『公研』2022年6月号「座談会」 ※肩書き等は掲載時のものです。

日本人の女性アメリカ研究者5人が共著『私たちが声を上げるとき アメリカを変えた10の問い』(集英社新書)を出版する。本書で取り上げた事例から、アカデミアの世界で女性研究者だからこそ感じる違和感、そして女性が声をあげることについてもお話いただく。

 

日々のモヤモヤが執筆のきっかけに

吉原 『私たちが声を上げるとき アメリカを変えた10の問い』の出版にあたり、今日はこの本の共同著者5人で、アメリカの社会運動や、女性研究者として日々感じている問題について考えていければと思います。

 この本では、大坂なおみからローザ・パークス、日本人にとってはあまり馴染みのないアンジェラ・Y・デイヴィスなど、人種・時代・社会的地位もさまざまな10人の女性が、アメリカでいかにして不条理と闘い、声を上げてきたのかを取り上げています。まず、本書を執筆するに至った経緯について話していきましょう。

 坂下 この5人で本を執筆する最初のきっかけとなったのが、「私たち女性研究者が日々感じていることを何か出版の企画にできないか」という土屋さんからのご提案でしたね。

 土屋 そうですね、私は自分自身にとって切実な問題、日々浮かぶ疑問を研究に昇華させてきたところがあります。この本のアイデアが浮かんだ時も、自分がいま直面している非常に切実な問題を、研究に繋げることができないかと考えたのが始まりです。

 また、この5人で何か一緒にものが書けたら非常に意義のある素晴らしいものができるだろうし、そこに私自身も参加したいと言う思いが一番強かったです。

 和泉 普段感じるジェンダーのモヤモヤと研究を結び付けて本を出版するという今回の案は、この5人だからこそ思いついたものだと思います。私一人だったら考えなかったですね。

和泉 真澄氏

 私はアジア系アメリカ人の北米における社会運動の研究をしていて、社会を変えようとしている人達の連帯の大切さなどは研究を通じて常々感じていました。でも、職場や日々の生活のなかで起こる理不尽な出来事で怒りに包まれても、そこを掘り下げて研究対象にしようとは考えませんでした。もちろん頭では、研究内容と日々の出来事が根本的に繋がっていることはわかっているし、研究で得た知識があるおかげで、自分が実際に経験したことを客観的に分析することもできたりします。でも、研究者としてそれと繋げて本を書くっていうのは思いつかなかったですね。たまたま女性研究者5人というこのプラットフォームが存在したからこそ、行動に移せました。

 

三牧 私にとっては、誰か一人が編者として中心的な役割を果たすのではなく、5人がフラットに名前を並べて一つの本を作っていくというやり方がとても斬新でした。今までの経験では、編者は年長者の方が担当されることが多かったですし、女性と男性では男性がやはり多かったので。著者のこういう並び方は、女性の連帯がテーマでもあるこの本のメッセージに合っていると感じました。もっとも5名がフラットに参加したとはいえ、やはり吉原さんが、ハッパをかけたり、原稿が遅れていると絶妙な圧力で催促したりと(笑)、牽引役を務めてくださったのですが、その引っ張り方に愛情や尊敬、そして笑いがあふれていて。女性のリーダーシップはこの本の重要なテーマの一つですが、同じ目線でいろいろ考えてくれる女性のリーダー、いいなとしみじみ思いました。

 坂下 テーマについては、日本の事例を取り上げる案も出ましたが、結局アメリカ研究者としてアメリカの事例を扱うことで落ち着きました。でも、どのような切り口で考察するかは、最初は決まっていなかったですよね。本の方向性には、カマラ・ハリスの討論会が大きく影響したと思います。

坂下 史子氏

 202010月に彼女が副大統領候補としてマイク・ペンス副大統領と行った討論会は、当時もかなり話題になっていました。私たちは職業柄、普通だったらこう言う討論会では政策の内容に注目するのですが、このときはそれだけではなく、ハリスの振る舞いがものすごく印象に残ったんですね。ハリスがペンスに何度も話を遮られながらも、「副大統領、私が話している最中です」と穏やかに、それでいて毅然とした口調で対応する様子は、その少し前に行われた大統領候補者の討論会で、発言を遮るドナルド・トランプ大統領に対してジョー・バイデンが「おい、黙ってくれないか」という言葉を視線も合わせずに吐いた態度とはあまりにも対照的でした。ハリスは発言を遮られて明らかに腹が立っている様子でしたけど、それを笑顔で包み、丁寧な受け答えをしていたし、発言が遮られることを前提に、彼女がどれだけの準備をして挑んだかが感じられる瞬間もありました。その光景が、私たち5人にものすごくヒットしたんですよね。こう言うことは私たち自身も日常的に経験していたので、他の多くの人も共感するのではないかと感じたんです。

 この討論会がきっかけになって、アメリカで女性が声を上げた瞬間とか、そこに至るまでの過程やその後の影響を一つの本にまとめることができたら、今までにない本ができるかもしれないと言うことで、本の方向性が定まったような気がします。

吉原 そうですね。私もこの本の執筆にあたって、この討論会や、ブレット・カヴァノー連邦最高裁判事候補から10代の時に受けた性暴力について語ったクリスティーン・ブラゼイ・フォードの証言や、ケタンジ・ブラウン・ジャクソン最高裁判事候補の承認公聴会の動画を何度も見ましたが、見るのがとても辛いと同時に、非常にリアリティを感じました。女性の発言を男性が遮って、議論をすり替えたり、急に自分の話をしはじめたり、その場での女性の発言権自体を否定したり。ああいうことって、顔を合わせての会話だけなく、オンライン上のチャットですら日常的にありますよね。

女性は感情的になってはいけないのか

三牧 他方で、ハリスのように感情をうまくコントロールした女性だけではなく、感情をストレートに表現した女性も評価されるべきだと思います。ハリスの毅然とした態度は素晴らしいと思います。でも、いくら腹が立つことがあっても、公の場で女性がつとめて冷静でいなくてはいけないのはなぜか。このことも考える必要があります。そこには、女性が感情的になると、話の内容に耳を傾けてもらえない、つまり「女性が感情的にふるまうことを許さない抑圧の構造」があると思うのです。ハリス以前にも、例えばヒラリー・クリントンが少しでも感情を表に出すと、「こういう感情的な人に核のボタンは渡せない」などの批判をすぐに受けました。一方で、トランプがいくら感情を出してもそういう批判は少ないですよね。あきらかに男女差別がある。

 もちろん、ハリスみたいに怒りをエレガントに表明できたらいいかもしれませんが、他方、女性が感情を表すとすぐにネガティブなレッテルを貼るような抑圧の構造も乗り越えられていくべきです。

 この点で、本でも取り上げたZ世代の活動家エマ(X)・ゴンザレスの言葉は印象的です。ゴンザレスは、2018年にフロリダ州の高校で起きた銃乱射事件の生存者で、事件後、銃規制を求めて声を上げて、大きな運動へと発展させました。彼女が涙を流しながら銃規制の必要を訴えた演説は、米国を超えて世界にも共鳴を生み出しましたが、彼女に寄せられたのは賛同や共感だけでなく、若い女性だから感情的なんだといった批判も数多く寄せられました。こうした批判に対し、ゴンザレスは、「銃問題に関しては、むしろ感情的であるべきだ」と答えています。大規模な銃乱射事件で、おびただしい数の人々が亡くなっているのに、大人は無感情で、銃の暴力をなくすための行動を起こさない。銃の暴力をなくしていくには、むしろもっと感情を表して、行動を起こしていかなければならない。そういう意味がこめられています。本書は、さまざまな女性たちが、さまざまな感情を背景に、さまざまな場所で声を上げた、その多様なあり方にフォーカスしています。

吉原 声を上げるときに敢えて感情を前面に出した好例が、ハウナニ=ケイ・トラスクですね。ハワイの植民地化・軍事化の歴史と、それによる先住ハワイアンの環境や生活、文化の蹂躙について声高に抗議し続けた運動家ですが、彼女は言葉や表情、身体すべてを使って怒りをあらわにすることを恐れず、むしろそれを強力なツールとしていました。特に非白人女性については、怒りをあらわにすることへの社会的な制裁が強いですが、怒りや苦しみ、悲しみといった感情そのものが構造的差別によって生み出されていることを、とてもパワフルに伝える例です。

 インターセクショナリティが社会を読み解くカギ

吉原 さて、今回の本では、「交差性」を意味するインターセクショナリティという言葉が登場します。社会の不均衡や差別の構造を理解するためには、人種、階級、ジェンダー、セクシュアリティ、年齢、障がいなど、様々な要素の重層的な相関関係を見る必要があるとするのが、インターセクショナリティの考え方ですね。様々な社会問題を理解するためのキーワードになっていて、日本では今はまだ流通度が高くない言葉ですが、最近アメリカでは、アカデミア以外でもかなり広く使われるようになってきています。

 土屋 今回の本で取り上げた10人の女性は、ジェンダーだけでなく非常に多岐にわたる問題に対して声を上げた女性ばかりなので、インターセクショナリティについて考える上でまさに参考になるものだと思います。

土屋 和代氏

 例えば、和泉さんが書いてくださった、史上最年少で下院議員となったアレクサンドリア・オカシオ=コルテス(AOC)は、ブロンクスという労働者階級の街でプエルトリコ系の両親のもとに生まれましたが、その後、白人が多い郊外のヨークタウン・ハイツに引っ越し、ブロンクスとヨークタウンを行き来するなかで貧困や格差の問題に目を向けるようになりました。「人々対お金の戦いだ」というAOCの言葉に触れたとき、シャーロッタ・バスの言葉を思い出しました。彼女もまた、「民衆の側に立つのか、反対側に立つのか」と訴えて、副大統領候補として出馬したのです。バスは負けたけれど、66年後、2018年の中間選挙でAOCは勝ちました。

 AOCやバスだけではなく、複合的な差別にさらされてきた人々が展開してきたマルチフロントな闘いを、この本は描くことができたのではないかと思います。

 三牧 おっしゃる通りですね。複合的な差別にさらされてきたからこそ見える差別の構造がある。

 和泉 私たちのようなアメリカ研究者は、遠い日本から見たアメリカと現実のアメリカとの間にあるギャップを埋める役割も担っていると思います。アメリカの人種差別問題を一般の人に理解してもらうためには、現状や背景を知ってもらわないといけません。

 例えば、バイデン大統領は2020年の選挙の時に、米最高裁判事を任命する機会があれば黒人女性を指名すると宣言していて、実際に今年の2月にケタンジ・ブラウン・ジャクソンを指名し、彼女は4月に黒人女性初の最高裁判事に任命されましたが、日本では「いや、最初から黒人女性を選ぶと決めるのは逆に不平等だ」という意見も聞かれたと思います。でも、アメリカで黒人女性が生きていくことがどれだけ大変か、白人男性と同等のランクに並ぼうと思ったら彼らの何倍優秀でなければならないか、そのために何十倍の努力をしなければならないかを知っていたら、ジャクソン氏の最高裁判事任命がどれだけ意義のあることかがすっと理解できるようになる。そうなれば、黒人だからとか、女性だから不平等なんて考えは出てこないはずです。そのような知識のギャップを埋めるために、アメリカ研究者はアメリカで起こっている現象を一生懸命解読して説明をしているんですね。

 これが私たちのアメリカ研究のプロとしての仕事なのですが、一方で、アメリカに関して、たとえば日本で一般的にどんな説明が好まれるのか、どんな視点の本が広く紹介されるか、誰が専門家として発言権を与えられるかなどをいろいろな機会に雑談していくなかで、「あれ? インターセクショナリティを説明している私たちもまた、インターセクショナルな権力の不平等の中で生きているんだ」と気がついてしまったんですね。この気づきの瞬間が、私たちに5人で声を上げるように背中を押したのではないかと思います。

 土屋 そうですね。複合的な差別について考える上で背景やコンテクストを理解することは非常に大事だと思います。そんな経緯から誕生したこの本の副題には、当初「瞬間」という言葉が入っていたのですが、声を上げるまでの過程と声を上げた後の余波にも注目したいという意図から、「瞬間」を取る方向で話が進みました。

 坂下 本のメインタイトルの方も、最初は『彼女が声を上げるとき』だったのを、『私たちが声を上げるとき』に変更しましたよね。アメリカの事例を他人事と考えるのではなくて、読者にも身近な問題として読んでもらいたいと思いながら、私たち自身も当事者意識を持って書いたので、このタイトルには本の趣旨がより反映できたんじゃないかと思います。

三牧 日本の男性には、ジェンダーの問題について「下手に語ると炎上する」といったネガティブなイメージを抱いて、避けてしまう方も多いかもしれません。ジェンダーの話題は、女性に責められている感じがして、罪悪感を感じるので苦手だという方もいるのではないかと思います。でも、日本にはジェンダーをめぐる問題がたくさんあり、男性にももっともっと積極的に語って

三牧 聖子氏

いってもらいたい。この本では、女性が声を上げるまでにどんな葛藤や問題意識があったのか、

声を上げるまでの社会的背景について丁寧に考察しました。そうした背景を理解すると、声を上げる女性の姿もまた、違って見えてくるのではないでしょうか。ぜひ男性にもこの本を手に取っていただいて、一緒に考えてもらいたいなと思います。

 

一人の声を大きなコーラスに繋げるには

 吉原 この本で、それぞれの人物が声を上げるまでの積もり積もった経験や想いを取り上げられたのはよかったですが、それと同時に、声を上げた後のバックラッシュの凄まじさも、執筆の過程で改めて感じました。そのようなバックラッシュは、声を上げた人の孤立にも繋がります。そうなると、個人がどれだけ大きな声を出したとしても、それが一人だったら、なかなか大きな変化に繋がりにくいですよね。じゃあ、どうやったら一人の声を孤立させず、大きなコーラスにして、意味のある変化に繋げていけるのでしょうか。

 和泉 アレクサンドリア・オカシオ=コルテス(AOC)なんかは、声の上げ方や周りとの連帯ですごくポジティブな例ですよね。もちろん、彼女が強くて聡明なスーパーウーマンだからこそ、ここまで上り詰めることができたという側面もあります。彼女は、彼女の主張が気に食わない保守派のテッド・ヨーホー議員に議場の前で「Bitch!」と罵倒されたとしても言い返す強さのある女性です。

 とは言っても、やっぱり彼女が力を発揮できるような環境を作る人が周りにいたのも事実です。彼女は「ジャスティス・デモグラッツ」という革新的な団体から議員候補としてサポートを受けながら選挙を闘ったし、YouTubeチャンネルでのキャンペーンをシステム面で支えてくれる人たちもいます。AOCの主義主張に賛同し協力した人々がいたからこそ、ここまでの多くの人から支持されているのでしょう。

 また、彼女の活躍を期待する声の存在も大きいと思います。ウクライナのゼレンスキー大統領のように、誰がどのタイミングでどういう主張をしたら効果的に広がるかに関して、彼女自身、非常に高いセンスを持っていて、おそらく別の人、別の状況、別の時代だったら潰されていたものが、彼女にはできてしまいます。しかし、それは彼女の力と周りのサポートだけじゃなく、彼女の声を求めて期待する人がいるからなんですよね。AOCの章ではそういう連帯の姿が見えて、書いていてなんだか元気が出る章でしたね。

 坂下 やっぱりいつの時代も、声を上げるときや上げた後に、周りの支えは必要不可欠なんだなと感じますね。私が草稿を担当したローザ・パークスは、「公民権運動の母」と呼ばれる英雄的な人物として日本でもよく知られていますが、実は彼女の行動にも多くのサポートがあったことはあまり知られていません。

 パークスが1955年、人種隔離されたバスで白人に席を譲らなかったことで逮捕され、それがきっかけでバス・ボイコット運動が始まったという語りは、まるで彼女が単独で突発的に行動したかのような印象を与えるのですが、実際には多くの黒人女性が関わっていたんですよね。例えば、この年にはパークスより前に、10代から70代まで少なくとも5人の女性がバスの席を譲ることを拒否して逮捕されていて、パークスは6人目でした。構造的な差別によって日常的に理不尽を感じていた女性たちが、もう我慢できないと次々と声を上げていき、パークスもそのコーラスに声を重ねたわけです。

 彼女が声を上げた直後には、地元の黒人女性団体がバスのボイコットを呼びかけるビラを一晩かけて作成し、次の日には町中に配っています。教員など中産階級の黒人女性が1940年代に結成した団体が、パークスが孤立しないように目に見えるかたちで支援したのです。そして、彼女たちが計画したボイコットを1年以上にわたって毎日実践したのは、パークスと同じく日々バスを利用していた労働者階級の黒人女性でした。階級を超えた黒人女性の連帯があったからこそ、公民権運動という大きな波が生まれたのだなと、すごく納得がいきました。私自身も、どこかで声が上がったら孤立しないようなサポートができるといいですし、それが常にできるような瞬発力があるといいなと思いますね。

社会運動のノウハウがアメリカにはある

 吉原 アメリカで暮らしていると、アメリカでは社会運動の歴史が深いぶん、いろんな形でそ

のノウハウが蓄積されていることを折に触れて感じるんですよね。身の回りで起こった問題について、集団的なアクションを起こし物事を動かす行動力と素早さがすごいなと思います。政治家に働きかけるにしても、多くの人の共感を培って連帯を築くにしても、どういう手順で何をどうするのが最も効果的か、わかっている人がたくさんいるという印象がありますね。

土屋 私が担当した「学問の自由」のために闘ったアンジェラ・Y・デイヴィスにも、志を共有する多くの人々の支えがあったことを執筆を通して知りました。1969年、デイヴィスはまだ25歳で、カリフォルニア大学ロスアンジェルス校で特任助教授の採用が決まったばかりで、若手の哲学者として注目を浴びる存在でした。でも学内で学生が発行していた新聞に「共産党員が採用される」という告発記事が掲載されました。赤狩りの記憶がまだそう昔の出来事ではない時代の話です。理事会の訴えに対して、彼女は共産党員であることを隠すこともできましたが、自分の主義を否定せず、結果的に大学から解雇を通達されてしまいました。

 最終的には州最高裁でデイヴィスは勝利しますが、その後雇止めにあいました。文書史料には、突然解雇され、雇止めにあったデイヴィスに支援を表明する手紙がたくさん残されています。例えば、同じ大学の職員が抗議のために役職を辞めたり、裁判で勝利するまでの間ポストを提供するオファーを申し出た大学までありました。学問の根底が揺るがされることへの危機感が共有されていたのではないでしょうか。

 これはアメリカに限った話ではありません。日本でも2020年に、菅義偉首相によって、日本学術会議の会員6名が明確な説明なしに任命拒否された事件がありました。多くの学会、団体が抗議声明を公表し、研究者がこれほど大規模に連帯したのは史上初めてではないかと言われました。大学や教員・学生の垣根を超えてデイヴィスの解雇に次々と抗議する声が上がったことを書きたいと思ったのは、ちょうどこの事件が起きた直後でした。

勝利の物語ではない「挫折の歴史」に注目

 三牧 必ずしも周りがサポートしてくれない例もあります。私はジョージア州で初の黒人女性知事をめざしたステイシー・エイブラムスの章を書きながら、2018年になっても、黒人女性が州知事をめざすことがとんでもなく大変なのだと痛感しました。ジョージア州の歴代知事はすべて白人男性。黒人女性のエイブラムスの出馬がふさわしくないと考える人たちから、容姿や肌の色に関する多くの誹謗中傷、人格否定にすらさらされます。野心的な女性に対する風当たりは現代でも非常に強いです。

 衝撃的なのは、政敵やあきらかに男尊女卑な人々だけでなく、政治的にはリベラルで彼女の選挙を支援してきた人々からさえも、「黒人女性だから知事は無理だよ」と言う言葉が出たことです。「黒人女性が勝つのは無理なのだから、エイブラムスが無謀な挑戦で傷つかないように」との気遣いから生まれた言葉だったのでしょうが、この言葉にエイブラムスは大変傷つきます。それでも彼女は挑戦した。マイノリティでも大きな野心を抱き、実現できる新しい歴史を切り開くためです。

 これらの人々の予測を裏切って、エイブラムスは共和党の現職州知事と大接戦を展開しますが、最終的に惜敗します。この選挙では、相手陣営の大々的な選挙妨害があり、エイブラムスは結果に抗議しましたが、最終的には敗北を受け入れざるを得ないことになりました。でも負けたままでは終わらないところがエイブラムスの強さです。選挙後、彼女は、マイノリティにとってますます投票しづらいものとなっている投票システムの抜本的な解決をめざします。彼女の運動により、有権者登録を阻まれてきた多くの人々が、登録を完了しました。2020年の大統領選でジョージア州ではバイデンがトランプとの接戦を制しましたが、この勝利にエイブラムスの運動は多大な貢献をしました。壮大な「リベンジ」です。

 和泉 おっしゃる通りですね。なかでも、エイブラムスの凄いところは、三牧さんがおっしゃるような問題の根本的解決の第一歩として、気の遠くなるような草の根運動をやり遂げたことですよ。投票権のないマイノリティを一人ひとり掘り起こして、有権者登録をするよう促し、投票に行くよう呼びかけた。その結果、80万人もの人が新規有権者となり、バイデンのジョージア州での勝利に繋がったのです。

 現在でもアメリカでは、マイノリティや若い人が投票できないようなシステムを作る、いわゆる投票弾圧が加速しています。一つ例をあげると、最近では投票の際に身分証明書の提示を義務づける州が増加していて、免許証などの身分証明書を持たない黒人や低所得者が投票できなくなってしまいます。投票されたら困る人がいるという表れですね。

 投票弾圧のようなバックラッシュに抗うのは非常に根気のいることですが、エイブラムスは非常にスマートな闘い方をしたと思います。日本だと闘うこと自体を忌避する傾向があるのですが、闘わないと変わらないので、たとえ社会の中に対立的な雰囲気が生じるとしても、行動が必要だと思います。

 土屋 そうですね。振り返ってみると、この本に登場する人物は必ずしも常に勝利を手にしてきたわけではありませんよね。むしろ様々な場面で挫折に直面しています。そういう意味では、この本は決して輝かしい勇気と勝利の物語ばかりではなく、「挫折の歴史」でもあると言えると思います。

 シャーロッタ・バスも、市議会議員選、連邦議会選、そして副大統領候補として臨んだ1952年の選挙に出馬し、負け続けました。そのためにロスアンジェルス史のなかでは知られていても、アメリカ史の教科書ではあまり触れられることのない人物です。実際、長いあいだ歴史に埋もれてきましたが、ハリスが副大統領候補となった際に、半世紀以上前に黒人女性で副大統領候補になった人物がいた点に注目が集まり、「再発見」されたと言えます。ただ、バス本人にとっては選挙で敗北することは想定内でした。敗北は闘いの終わりではなく、「始まり」だったのです。

 吉原 なるほど、そう言われてみると確かに「挫折の歴史」ですね! 身の危険をおかしてま

吉原 真里氏

で性暴力を告発したフォードにしても、その27年前に同じように連邦最高裁判事候補クラレンス・トーマスによる過去のセクハラを告発したアニタ・ヒルにしても、目の前の結果だけとってみれば、告発した相手はともに最高裁判事として承認されて、アメリカ社会でもっとも権威ある終身のポジションにつき、一方で自分たちはその後長い間、キャリアにおいても私生活においても大きな不利益を被っているわけですから。そして、この本で取り上げた人物たちの声にもかかわらず、警察による暴力も、銃による襲撃事件も、軍や資本による環境破壊や先住民の生活や文化の侵害も、生殖をめぐる女性の自己決定権の蹂躙も、今なおいっこうになくなっていない。

 でも、私たちがそこから学ぶべき教訓は、「だから声を上げても無駄なんだ」ではなく、「それだからこそ、一時的に脚光を浴びる発言や行為だけでなく、そうした挫折にめげず社会が進むべき道を見据えて地道な活動を続けてきた人たちの営みにこそ、目を向けることが重要だ」ということですね。

 三牧 日本でも、社会が変化しようとするにつれ、変えたくない人の抵抗も強まるでしょう。日本も一見、女性の登用が進んでいるように見えるところもありますが、そこには、「今ある政治システムを大きく変えない限りで」という暗黙の了解もあるように思います。この暗黙の了解に抵触するような事態が起こったとき、どうなるか。今でも明確に現状の政治の問題を把握し、批判し、変えようとする女性は、警戒されますし、風当たりも強いですよね。日本の場合、まずは女性政治家の数を増やすことが課題ですが、その次のステップとして女性が権力に近づき、現状の政治のシステムを変えるという段階になると、今とはまた質的にも量的にも異なるバックラッシュが起こる可能性もあります。

「後出し」よりその場でのサポートを

 吉原 バックラッシュと言えば、声を上げて、周りからあれこれ否定されたり攻撃されたりしたときに、その場では黙っているのに、後になってから「あなたの言っていることは正しいです」って言ってくる人がよくいますよね。そう思っているのなら、その場で言ってくれればいいのに(笑)。

 和泉 いますね。凄く同感です(笑)。

 坂下 会議などで抗議の声を上げたとしても、その場でサポートしてくれる人はほとんどいないですよね。でも、会議が終わるとすっとやってきて、「あれはひどかったよね」とか、「さっきのあなたの発言はホントその通りだと思う」と声をかけてくる人や、オンラインのグループ・トークのスレッドでは何も言わないのに、個別スレッドにこっそりフォローのメッセージを送ってくる人は結構いる(笑)。

 もちろん、それはそれでありがたいんですけど。例えば、女性差別的な出来事が起きて、それに対して誰かが声を上げたとき、立場の弱い若い女性がその場で公然と賛同するには、ハードルがかなり高いと思うので、「後出し」でも仕方ないですよね。だけど、誰に何を言われてもびくともしないような立場の男性の方とかがもしいるのなら、その場ですぐに支持してほしいなと思います。

 和泉 私はよく、「あなたは打たれ強いから大丈夫」というような励ましをもらうんですけど、「そもそも打つなよ」って話ですよね(笑)。女性だからより激しく打たれるのだとしたら、それはシステムの歪み以外の何物でもないわけです。「打たれ強いから大丈夫」というのは、不当に打つ側を正当化する行為で、励ましてくれているようで、実は差別に加担しているんですよね。特に立場の弱い女性は「打たれ強く」ならざるを得ないけど、そのことが逆にハラスメントを正当化するって、よくあるんじゃないですかね。

 坂下 そういう意味でも、「私は大丈夫じゃないです」とか「そもそも打つな」と声を上げることは、やはり大事だなとつくづく感じます。例えば、大坂なおみがメンタルの不調を理由に試合後の記者会見を拒否したエピソードを、三牧さんが本の「プラスコメント」欄で補足してくださっていますが、そうやってちゃんと発言しないと問題が可視化されないですよね。

 あと、これは本の中では紹介していませんが、最高裁判事だったルース・ベイダー・ギンズバーグが2018年のドキュメンタリー映画の中で、「男性のみなさん、私たちを踏みつけるその足をどけて」という、19世紀の女性参政権運動家サラ・グリムケの言葉を引用しています。踏んでいるほうはそれが当たり前になっているので、指摘されるまで気がつかないのだなと、改めて感じました。でも、相手が気づいていないからといって、踏まれた本人までが平気なふりをしていたら、踏んだ人にも周りにいる人にも大丈夫と思われて、その状態が続いてしまいます。

 ところでこのグリムケの言葉、男性が踏んでいるのはてっきり女性の足だと私は思い込んでいたのですが、実は首なんですよね。それならばなおさら、踏んだ人も踏まれた人も、それを見ている人も、その痛みに無自覚ではいけないんじゃないかと思います。

SNSを駆使した、しなやかな連帯

 坂下 最近は日本でも声の上げ方が変わってきている感じがしますね。今回の本の執筆中に東京五輪・パラリンピック組織委員会の森喜朗氏の女性蔑視発言が問題になり、「わきまえる」という言葉が注目されましたが、それに対して「♯わきまえない女」というハッシュタグができて、若い世代の女性たちが先頭に立って声を上げましたよね。このハッシュタグを使った抗議によって、女性が会議などでわきまえて意見を言わないことや、わきまえなくてはいけない環境がいかに問題なのかがやっと可視化されたと思います。私自身もわきまえ癖があったなと考えるきっかけにもなりましたし、何しろミレニアム世代やZ世代のSNSを駆使した声の上げ方が、すごくしなやかで新しいなと感じました。

 吉原 「わきまえない女たち」という言葉が生まれて社会で流通するようになったことは、一歩前進だと感じます。言葉としてすごくキャッチだと思いますし、何となく女性が感じていたモヤモヤを分かりやすく表現してくれましたよね。言葉は社会の変化に繋がる第一歩なので、今までは不可視化されていた差別が言語化されることでより多くの人に認識されるのは、とても意義のあることだと思います。

 和泉 三牧さんの学問分野は、私たち他の4人とは少し環境が違いますよね。私たち4人は普段からジェンダーなどについて議論していますが、三牧さんの分野から見てどうですか。

 三牧 私が研究している国際政治でもジェンダーはとても重要な視点であり、そうした理解も広まりつつありますが、構造としては、ジェンダーの分科会と安全保障の分科会といったかたちで「棲み分け」されてしまっているところもある。私たちの本が、こうした棲み分けの構造を乗り越えていく一助になることを願っています。

 また、シスターフッドという言葉はとても素敵な言葉だと私も思いますが、シスターフッドだけで止まっていてもいけないと思います。女性だけの連帯をつくってしまうと、「ジェンダーの問題は、あなたたち女性の問題ですよね」と男性を遠ざけてしまう危険性もある。そうではなくて、男性とともに考えていきたいし、考えていくべきだと思います。

私たちが今もなお抱くアメリカへの期待

 吉原 では最後にみなさんにお聞きします。アメリカでは年々分断が深まり、絶望を感じることも多いのですが、それでもやっぱり私たちはアメリカという国をあえて研究対象にし、私の場合は生活の場にも選んでいるわけです。このような状況においてもみなさんがなおアメリカに寄せる想いとか期待は、何なのでしょうか。

 三牧 私は、アメリカのZ世代がもたらす対外行動の変化に大きな期待をもっています。

 今のアメリカについては、自国第一で「内向きのアメリカ」というネガティブな語られ方が多いです。でも、「内向き」なのは、米国の人々、特に若者たちが、今まで多くの人々が正面から向き合うことを避けてきた国内の人種差別や経済格差の問題、社会保障の脆弱さに向かいあっている結果でもあります。また、Z世代は、暴力や抑圧に対する感受性がとても高い。米国が2001年の同時多発テロ事件以降、世界中で遂行してきた「テロとの戦い」には非常に批判的です。多くの市民を巻き添えにした無駄な戦争であったと考える若者も多い。彼らは、Black Lives MatterBLM)運動や、人間の地球への暴力である環境破壊をとめる運動にも熱心に取り組むし、国内にしか関心がないわけでもない。たとえば、国家としてのアメリカは、イスラエルがパレスチナの人々に行っている抑圧や暴力を知りながらも、一貫してイスラエルを支持してきましたが、若い世代はパレスチナの人々の命や人権を守れと「Palestinian Lives Matter(パレスチナ人の命は大事だ)」と掲げている。今も「Ukrainian Lives Matter(ウクライナ人の命は大事だ)」の訴えが高まっています。こうした世論の動向が、国内優先の姿勢を明確にしてきたバイデン政権が、ロシアに侵攻されたウクライナへの支援を強めている背景にもなっている。

 ただ、Z世代の若者は、ウクライナへの軍事介入を泥沼的に深めていく未来は想定していないでしょう。戦争が長引いていったとき、どういう動きが生まれるのか。今後、新しい世代がどのような米国の外交政策をつくっていくのか、注視していきたいと思います。それは日米関係の未来にとっても重要な視点だと思います。

 坂下 私は、ニュースにはならないけれど、アメリカ社会が生んだ傷に向き合いながら日々を生きる人々に、これからも関心を持ち続けるのかなと思っています。

 私はこれまで人種暴力の記憶や歴史を研究対象にしてきたのですが、7年ほど前に警察暴力や人種暴力で亡くなった方々の遺族とお会いする機会があり、今でもコンタクトを取ったりしています。ほとんどが犠牲者の方のお母さんたちです。彼女たちは何らかのかたちで毎日、身近にある暴力や差別と向き合い続けているんですね。月日が経つとニュースではもう取り上げられなくなり、社会からは忘れられつつある事件がほとんどですが、当然ながら遺族の日常には変わらず存在するわけです。例えば、警察の銃撃事件でお子さんを亡くしたお母さんが、普段は楽しそうに暮らしている様子が、SNSに上がったりします。でも、お子さんの誕生日には、「生きていたら何歳だった」というような投稿がされたり、銃規制の問題にずっと関わり続けて、新たな犠牲者が出てしまったら遺族団体のメンバーとしてその遺族を受け入れ、お互いに支えあって生きている様子を、SNSからうかがい知ることができます。

 メディアなどは何かの節目でしか取り上げないけど、遺族の方々が喪失感を抱えながらも闘い続ける毎日は、世の中がどうなろうとも続いています。そういう方々の声に耳を傾けていきたいなと思いますね。

 土屋 とてもよくわかります。私もニュースにならない日々の営みに勇気づけられることが多々あります。アメリカには非常に崇高な理念がありますが、現実ではそれに逆行することが繰り返されてきました。

 例えば、1865年に奴隷制の禁止を謳う憲法修正第13条、1868年に法の下での市民の平等を定めた憲法修正14条が成立しましたが、その後「黒人取締法」により、放浪や労働現場からの離脱などを理由に黒人は「犯罪者」にされ、強制労働に従事させられてきた歴史があります。1964年の公民権法および1965年の投票権法はジム・クロウと呼ばれる人種隔離制度を廃止したはずでしたが、囚人人口が激増したのは同法が成立して以降のことでした。BLM運動はまさにこうした逆説を明らかにしたのです。

 そういう矛盾のなかでも、人々が社会運動や地域での闘いを通して社会を少しずつ変えてきたという確かな過去があります。そういうところに私自身勇気づけられてきましたし、そこがアメリカの魅力の一つだと思うのです。今後も社会の不正義と闘ってきた人々の姿を追っていきたいという思いがあります。

和泉 アメリカには、自分なりの生き方を選択する権利を語る語彙があります。私はそこに期待を持ちます。

 例えばエマ(X)・ゴンザレスも「私たちは学校に行って銃で撃たれないで帰宅する権利がある」と語ったし、BLMが主張するように、警察の人種暴力に対しても「肌が黒いという理由で理由もなく警察に撃たれなくていい権利」がありますよね。そういう当たり前の権利を求めている人は世界中にいますが、それを語る語彙がアメリカにはあるんですね。特に「法の下の平等」を定めた憲法修正14条の存在がキーになっていると思います。

 それはたまたま私がアメリカ研究者だから、アメリカの語彙を使ってそういう権利を理解しているだけかもしれませんが、その語彙の存在や、それを使って権力やお金に立ち向かっていく人の存在が、私にとってアメリカに期待するものなのかもしれません。

アメリカ・若者世代への希望

 吉原 私が今もなおなぜアメリカを対象に研究を続けるかと言うと、アメリカが持っている本来の理念に対して、非常にナイーブな希望や期待を捨て切れずにいるからだと思います。平等などを謳う理念と乖離した現実にことごとく裏切られながらも、それでも希望をもっていろいろなかたちで行動を起こす人が、歴史上にも今現在も、たくさん存在します。そのような人々の存在に、期待と希望を感じるんですね。

 また、アメリカの大学に身を置いて若い世代を見ていると、広い意味での政治で社会を変えられると信じている人が、日本よりもアメリカにはずっと多くいるのを感じます。社会は変えられると信じて実際にそれを行動に移す人の姿を見ると、心が熱くなりますし、自分も頑張ろうと思います。

 それから、アメリカで社会運動に関わっている若い人たちは、歴史と今現在自分たちの周りで起こっていることの繋がりを理解しています。お勉強としての歴史を学ぶだけではなくて、こういう歴史の延長線上に今の現実があるという連続性を、日本の若者より身近な次元で理解しているような印象を受けます。だからこそ、グローバルな視点で物事を考えている人が多く、パレスチナの問題にもウクライナの問題にも目を向けられるのではないでしょうか。

5人からのメッセージ

 日本でジェンダーが表舞台で大きく論じられるようになってきたのはここ数年。そしてインターセクショナリティという概念は、まだ流通度が低い。でも、アメリカの歴史・政治・社会・文化を理解するのに、ジェンダーやインターセクショナリティの枠組みは不可欠。そしてまた、ジェンダーやインターセクショナリティというツールを持つことで、世界各地で起こっていることも、日本の社会や暮らしについても、あらたな視界が広がるはず。

 『私たちが声を上げるとき』で取り上げた声に、読者も耳を傾け、また、身の回りで人が上げる大小の声に共感したら、そこに自らの声を重ねてほしい。

(終)

 

和泉真澄・同志社大学グローバル地域文化学部教授
いずみ ますみ:東京外国語大学外国語学部英米語学科卒業。カナダのクイーンズ大学政治学研究科修士課程修了、同志社大学大学院アメリカ研究科で博士号。2013年より現職。日系アメリカ人・日系カナダ人文化史研究が専門。著書に『日系アメリカ人強制収容と緊急拘禁法─人種・治安・自由をめぐる記憶と葛藤─』『日系カナダ人の移動と運動─知られざる日本人の越境生活史─』等。

 

坂下史子・立命館大学文学部教授
さかした ふみこ:神戸女学院大学文学部英文学科卒業。同志社大学大学院アメリカ研究科で修士、米国ミシガン州立大学大学院文芸研究科でPh.D.(アメリカ研究)取得。2019年より現職。アフリカ系アメリカ人の歴史と文化研究が専門。共編著に『よくわかるアメリカの歴史』共著に『「ヘイト」の時代のアメリカ史─人種・民族・国籍を考える』等。

 

土屋和代・東京大学大学院総合文化研究科准教授
つちや かずよ:カリフォルニア大学サンディエゴ校歴史学研究科でPh.D.(歴史学)取得。2016年より現職。専門はアメリカ現代史、社会史。著書にReinventing Citizenship: Black Los Angeles, Korean Kawasaki, and Community Participation (Univ. of Minnesota Press)、共著に『自由と解放を求める人びと─アメリカ黒人の闘争と多面的な連携の歴史』等。

 

三牧聖子・同志社大学大学院 グローバル・スタディーズ研究科准教授
みまき せいこ:東京大学教養学部卒業。同大大学院総合文化研究科で博士号取得。2022年より現職。アメリカ政治外交、国際関係論が専門。著書に『戦争違法化運動の時代─「危機の20年」のアメリカ国際関係思想』共訳・解説に『リベラリズム─失われた歴史と現在』等。

 

吉原真里・ハワイ大学アメリカ研究学部教授
よしはら まり:東京大学教養学部卒業。ブラウン大学アメリカ研究学部で博士号を取得。ハワイ大学アメリカ研究学部准教授を経て、2008年より現職。アメリカ文化史、ジェンダー研究などが専門。著書に『性愛英語の基礎知識』『ドット・コム・ラヴァーズ』Dearest Lenny : Letters from Japan and the Making of the World Maestro等。

 

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