『公研』2014年6月号 第610回「公研セミナー」

袴田茂樹・新潟県立大学教授・青山学院大学名誉教授

特別公開するにあたって

 ロシアのウクライナ侵攻を受け、日本が主権国家として、ロシアのような国とどのように対峙すべきなのか。本稿は、この最も本質的な問題を考えるうえで、今でも示唆に富む内容だと考え公開いたしました。

 特別公開するにあたり、袴田先生よりメッセージを頂戴しました。

 「2014年4月のロシアによる「クリミア併合」直後の拙論は、今日のウクライナ問題に関しても、そのまま通用すると思います。戦争や紛争を繰り返してきた歴史の生地の部分は、簡単には変らない。むしろ冷戦時代の安定が例外だと述べました。21世紀の現在は、2つの世界大戦を行った20世紀前半と酷似しているとも私は述べてきました。核兵器時代の今日は、簡単には世界大戦は起こせませんが。
 公研が再掲載した拙論は、日本の対露政策、とくに北方領土問題で「ヒキワケ」発言をしたプーチン大統領への安倍政権の楽天的な幻想や卑屈なアプローチへの反省と、今後岸田政権はそれを繰り返すべきではない、とのメッセージになります。北方領土問題解決の期待から、安倍政権のロシアに対する柔軟な姿勢の結果は、安倍氏自身が平和条約問題の頓挫(というより、大幅な後退)に対して「断腸の思い」と辞任の弁で述べました。岸田政権が、対露政策でそのような過ちを繰り返さないためにも、8年近く前の拙論が日本政府の対露認識と日本外交を考え直すための機会になればと思います。
 ロシア人とは親密な個人的な人的関係を構築すれば、物事は大きく進むと述べましたが、「プーチンが領土問題で譲歩する可能性はない」とも述べました。国家主権に関わるような重大問題は、プーチン大統領と日本の首相の個人的関係を良くすることで解決できる問題ではありません。ロシア人は、すり寄ってくる相手は内心軽蔑し、緊張感を与える相手を内心尊敬します。
 プーチンの望んでいるのは自称「ドネツク人民共和国」「ルガンスク人民共和国」などのウクライナ東部の独立や併合ではなく、ウクライナを連邦制にして、東部の諸連邦の権限を強くし、ウクライナをNATOに加盟させないことだと述べました。しかし22年の2月21日に、「ドネツク人民共和国」、「ルガンスク人民共和国」の「独立」を認め、2月24日に軍事侵攻を始めたのは、ウクライナ、ロシア、ドイツ、フランスによって合意した「ミンスク合意」が完全に破綻したからです。ロシアにとってミンスク合意は、ウクライナ連邦制へ向けての第一歩でした。
 現在は「クリミア併合」後よりもわが国は真剣にG7の対露制裁に歩調を合わせています。ただ、真剣で効果的な対露制裁を行うとすれば、経済的その他、自らの重い負担を覚悟しなければ不可能です。わが国は、「どこにも痛手が出ない形」での対露制裁や領土交渉を旨としてきたので、実質的には、ロシアへの制裁も領土交渉も何の成果もなく、相手側に翻弄されるだけに終わりました。この点でも、政府も実業界もわれわれ国民も、猛省が必要だと思います。ロシアのエネルギー開発に関して、BPやシェルのような行動を、日本の実業界や政府が行えるかが問われています。「日本の国益も考えて」ではダメなのです。 ロシアでのエネルギー開発に関与してきた日本の専門家たちが常に強調してきたことは、プーチン自身がロシアにとってエネルギー資源は戦略的物資であると公言しているのに、「エネルギー政策ではロシアは純粋に経済論理で動いており、政治的リスクは何もない」という詭弁です。このような国際政治に関するナイーブな思考も考え直す絶好の機会です。
 8年前に述べたことで、1点だけ、その後考えを変えたことがあります。それは日本とロシアの間の「2プラス2」(安全保障問題に対する外務、防衛閣僚級協議)の第一回会議で、ロシア側が「他国に与えていない機密情報」を求めたことを知ったからです。平和条約さえ結んでいない国との「2プラス2」の締結は完全なる間違いです。   袴田茂樹」
 

 

ポストモダニズムの楽天主義

袴田 最近のロシア国内の雰囲気ですが、プーチン政権がクリミアを併合したことについて、モスクワの私の知人たちと電話で話をすることが多くなりました。ロシアの一般民衆の雰囲気は、「プーチンは凄い、英雄だ、よくやった」という、ある種フィーバー状態にあります。これはプーチン政権の支持基盤であるシロビキ(軍、警察、治安関係者)の間でも同様です。

 ロシア人にとっては、クリミアは歴史的にも思い入れのある土地なのですが、プーチンは軍事力でそれを奪い返し、ロシア人の大国主義ナショナリズムを大いに満足させました。ロシア人は伝統的に欧米に対して、そして近年は中国に対しても強い劣等感を抱いていましたが、クリミア併合はその劣等感を一気に吹き飛ばして、ロシア人は大国としての自信を回復したのです。

 ただ、私が付き合っている知識人でクールに醒めた目で物事を見ている人たちは、「プーチンの力によるクリミア併合も、商売大事で事実上それを黙認した欧米諸国や日本も、共にきわめてシニカルだ」と批判的に見ています。西側諸国は、クリミアはもはやロシア領と事実上認め、いまはウクライナの東部や南部の事態を心配している状況です。ウクライナの主権侵害を批判していますが、所詮は言葉のみで、実効的措置は何もとれないとロシア側は見ています。これをシニカルというのは、国際社会では主権をめぐる紛争は、法でも正義でもなく、結局は力がものを言うことを如実に示したからです。ただ、ロシアではこのような批判的な見方は一部の少数意見で、知識人も含め大多数のロシア国民はプーチンの行動を支持しています。

 二〇〇八年のグルジア戦争のときも、南オセチアとアブハジアという地域を事実上のロシア保護領にしましたが、欧米はそのときも黙認した。いま中国が南シナ海でベトナムやフィリピンと小競り合いをやっていますが、中国の力による領海占有あるいはロシアの力による隣国領土併合を目の当たりにすると、近年われわれが常識として受け入れてきた世界観──「ポストモダニズム」的な国際認識が厳しく問い直されていると考えざるを得ません。

 国際政治でいうポストモダニズムとは、グローバル化が進む二十一世紀において伝統的な国民国家や国家主権、それと結びついた領土・領海などは重要性を失っていき、国家を単位とした外交あるいは伝統的な安全保障や軍事力も次第に意味を失っていくという考え方です。つまり、国家を単位とした関係や紛争が国際社会を左右したのは二十世紀までのモダン(近代)の時代で、ポストモダン(脱近代)の二十一世紀ではヨーロッパ統合が示しているように、国境も各国通貨も意味を失って、新しい人類の共同体ができるという考えが持てはやされました。

 しかし残念ながら現実は逆方向に動き、いまや国家ではなく、そういう国家崩壊論が音を立てて崩壊している感じがします。もちろん、ポストモダニズムが指摘する国家の枠を超えた新しい諸現象が生じていることは事実ですし、私もそれを否定するわけではありません。しかし、国際関係の本質はさほど変わっていないのです。

冷戦時代はむしろ平和だった
 ポストモダニズムの考え方を典型的にあらわしたのは、イギリスの外交官、ロバート・クーパーの『国家の崩壊』(日本経済新聞社 二〇〇八年)でしょう。彼は、少なくとも先進国や大国間においては、国家が意味をなくしつつあり、伝統的な意味での安全保障の脅威はなくなったと主張します。つまり、国家単位の伝統的な防衛力・軍事力も意味を失ってきているということです。国家理性(国益論理)の非道徳性に対して、クーパーは二十一世紀のポストモダンの世界では、国際関係はより道徳的になってきていると言っています。いまとなっては、何かブラックユーモアのようですが。

 彼はこの本の中で、ロシアも帝国を諦めてポスト帝国主義国家として欧州の仲間入りをめざしていると述べ、ロシアが変わったので、もうヨーロッパやアメリカには対立する相手はいなくなったと書いている。現実にはロシアや中国を含めて世界には全く逆の状況が生まれているわけで、ポストモダニズム的な考え方の根底がいま揺らいでいると言ってもいいと思います。一時欧米でも日本でも、グローバル化の時代に、国家とか主権は意味を失いつつあるという理論が大いに持てはやされ、私のいた大学でも国際政治学科に「グローバル・ガバナンス」といったコースがつくられて人気となりました。そのとき、リアリストの故永井陽之助教授は、浮ついたグローバル・ガバナンスという概念に反対されました。クーパーは、二〇〇五年にイギリスの『プロスペクト』誌が発表した「世界最高の知性一〇〇人」の一人に選ばれています。「最高知性」もいいかげんなものですね(笑)。

 これと反対の考えを述べているのが、ユベール・ヴェドリーヌの『「国家」の復権』です。ヴェドリーヌはフランス人で、原題は『歴史の継続』(二〇〇七年)。もちろんこのタイトルは、フランシス・フクヤマの『歴史の終わり』(一九九二年)に対するアンチテーゼです。フクヤマは、歴史は弁証法的に発展するという見方を基礎にしています。弁証法については、年配の人は「正・反・合」という言い方を覚えていらっしゃると思います。ある状態が存在すると、必ずそれに対立するファクターが生まれる。この「正」と「反」が対立する中で新しい統合「合」の状態が生じる。しかし、それがまた自ずと対立要因を生み出す──つまり、歴史は対立や紛争を軸にして進むという見解です。

 ソ連邦が崩壊したのが九一年ですから、冷戦が終焉して、世界が二つの陣営に分かれて対峙する大きな対立構造がなくなった。これからの世界には小さな紛争は生じても、人類社会はより調和的になる、というのがフクヤマの言う「歴史の終わり」ですが、ヴェドリーヌは逆に、冷戦が終わってむしろ紛争や対立は激化している、あるいは「歴史は加速している」という考えです。いまから振り返ると、むしろ冷戦時代は平和だったな、安定していたなと思われるくらい、今日の国際情勢は不安化・複雑化して国際紛争も多発し、予見不可能な状況になっている。こういう意味で、歴史は加速しているという言い方をしているのです。世界政府はなく、国連も原理的に世界政府の役割は果たせません。この状況において世界の秩序は、主権国家間の関係によって辛うじて保たれているのです。ヴェドリーヌは、たとえ国家が主権を放棄しても、他がそれを代替できるわけではないから、各国が国家主権を弱めると世界はかえって不安定になるとも言っています。

 

国際関係の生地の部分は百年前と変わらない
 ポストモダニストは「国際市民社会」という言い方を好んで使いました。国家を超えた国際市民社会の時代には、国家、外交、軍隊ではなく多国間組織や非政府組織(NGO)、国際法、国際機関が中心的な役割を果たすという主張です。あるいは国家を人権と対立的にとらえ、国家権力や主権を規制し制限することこそが、進歩であり平和への道であり、それがまた各国憲法や議会の役割であるという考えです。ここには「国家=悪」という考えが潜んでいます。したがって、国家権力を制限すれば、人権が擁護され平和と安定が生まれるという楽天主義が背景にあります。西側諸国、特に先進国はこの論調に傾いて、このリベラルな考え方に疑問を呈するリアリズムは唾棄される雰囲気が強まりました。それに対してヴェドリーヌは、いまの世界は、国家の力の過大ではなく過小に苦しんでいるという言い方もしており、ポストモダニズムの楽天的な考えを厳しく批判しています。

 私も同感ですが、ウクライナ問題に絡めて言えば、もしウクライナに安定した国家権力が存在していたなら、そして十万、いやその半分の五万でも、整備され士気の高い軍隊あるいは治安部隊が存在していたら、クリミアの併合も今日のウクライナ問題もあり得なかったと断言できます。あるいはアフガニスタン、イラク、エジプトやスーダンなどアフリカ諸国の今日の混乱にしても、主権国家としての力がまともに機能していないことの結果です。あるいは、最近の東シナ海・南シナ海での中国の横暴な行動に対しても、東南アジア諸国はなかなかまともな対応ができず、アメリカのプレゼンスを必死に求めている。これもやはり力の過小によって、一部の国の横暴を許すという結果になっているわけです。さらにヴェドリーヌは、「文明の衝突」は政治的な対話では解決できず、結局は力が必要であるとも言っています。わが国には、「軍事力=戦争=悪」という考えが強く、平和主義を貫くことこそが平和の保証になるという考えが根強く存在しますが、これはそれとはまったく逆の発想です。

 ヴェドリーヌは右翼ではありません。欧州統合の反対者でもありません。フランス社会党所属の政治家で、統一通貨ユーロをつくった頃、つまり一九九七年から二〇〇二年までジョスパン政権の外務大臣をやっています。その前には社会党のミッテラン大統領の外交顧問を務め、欧州連合創設のためのマーストリヒト条約の取りまとめなど、欧州統合に深くかかわっています。フランスとドイツが、欧州統合の機関車だったからです。そのような人物がここまで言っていることは、言葉の重みが違います。

最後は力の勝負?

 私は、権力の本質や国際関係の生地の部分は、百年前も千年前もあまり変わっていないと思っています。国家主権とか基本的人権という観念は、歴史の産物ですが、人間の本質が変わらないので、権力や国家関係の本質も変わらないのです。だからこそ、二千年以上前の孫子の兵法もプラトンの国家論も、古さを感じさせないわけです。ここ百年、二百年を振り返ってみると、国家が抑制されていた二十世紀後半の冷戦時代が、むしろ例外だったのではないかと考えます。冷戦時代には、二つの陣営という強力な構造ができていた。したがって、国家、民族、宗教など歴史上常に大きな役割を演じてきたファクターが、東西陣営という大きな枠組みに抑えられて、あたかもそういったファクターはあまり重要でないと思えるような状況が生まれた。冷戦構造を乗り越えたと思っているポストモダニストたちの考えも、実はこの冷戦時代に生まれた発想が深く刻印されている、というのが私の見方です。つまり、ポストモダニズムの考え方自体が、冷戦構造の産物と言ってもいいと考えています。

 今日では、その冷戦という枠組みが壊れたがゆえに、歴史的に見ると例外的に抑え込まれていた諸ファクターが、パンドラの箱を開けたように噴き出してきている。だから、いまの日韓、日中の歴史問題なども、実は冷戦構造に抑え込まれていた問題で、冷戦時代さえなければ、政治的にはずっと以前に出てきても不思議ではない要素なのです。

ウクライナ東部の「クリミア化」はない

次に、ロシア、ウクライナ問題に話を移したいと思います。ドネツク、ルガンスクというウクライナ東部の都市で行政府や警察関係の建物を武装して占拠した親ロシア派が「住民投票」を行って、四月七日に「ドネツク人民共和国」を一方的に宣言しました。住民投票はクリミアの場合と違って、ロシアへの併合ではなく「共和国としての自治に賛成しますか」というちょっと微妙な設問でした。九〇パーセント近くの賛成が得られたと言っていますが、この住民投票では独立とは言っていないんですよ。

 クリミア問題に関してちょっと皆さんにお尋ねしたいのですが、仮に、今年三月のようなロシア軍の統制の下ではなくて平和時に、クリミア自治共和国が民主的にロシアへの併合の可否を問う住民投票をしたとします。国連憲章では領土保全という主権の尊重と共に、民族独立の自決権も同時に謳っています。では、クリミアで平和時に民主的に住民投票が行われ、クリミア独立やロシア併合に大多数の住民が賛成したら、独立やロシア併合は正当性を持つでしょうか。

 わが国では多くの人が、民主的に住民投票が行われたのであれば、独立や併合は認めるべきだと思っています。しかし実際には、ウクライナの国民、すなわちそれを代表する中央政府が承認しない住民投票で一地域が独立を決めることは、国際法上もあり得ません。一方、住民投票の有効性をその国の国民が、つまり中央政府が認めている場合は、一地域が住民投票をして独立するというのは国際法的にも合法的です。

 現実に、二〇〇六年にセルビアのモンテネグロでは独立を問う住民投票が行われ、五十数パーセントで独立賛成票が上回り、EUの課した五五パーセントというラインも僅かに超えて、国際社会とセルビア政府はモンテネグロの独立を認めました。

 つまりある国で、中央政府が認めていない一地域の住民投票によって、その地域が独立するとか、他国の領土になるというような「国家の主権事項」を勝手に決めるわけにはいかないのです。これは国際法の常識です。例えば、世界各地の大都市に中国系住民が大多数を占めるチャイナタウンがあります。横浜にも中華街があります。その町で民主的に住民投票をして、その大多数が賛成したら、その町は中国領になれるかという問題を考えてみれば、おわかりだと思います。

 同じセルビアでも、同国政府はアルバニア系の住民が圧倒的多数(約九割)を占めるコソボの独立は認めませんでした。しかし、国際社会は二〇〇八年に独立を認めた。プーチン大統領は今年三月十八日のクリミア独立承認の声明で、コソボの例を出して西側諸国はダブルスタンダードだと非難している。この場合はどうでしょうか。プーチンの非難は正しいのでしょうか。実は、国連は例外として、人道上著しい問題が生じている場合は、独立を認めることがあります。コソボの場合は、セルビア人武装勢力によるアルバニア系住民の虐殺や大量難民という人道上放置できない問題が生じました。

 もちろんこれもいずれかの勢力が一方的に人道問題だと主張しても、認められません。国連などの国際機関がきちんと調査して、客観的に認められた場合だけです。コソボの場合は九年余り国連や欧州の国際機関などでコソボ問題が議論となり、国連や他の国際機関も人道上著しく酷い状況が生じていると確認して、日本も含めて国際社会はコソボ独立を認めました。

 しかしクリミアの場合は、そういう非人道的な事態はまったくありませんでした。ロシアは、ロシア軍が介入しなかったら、住民投票の後に非人道的事態が生じる可能性があったと主張していますが、ナンセンスな論理です。したがって、クリミアの住民投票で多数派がロシアへの帰属を求めても、ウクライナ国民がその住民投票の有効性を認めていない場合、国際法的にも緊急避難的にも独立やロシアへの併合が正当化されることはありません。
日本では民主党政権の時代に「地域主権」という言葉がよく使われましたが、これは政治学的にナンセンスな概念です。主権というのは国家における最高決定力という意味ですから、主権国家内の一地域が主権を持つことはあり得ない。だから、国家主権にかかわる重大な事項は、国家全体で決めるべきであって、一地域が決められることではありません。

 例えば、沖縄の米軍基地の問題は沖縄県や一市町村だけの問題ではなく、日本全体の安全保障の問題です。場合によっては、原発など国家のエネルギー政策も、単なる地域の問題ではなく、国家全体の安全保障にもかかわる主権事項だと私は思っています。もちろん国家は、このような場合でも、地域の立場を可能な限り尊重すべきですが、最終的な決定権のことについて私は述べているのです。このように、国家主権の問題は感情論ではなく、きちんと理論的に整理して理解してほしいと思います。

 

緩衝地帯としてのウクライナ
 クリミアの場合、地元の「自警団」が住民投票を主導したとして、当初ロシアはロシア軍の介入を認めていませんでしたが、プーチン大統領が四月十七日の国民との対話で介入を認めました。五月七日、プーチンがウクライナ東部の住民投票に関して延期を要望していると報じられました。しかし、親ロ派住民はプーチンの要望も無視して住民投票を行ったということなのですが、そもそもこれはどう理解したらいいのか。プーチンは何を望み、プーチンと親ロ派の間はどういう関係にあるのかを考えてみたいと思います。

 五月十一日の住民投票は投票率が七〇パーセントとか、自治権拡大(独立)に賛成の票が八九パーセントだと報道されています。この投票自体が、住民が選挙で選んだ正式な自治体が行ったものではなく、地方議会が決めたものでもありません。武装した親ロ派グループが勝手に政権樹立を自称し、住民投票をやったわけですから、合法性という面から考えると、まったく正統性はありません。

 では、ロシアはウクライナ東部のクリミア化(併合)を望んでいるのかどうか。確かに、クリミアの東部と南部にはロシア系住民が多く、産業も集中していて、資源もたくさんある地域で、言葉もロシア語が中心です。だから、クリミア化したがっていると考える人もいるかと思いますが、ロシアはこの地域の独立とかロシアへの併合には、必ずしも賛成していません。

 私がウクライナ東部のクリミア化はないと言い続けてきたのには、いくつか理由があります。産業や資源があると言っても、東部・南部の経済状況はロシアと比べてずっと悪い。したがって、そういう地域を抱え込むと財政的にロシアにとって大きな負担になってしまうことを根拠に挙げる人もいます。私はそういう問題も認めますが、それが主たる理由ではないと思っています。

 ウクライナの東部と西部は歴史的にも文化的にもかなり違います。西部はポーランドやハンガリー、オーストリアなどの文化圏で、宗教的にもロシア正教ではなくカトリックなどの影響が強い。カトリックとロシア正教が融合した「ユニエイト(東方典礼カトリック教会)」という宗教も生まれています。また、住民はロシア語よりも純粋なウクライナ語を話し、産業はソ連時代から工業はあまりなく農業が中心です。

 西部と中部、東部と南部が同じような性格を持っています。以後は、大きく分けて西部と東部と表現することにします。東部が分離独立してロシアの一部分になってしまうと、当然西部は離反してヨーロッパ側に付いてしまい、EUやNATOに加盟する可能性が大いにある。しかしロシアは、NATOがウクライナまで拡大することを最も恐れています。したがって、ウクライナはロシアとNATOの緩衝地帯として、NATOの基地を置かないということがロシアの譲れない立場なのです。東部を併合してしまうと、この基本戦略が崩れてしまいます。プーチンは統一されたウクライナを望むと述べていますが、これはリップサービスではなく、本音なのです。さらに言うと、ウクライナ全体がロシアの影響圏に入ることを望んでいるのです。

 

ロシア人の被害者意識
 ロシアはウクライナのNATO加盟を最も恐れている、あるいは緩衝地帯としてのウクライナを望んでいるということを、もう少し説明しましょう。ソ連時代には、東欧やフィンランドなどが緩衝地帯でした。もちろんウクライナがNATOに加盟するかどうかは、本来は主権国家であるウクライナ国民が決めることですが、ロシアはこのような地政学的な立場に固執しています。

 ソ連時代から、ロシアは膨張主義の国のようなイメージがありますが、ロシア人の心理から見ると、膨張主義よりも他国から侵略されるという被害者意識のほうが非常に強いのです。私はソ連に五年間住んでいたので、その心理がよくわかります。共産主義(社会主義)体制が強固だったスターリン時代でも、世界に共産主義を広めるために東欧さらに世界中を共産化(社会主義化)しようとしたのではありません。ソ連を攻めてくるNATOや欧米諸国から守るための緩衝地帯として東欧を衛星国化したのです。

 一例を話しましょう。フィンランドはロシア革命前にはロシア帝国の一部でした。にもかかわらず、どうしてソ連はフィンランドを東欧のように社会主義化しなかったのか。その理由は、スターリンは社会主義の拡大よりソ連の安全保障を優先していたからです。第二次大戦後フィンランドに、冷静にソ連を見るパーシキヴィ大統領(任期 一九四六年三月─五六年三月)が現れ、彼はスターリンの対外政策の本音は社会主義体制を拡大することではなく被害者意識が背景になっていると見抜いた。そこで、隣国としてソ連に安全保障面で絶対の安心感を与えれば、フィンランドは東欧化せずに資本主義体制を保持できると判断しました。これは当時としては驚くべき卓見です。それで、喉から手がでるほど欲しかった米国の復興支援マーシャル・プランも受けず、NATOにも入らなかった。それゆえ、その後も東欧体制やソ連体制に組み込まれず、資本主義体制を維持しました。

 

ロシアが描く連邦制のロードマップ
 プーチンはウクライナの連邦化を提案していますが、これについて少し説明します。連邦制と言うと、一見穏健な提案に見えます。つまり、ウクライナの東部を分捕るわけでなくて、領土の保全は保障される。しかも、西部と東部は歴史的・文化的な背景も異なり、経済も違うので、それぞれの地域の特色を尊重する連邦制という選択は合理的なのではないか、とも思えます。しかし、ウクライナ暫定政府は、自治権の拡大は認めていますが、連邦制の提案は拒否しています。

 ロシアの提案では、ウクライナは憲法を変えて連邦制に移行し、連邦を構成する各共和国や州が大きな自治権を持つ、というものです。しかも、その自治権には外交権も含むというのですから、事実上独立国とも言えます。

 ウクライナ東部の人たちはこの連邦制に賛成する人々が少なくない。それは、次のような不満を抱いているからです。東部は西部と比べると産業が発達し、資源も豊かだが、東部の生み出している富で、貧しい西部の農業地帯を養っている、という不満です。もし連邦化してそれぞれの地域が強い自治権を持つとなると、東部の人たちは、自分たちのところで生み出した富は自分たちが確保して自由にすると考えるでしょう。そうすると、結果的に地域による貧富の格差が大きくなり、豊かな東部が貧しい西部を経済的に支配する構図ができる。しかも、連邦構成主体は外交権まで持つというのですから、東部はロシアと密接な関係を構築し、ウクライナという国としてはEUやNATOへの加盟には絶対に反対するでしょう。

 こうして、ロシアはウクライナ東部を通じて、ウクライナ全体の経済・外交に強い影響を及ぼすことができるようになる。つまり、東部はロシアの「トロイの馬」となるわけです。おそらくこれが、ロシアが提案する連邦制のロードマップでしょう。ただ、考えてみると、ウクライナの憲法改正やどのような国家体制を持つべきかをロシアが主張するのは、露骨な内政干渉です。中国が日本に対して同様の介入をすることを考えると、その異常さがわかります。日本は憲法改正をして連邦制に移行し、沖縄は外交権を含む大幅な自治権を持つべきだ、と中国が主張するようなものですから。

 ウクライナ東部の情勢ですが、親ロシア派の独立運動やロシアへの併合運動が強まることは、一見ロシアの方針に反しているようですが、ロシアにとってはマイナスではありません。プーチンにすれば、ウクライナ暫定政府や国際社会に対して、ウクライナの親ロ過激派はロシアの手先ではないというアリバイが成り立つからです。しかも、ロシアは彼らの過激な要求を受け入れないで、より穏健なウクライナの連邦制を支持しているという弁解ができます。

 東部の親ロ派の武装勢力には、ロシアの特殊部隊が入り、ロシアが軍事支援を行っているというのは、国際的に常識になっています。つまり、過激派が東部の独立やロシア併合を要求し、ロシアがそれを拒んで連邦制を主張するといういまの事態は、「出来レース」ではないかという見方も成り立ちます。

 当面の問題は、五月二十五日に予定されている大統領選挙がどうなるかですね。有力候補はポロシェンコ(元外相、経済発展・貿易相、親欧米派)、チモシェンコ(元首相、親欧米派)、チギプコ元副首相(親ロ派)などですが、ポロシェンコが圧倒的な優位にあります。「今のウクライナ暫定政府は、一部過激派勢力がつくったもので、選挙で選ばれた大統領も持っておらず正統性がない」とロシアは言い続けてきました。大統領選挙が成立すると、親欧米派のポロシェンコが大統領となり、正統性を有するポロシェンコ政権ができるので、ロシアはそれを阻害することに力を注ぎ、東部の親ロシア派も行政府の建物などを占拠して、大統領選挙を成立させないことに全力を挙げています(五月二十五日に選挙は実施され、ポロシェンコが五四・七パーセントの得票で当選した。この大勢は阻止できないと読んだプーチンも、大統領選挙の前に、選挙結果を尊重すると声明した)。

 四月六日にウクライナ東部のドネツク、ルガンスクで親ロ派が行政府や議会、警察などの建物を占拠して「ドネツク人民共和国」の樹立を宣言しました。これは、二月二十一日にヤヌコビッチ大統領と野党の三党が合意した挙国一致政府ができるはずだったのに、その動きに怒った「マイダン」という反政府過激派(キエフの広場(マイダン)が由来)が大統領府などを占拠したため、合意が崩れヤヌコビッチ政権が崩壊し、騒動の中で暫定政権ができたことと同じことではないのか、との見解があります。過激派が政府の建物などを占拠して、ヤヌコビッチ政権が崩壊したのは事実ですが、キエフの政変と東部の「人民共和国」宣言の間には、実は本質的な違いがあります。

 暫定政権の成立過程を見ると、ヤヌコビッチが二月二十二日に逃亡した後、翌二十三日にウクライナの最高会議(議会)が暫定政権を選んでいます。その議会はマイダン騒動の前、二〇一二年の選挙で正式に選ばれた議員たちで構成され、大統領府などを占拠した過激派の「右派セクター」のメンバーなどは議員には一人も入っていない。その中には「祖国」と言った民族派もいますが、それは二〇一二年から入っていた。ヤヌコビッチの与党だった「地域党」の議員もこの暫定政権選びに参加している。二月二十一日から、大統領が逃亡した後の二十三日の間で、過激派の騒動はありましたが、国民に選ばれた議会は中央で最も正統性を有している機関でした。

 だから、東部の州で議会の建物を占領した勢力が、自分たちが政権だと名乗って勝手に独立を宣言したのとは本質的に違います。ただ中央では、選挙で選ばれた大統領がいなくて、議会の議長が大統領代行を務める状況ですので、暫定政府と言われているのです。

 

日本はどう対応すべきか

 クリミア併合やウクライナ東部の事態に対して西側はロシアの介入や圧力を批判し、経済制裁で対応しました。ただ、この経済制裁はかなりシンボリックなものなので、短期的には大した効果はないでしょう。ロシアの知人に聞くと、ロシアの有力人物にビザを出さないとか、彼らが西側に有している資産を凍結するという制裁に対しては、その程度のことしかできないのかと大笑いしている状況です。

 ただ、長期的にはかなり様相は変わってきます。それでなくとも、近年ロシア経済は落ちていて、財政も悪化していました。今回の一連の事件の結果、ロシアからの資金逃避は第1四半期だけで六百数十億ドル、世銀の見積もりでは、今年一年間では一千五百億ドルと、未曾有の額になります。そうなると、当然ルーブルの価値が下がり、輸入物価が上がってインフレになる。国外からの対ロシア投資も大幅に減少する。WTO加盟時のいろいろな猶予措置が二〇一八年に切れると、関税などで国内産業を保護することもできなくなるので、長期的には経済制裁とロシアの孤立はロシア経済に対してボディーブローのように効いてくると思います。

 クリミア併合などの一連の動きに関するロシア側の考え方の本音の部分、つまり外交用語や修飾語を除いて正直に最もわかりやすく示しているのが、軍事専門家A・フラムチュヒンの以下の論説でしょう。これは、プーチンの支持基盤でもあるシロビキ(軍、治安関係者)の代表的見解で、現在のロシア指導部の多くの者がこれに近い考えを有し、ロシア社会でも広く支持されています。ロシア政治のリアリズムを理解するための最良の資料でもあります。

 ──クリミア問題では軍事力が決定的な意味を有した。クリミアで敗北したのはウクライナだけではなくNATOでもあり、NATOは強大な敵と直面した時には全く無力だということを衆目に晒した。現在のヨーロッパ的な価値においては、自分や自分の家族、自国の防衛の為でさえも、生命を犠牲にすることは全く想定していない。NATOの無力を顕著に示したのは、クリミアにおけるロシア軍による周到に準備された電撃作戦だ。しかも、これは西側の諜報機関が五輪テロ関係でクリミアに隣接する北カフカスに注意を集中していた時に起きた。今回ロシア軍は見事に、孫子の兵法通り戦わずして完勝した。

 国際法は機能しなくなった。ただ、今回のクリミア問題に関しては、このことはロシアにとって有利に作用した。この状況下で、世界政治において軍事力が再び決定的な意味を有するようになった。西側諸国は、ソフトパワーのお伽噺を自ら創作し信じた。しかし、ハードパワーの強化なくしてソフトパワーも無意味だ。直接の武力衝突のない「新世代の戦争」など、信じるべきではない。戦争がなくても勝利するのは、戦争に勝利する力を有している時だけである。──(『独立新聞』二〇一四年四月十八日)

 これはロシア紙に掲載された論文の要旨です。外交的な一切の修飾語を外した、リアリスト的なロシア政治の本音を、あるいはロシア政治の生地の部分を表していると私は思います。

 

日本の対ロ政策にある二つの側面
 では、日本としてこのロシアにどう対応すべきか、私見をお話しします。ウクライナ問題に関連して、日本は対ロシア政策では大きなジレンマに陥っていますが、実は中国もジレンマに陥っているのです。先に中国のほうを説明します。

 国際法を無視して力によってクリミアを併合したロシアの論理は、中国の南シナ海・東シナ海での行動を鼓舞する側面が大いにあります。大きな力さえ有していれば、国際法に違反した領土の併合あるいは領海の占有でも、国際社会は実質的には何もできず、結局は黙認するのだ、と。一方で、住民投票で国家の一部が独立するとか分離するのを認めたら、チベット、新疆ウイグル、台湾の独立が中国にとって現実的な問題になってしまう。したがって、中国はロシアを支持しませんでした。しかし、批判の投票もしておらず、国連でのロシアのクリミア併合批判決議に対しては棄権したわけです。

 実はロシアのウクライナ政策は、日本の対ロ政策にとっても二つの側面があります。一つは、日中関係、日韓関係などがいま戦後最悪の状態になっている。隣国との関係が非常に悪くなっている状況のもとで、せめてロシアとはまともな関係を構築しておこうという政策は、間違いではありません。安倍首相はプーチンと個人的な信頼関係を築くことにも努力しました。経済関係だけではなくて、これまではロシアが日本を相手にしなかった安全保障面でも、例えば両国間には「2+2(外務防衛担当閣僚会議)」の関係ができましたが、ロシアとのこのような関係を構築するのは重要なことです。

 日本にとって別の面もあります。G7の中で、ウクライナのように領土の一部がロシアによって侵されている国は日本だけです。つまり、ウクライナの痛みが本当にわかるのは日本だけかもしれない。いまこの状況の下で、日本が主権の侵害に関して言うべきことを言わないで、誰がいつ言うのかという問題があります。これは、単なる日ロ関係の問題ではなく、中国との問題に波及します。日本が主権問題には真剣勝負で臨む国だということを示さないと、尖閣問題がさらにエスカレートする可能性があります。

 いま、南シナ海では中国とベトナム、フィリピンなどの間で領海・領土が問題になっています。次は東シナ海になるかも知れない。しかも尖閣問題が将来はさらにエスカレートして、沖縄(琉球王国)も中国(明および清)の朝貢国だったとして、沖縄の領有問題が浮上するかもしれない。すでに中国国内では、そのような論がしきりに述べられています。中国政府は公式的には、沖縄の領有は主張していませんが、国民レベルでは案外本気で沖縄の領有問題が論じられているのです。そういう動きをきちんと制止するためにも、主権侵害の問題に関して日本は真剣勝負で対応するのだという姿勢を世界に見せなければならない。ウクライナの主権侵害問題で、ロシアに対して言うべきことを言わずに、将来尖閣問題がエスカレートした時に大声を上げても、世界の理解を得ることはできないでしょう。

メリハリのある対ロシア政策が必要
 主権侵害の問題に間違った対応をすると、それは他国との関係にもストレートに影響します。その実例として、こういう連鎖もあります。二〇一二年七月にロシアのメドベジェフ首相が北方領土を訪問した。実はソ連時代も含めて、ロシアのトップとして北方領土を訪問したのは彼だけです。日本との係争地にトップが行くのは挑発的であり刺激的すぎるので、トップは行かないのがそれまでの慣例だった。プーチンも行っていません。メドベジェフは二〇一〇年に大統領として、首相のときは二〇一二年に訪問した。公式説明では、通常の国内視察と同じであり政治的な意味は何もないということでした。しかしメドベジェフは、北方領土を訪問したとき「領土は一寸たりとも(日本には)渡さない」と政治発言をし、「私はまたやってくる。他の閣僚も次々とやってくるでしょう」と挑発的な言い方もしています。さらに、「私が来たことによって、日本人のお酒はさぞ不味くなったことでしょう」という侮辱的なことも述べました。

 メドベジェフが北方領土に行った七月三日のすぐあと、同月二十八日に民主党政権の玄葉外相が訪ロして外相会談を行うことになっていました。外交に関する国際常識では、ここまで侮辱され主権侵害をされた場合、会談を延期するか、キャンセルするのが当然の反応です。しかし、そのとき玄葉外相はキャンセルしなかっただけではありません。ラブロフ外相との会談をソチでやるとき、プーチンも会ってくれるというので、大喜びで秋田県知事からのプレゼントとして秋田犬を持っていったわけです。もちろんロシア側は喜びました。しかし内心では、怒るべきときに怒らない日本側をバカにしています。このとき私は、外相会談はキャンセルすべきだと述べ、野党だった自民党などもそのような主張をしていました。

 これを注視していたのが、韓国の李明博大統領(当時)です。李明博はこの直後の八月十日に竹島に上陸した。彼はメドベジェフの北方領土訪問後の日本政府の対応を注視しており、これなら竹島に上陸しても大したことはないだろうと判断したわけです。最近私は韓国の国際問題専門家や日本の韓国問題の専門家と、この問題で意見交換をしました。両者が一致して認めたことは、メドベジェフの北方領土訪問の後、日本が国際的に常識的とされる対応をしていたなら、つまり日ロの外相会談をキャンセルするか延期していたならば、李明博の竹島訪問はあり得なかった、ということです。この李明博の竹島上陸をターニングポイントとして、その後彼は天皇の謝罪要求発言をしたりして、一挙に日韓関係が悪化していくわけです。

 さらにこの一連の動き見ていたのが中国です。九月十一日に日本が尖閣諸島の三島(魚釣島、北小島、南小島)を国有化した。民有地の国有化は主権問題とは何の関係もないにもかかわらず、中国は主権侵害だと激しく日本を批判し、反日暴動が中国中で発生しました。つまり、メドベジェフの北方領土訪問に対して日本が主権問題としてきちんとした態度をとっていたならば、李明博の竹島上陸はあり得なかったし、尖閣の問題も状況が変わっていたかもしれません。

 さて、日本の対ロシア政策について、これらのことを前提にして、結論を述べましょう。緊張した日中関係などを考えると、日本はロシアとの間に良好な関係を構築すべきということは、言うまでもありません。これは、大きな枠組みの長期的な政策です。他方で、日本はロシアに対しても、主権侵害の問題に関しては言うべきことをきちんと言い、批判すべきことはきちんと批判する必要があります。さもないと、他の国との関係に深刻な影響が出ます。この相反する二つの対応を調和させることは、容易なことではありません。

 結局、メリハリのある対ロシア政策が必要だということです。戦略的な大きな枠組みでは、ロシアとの協力関係の発展を重視し、そのことは公式・非公式のあらゆるチャンネルを通じて、ロシア側に伝え理解させる必要がある。しかし、個々のイシューに関しては、ロシアに対しても言うべきことは言い、批判すべきことは批判する、という政策です。これは実際には簡単ではありませんが、それ以外の道はないでしょう。

 ドイツとロシアの経済的結びつきや良好な関係は有名ですが、あのドイツでさえも、二〇一二年にドイツ議会は人権問題で厳しいロシア批判の決議を採択し、同年十一月にメルケル首相が訪ロしてプーチンと首脳会談を行った際、メルケルは人権問題でロシアの対応を直接批判しています。日本の対ロ外交で最も拙劣な対応は、日本は主体的にではなく、米国や他のG7諸国に追随して、不本意ながら対ロ制裁に加わっていると見られることです。これは国際社会で、日本外交は姑息だとの評価になります。

 

意見交換

各国の防衛力保持の姿勢

発言者A クリミアの併合問題のみならず、歴史的な変遷も含めて国家や国家主権について大変わかりやすいお話をいただきありがとうございました。また、国家主権に対する日本の対応に対する厳しいご意見は、歴史認識や国際情勢に疎い私自身も反省しなければならない問題として受けとめました。

 さて、領土・領海を守るのはどの国でも必要だと思いますが、そのために防衛力を整備していくやり方は国ごとで方向性が違うと思います。ロシア、中国、アメリカ、日本において、現状、軍備に対する姿勢がどう違っているのか。今後、どういう方向で防衛力を保持していくつもりなのか、ご見解をお聞かせいただければと思います。

 

自助努力が問われる
袴田 先ほど「ポストモダニズム」について話しましたが、先進国ではその考え方がずいぶん広がりました。したがって、近年アメリカもヨーロッパ諸国も防衛費をどんどん削減しています。逆にロシアや中国は、経済が不調であるにもかかわらず、防衛費を急速に増加させています。そういう状況の中で、軍事力を背景にしていまのクリミア問題も南シナ海の問題も起きたのです。ロシアや中国はポストモダニズム的な発想は有しておらず、モダニズム的な性格の、あるいはモダニズム以前の、つまりプレモダニズムの要素もたくさん有している国家です。そういう国々が混在している世界の中で主権を争う深刻な紛争が起きたとき、先進国は伝統的な防衛を否定し、「われわれはポストモダニズムの国でございます」と胡坐をかいてはいられません。日本はアメリカとの防衛協力を最重視すべきだとは思いますが、オバマ政権の指導者の多くはポストモダニスト的な考え方を強く持っている、と私は見ています。

 難しい国際問題に関しては、二国間で、あるいは国連や国際司法裁判所などの国際機関を通じて、話し合いや交渉によって平和的に解決すべく最大限の努力をすべきことは言うまでもありません。しかし、難しい問題が交渉によって解決する場合でも、多くの場合、その背後にパワーが控えています。逆説的ですが、パワーを保持し、それを使う意思も有して、初めてパワーを使わず平和的に解決できる場合が少なくありません。オバマ大統領のように、ウクライナ問題への対応で、最初から武力行使はしないと宣言してしまったら、話し合いでの解決もできなくなってしまう。実際にロシアは、NATOはウクライナへの武力支援などをするはずがないと安心して、つまりNATOの無力を見透かして、あのような行動に出たのです。

 日本は軍事大国になる必要はないと考えます。しかし、アメリカにだけ頼ることもできません。したがって、これまでよりもはるかに真剣な自助努力が必要です。むしろ武力を使わないためにこそ、いざとなったら力での対応も辞さないという備えと意欲をきちんと持つ必要があります。中国やロシアがポストモダニズムとは全くの別の発想で軍備を強化している以上、アジア太平洋地域でのアメリカのプレゼンスの強化を求めるだけでなく、日本自身も防衛に関して真剣な自助努力をしながら、話し合いや対話、意思疎通と信頼関係を強めるという複眼的な発想が必要です。武力を使わないためにこそ、きちんとした防衛力の整備も必要だというのは、ちょっと矛盾した発想ですが、現実主義者としてはそうあらざるを得ないと思っています。

 自助努力に関しては、たとえ尖閣問題が先鋭化して、アメリカが日米安保条約第五条を発動するという場合でも、まず日本が自己責任でどれだけ真剣に対応するか、つまり自助努力が問われるわけです。自助努力のない日本に代わって、米国が中国と対決するはずはありません。そういう認識を持たなければならない時代がやってきたと考えています。日本人は戦後の冷戦構造の中で、安全保障や外交を真剣勝負で考えなくてもよかった。冷戦時代の思考から抜け出ていないがゆえに、あるいは平和主義やポストモダニズム的な発想が強いがゆえに、国家主権について論じると、あるいは国防に関して自助努力の重要性を強調すると、それだけで右翼的だと見られがちでした。そろそろそのような現実感覚を欠いた無責任な発想を卒業すべきときです。

 

今後のロシアの戦略は?

発言者B ロシアはウクライナに対して天然ガスの未払い代金を精算しないのなら、六月から前払い制に変更する。前払いしなければ供給を停止する──と言っています。それに対して、中国とは長期の天然ガス供給契約を締結する話も取り沙汰されています。プーチン政権は天然ガス資源をどう戦略的に使おうとしているのでしょうか。

 二点目は、旧ソ連邦時代からロシアは周辺国にバッファー機能を求めていたというお話がありましたが、次はどの辺りが不安定化しそうか教えてください。

 三点目は、ロシアに対する制裁が日本企業にどう影響する可能性があるのか、また、日本企業はどのような点に注意すべきか、ご助言をお願いします。

資源以外の貿易関係も政治手段として使う
袴田 まず、プーチンは「資源は戦略的な手段である」と公言しています。日本の専門家の中には、ロシアはウクライナへのガス輸出問題はすべて経済の原理で対応していることであって政治的意図はないという、プーチン発言さえも否定する論を述べる方もいます。しかし、それはあり得ない話です。資源以外の貿易関係も、政治手段として使うのがロシアです。

 例えば、今回の大統領選の最有力候補であるポロシェンコは、ロシェンという大きな製菓会社の経営者で「チョコレート王」と呼ばれています。ヨーロッパでもロシアでも非常に人気のあるチョコレートを売っている大財閥なのですが、昨年七月末にロシアはロシェン製品の輸入を禁止しました。衛生上問題があるとかなんとか全くの言いがかりでストップさせた。今年になってロシア国内のロシェン工場も接収しました。もちろんこれはポロシェンコに対する政治的圧力です。

 つまり、プーチンはすでに昨年から政治的に今日の事態を読んでいたわけで、この輸入禁止問題を純粋に経済問題とか衛生問題と見る者は誰もいません。ウクライナの暫定政権に対しては、ロシアは様々な貿易制限を課しました。これは親欧米的な姿勢を強めたCIS諸国に対しては、みんな同じパターンで、経済問題に対してきわめて露骨な政治的対応をしていますね。二〇〇六年三月にはモルドバのワインを、やはり「衛生上の理由」で輸入禁止にした。グルジアのワインや農産物を輸入禁止にした時も同じです。ガスだけが純粋に経済の論理で動いていることはあり得ません。

ガスの調整は難しい

 ウクライナ向けのロシア(国営ガスプロム社)のガス価格の変動が、その政治性を如実に示しています。EUとの連合条約調印を拒否したヤヌコビッチ政権に対して、ロシアは昨年十二月にガス価格を三分の一引き下げ、一千立方メートル当たり(以下同じ)二百六十八・五ドルにする約束をした。しかし、親欧米の暫定政権が成立すると、この四月に約八割増の四百八十五ドルに引き上げました。ちなみに、欧州向けガスの市場価格は約三百七十ドルです。二〇一〇年のハリコフ合意では、ガスプロムは黒海艦隊駐留の二十五年延期という政治合意と引き換えに、ガス価格を約百ドル値下げした。しかし、クリミア併合後は、二〇一〇年の合意も効力を失ったとして、一〇年以降の割引分の百十四億ドルをさかのぼって徴収するとしました。経済の論理ではあり得ないことです。さらに六月からは前払い制に移行するとし、前払いしなかったらガスをストップすると通知したわけです。

 これら一連の動きを見ると、ガス価格が政治に左右されていることは自明です。代金を払わなかったから前払い制にする措置は、確かに経済的に説明できますが、その価格そのものが、市場価格ではなく、きわめて政治的性格を帯びているわけです。ロシアの天然ガスの五割はウクライナのパイプラインを経由していますから、ヨーロッパ向けをストップしなければウクライナが「中抜き」してしまうかもしれない──と言ってガスを止める対応は、ロシアとしても非常にリスキーだと思います。これまでも何回かこういう事態が生じていますが、今回も合意が成立しなければ、一時ストップしてまた再開するという形になる可能性もある。それ以上のことは、いまの段階では読めません。

 五月下旬にプーチンが中国を訪問して、ガスパイプラインよる供給契約を結ぶ交渉をします。これまで中国は原価でもロシアのガスは買わないという姿勢でしたが、交渉はかなり詰まってきている。いまロシアは欧米と厳しく対立しているので、中国との関係を良くしたいという国際戦略的な意図があります。断言はできませんが、今回、折り合いがつく可能性は大きいと思います。そうなれば、この場合もやはり価格は純粋に経済的ではなく、政治的に決まったことになります(五月二十一日、ロシアから中国への天然ガス供給で合意した。ロシア側は二〇一八年から三十年間にわたり毎年三百八十億立方メートル──将来的には、増量の可能性がある──の天然ガスを供給する。総契約額は四千億ドル(約四十兆円)規模と見られる。ガスはシベリアのガス田から中国の沿岸部近辺に続く新規パイプラインを通じて供給される)。

 

周辺国も神経を尖らせている
 第二の質問ですが、緩衝地帯としてクリミアの次はどこか、という問題でした。「クリミア化」が生じるとすれば、その可能性が高いのは恐らくモルドバの沿ドニエストル地域でしょう。ここはドニエストル川を挟んでウクライナにも接していて、ロシア人が多く住んでいる。そして、現在ロシア軍が駐留していてモルドバ政府のコントロールから離れている状況です。まだロシアへの併合はしていませんが、クリミア事件後はロシア併合への要求が高まっています。もちろんモルドバ政府は、ロシアの支配を強く批判しています。

 さらに、カスピ海の権益をめぐって、いまロシア、カザフスタン、トルクメニスタン、イラン、アゼルバイジャンが争っています。これは笑い話みたいですが、あのカスピ海で各国が海軍力を強化しているのです。トルクメニスタンからカスピ海の海底パイプラインを通り、対岸のアゼルバイジャンを経てヨーロッパへガスを輸出する計画がありますが、ロシアはカスピ海の権益を理由に、この海底パイプラインの建設を阻止している。カスピ海およびその海域の資源や権益をめぐって、各国の利権争いが今後いっそう複雑化する可能性があります。

 さらに、カザフスタンも領土問題で以前からロシアを警戒しています。ナザルバエフ大統領が首都を南のアルマトイから北のアスタナへ移した(一九九八年)のは、実はロシア人の多い北部がロシアに併合される懸念があったからです。そこで首都を北に移して、カザフ民族をできるだけ北へ移住させたかったのです。かつて日本外務省の対ロ政策責任者だったあるロシア専門家は、「アルマトイのように首都が南部にあると、国境を接する中国の脅威に晒されるからロシアに近いアスタナに首都を移した。このことは、カザフスタンがロシアをいかに信用しているかを示している」と自著で述べています。実際はまったく逆で、ロシア人が多いとロシアの介入で分離運動が生じる可能性が高い、つまりロシアに対する不信感から、首都を北に移したのです。ロシアと関係が良いと言われるカザフスタンでも、ロシアにこのような脅威を感じています。クリミア事件後は、グルジアやバルト諸国も、ロシアの脅威に対して神経を尖らせています。

 第三問ですが、ロシアへの制裁の日本企業への影響は難しい問題ですね。ロシアは自国に進出している企業がロシアから撤退することは望んでいないので、報復として日本企業に嫌がらせをすることは恐らくないと思います。ただ、長期的に見て、ロシアの経済全般が落ち込むと、進出企業の業績にもそれなりの影響は出るでしょう。また、ロシアはカントリーリスクの高い国という評価が定着すると、今後進出しようとする企業の意欲を殺ぐことになります。ただ、チャンスという見方もあるかも知れません。このような時だからこそロシアに進出するのは、ある意味で他を出し抜くチャンスだ、と。

 北方領土問題や尖閣問題の日本政府の政策の民間企業への影響ですが、「ロシアにしても中国にしても、主権や領土の問題で政府が騒ぐと被害を受けるのは民間企業なのだから、日本政府は政治問題で波風を立てないで欲しい」という話を実業界から聞くことがあります。経済は政治と関係なくやっているので、政治は経済の邪魔をしてくれるな、と。ただ、日本政府の公的支援(ODA)や公共事業、政府発注などを受注しているのは、やはり民間企業です。ODAは国家戦略とも結びついた政治そのものですし、公共事業も政府発注も元は税金ですから、これもまた国の政治です。政治を利用できる時には大いに利用し、政治が不都合を生む時は、政治は経済の邪魔をするなというのは、身勝手ではないでしょうか。

 私は、民間企業が政府の支援や保護を当てにしないで、自らのリスクでロシアへ進出する場合は、原則としては政治と関係なく進出していいと思います。ただ、政府による支援や保護、リスクヘッジなどを当てにするのであれば、民間企業といえども、日本政府の対ロ政策の立場を理解し協力する必要があると思います。さらに企業人も日本国民なのですから、自分たちの選んだ日本政府の政策を理解する必要もあります。もちろん日本政府も、その政策ゆえに民間企業が被害を受けた場合、ある程度は支援する必要があります。いずれにせよ、利益もリスクも伴うのが企業活動だと考えます。

 ちなみに、ウクライナ問題、北方領土、尖閣問題など主権紛争の本質は戦争と同じ次元の問題ですから、日本政府が中国やロシアに対して毅然とした態度をとらざるを得ないときに、経済その他どこにも痛みが出ない形での対処というものはあり得ません。ある政策の真剣度は、どれだけの痛みを覚悟しているかによって測ることができます。

 

日本のエネルギー資源輸入へのロシアの影響力

発言者C 日本の現在の電源構成におけるLNGの割合は全体の半分程度を占めていると思いますが、極東地域ではサハリンの開発、アメリカをはじめとするシェールガス等の開発と供給開始が、今後の日本のエネルギー資源輸入にどのくらいの影響力を発揮していくのかをご教示ください。

将来の可能性を考慮し是々非々で臨む
袴田 以前は、資源を持っているロシアが絶対的に強い立場で、資源のない日本は弱い立場だという見方が強くありました。プーチン政権第一期の二〇〇〇年代の初めに、日本の資源エネルギー庁は、シベリアのパイプラインを中国の内陸部ではなく、先に太平洋岸に引いてほしいとモスクワ詣でをしました。私はたとえ先に中国へ引いたとしても、それだけでは価格決定権を中国に握られてしまうから、戦略的に考えれば遅かれ早かれ必ず太平洋岸にも引かざるを得ないと考えていました。そのことは、私が参加した二〇〇五年のヴァルダイ会議でプーチン自身が言ったことでもあります。だから、モスクワにお百度を踏むようなアプローチを私は批判的に見ていました。これでは、北方領土問題でも日本はロシアに毅然とした態度をとれるはずがないからです。

 いま国際的なエネルギー市場でロシアはかなり苦戦し、日本は決して弱い立場ではありません。欧州は景気後退の上、エネルギーの対ロ依存も安全保障上減らしており、ロシアはアジア市場開拓に必死です。おっしゃるように米国のシェールガスの対日輸出も現実化し、将来はメタンハイドレートその他の可能性もあり、ロシアはそれを警戒しています。ちなみにロシアにとって日本は世界で最も高い価格でエネルギー資源を買う国ですから、一番「おいしい市場」に見えていることは事実です。エネルギーでロシア資源への依存率は、ドイツなどは三〇パーセント以上ですが、日本は一〇パーセント前後です。輸入の選択肢を広げるためにも、まだある程度まではロシアとの協力を進めていいと思います。

 ただ、いまの国際状況を考えると、ガスをLNGタンカーで輸入するのはいいのですが、固定したパイプラインを引くとなれば、当然ロシアは何十年もの長期契約や巨額の対ロ投資を求めてくるし、国際情勢の変化に応じて契約を動かすことは困難になります。日本国内でも、新たにパイプライン網を構築するのは、経済的にも環境的にも困難です。あるいは北方領土問題で何か動きがあったときに、日本は強い態度をとれなくなってしまう。その意味で私は、ロシアとはエネルギー開発で協力することも輸入も必要だと考えますが、パイプラインや海底電線など固定したインフラでつないでしまうことには賛成しません。ヨーロッパ諸国の場合、一つの国は多くの国とパイプライン網などで結びついていますが、日本の場合は複数の供給源や選択肢がほとんどないわけですから、リスクを回避できなくなります。

 ロシア側も、ガス輸出に関わっているガスプロム社もロスネフチ社も、今ではパイプラインよりもLNG輸出に力を入れています。資源のままの輸出ではなく、加工製品を輸出したいからです。ウラジオストクとさらに北方にLNG工場をつくろうとしていますが、いまのところ大量に輸出するだけのガスが、極東や東シベリアでは未開発です。中国への輸出が今後増えるので、新たな開発は不可欠です。しかし、ツンドラ地域や消費地から遠い辺地での新たな開発には、これまで以上のコストがかかります。ロシアから資本がどんどん逃げているような状況のもとでは、開発資金の調達もままなりません。この意味でも、ロシアは日本の投資を強く求めています。

 さらに、ロシアの対日エネルギー政策では、資源輸出だけでなく、日本国内のエネルギー市場に資本参加する意欲を強く持っています。欧州はロシアのエネルギー独占的支配を懸念して、「第三次エネルギー・パッケージ」と称される政策で、エネルギーの輸出企業と小売・消費企業を切り離す策を打ち出しています。もちろんロシア側だけでなく、欧州側も、エネルギーにはきわめて政治的・戦略的に対応しているのは当然のことです。

 一般的に言えば、日本とロシアのエネルギー面での協力は重要ですが、日本側は将来の様々な可能性を考慮しながら、是々非々で臨むことになるでしょう。固定したインフラによる長期契約は、エネルギー安全保障上も賢明ではないと思います。

 

日本からロシアへのアプローチ

発言者D 三点お伺いしたいことがあります。一つは、我が国としてはクリミア問題については、中国との国境問題も念頭に「力による解決」は欧米各国と歩調を合わせて非難せざるを得ないと考えます。一方で日本政府としては北方領土交渉の問題もあるので難しい立場ですが、原則は曲げられないにしても、逆にこういう状況だからこそ仲裁的行動をとるなどで、日本としてはもう少し上手く政治的なアプローチができないものでしょうか。

 二つ目は、日本人の中にはロシアに対してシベリア抑留などの悪いイメージが残っており、日本人から見ると、ロシア人についてよくわからない部分がかなりあります。今後の日ロ交渉を考えた場合、本当にうまい方向に行きつけるのだろうかと懸念される面もありますが、ロシア人との付き合い方、彼らの気質などについて教えてください。

 三つ目は、韓国や中国を見ていると内部対立のガス抜きや支持率回復の特効薬として外に敵をつくって──つまり日本叩きをしてきます。政権末期における李明博大統領の竹島上陸もそうですし、中国は尖閣・靖国問題を前面に押し出してきました。そういった意味でいくと、ロシア内部の不満解消の捌け口をクリミア問題に留まらず今後も外部に求めるような節はないのか心配しています。

 

プーチンが領土問題で譲歩する可能性はない
袴田 第一問ですが、欧米とロシアがウクライナの主権侵害で対立している時に、それを奇貨として日本がロシアに擦り寄るとすれば、もちろんロシアは喜びます。しかし、国際的には無原則の姑息な政策だと軽蔑されて日本の信頼や評価は地に落ちるし、ロシアでさえも内心は日本を軽蔑するでしょう。また、いまが北方領土問題解決の絶好のチャンスといった見解は、およそロシア政治の現実も主権問題や国際政治のイロハも理解していないナイーブな発想です。

 第二に、ロシア人気質に関して、シベリア抑留の例を挙げられました。抑留されていた日本人たちは、「ソ連」が大嫌いだと言う一方で、個人的に付き合う「ロシア人」は好きだとか日本人以上に人間臭いと言う人が少なくない。ロシア人と付き合うとわかりますが、浪花節的なところがあります。私は、プーチン大統領よりビジネスライクなオバマ大統領のほうが日本人には付き合いにくいと思いますね。ロシア人と人間関係などをきちんと構築できれば、相当のことができます。

 ロシア人の気質ですが、私はソ連時代にモスクワ大学の大学院に五年間留学しました。ソ連では、正規ルートで何か事務的な手続ひとつしようとしても、ひどいお役所仕事で、何事もはかどらない。一方でいろいろな人間関係を活用すれば、悪く言えばコネですが、事は簡単に動く。モスクワ大学にいた頃、ロシア人の友人との雑談の中で「キャビアを食いたいな」と不用意に言ったら、その友人が一週間か十日姿を消して、やがて十キロぐらいのキャビアを抱えて帰ってきました。キャビアはソ連でも高価で、学生の私や彼には買えない。ただ、汽車代は安かったので、友人はモスクワからはるばるカスピ海まで行って「日本人の友達にキャビアを食わせたいんだ」と漁業コルホーズを回って集めてくれた。相手も、じゃあ持って行け、とタダでくれる。ロシア人にはそういう人間的な面もあります。一方では、官僚主義の権化とも言うべき、木で鼻をくくったような対応とか高圧的な対応もいくらでもされます。その両極端のバランスですが、正常な市民社会が成立していない状況では、法律論よりも人間関係の構築やこちらの力を示すことがカギですね。

 第三の内政問題とガス抜きの件は、まさにロシアでも、大国主義的ナショナリズムを満足させる対外政策が、国内の政権浮揚策になっています。クリミア併合前はプーチン政権の支持率は相当落ちて、四〇パーセント台にまで下がっていました。それでも昨年は、シリア問題でプーチンは男を上げ、政治家としてオバマより上に立ちました。しかし今年は、親ロ派のヤヌコビッチ政権をプーチンの介入で崩壊させるという大黒星をしでかした。プーチンはウクライナに対して、百五十億ドルの支援、ガス代を三分の一値引きするというアメで、EUとの連合条約調印をヤヌコビッチに拒否させたわけですが、結果的にはヤヌコビッチ政権の崩壊となった。

 これに対してはロシア国民、特にプーチン政権の支持基盤であるシロビキから、プーチンは何をやっているんだと冷たい目を向けられた。すでに二〇一一年末頃から、モスクワやサンクトペテルブルクでは数万人規模の反プーチンデモが起きていたし、経済状況も財政も悪化していた。さらに、官僚主義・腐敗・汚職はあいかわらずひどい状況で、国民の不満は鬱積していました。それに加えて、この大黒星です。プーチンの支持率が四〇パーセント台に落ちたのもうなずけます。

 プーチンとしては、この事態を大逆転するための大技が必要でした。それが今回のクリミア併合だったと思います。これによって大国主義的ナショナリズムは大いに満足させられた。欧米から厳しく批判されてもプーチンは動じないで強硬姿勢を貫いたので、かえって国民からの支持率が急上昇し八〇パーセント以上になった。ただ、今後は、経済が良くなる保証はなにもなく、下降しているロシア経済に各国の制裁がボディーブローのように効いてくる。そして一時的なフィーバーが冷めると、またプーチン政権に対する国民の不満はいろいろな形で強まるでしょう。そうすると、また支持率を上げるために、ナショナリズムの高揚という一種の麻薬を使わざるを得なくなるという危険性があります。

 最後になりましたが、ロシアが西側で領土を拡張して、大国主義ナショナリズムを高揚させている時に、日本に対してだけ領土問題で譲歩するということは考えられません。ロシアの政権に近い専門家も、プーチンが日本に領土問題で譲歩するのは、矛盾した行動になるし、その可能性はないと述べました。ただ、北方領土問題は、単にあの四島の問題ではなく、主権侵害に対して日本がどう対応するかが国際的に問われている問題です。当然、他国との関係にも影響します。したがって、北方領土問題はすぐに解決しなくても、何十年でも主権侵害を批判し返還要求を続けること自体に大きな政治的意味があると考えます。(終)

ご経歴
はかまだ しげき:1944年大阪府生まれ。東大文学部哲学科卒、モスクワ大学大学院修了、東大大学院博士課程単位取得退学。青山学院大学国際政治経済学部教授・学部長を経て、2012年より現職。ロシア東欧学会前代表理事、日本国際フォーラム評議員、平和・安全保障研究所研究委員。

 

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