『公研』2024年1月号「私の生き方」
落語家、漫画家
──1937年(昭和12)東京の日本橋久松町のお生まれです。戦争中の記憶はありますか?
木久扇 いい思い出じゃないから、高座で喋ったりはしないんですけど、鮮烈に覚えています。小学校1年生のときですからね。毎晩のようにアメリカの爆撃機が東京の空を飛び回っていて、空襲警報が鳴っていました。そのたびに一緒に住んでいるおばあちゃんの手を引いて、小学校の防空壕に逃げ込んでいました。だから、ロクに学校に行かれなかった。
日本橋にあった家が焼けたのは、昭和20年3月10日の東京大空襲のときでした。そのとき母と私と妹は、知り合いのお医者さんが高円寺に持っていた空き家に疎開していて、それで助かったんです。父親だけは警防団の団長をやっていたものですから、爆心地の日本橋に残りました。薬を預かっていたんですね。だから怖い目に遭ったのは父親だけですが、父も生き延びています。
あのときはB29が290機も来たんです。それが一斉に、ネズミかウサギのウンチみたいに爆弾を落としていった。高円寺からも大火災の明るい火が見えました。僕は何度も大病をしているけど、あの空襲に比べたら何でもないと思えました。戦争より怖いことはないですよ。
──戦後にご両親が離婚されたそうですね。
木久扇 父が働かなくなっちゃってね。敗戦がよほどの衝撃だったと思うんです。小僧から雑貨問屋で働いて、のれん分けしてもらって鈴木商店という自分の店を叩き上げて成した人ですから。けれども、戦争で番頭さんを始めみんな出征しちゃってお店はお休み状態になった。それですごく落ち込んだのでしょう。
お弁当を持ってどこかに就職先を見つけに行くんですけど、お弁当だけ空になって帰ってくるんです。親戚がこっそり付いて行ったら、日比谷公園のベンチに一日座っていて、お弁当を食べていたそうです。これでは「ダメだ」って言うんで、私が小学校4年生のときに父と母は離婚したんですよ。父は妹を一人連れて別れることになりました。その頃、母と住んでいた西荻窪のすぐ近くの東中野にいましたが、会うことはなかったんです。
母は細々と雑貨の小売商をやっていましたから、僕は小学生の頃からそれを手伝っていました。高校を卒業するまで、ありとあらゆるアルバイトをやりましたよ。新聞配達少年、ふすま張り、電信柱にビラ貼りをやったり、納豆売りをやったり。
頼れる父を探していた
木久扇 夏休みには必ず映画館でアイスキャンディー売りをやりました。僕が映画好きになったのは、それが元なんですよ。アイスキャンディーの入った箱を肩から吊るして、「アイスキャンディーいかがですか?」と声を掛けて回って売るんです。売り子は次の上映を観るお客さんたちに備えて、前の回の映画がラストシーンになると映画館のなかに入るんです。僕は舞台の袖にいて、画面を斜めに観ているわけです。ラストシーンは作品の一番のクライマックスですからね。鞍馬天狗なら近藤勇との最後の一騎打ちの場面です。夏休みのあいだは、それを毎日観ていました。どんなに映画好きでも毎日は観ませんよね。
それで映画のセリフは覚えちゃうし、声色を真似ることもうまくなっちゃった。チャンバラ映画の名シーンがネガみたいにバチッと頭に入った。僕は落語家になってから『昭和芸能史』というチャンバラ映画の名場面を再現している新作落語をつくったんです。子どもの頃に記憶したことって、ずっと忘れないんですよね。アイスキャンディーを売りながら観た映画は、どの場面からでも再現できます。だから、商売の元になりましたね。
「笑点」のレギュラーになったときも自己紹介代わりに、「杉作、ニホンの夜明けは近い!」とやっていて、それですごくウケた。杉作は鞍馬天狗がいつも守っていた少年のことなんです。両親が離婚して僕には父がいなかったから、頼れる父を探していたのだと思うんです。主人公の鞍馬天狗が父で、杉作のことを「あれは僕だ」と思い込んで観ていました。
僕は落語家になってから、映画で観ていた大スターたちに実際にお会いできているんです。嵐寛寿郎さん、片岡千恵蔵さん、長谷川一夫さん、みんな昭和の大スターですよ。スクリーンで観ていた父親たちが蘇って、直接お話しできた。神様の采配なのか、結び付きや縁が不思議でしょうがないですね。
食品の側から離れないようにしていた
──漫画は小さい頃から描いていらしたのですか?
木久扇 小学校の頃から描いていました。「のらくろ」とか「ベティ」さんとか「ミッキーマウス」とか、ちゃちゃっと描けるんですよ。友だちから「絵を描いて!」と言われると、黒板にも描いてあげていました。その絵の評判がすごく良くて、学校では人気者だったんです。
──高校卒業後は森永乳業に就職されていますね。
木久扇 僕は東京都立中野工業高等学校の食品化学工業課程というめずらしい学科を出ています。要は食品科ですね。農業高校と工業高校が合併したとき創設されたんです。中学の担任の先生が「豊田(本名)、中野工業に食品科というのができた。成績に関係なく入れるからどうだ」と勧めてくれました。僕たちは、戦後の子どもですから食べるものがなくて「飢え」はすぐ隣にあったんですよ。いつも食料のことが頭にあって、お袋の買い出しにも付いていったりするくらい、食料の近くにいることは大事だったんです。
だから、「食品科」と聞いて目が輝きました(笑)。そこの側にいれば、この先結婚しても、家族に何か食べさせられるだろうと思って選んだんです。卒業後は、森永乳業に入社します。エンゼルマークの帽子をかぶって、新宿の工場で働くようになりました。
──食料がたくさんある職場ですね。
漫画家・清水崑の書生に
木久扇 きちんと会社勤めをして、苦労して育ててくれた母を安心させたいという気持ちもありました。一流の大きな会社に入社できたと、母はとても喜んでくれたんです。
けれども、4カ月で辞めてしまいました。小学校からの親友に永瀬くんという、出版社でアルバイトをしていた友だちがいました。僕の初任給で彼にご馳走して飲みに行ったときに、「勤め人もいいけど、お前は絵がうまいから漫画を描かないか」と誘ってきたんです。何でも漫画家の画料というものがあって、彼は「長谷川町子先生は4コマ漫画を描いて1日3万円だ!」と言うんです。僕の初任給が5500円でしたから、「ええっ!」と驚いてすぐに興味を持ちました(笑)。ちょうど「清水崑先生が書生を探している。お前は、男の長谷川町子になればいいじゃないか」と。
清水崑先生のことは、僕も知っていました。朝日新聞で政治風刺の連載をされていたし、『かっぱ天国』なんかのカッパの漫画がものすごく売れていました。東京都のカッパのバッジをデザインしたのも清水先生で、そのバッジがあると無料で入れる都内の施設もあったんです。日本で5本の指に入る漫画家です。僕は何でも1番の人をめざすことにしているんです。そのほうが話が早いし、近道ですからね。だからこの話は清水先生でなければ、乗っていなかったでしょうね。
それにこの時期、新宿工場で働いているときにちょっとした事故があって、そのことも影響したと思っています。牛乳を入れる一斗缶をひたすら洗う下働きがあるんだけど、手が濡れていたことがあって一斗缶を足に落としたんですよ。そうしたら、翌日には足が腫れていて、もう痛いのなんの。そんなこともあって漫画家もいいかと思えたんです。
それで、鎌倉にお住まいの清水先生のご自宅にうかがって面接を受けました。「剣道をやっているし、元気で頼もしい」なんて言って下さって採用されました。せっかく入った乳業会社は、こうして4カ月で辞めることになりました。
先生のもとには4年間いました。ただ先生は忙し過ぎて、僕が描いた絵を見るような暇はほとんどなかったんです。いったん東京に行かれるとホテルに缶詰になって、鎌倉にはなかなか帰ってこなかった。