倒的な違いを前提に、共通点を探る必要があった。けれども韓国文学は違う。たくさんある共通点の中に、しっかりと違いを見出しながら読んで行かなければならない。似ているが確実に違う、パラレルワールドの文学というか。
五十代になって、今まで文学とはこういうものだ、と信じてきた前提があっさりひっくり返されるのは、苦しいが楽しい。それだけでも文芸時評を書いてきてよかったと思う。
早稲田大学教授
