『公研』2022年10月号「対話」 ※肩書き等は掲載時のものです。
安倍元首相との思い出
奈良岡 本日は、「安倍元首相の外交・安全保障政策の歴史的意義とは何か」をテーマに鼎談していきたいと思います。私は、安倍内閣の時に国家安全保障局の顧問を務め、「明治150年」記念事業のアドバイザリーボードに参加させていただきましたので、政権の雰囲気を多少なりとも理解しているのかなと思います。しかし、政権中枢を担われた小野寺先生と高見澤さんとは、安倍首相や政権との距離は比べるまでもございませんので、本日は進行役としてお話を進めさせていただきます。
まず、お二人に安倍元首相との思い出や印象についてお伺いします。小野寺先生は第一次安倍内閣で外務副大臣を、そして第二次安倍内閣では防衛大臣を歴任されています。小野寺先生が大臣になる前に安倍さんとは、どのようなご関係でしたか。
小野寺 議員一回生の仕事の一つに、「先輩議員が委員会を少し抜けたいときに代わりに席に座っている」という下働きがあります。私が一回生の時、安倍元首相や岸田総理は二回生で、安倍元首相に初めて出会ったのはその下働きをしたときでしたが、これといった深い交流には発展しませんでした。
交流が増えたきっかけとなったのは、日米安保50周年記念の渡米です。当時は民主党政権で自民党は野党でしたが、鳩山由紀夫元首相の「Trust me発言」などが原因で、日米安保50周年の正式なセレモニーもできないほど、アメリカが日本に大きな不信感を持っていました。しかし、元々日米安保の関係をつくったのは自民党ですので、党として何かできることはないかと党内でミッションを出すことになり、当時の石原伸晃幹事長から「誰かを派遣しよう」という提案がされます。そこで名前があがったのが安倍さんでした。安倍さんの祖父・岸信介元首相は、日米の対等な関係をめざし日米安保条約の改定に尽力された方です。そのような繋がりから安倍さんがこのミッションには適任とされました。
当時、自民党の外交部会長をしていた私は、安倍さんのカバン持ちとして9日間程ご一緒させていただくことになり、アメリカの国務省や国防省に行ったのを覚えています。ここで初めて総理とご縁ができました。第二次安倍内閣の時には防衛大臣を拝命させていただきましたが、日米安保50周年のミッションがなければ安倍元首相との深い接点を持つことはなかったと思います。
奈良岡 初めから外交安保の領域で接点があったのですね。
小野寺 当時の出来事で今でも覚えているのが、せっかくアメリカまで行ったので尖閣諸島が日米安保条約第五条(日本国の施政下にある領域が危機にさらされたときは米国も対処することを定めた条文)の適用になるか米側に私が確認したことです。そしたら、米側が「absolutely」と言い、尖閣諸島が第五条の対象だということを初めて明言してくださいました。それを安倍元首相が横で聞いていたのですが、それがきっかけで「こいつは使えるな」と思ってくださり、後の防衛大臣の登用に繋がったのではないかと思います。
奈良岡 最初に第二次安倍内閣で防衛大臣に抜擢されたときはどのようなお気持ちでしたか。
小野寺 当時の私は外交畑出身だったので、防衛については詳しくありませんでした。そのため、防衛大臣に指名されたときは、正直「大変だな」と感じました。しかし、実際に大臣になってみると、防衛省には非常に優秀なスタッフがたくさんいらっしゃって、その方々の支えで何とか業務をこなせました。
また、防衛大臣時代に総理とは自衛隊についてよく相談をしていました。一つ例を挙げると、東シナ海における中国の問題に自衛隊がどのように対応するのかです。この点は一つ前の野田政権では現場の対応が少し弱かった印象があったので、何かしらの変化が必要でした。そのため、総理と確認の上で、政治の意思として「中国には毅然と対応していただきたい」と自衛隊部隊にお伝えしました。2013年に中国海軍レーダー照射事件(東シナ海にて中国人民解放軍の戦闘艦が海上自衛隊の護衛艦にレーダー電波を照射した事件)がありましたが、共通の危険に対処する外交的に毅然とした対応ができたのではないかと思います。
自衛隊への強い想い
奈良岡 安倍元首相は防衛安全保障政策に非常に造詣が深く、関心も高かったのではと思います。日常的に直接ご指導をいただくことや意見交換の機会はあったのでしょうか。
小野寺 政権が民主党から自民党に変わった直後は、やはり安全保障や防衛に関してして大きな変革がなされました。そのため、私が総理に「こういうふうに変えたいのですが」と相談をしたり、総理が「ここを変えたほうがいい」とおっしゃるなど、頻繁に意見交換を行っていました。総理の提案で特に印象に残っているのが、「叙勲の対象を変えようよ」とおっしゃられたことです。まずはそこから変えて現場の自衛隊員にしっかり誇りを持ってもらおうという安倍総理の意向のもと、2014年から制服トップである統合幕僚長の経験者にも70歳に達した後に瑞宝大綬章が授与されるようになりました。
奈良岡 2021年まで防衛大学校の校長をされた國分良成先生の著書でも、安倍元首相の自衛隊への想いがうかがえるエピソードが紹介されていました。防衛大学校の卒業式では卒業の帽子投げをした後、学生服から陸・海・空の制服に着替えて自衛官としての任命・宣誓式が行われるのが慣習でした。しかし、着替えによる総理の拘束時間の長さが問題になり、総理大臣が出席する際には、学生服のまま自衛官の任命・宣誓式が行われていました。それに疑問を感じていた國分先生が安倍総理に制服への着替えの間待っていただくようお願いしたら、快諾してくださったというエピソードです。この総理の想いによって、防衛大学校の意識が変わったそうです。ちょうど小野寺先生のご在任の時期だったと思いますが、この件についていかがでしょうか。
小野寺 そうですね。やはり、それぞれ陸・海・空の制服を身にまとって、隊員として総理大臣の前で宣誓を行うというのは非常に大きな意義のあることだと思います。ご出席されているご両親も、お子さんが自衛官となった制服姿をいろいろな想いでご覧になります。そこに総理大臣が臨席するというのは、生徒だけでなく多くの人にとって記憶に残ることではないでしょうか。
奈良岡 自衛隊ということで、続けて高見澤さんにお話をお伺いしたいと思います。2007年の第一次安倍内閣の時に防衛庁が防衛省に昇格されました。当時、高見澤さんは防衛施設庁の横浜防衛施設局長をされていましたが、この昇格は防衛省や自衛隊にどのような影響を与えましたか。
高見澤 防衛庁の防衛省への移行は、長い間の取り組みでした。防衛省・自衛隊の業務が実質的に拡大する中で、第一次安倍内閣の時にようやく実現したことです。とにかく、やっと省に昇格したという想いが非常に強かったと思います。それにより、政策官庁としての位置づけが明確になり、国の防衛に専念する主任の大臣、すなわち「防衛大臣」が任命されることになりました。また、国際的にも国の防衛と国際社会の平和と安定に取り組む我が国の姿勢を明確にすることができました。一方で、防衛省への移行が防衛施設庁の廃止とほぼ同時に行われることになったため、本当にそれで良いのかという複雑な気持ちが現場にあったのも事実です
奈良岡 では、防衛庁・防衛省に勤務時代、安倍さんに対して高見澤さんはどのような印象をお持ちでしたか。
高見澤 第一次安倍内閣に対する私の率直な印象を申し上げれば、健康上の問題ということがあったにせよ、「わずか1年でお辞めになるとは」という思いが強かったです。私は、この直前に横浜防衛施設局長から運用企画局長というポストに就き、当時の防衛大臣である高村正彦大臣のもとで、テロ特措法に基づく補給支援をどう継続していくかという課題に取り組んでいました。安倍総理の所信表明演説においてもそのような方向が示されており、自民党の麻生幹事長、大島国対委員長などによる会合に事務方の一人として呼ばれ、期限延長のために努力するという方向が確認されました。しかし、それが実現しなかった。また、安保法制懇や国家安全保障会議の設置などに向けて検討が進んでいたものの、具体的な成果が出る前に交代されてしまったことも残念でした。
しかし、それが第二次安倍内閣になって大きく変わりました。まさに「第一次内閣のときに総理が考えていたものを具体的なかたちにする」ということに力を注いだのが、第二次安倍内閣だったと思います。第一次内閣における経験が全て活き、第二次内閣では複数のアジェンダを短期間で同時並行的に進めることに成功しました。むしろ、我々官僚のほうがこのスピードに追い付いていくのが大変でした。当時は副総理、官房長官、外務大臣、防衛大臣が少なくとも2年間は同じメンバーだったので、安倍総理が一貫した指導力を発揮できる体制が続きました。第二次安倍内閣では、総理のリーダーシップの強さと「何としても結果を出す」という思いが強く伝わってきました。
「総理から滲み出る経験と豊富な教訓」
奈良岡 ありがとうございます。第二次内閣において高見澤さんは、内閣官房副長官補に就任し、次いで国家安全保障局の次長も兼任されています。それぞれの役職に就いて、安倍元首相と個人的な関わりで印象に残っていることはありますか。
高見澤 一番印象に残っているのは、総理から滲み出る経験と豊富な教訓です。総理や大臣に我々が説明する場合は、ポイントのところで「それは何かね」と聞き返されることがほとんどです。しかし、安倍総理の場合は「そういえば、同じような話を聞いたことがある」と、ご自身が聞いた話と結びつけるので説明が非常にスムーズでした。例えば、G7において各国の首脳との議論も総理自身で行っていたのでこちらが説明すると、「確かにその点はメルケルも言っていたな」というように、直接首脳とのやりとりを述べられるなど、逆に私たちが教えていただくことがよくありました。総理の頭の中で会話の内容や入手した情報が全て整理されていて、思考の深さと幅の広さを感じました。
2015年の平和安全法制の議論でも、安倍総理はご自身で問題点や具体的ケースを考えていらっしゃいましたし、ご自分で国会やマスコミにメッセージを発信する力が強かったと思います。総理は我々の説明がハマったときにはすぐ納得されますし、ハマらない時には具体的な事例で聞き返してこられました。また、非常に難しい説明もすぐに理解され、それを前提として鋭い指摘をされたこともありました。
また、調整がうまく進んでいない現状について理解していただいた場合でも、総理の考える本来のあるべき姿からの乖離が大きく、納得できない部分があるときは、その旨を率直に述べられていました。本来追求すべき高い目標を常に念頭に置いていらっしゃったのではないでしょうか。
一方で、決めるべき段階での安倍総理の大胆な「決断力」に驚かされることもありました。「結果を出すためには妥協する」という、ある種のプラグマティズム(実利的、実際的なものを重視する考え方)が徹底されていたのではないかなと。それは、第一次内閣の失敗から得た教訓でもあったと思います。
しかし、総理は一度妥協した部分も、チャンスがあれば元々の原理原則に立ち返り、もう一度理想を追い求めるということもされていました。そのため、総理に直接ご指導をいただく機会が少ない官僚にとっては、視野を広げないと様々な場で総理のおっしゃっていることが矛盾しているように見えることもあったかもしれません。私は比較的近い場所でお仕えしていて、秘書官も含めて総理を直接支える方々とのやりとりに助けられながら、何かを成し遂げるための妥協と原理原則の両方を大事されていることを感じることができました。
個人外交に強い、安倍元首相のスタイルとは?
奈良岡 今の話を受けて、安倍元首相の外交スタイルについてお伺いします。先ほど、高見澤さんからメルケルさんのお話もでましたが、安倍さんの外交スタイルの特徴は「個人外交」だと言えると思います。各国の首脳とさまざまな個人的信頼関係を築きました。しかし、少し言葉が悪いですが、「トップ政治家たちをたらし込むような安倍さんの人間的魅力」というのは、なかなか外部にいる人間からするとわかりにくいです。小野寺先生から見て、トップ外交を可能にした人間的魅力や首脳外交をするときの秘訣はどのようなものだったでしょうか。
小野寺 安倍総理から出てくるお話は、誰かから聞いたお話ではなく総理が直接関わって感じた一次情報がほとんどでした。「あの首相がどういう人柄で、こんなエピソードがあって、こんなことを話していた」など、首脳陣の人柄をよく教えていただいたのを覚えています。単に各国の国家元首との話し合いというよりも、人と人との関わり合いを意識してされていたと思います。そこが安倍元首相の人間的魅力の一つではないでしょうか。
常に中国を意識したビジョンを掲げる
奈良岡 ありがとうございます。次に、外交方針の中身に話を移します。安倍外交の特徴を表す言葉はいくつかあります。「地球儀を俯瞰する外交」や「自由と繁栄の弧」、また「価値観外交」や「インド太平洋戦略」ですね。こうした大きなビジョンを掲げることが安倍外交の特色だったと言えます。官僚組織がブレーンとして助言などもされたと思いますが、安倍さん個人の関心や問題意識もこれらのビジョンには反映されていたのでしょうか。
小野寺 安倍総理はいろいろな意味で中国を意識したビジョンをいくつも持っていました。例えば、「自由で開かれたインド太平洋」も中国を意識してできたものです。この言葉には、東シナ海を独占的に中国が使用している問題を日中だけの問題に矮小化せず、国際的にも各国に危機意識を持って欲しいという意図がありました。2016年8月の第6回アフリカ開発会議にて安倍総理はこの言葉を初めて発信しましたが、現在では国際社会において非常に重要な言葉として使用されています。さらには、ロシアとの関係にも根本には対中認識があったのではないでしょうか。安倍総理もプーチンと、人と人との人間関係を築きました。しかし、根っこにはロシアを日本側にある程度引き付けておくことで、中露の接近を阻止したいというお考えがあったと思います。
このような日本の外交方針は、多くの国に影響を与えました。現在はアメリカが日本以上に中国を意識していますし、中国に対してかなり脇が甘かったヨーロッパの国々の対中認識も変わりました。世界に中国に対する危機感を持ってもらうということを、安倍総理は戦略的にされていたのです。
奈良岡 このようなビジョンの設定には高見澤さんも関わっていらっしゃったと思うのですが、いかがでしょうか。
高見澤 対中意識については小野寺先生のおっしゃるとおりだと思います。国家安全保障局においてもそのような問題意識に基づいて米国はもちろん、オーストラリアや欧州諸国と緊密な意見交換を行いました。
この関連で申し上げると、安倍外交の特徴の一つに、インドの戦略的重要性を早い段階から重視されていたという点があります。2005年頃から、外交について議論する様々な場面で、インドの戦略的重要性に注目する議論が行われていました。その頃から安倍総理にはインドの重要性が念頭にあったと思います。
また、インド洋・太平洋という二つの海を一体として見ることの戦略的な重要性も安倍総理が提唱されたものです。総理は2007年8月に訪問先のインド国会で、二つの海の交わりについて言及されました。太平洋とインド洋は、自由の海、繁栄の海として、一つのダイナミックな結合をもたらしているとして、従来の地理的境界を突き破る拡大アジアが、明瞭なかたちを現しつつあり、これを広々と開き、どこまでも透明な海として豊かに育てていく力と責任が日印両国にはあると述べられました。また、第二次安倍内閣が発足して間もない段階で、すでに日本国際問題研究所においてインド太平洋における安全保障秩序と日本外交の課題という非常に広い視点での議論が行われていました。
二つ目の特徴は、日本が海洋国家であるという強い認識を持っていた点です。国家安全保障戦略において、日本は「海洋国家として、特にアジア太平洋地域において、自由な交易と競争を通じて経済発展を実現する自由貿易体制を強化」する、「『開かれ安定した海洋』の維持・発展に向け、主導的な役割を発揮する」ことが強調されており、自由で開かれた海洋によって日本は成り立っていると認識されていました。それが全体の外交方針にも影響を与えていたのではないかと思います。
安倍総理の外交スタイルに関しては、皆さん話が一致するのですが、総理は各国首脳との対話で、いつも相手の関心事項にそった話題を向けられていました。そして、相手の話を引きだしながらも意見を求められると、それぞれの首脳が関心を持つテーマでご自分の考えを述べられていた印象があります。その高い対話力が外交をする上でも大きく作用していたのではないでしょうか。
奈良岡 一般的に安倍元首相は個人外交に強いという印象で語られますが、マルチの場での立ち振る舞いもうまく行っていたのですね。単なる一対一の関係だけでなく、G7やG8などのいろいろな会合で人を巻き込みながら対話を重ねていたのでしょうか。
高見澤 そうですね。G7の場でも各国の首脳陣が安倍さんのほうを向くというお話を聞いたことがあります。取りまとめのような役割を得意とする、安倍さんのご性格があるのだと思います。
奈良岡 安倍内閣は積極的平和主義を掲げて、平和安保法制の整備や集団的自衛権の行使、武器輸出三原則の見直しなど、国家安全保障政策で大きな足跡を残しました。その意義について、小野寺先生は閣僚としてどうご覧になりますでしょうか。
日本人が日本を守る
小野寺 安倍総理はこの積極的平和主義において日本人が日本を守るということを重視されていました。例えば、北朝鮮が日本に攻撃を仕掛けてきたときには、日米同盟のもと日本を守るために米軍の航空機が出動するとします。その時に、「日本はアメリカのような対応はできない」と言ったら、日米同盟が壊れるのではないかという危機感を総理は持っていました。なぜ日本人が日本を守るための努力をしないのに、アメリカの若い軍人が危険を顧みず日本を守る行動を取らなきゃいけないのか。そのことを、アメリカ兵の家族は決して理解しないだろうと。ですから、総理は「日本に有事があったとき、日米共にしっかり対応できることが重要だ」と繰り返しおっしゃっていました。それに対する現実的な対応策の表れが、2015年の平和安全法制だと思います。
さらには、防衛装備移転三原則も、同じく日本人で自国を守るという総理の意志のもと制定されたものです。防衛装備移転三原則の前身とも言える武器輸出三原則の中には、おかしなところがたくさんありました。例えば、武器輸出三原則が理由で、アメリカとのF35(戦闘機)の共同開発に日本は参加できず、結果として防衛装備の遅れに繋がりました。このような事態を回避するため、まずは武器輸出三原則を見直そうという明確な問題意識のもと、防衛装備移転三原則が制定されたのです。また、2020年のスタンドオフミサイル(敵の射程圏外から攻撃できる長距離ミサイル)開発の決定も、安倍元首相は積極的に後押ししてくださいました。
このように、総理を辞めた後でも最後まで反撃能力も持つべきだという意志を持ち、私たちの後ろ盾になっていただきました。日本を守るためにやるべきことを一つひとつ積み上げていかれたのだろうと感じます。
奈良岡 観念的というより、具体的問題に実直に取り組んでいたのが大きいのですね。今の点、高見澤さんの立場からいかがでしょうか。
高見澤 小野寺先生から「現実的な対応策」というお話がありましたが、一つ印象深かったのは、麻生幾さん(作家・ジャーナリスト)の『宣戦布告』が出版されたとき、自民党の勉強会の講師として麻生さんを引っ張り出してきた一人が安倍さんではなかったかと記憶しています。この本は、「北朝鮮が日本に攻めてくる」という有事に直面した際の政府の対応を描いた作品です。つまり、安倍さんの頭の中には、常に危機にどのように具体的に対応するかということがあったのではないでしょうか。
第二次安倍内閣発足直後の2013年1月に、アルジェリアでのテロ行為で日本人を含む多くの人命が奪われるという事件があり、政府の危機管理が問われました。また、同年11月には中国が東シナ海防空識別区を設定し、我が国固有の領土である尖閣諸島の領空があたかも「中国の領空」であるかのような表示を行った上で、当該空域を飛行する航空機は中国国防部の定める規則に従わなくてはならない旨を一方的に発表するという事態が生じました。
総理がお考えになっていたのはまさにこのような事態にどう対応するのか、同時に外交的な手段として日本へ危機をどう防いでいくのかです。その実現のために、ときには強く出て、ときには引くという戦略的コミュニケーションを実践されていました。どう対応するかだけでなく、どう働きかけをしたら有事を事前に防げるのかという点も強く意識されていたのです。
安倍内閣の防衛方針は継続されるのか?
奈良岡 まさに防衛に関する様々な問題点というのは、今回のウクライナ戦争によってより現実的なものとして日本にも迫っています。例えば、防衛を支える産業基盤や反撃能力の問題などです。このような情勢の中で、安倍内閣で進めてきた取り組みを今後も継続して進めていくべきでしょうか。
小野寺 そうですね。そういう思いで今年の安全保障調査会では国家安全保障戦略を含めた防衛の体制についての提言をまとめて、4月に政府に提出しました。この提言はウクライナ戦争が起きる前からずっと議論をしていたものです。また、安倍さんにはその都度ご相談をして、助言をいただきながら進めていました。安倍さんは「早急に政府として防衛の方針をしっかりつくって欲しい」という想いを一貫して持っていたので、私たちはこの想いを今の政権にしっかりと伝えていきたいと思っています。
奈良岡 ありがとうございます。高見澤さんがおっしゃったような、防衛の長期的課題に取り組むために2013年に創設されたのが国家安全保障会議(NSC)であり、それを支えるために2014年に発足したのが国家安全保障局(NSS)です。この組織に、小野寺先生は大臣時代に深く関わられたと思います。このNSCの意義についてどうお考えでしょうか。
小野寺 第一回のNSCに出席をさせていただいたとき、「日本の国防において歴史的に意義のあるところに参加させていただいているな」と感じたのを覚えています。NSC創設直後は、安全保障について全体で共通の認識を持つために、情報を共有するところから議論がスタートしました。徐々に共通認識が固まってくると、次は各省ごとの意見を求められるので、省としてはまとまった一つの意見を出すための話し合いも行われました。この会議を通して各省内での意見を固めることができたことは、非常に意義があったと思います。
また、NSCで印象深かったのが特定秘密保護法案の成立です。私は、特定秘密保護法成立の前と後の両方のNSCに参加しています。会議に入ってくる情報の質を、法案成立の前と後で比較すると、成立後のほうが質が高い印象を持ちました。NSCでは機密情報を扱います。そのため特定秘密保護法によって情報の漏洩を防いでいる日本になら、質の高い情報を渡してもいいという環境をつくれたのだと実感しました。
奈良岡 それは非常に大事なことですね。安倍内閣の取り組んだ安全保障政策全般に言えることですが、左からの批判というのは非常にプレッシャーになっていたと思います。特定秘密保護法も太平洋戦争の時代に戻ってしまうのではないかというトラウマから、少し的外れな批判が多かったと感じます。例えば、戦争が始まってしまうとか、演劇などが自由にできなくなるなどの批判ですね。多くの反対もありましたが、小野寺先生から見てこの法案が施行された意義は非常に大きかったのでしょうか。
一時の反対より、長期的な目線で国を導く
小野寺 特定秘密保護法の制定の時に、私は担当大臣として国会の答弁にも立ち、野党から非常に多くの質問を受けました。また、国会の周りには法案に反対するデモ隊がたくさんいて、夕方になると毎日のように太鼓やシュプレヒコールが鳴っていました。さらには、テレビでは記者がメールを送っただけで逮捕されるかもしれないと報道されるなど、法案に対して非常に多くの方が不安を持っていたのを覚えています。しかし、現状を見ても、当時の懸念で表面化したものは一つもありません。むしろ、法案のおかげで情報漏洩を防ぎながらも、精度の高い情報が入ってくる時代になったのです。
あの時の経験を通して感じたのが、「反対はたくさんでても長期的な目線で国のことを考えて制定した法案は、一定期間おくときちんと成果をあげる」ということです。また、規模の違いはありますが、日米安全保障条約も同じような軌跡たどったのではないでしょうか。日米安保も制定の際に、安保闘争などの多くの反対にも遭いました。しかし、結果的には「日米安保があったから日本の平和は保たれている」ということは共通認識になっています。安倍元首相も同じように、「成し遂げることが非常に難しい問題でもやり抜くことで歴史的には評価される」という感覚を持っていらっしゃったと思います。
奈良岡 NSCには、それを支える組織である国家安全保障局(NSS)というものがあります。NSSが創設された2014年から19年まで谷内正太郎さんが局長を務められました。NSSは谷内さんの役割が非常に大きかったと思いますが、小野寺先生はどのような印象をお持ちでしょうか。
小野寺 NSSはどちらかというと防衛畑なので、外交畑出身の谷内さんが局長を務められることで組織がどう動いてくのかなと見ていました。もちろんNSCの司会進行をされたり、議論についての事務的な対応もこなされていました。なかでも、谷内さんは独自の情報チャネルを持っていらっしゃるので、情報収集の部分でも非常にお力のある方だなと感じました。また、対外的に非常に重要なポストでしたし、私ども政治家と違って国会などの縛りもそこまでないお立場ですので、谷内さんの登用は非常に有効に機能していたのではないかと思います。
奈良岡 NSCついて高見澤さんいかがでしょうか。
高見澤 やはり国家安全保障会議設置法によって、情報の集約が法律的にも明確になり、情報の融合化(フュージョン)が進んだことは間違いありません。さらには、「情報が情報を必要とするところを回る」というサイクルも作れたと感じています。例えば、総理が新しい政策を打ち出そうとされて、さらにはそれをNSCやNSSを使って具体化し推進しようとするとします。そうすると、政策をつくるための情報が必要になります。今までは縦割りでバラバラだったものが、国家安全保障会議設置法によって全省庁をあげて情報を集めて分析し、進めることができるようになりました。私はこのメカニズムとダイナミズムにより、NSCやNSSが非常に有効に機能したと感じます。また、情報を分析する側も集めた情報によって生まれる政策の価値を感じ、政策を作る側もより具体的な情報要求を出すことができます。このサイクルが非常にうまく回ったのではないでしょうか。
さらに、NSCの四大臣会合も非常に大きな意義を持っていると考えます。四大臣会合とは総理、官房長官、外務大臣、防衛大臣が定期的に集まり、外交・安全保障政策についての方針を決める会議です。四大臣というトップの人々が集まるからこそ、非常にスピーディーな議論もできます。また、あらゆるソースを合わせた最高の情報共有も可能です。
さらには、NSC発足直後に「国家安全保障戦略」と「防衛計画の大綱」という日本の安全保障政策の指針が定まり、その直後にNSSが設立されました。そのため、できたばかりの指針に示された課題を速やかに実行に移す場として、また問題が生じた時の対応策を考える場としてもNSCとNSSが非常に重要な役割を果たしたと思います。
NSC・NSSには防衛省や外務省、あるいは他の省庁から最精鋭が集められました。そのため、よりいっそう内閣官房と外務省、防衛省の一体的な議論が一挙に進んだと思っています。
奈良岡 おっしゃるように、NSSには外務省や防衛省、国交省や警察など様々な役所から人が集まっています。NSSで顧問をさせていただいた時に、「いろいろなところから人が集まっているのは安全保障マインドを各省で共有してもらうためだ」とお聞きしたのを覚えています。NSSには各省からかなり優秀な方がくるので、それぞれの省に戻ってからも、安全保障を意識しながら政策を進めてもらうことが可能になるということです。そのため、「NSSは霞が関改革のための大きな装置だ」とおっしゃった方もいたのですが、霞が関に長年いらっしゃった高見澤さんから見て、この点はいかがでしょうか。
高見澤 奈良岡先生がおっしゃるような話もあり、安全保障マインドは横に広がって行くのが理想です。しかし、なかなか難しいのが現状です。私の印象だと、どれだけ優秀な方でも出身省庁の壁を越え「己を捨てて国のためにやる」という姿勢と、「内閣官房の中では自分が本当の一兵卒なのだ」というマインドセットがないと中々NSCのために活躍することは難しい。NSC発足当初から長く参加されている総理や官房長官とそのスタッフの間ではこうした安全保障の問題意識は確実に共有されています。しかし、それを省を超えて横に広げることは容易ではないと感じています。
一方で、ウクライナ侵攻の関係で、日本でもロシアへの様々な経済制裁を行っており、安全保障に関する知識と感覚、そして国際性を持っている関係省庁の職員が安全保障の観点も踏まえて対応しています。今後は、意識的に安全保障マインドの横展開とスタッフの拡充をしていく必要があると強く感じます。
奈良岡 横に広げることは時間がかかるのですね。
安倍外交における歴史認識問題
奈良岡 では次に、安倍外交では十分に解決にはいたらなかった課題についてお伺いします。一つは、歴史認識の問題です。私は歴史を研究しているということもあり、この部分に非常に関心を持っているのですが、近年の外交の特徴の一つに歴史認識問題が大きなイシューとして浮上してきているということが挙げられます。安倍内閣はこの問題に対しても、果敢に取り組んだという印象を持っています。例えば、戦後70年談話やオバマ大統領の広島招待などです。歴史認識の問題を、外交・安全保障の分野に結び付けて対応していました。
一方、対アジア外交という点では、少し苦戦されていたように感じます。特に、韓国との関係では、従来は良好だった韓国軍と自衛隊の関係にも、残念ながら軋轢が生まれてしまいました。この点について、小野寺先生はどうお考えでしょうか。
小野寺 安倍外交ではアジア外交に関しても、かなりの心配りをされたと思います。しかし、お話にもありましたが日韓関係については、日本側が何か変化をしたというより、韓国側が様々な変化を仕掛けてきたことが大きいと感じています。近年は、日韓関係を重視して日本がいくら寛容に対応しても、韓国側が常にゴールポストを変化させてくるという状況でした。そうなると、日本側は「これ以上は変えることができない」というスタンスを示すしかありません。そうなると必然的に問題の解決は遠のいてしまいます。
また、韓国側の対応に疑問を感じることが多々ありました。例を挙げると、2018年の済州島で行われた国際観艦式での出来事です。日本の自衛艦が、旭日旗を掲げての進入はしないで欲しいと韓国側から要求がありました。国連海洋法条約上でも、自衛隊法でも旗の掲揚は義務付けられているので、これはかなり疑問の感じる要求でした。今後の日韓関係は、新しい尹政権に変わってどのように対応が変化するのか、尹政権の動向を見ながら関係を改善することが現実的な対応だと思います。
奈良岡 高見澤さんは安倍外交の日韓関係についてどうお考えでしょうか。
高見澤 私は、ちょうど日韓関係が良好だった時の防衛交流・防衛協力を担当していました。そのため、近年の韓国側の変化がいかに大きく、問題の解決が難しいかが実感を伴って理解できます。特に双方ともに国内世論に対する政治的な主導力を発揮しにくく、関係の改善がさらに難しい時代に入ってしまったと感じています。今年誕生した、新しい尹政権に期待をしたいと思います。
現時点で対露外交の評価は困難
奈良岡 評価の高い安倍外交ですが、現時点で厳しい評価が出始めている部分もあります。対露関係、とりわけ北方領土の問題です。ジャーナリストの方々が最近発表された著作では、かなり厳しい評価がされています。「4島一括返還を2島返還にまでハードルを下げたが成果が出ず、逆に今後の外交を変に縛るようなことをしてしまったのではないか」という批判です。また、政府関係者でも、元外務事務次官の竹内行夫さんのオーラルヒストリーが刊行され、この中で安倍さんの北方領土交渉に対して相当厳しい評価をしています。他方で、「厳しい現実を見据えて柔軟な対応をする必要があった」「経済交流を深めることに成功した」など擁護する声もあり、評価は分かれています。変化が激しい今の状況で判断すべきではないのかもしれませんが、現時点でどのように総括されますでしょうか。
小野寺 外交政策というのは歴史の評価なので、いま判断をするのは非常に難しいです。しかし一つ言えるとするならば、ロシア側に対話をする姿勢があったのも事実ですし、それを受けて日本も北方領土の問題を前に進めようと努力したのも事実です。しかし、3、4年前からは中露の接近のほうが目立つようになり、残念ながら結果として日本の努力は裏切られたかたちになりました。それを、失敗と評価するのか。または、努力をする過程で環境が大きく変わってしまったということを要因とするのかは、今すぐには判断はつきません。
奈良岡 今のお話を受けて、高見澤さんは対露外交についてどうお考えでしょうか。
高見澤 対露外交に関しては、なかなか現時点で評価することは難しいです。しかし、教訓としては三点ほど挙げることができると思います。第一点は、対露外交では、スタンスの違いによる日米間の緊張がありましたが、方向性の違う案件であっても、日本として独自のアプローチを取るという実績を残しました。結果的には成功とは言えませんが、日米間で意見が違っても、意思疎通を図りながら、独自性を発揮して外交を進めていくという前例になったという意味はあると思います。
第二点は、ロシアという国を戦略的にどう位置付けるのかということを考える上での教訓が得られた点です。小野寺先生のおっしゃられたとおり、対露外交の背景に、限界はあるにしても、日本の働きかけによって中露の結託をこれ以上深めさせないという問題意識があったことは事実だと思います。日本とは海も隔てているし、歴史的な関係から言っても北方四島以外の深刻な二国間問題はあまりありませんでした。しかし、クリミア侵攻に続いてウクライナ侵攻が生起した状況下において、我が国の国益という観点からロシアの戦略的意義を改めて考える必要があると思います。
第三に、日本が対露外交を進めているさなかにクリミア侵攻に関連する対ロ経済制裁の議論が生じたわけですが、日本は独自の対応を取った部分がありました。今回のウクライナ侵攻に対する日本の対応、制裁措置の幅と深さを決める上で、これまでの経験が役に立ちました。クリミア侵攻への制裁を通じて感じ取った基準というか肝がどこにあるのか、どの程度の距離感であればぎりぎり大丈夫なのかということが教訓としてあったのです。それゆえ、今回は逆に強く踏み込まないといけないということもわかったし、同時に踏み込んだ場合でも実利を追求する余地はあるということを、当時のアメリカやヨーロッパの対応を見ながら必死で学んだ部分が結構あったと思います。そういう意味では、日本外交のある種のたくましさを育て、リアリズムを広げるプロセスになったという意味合いがあったのではないかと思います。
いずれにせよ、これはいわば副次効果であって、安倍内閣の対露外交そのものがどうであったかということになると、私としては、なかなかコメントができる立場ではなかったというのが正直なところです。
課題が残る沖縄基地問題
奈良岡 次に国内政治に関わる課題として、沖縄の基地問題についてお伺いします。この問題は安倍内閣のもとで辺野古基地の工事が開始されるなど、一定の進展はありました。しかし、沖縄県内の政治情勢の変化もあり、近年は難しい局面が続いています。安倍さん個人としても、沖縄に対する想いはお持ちだったと思います。この沖縄問題に関しての印象や見通しについて、小野寺先生はどのようにお考えでしょうか。
小野寺 残念ながら、仲井眞弘多知事から翁長雄志知事に変わった後から、基地問題は難しい局面に入りました。しかし、この問題の前提は沖縄の負担軽減ということを皆さんにはお伝えしたいです。例えば、普天間基地を返還するために必要な辺野古の埋め立てと移転は、根本には沖縄の負担の軽減があります。また、2013年には仲井眞知事の辺野古埋め立ての承認という、沖縄県の理解を得たうえでこの計画はスタートしています。しかし、沖縄の政治情勢が変わる中で反対が強まってしまいました。ここ数年、この問題の解決が進まなかったことは、非常に残念なことだと思います。
現在の東シナ海・南シナ海は、台湾有事の危機などから緊迫感が増す一方です。このような状況で、「沖縄に米軍のプレゼンスがしっかりとある」ということが、抑止力の点から見ても非常に重要なことは明白です。この課題は、引き続き着実に努力を積み重ねるしか解決策はないと思っています。
奈良岡 高見澤さんは沖縄についていかがでしょうか。
高見澤 小野寺先生がおっしゃった通りだと思います。いずれにしても、これから抑止が必ずしも機能しないとなると、沖縄に限らず基地問題のあり方も昔とは変わっていくのではないでしょうか。例えば、住民保護、重要インフラの防護、強靭性の確保という観点から、基地だけでなく、民間施設も含めて、日本全体としてどう統合的に活用し、また守っていくかということを考える必要性がますます高くなってきていると感じています。
奈良岡 そうですね。ハイブリッド戦争と言われる戦争形態の変化も踏まえて、基地の問題も柔軟に考えていかないといけないですね。
憲法改正への意思を引き継ぐ
奈良岡 それでは最後に、安倍政治の遺産と今後の備えについてお二人にお伺いしていきます。突然、安倍元首相が殺害されるという悲劇がありました。さらに、ロシアによるウクライナ侵攻など世界が不安定な情勢を迎えています。今後、安倍政権で取り組んできた課題をどう発展させるのか。そして、安倍政権のもとで必ずしもうまくいかなかった課題と今後どう向き合っていくのか、このような時代だからこそ問われています。
なかでも、憲法改正は大きな問題です。この問題は外交・安全保障を根底で支えるという意味でも重要です。しかし、安倍政権も国民投票法の整備など様々な取り組みをしましたが、最終的には悲願を達成できませんでした。この憲法改正も含め、今後の課題をお伺いしたいと思います。
小野寺 現在は、東アジアを含め、世界的に経済や軍事のバランスが大きく変化をしています。この変化の中では、日本単独の力では地域のバランスは保てません。アメリカとの日米同盟もありますが、近年このバランスも変化しています。ですから、QUADやNATOも含めて、同盟の枠組みをしっかりと広げていき、地域のバランスを崩さないようにすることが重要です。国家間のバランスが崩れた時に、地域のバランスも崩れます。そして、それが最終的にはそれが紛争に繋がってしまいます。ここを着実に進めていくことが課題です。さらには、日本自身の努力としては、自国は自分たちで守るという防衛努力が必要です。
安倍政治は安全保障、経済安全保障も含めて、現状どのような課題があるかということを明確に示してくれました。その安倍政治が示した危機が現実のものとなって、私たちの目前に出てきています。そういう意味でも安倍内閣はたいへん成果をあげたのではないでしょうか。
憲法改正について、実は憲法には9条以外にも様々問題点が存在します。本来であれば、安倍政権でも憲法改正がしっかりと議論できれば良かったのですが、「安倍政権が行う憲法改正には反対だ」というよくわからない論理によって野党に反対されてしまいました。いずれにしても、安倍元首相の憲法改正への強い意志は私たちにも引き継がれていますし、日本にとって必要なことです。安倍元首相だけではなく、それを引き継がれた総理は憲法改正を実行していくことが今後も重要になるでしょう。
奈良岡 ありがとうございます。高見澤さんいかがでしょうか。
安倍内閣以上の結果が求められる岸田内閣
高見澤 岸田総理は8月15日の全国戦没者追悼式の式辞で、積極的平和主義の旗の下、国際社会と力を合わせながら、世界が直面する様々な課題の解決に、全力で取り組むことを宣明されました。岸田内閣においては、積極的平和主義という安倍内閣の外交姿勢を発展させつつ、異論はそれほどないけれどもまだ実現に至っていない様々な施策について、安倍内閣以上に結果を出すための努力が求められているのではないでしょうか。その意味で岸田内閣のキャッチフレーズである「政策断行内閣」は非常に重要な指針になるのではないかと思います。
また、今回の経済安全保障法制の整備により、NSCの所掌事務として経済政策に関する重要事項についても審議をするということがはっきりと明示されました。これは画期的なことだと思います。岸田内閣では、安全保障分野と経済安全保障をはじめ様々な政策分野が緊密に連携して最大限の効果をあげることのできるようなプロセスを確立することが非常に重要になります。
さらに、安倍元首相は事態に対応するだけではなく、先手をとってそれを防ぐことや対応をより効果的に行うための環境整備を意識的に行ってきました。その姿勢は岸田内閣にも必要な要素です。最初の段階での岸田総理の発言には、「対応」という言葉が多かったのですが、最近では、より体系的に環境に働きかけていくということを仰っていますので、まさにそれを進めていっていただきたいというのが私の考えです。
奈良岡 ありがとうございます。今後3年間は全国規模の国政選挙がなく、「黄金の3年」になるかもしれないと言われています。もちろん、スキャンダルや地方選挙の影響で政権が不安定になる可能性はあります。しかし、長期政権は外交安全保障政策を強力に進めるのに非常に良い環境です。今は良い条件がある程度揃っているので、今日のお話で出てきた課題が今後も着実に進むことを期待して、鼎談を終わらせていただきます。
(終)
ならおか そうち:1975年生まれ。2004年京都大学大学院法学研究科博士後期課程修了。博士(法学)。専門は日本政治外交史。京都大学法学研究科助教授を経て2014年より現職。著書に『対華二十一ヵ条要求とは何だったのか』『加藤高明と政党政治二大政党制への道』『「八月の砲声」を聞いた日本人─第一次世界大戦と植村尚清「ドイツ幽閉記」』など。