『公研』2022年5月号「めいん・すとりいと」

 ロシアによるウクライナ侵攻開始以来、多くの日本人にとって馴染みが薄かったウクライナという国が、身近に感じられるようになってきた。それではそもそも日本とウクライナの関わりは、どのように始まったのだろうか。両者が本格的に接触を始めた20世紀前半の状況を概観してみたい。

 1902年、日本政府は黒海沿岸の港町オデッサ(オデーサ)に領事館を開設した。日露関係が緊迫化する中で、黒海艦隊などロシアに関する情報を入手することが目的で、初代領事にはキャリア外交官の飯島亀太郎が着任した。日露が開戦すると領事館は一時閉鎖されたが、飯島はイスタンブールで引き続き情報収集活動に従事した。

 日露戦争では多くのウクライナ人が、ロシア兵として日本と戦った。旅順攻囲戦の勇将コンドラチェンコ将軍はウクライナ出身で、秋山支隊を脅かしたコサック騎兵団にもウクライナ人が多数加わっていたはずである。同戦争では、7万人以上のロシア兵が捕虜となった。このうちポーランド人、ユダヤ人は、宗教的待遇がロシア人と区別されていたため、民族的識別がある程度可能だが、ロシア正教徒であるウクライナ人はロシア人と区別されていなかったため、今ではその民族的属性を特定することは困難である。

 戦争中対ロシア撹乱工作を担った明石元二郎大佐は、ウクライナ情勢にも目を配っており、オデッサで発生した「戦艦ポチョムキンの反乱」などの実態も把握していた。もっとも、明石が注目していた「小露西亜党」(小ロシアとはウクライナのこと)が蜂起することはなかった。当時ウクライナの民族運動はまだ微弱で、日本と組織的に提携する状況ではなかったし、日本の新聞でもウクライナ情勢が報じられることはほとんどなかった。

 1917年にロシア革命が起きると、ウクライナでは独立への動きが強まり、「ウクライナ人民共和国」独立が宣言された。しかし、その後ポーランドの独立、ポーランド・ソヴィエト戦争の発生を経てウクライナの独立は潰され、現ウクライナ領の多くの部分は「ウクライナ・ソヴィエト共和国」としてソ連の一部になった。第一次世界大戦の当事国で、シベリア出兵にも参加していた日本とも関わる動きであり、当時日本の新聞はこれらをそれなりに詳しく報道した。もっとも、原敬首相の日記に記述がないことに象徴されるように、ウクライナは依然日本人が強い関心を持ちにくい地域であった。

 日本とウクライナの接触が本格化するのは、在極東ウクライナ人を介してであった。19世紀後半以降極東には多くのウクライナ人が移住し、20世紀初頭の極東ロシアの人口150万人のうち、約100万人はウクライナ人であった。ロシア革命から遁れてきた白系ロシア人の中にも、相当数のウクライナ人がいた。当時極東には「緑のウクライナ」と呼ばれる自治区を作る運動が存在した。ソ連を警戒し、満州権益の維持拡大を図る日本はこうした動きを利用しようとし、1920~40年代に両者の提携は拡大していった。一九四四年には初のウクライナ語・日本語辞典がハルビンで出版されているが、日本軍か満鉄の支援によって実現したようである(中井和夫氏、岡部芳彦氏、オリガ・ホメンコ氏の研究による)。

 このように日本とウクライナの接触は、ロシアとの対抗関係の中で始まり、拡大してきた。強国ロシアと隣接しているという点で、両者の接近は地政学的な必然であったとも言える。今後、これまで見過ごされてきた両者の交流の歴史の解明が進むことが期待される。

京都大学教授

 

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