『公研』2025年10月号「対話」

世界各地で右翼ポピュリズム政党が躍進している。
ドイツ・オランダを事例を参考に、その背景を探る。

東京大学大学院法学政治学研究科教授
板橋拓己(画像左)

獨協大学法学部教授
作内由子(画像右)


いたばしたくみ:1978年栃木県出身。北海道大学大学院法学研究科博士後期課程修了。博士(法学)。専門はドイツ政治史。同大学法学研究科附属高等法政教育研究センター助教、成蹊大学法学部助教、同准教授、同教授を経て2022年4月より現職。 著書に『分断の克服 1989-1990』『アデナウアー』『黒いヨーロッパ』など。


さくうちゆうこ:1983年東京都生まれ。東京大学大学院 法学政治学研究科博士課程修了。博士(法学)。専門はオランダの政党政治。千葉大学法政経学部助教、獨協大学法学部総合政策学科専任講師、同准教授など経て2025年より現職。共著に『民主主義の比較政治学』『アウトサイダー・ポリティクス──ポピュリズム時代の民主主義』など。


 

ポピュリズムは長期的な政治史・思想史の中で捉えることが大事

 作内 本日は「ドイツ・オランダに見る右翼ポピュリズム政党が躍進する社会の背景」といったテーマでお話ししていきます。板橋さんには長年お世話になって研究会でもずっとご一緒しておりますが、現代ヨーロッパについてじっくりお話しする機会はあまりなかったので、今日は楽しみにしてきました。

 最初に簡単に自己紹介させていただきます。私はヨーロッパの政治史を専門にしています。特にオランダの政党政治に関心があって、19世紀半ばの議会制が始まった時期から、現代に至るまで歴史的に勉強してきました。オランダ政治には政党の数がとにかく多いという特徴があります。それからイデオロギーや政党間の主張の幅がとても広いんです。つまり考え方のまったく違う政党が一つの国のなかに乱立しているわけですね。ですから議会制を成り立たせるために各政党がお互いに同じ議会のメンバーであり、その一部であることを受け入れて合意形成する必要があります。オランダは、政党間の意見の違いが大きいにもかかわらず議会制の維持に成功してきました。

 私の専らの関心は、政党が合意しても良いと思えるような状態はどうしたら成立するのかという点にあります。最近ではマクロ経済政策や政治運動にも関心を広げていますが、一番の根っこの部分はそこにあります。

 板橋 私はドイツ政治を専門に歴史研究をしてきましたが、2015年の難民危機あたりから現代政治を解説するような仕事が増えてきました。今日のテーマである右翼ポピュリズム政党についても関心はあったのですが、自分の専門外と思っていたところ、2017年にヤン=ヴェルナー・ミュラー(プリンストン大学教授)の『ポピュリズムとは何か』を翻訳したことをきっかけに、こうした機会に呼ばれることも増えていきました。

 ポピュリズムはスナップショットで見ることも重要ですが、長期的な政治史・思想史の中で捉えるのも大事だと思っています。それならば、歴史研究者にも物申せることはあるだろうと考えて、積極的に発言するようになりました。ドイツの右翼ポピュリズム政党と言えば「ドイツのための選択肢」(AfD)ですが、このAfDが日本の参政党とつながりがあるばかりに、最近はこの話題で話を聞かれることが多くなりました。

 作内さんが専門にされているオランダは、ヨーロッパの中では中小国であるがゆえに、非常に先鋭的なかたちで政治の問題が噴き出てくる印象があります。私が2002年にドイツに留学していたとき、オランダで極右ポピュリスト的な傾向のあるピム・フォルタインという政治家が殺害された事件がありましたが、彼などはかなり先駆的な存在だったのだと思います。

 オランダは非常にリベラルなのだけれども、歴史的に右翼ポピュリズム的な政党も存在していて、最近ではヘルト・ウィルダースの自由党ですよね。この政党を「極右ポピュリズム」と呼んでいいのかどうかはわかりませんが、既成政党とは成り立ちがまったく違います。2023年の総選挙ではこの自由党が第一党になって、連立政権に参加するまでに至っています。今はその連立政権は崩壊して、10月29日に総選挙が行われることになっています。

ドイツでは極右政党は存在できない

 作内 いま自由党を「極右」と呼んでいいのかわからないという話がありましたが、まずは呼び方の問題を整理したいと思います。ヨーロッパの右翼ポピュリズム政党の話をする際には、極右とはあまり呼ばなくなりました。以前には「急進右翼政党」と呼ばれることもありましたが、今は「右翼ポピュリスト政党」が多くなっています。極右と言うと、やはりナチを連想しますよね。人種主義を唱えて、なおかつ「議会制を崩壊させよう」といった反体制的で極端な主張をしている政党を極右と呼ぶことが多いわけです。ですから、今日も基本的には「右翼ポピュリズム政党」という呼び方で統一しようと思います。

 私は急進右翼政党から、右翼ポピュリズム政党に呼び方が変わっていったことにも注目すべきだろうと思います。米ジョージア大学のカス・ミュデは、排外主義的な主張を掲げる右翼ポピュリズム政党が人々を動員していく際のやり方やレトリックには特徴があることを指摘しています。右翼ポピュリストは、自分たち人民を一枚岩の存在として想定して、外国人などをそれとは別の敵として想定するといったレトリックを使っているという共通項を見出しています。彼の主張が比較政治学の世界で広まっていき、同時にポピュリズムという言葉が一般にも使われてくるようになった印象があります。

 こうした呼び方の問題は、ドイツではさらに大事な意味を持っていますよね。今AfDを考えるにしても歴史、端的に言えばナチのことを念頭に置かなければなりません。そうすると、AfDは極右ともおそらく違うんですよね。ドイツにおいてこうした政党が出てくる過程や背景を長期的に見て、どのようなことが言えるのでしょうか。

 板橋 日本の場合は、メディアによっても違いますよね。極右を使っている新聞もあるし、右派のところもある。極右は英語の「far right」の翻訳ですよね。今ご紹介されたミュデは、「extreme right」と「radical right」に区別していて、extreme rightは自由民主主義体制それ自体を否定する勢力で、これも日本語では「極右」と呼んでいいと思います。radical rightは選挙などの民主主義の仕組みは受け入れるのだけど、マイノリティの権利のようにリベラリズムに関わる側面を否定していく勢力だと区分しています。

 この区別はドイツにはしっくりくる定義です。ナチスを生んだ経験のあるドイツではそもそも極右は違法です。ドイツの憲法にあたる基本法では「自由で民主的な基本秩序」を侵害する政党は違憲であるという規定があって、これがいわゆる「闘う民主主義」の構成要素の一つになっています。つまりドイツでは極右とみなされると違憲になりますから存在できません。実際、冷戦下の1950年代に社会主義帝国党というネオナチ政党(および共産党)が違憲として解散させられています。

 いま話題になっているAfDは、実はすでにドイツの憲法擁護庁に「極右」と認定されています。以前からAfDは憲法擁護庁の監視対象となっており、党内の過激な組織が自主的な解散を強いられたこともありました。AfDの極右認定により、ドイツではAfDの政党禁止論が盛り上がっており、例えば中道左派の社会民主党(SPD)などは前向きです。ただ、国民の2割にあたる票を得ている政党を禁止するのが適切かというのが、今の論争の状況です。

AfD台頭の背景にはユーロ危機と難民危機がある

 作内 AfDはすでに存在自体が違憲だとされているわけですね。

 板橋 しばしば「ヴァイマル共和国の教訓」と呼ばれますが、ドイツでは政治制度のなかに、ナチを生んだ反省を踏まえた仕組みが多く残っています。

 ドイツにおける初期の極右政党は、ナチとの連続性が色濃くありました。禁止された社会主義帝国党はほぼナチですし、1960年代に勢力を伸ばしたドイツ国民民主党(NPD)もネオナチです。NPDは州議会でかなりの票を得ましたが、国会では議席を得られませんでした。ドイツには5パーセント阻止条項があって、得票率5パーセントに満たない政党は議席を得られないんですね。完全比例代表制だったヴァイマル共和国の時代は、小政党が乱立して国会が混乱したので、5パーセントというヨーロッパでは高い阻止条項を設定したわけです。

 NPDは1969年の連邦議会選挙で得票率4・3パーセントと善戦しますが、それでもハードルを越すことができずに以後退場していきます。80年代にも共和党という極右政党が出てきましたが、やはり5パーセントは超えられなかった。旧ファシズム国と比較すると、ファシズムの流れをくむイタリア社会運動は1968年のイタリア総選挙で4・5パーセントをとって、こちらは制度的な歯止めがないために議席を獲得しています。

 ですから、ドイツでもネオファシズム・ネオナチ系の政党は脈々と他国並みに続いていたわけです。ただし、今のAfDはその文脈とは違ったところから出てきた政党だと私は考えています。この政党の結党は2013年で、ヨーロッパのいわゆる右翼ポピュリズム政党の一群の中ではとても若くて、半世紀以上の歴史があるフランスの国民戦線(今の国民連合)とはまったく違うわけです。

 元々AfDは反ユーロ政党として誕生しています。2010年に欧州通貨危機が起きますが、ドイツのメルケル政権はユーロ救済に奔走します。それに反発するかたちで経済学者を中心に結党されたのが「ドイツのための選択肢」です。メルケルの口癖は「ユーロ救済以外に選択肢はない」でしたから、政党名からして反メルケルの立場を鮮明にしているわけです。

 急ごしらえの政党だったので、行き場を失っていた極右あるいは右派の人たちが結党時からずいぶん入り込み、どんどん力を付けていきます。決定的だったのは、2015年の難民危機です。ここで排外主義的な主張がドイツでも受け入れられやすくなり、AfDは票を得ていきます。これがAfD台頭の大まかな歴史です。

オランダの脱「柱状化」と「政治の優越」

 作内 オランダにもネオナチ的な政党はいるにはいますが、戦後はそこまで深刻に捉えられることはありませんでした。戦時中ナチに支配されていましたから、オランダ社会はナチへの信用は極めて低い。それでもまったく出てこなかったわけではなくて、議席はちょこちょこと取れています。板橋さんの説明にもあったように、ドイツは極右政党が出現できないように制度自体を組み立てて対策しています。けれどもオランダにはそうした仕組みは一切なくて、そもそも未だに憲法の中に政党という言葉が出てこないヨーロッパではとても珍しい国です。

 今のオランダの下院は150議席、事実上全国一区の比例代表制度で選出します。ですから全体の0・67パーセントの得票率で議席を獲得できてしまう制度になっています。正統カルヴァン派の伝統的な家族観を強調する小さな党があります(SGP)。おそらく今のオランダで一番古い政党です。カルヴィニズムに基づく彼らの主張は非常に保守的なのですが、それでも根強い支持者がいて議席を得ています。カルヴィニズムとナショナリズムが結びついている政党で、イスラーム教徒はもちろん歓迎しない排外主義政党でもあります。

 小さな政党でも議席を持てるこの仕組みのもとで、オランダの右翼政党が戦後どういった過程を経っているのか簡単に振り返ってみます。1950年代には「農民ポピュリズム政党」と言える政党が出てきて、1970年代にも少し議席を取りました。けれども、その後すぐに議席が取れなくなったので勢力を伸ばすことはありませんでした。

 なぜオランダでは右翼ポピュリズム政党が大きくならなかったのでしょうか? その背景を説明するのによく使われるのが、社会の特徴である「柱状化」がそうした政党の伸長を阻んでいた、という考え方です。イデオロギー別に社会が事実上分断されていて、各部分社会を一つの柱とみなします。そうした柱の集合によって構成されているのがオランダという国で、こうした社会構造を「柱状化」と呼びます。柱にはカルヴァン派、カトリック、社会主義、自由主義の四つがあります。数え方によって増減がありますが、大体はこの4本柱です。

 例えばカトリックの柱を見ると、彼らはその部分社会のなかでずっと生きることになる。誕生するとカトリック教会で洗礼を受けて、カトリックの学校に通い、大きくなるとカトリックの新聞を読む。働くようになってからはカトリックの労働組合に入って、カトリックの合唱団やサッカークラブなどの余暇団体に所属します。病気になったらカトリックの病院に行って、亡くなる時にはカトリックのお墓に入ります。

 板橋 生まれてから亡くなるまでカトリックの柱内で完結する生活をしていたわけですね。

 作内 もちろんカトリックの政党もあって、カトリックの柱の中にいる人たちはそこに投票します。必ずしも党の主張や政策に強く共感しているわけでもなかったりするのですが、アイデンティティと投票行動が一致していました。カトリック党は与党であることが多かったのですが、野党になっていたとしても彼らはそこに投票します。そのため新しい政党が出てきて、大きく支持を広げる余地がほとんどなかったわけです。

 けれども、その後オランダ社会の柱状化は二段階で解体していくことになり、それが右翼ポピュリスト政党を登場させる余地を生むことになります。第一段階は60年代にイデオロギーによる投票が大きく減ったことがあります。教会の権威が衰えてイデオロギーに基づいて投票する人が減ります。カトリックだからカトリック党に投票するという時代ではないよね、と人々は考えるようになったわけです。カルヴァン派でも同じ状況でした。社会主義も工場労働などが減って、サービス産業が発展してくると、労働組合の団結が次第に弱くなっていきます。

 しかし、元々あったそうした様々な組織は、イデオロギーの近い他の組織と合同していくかたちで残ります。例えば、今もあるオランダ労働組合運動連合は1976年にカトリック系労組と社民系労組が合同してできた組合です。そういう意味では、人々が利益団体を通じて政治動員がなされる余地がこの時期にはまだあったとも言えます。

 これがさらに変化するのが90年代です。この第二段階のキーワードは「政治の優越」になろうかと思います。官僚制や様々な団体の影響力を削いでいって、政治による決定を優先するようになります。人々と政治との紐帯を媒介していた様々な団体の政治的な影響力は下がっていき、政党と人々との結び付きも薄れていきます。そして市民と党を媒介する役割がメディアにシフトしていきます。

 「政治の優越」はこれまで団体などが調停を引き受けていた部分を政党政治がすべて引き受けることになるので、すべてを政治で決められるという意味では歓迎すべきことなのかもしれません。

責任転嫁できる「あいつら」の存在

 板橋 揉めそうな争点でも決断しやくなる。

 作内 そうです。しかし、結局のところ何でもかんでも好きに決められるわけではありませんよね。社会には対立がありますから何らかのかたちでそれを調停しなければなりませんが、政党政治がそれを引き受けることになります。けれども政党政治がそのすべてに対応することはムリですから、処理しきれない課題が積み上がっていって、結果として政治不信が高まる。

 さらには政党政治がうまく機能しなくなると、人々の発想も変わっていきます。「私たちは今これを求めています」という言い方をするのではなくて、「あいつらのせいで私たちはこれができないのだ」というロジックに転換していくことになる。そして、責任転嫁される「あいつら」は移民だったりするわけですよね。こうして、右翼ポピュリズム政党が支持を拡大していくことになります。

 板橋 政治が複雑になるとスケープゴートを見つけて攻撃するような手段に訴え易くなりますよね。日本でも最近では外国人が増えていますから、そこに矛先が向いたりする。

 移民はとても都合がいい典型的なスケープゴートになってしまうところがあって、本当は正しくないにしても、経済的には「彼らが我々の職を奪っているのだ」と標的にされ、社会・文化的には「彼らが我々の伝統を壊しているのだ」と糾弾されてしまう。ポピュリストから見れば、いろんな問題をまとめて押しつけられる実に都合のいいスケープゴートです。

 作内 オランダには「50プラス」という高齢者政党があります。年金の受給年齢の引き上げに反対する政党ですが、ここの支持者の一部が排外を掲げる自由党支持に移っていく傾向にありました。結局、「本来受けるべき福祉を移民が奪い取っているから、私たちは福祉の恩恵に与れない。だから移民を排除するのだ」という主張に変わっていくわけです。

 自分たちの要求を何らかのかたちで調停してもらえないような状況がありとあらゆる領域にあって、その不満が自由党を筆頭とした右翼ポピュリスト政党の支持を拡大させる源泉になっている。

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