『公研』2023年11月号「私の生き方」
ダンサー、ダンスクリエイター
今や日本のエンタメで当たり前のものとなった、ダンス&ボーカルグループ。
しかし、世間に認知されるまでの道のりは簡単なものではなかった。
「かっこいいものを日本に広めたい」という一心で歩んできた、
TRFメンバー・SAMさんの半生を伺った。
濃すぎる30年間
──今回、お話を聞かせていただくにあたって、改めてTRFのパフォーマンスを見させていただき、ステージから溢れるポジティブなエネルギーに圧倒されました。今年は結成31年、デビュー30周年の年です。振り返るといかがでしたか?
SAM とてつもなく色々なことがあった30年間でした。思い出しても濃すぎる日々です。1993年にデビューしてから2000年頃までは、めまぐるしい毎日でした。一番忙しい時は休みも寝る時間も取れませんでした。ただ、踊ることが楽しかったので、まったく苦痛ではなかったです。2000年から2006年ごろの期間は、TRFとしては活動をほとんど休止していた時期もありましたが、20周年、25周年、30周年と節目ごとに振り返っても濃い時間でしたね。
──ご家族は埼玉の開業医の一族で、SAMさん以外の男兄弟は皆さん医者になっています。幼少期にプレッシャーはありましたか?
SAM 小学生の時から「将来、お前は医者になる」と言われてきましたが、正直自分が医者になるということにピンと来ていませんでした。医学部への進学率が高い獨協中学・高等学校に入学しましたが、勉強が本当に好きではなかったので「僕はムリだろう」ってどこか心の中で思っていたんですよ。身体を動かすことは当時から大好きでした。
僕は5人兄弟で、四つ下の弟がすごく頭が良かったから、あいつがなればいいやと考えていました。「絶対医者にならなくてはいけない」というプレッシャーはまったく感じていなかったんです。不思議な感覚でしたね。
──窮屈には感じていなかったのでしょうか?
SAM 窮屈でしたね。中学校3年生ごろになると自分の将来に疑問が浮かんできて、「本当に俺は医者になりたいのか」と真剣に考えるようになりました。もちろん、医者は人命を助ける素晴らしい職業です。でも、父は実家から100メートル先にある病院に毎日毎日通っていて、当時の私からすると、この決まりきった生活に魅力を感じなかった。
また、埼玉の実家から目白の学校に通っていたのですが、当時は埼京線がなかったので都心へのアクセスがものすごく悪く、満員電車を4回も乗り換えて通学していました。そういう窮屈な毎日と決められた将来に嫌気がさしていた。医者とは違った自由な仕事はないのかなと考えていたんです。そこで、出会ったのがダンスでした。
──日々の生活で自由が欲しかったのですね。お父様はどんな方でした?
SAM めちゃくちゃ厳しかったです。兄弟の中でもいつも僕だけ父から怒られていました。だから、僕も父のことはずっと嫌いでした。それこそまともに会話をした覚えがないくらい。
日本レコード大賞の受賞やNHK紅白歌合戦出場などのTRFの活躍を、僕がいないところですごく喜んでくれているとは家族から聞いていましたが、成人しても面と向かって褒められたことはなかったです。子どものころからどこかギクシャクした親子関係でした。父は70歳で亡くなりましたが、初めてまともに会話をしたのが亡くなる1、2カ月前。実家に帰った時に、父とたまたま2人になる時間があって、父が自分の若いころの話を急にし始めたんですよ。山登りが好きで、どこの山に登ったとか。その時に初めて父はこういう会話もする人なのだと知りました。そのぐらい父との間には確執があったと思います。
自由になりたかった少年時代
──SAMさんは、結構やんちゃだったのでしょうか……?
SAM 高校生の時はほんとにやんちゃでしたね(笑)。高校1年生の時に一度家出を計画したことがありました。当時、ディスコに通っていたのですが、家族には内緒にしていたので、漫画みたいに2階の部屋の窓から毎晩抜け出していました。壁をつたって下に降りて、先輩からもらったバイクで大宮のディスコに行く。そして朝の5時までディスコで踊って、こっそりと帰ってくる。そんな生活をしていました。
それは長いこと家族にバレていなかったのですが、ある時近所のおばあちゃんが良心で家族にチクってしまいまして(笑)。当然、親から「夜中にどこに行っているんだ」と詰められるわけです。僕は「別に悪いことはしていない」とかごまかしましたが、両親の目は厳しくなります。
そんなことが重なり、どうしても家を出て自由になりたかった当時の僕は、本格的に家出を計画し始めます。母親の部屋から小さなトランクを取ってきて、荷物と10万円ぐらいのお小遣いを詰めて、いつでも出られるように準備をしていました。
そしてクリスマスの時期、その日もディスコに行っていたのですが、家に戻り2階の部屋に入ると、なんだか下の階がやけに騒がしく、「あいつはどこに行ったんだ!」という父の声が聞こえてきました。「バレた!」と思いましたね。トランクの存在もバレて没収されていたので、着の身着のまま家を飛び出しました。そして、よく行っていた大宮の小さなスナックディスコに行き、「家出してきたから今日から働かせてくれ」とお願いしました。店長は「わかった」と承諾してくださり、お店の従業員の寮で寝泊まりすることになります。
──理解のある店長さんですね。
SAM 結局2週間ぐらいで家族に見つかってしまうんですけどね。当時、実はラグビー部に所属していて、働かせてもらっていたディスコには部活の先輩や同級生が頻繁に遊びに来ていたんです。なので、結局先輩に見つかり、「やっぱりここにいたのか、家に帰れ」と説得されました。僕は嫌だったので「帰らない」と突っぱねましたが、「せめて俺のうちで暮らせ」と。先輩の家で暮らすことになります。ただ、17歳の僕は一人で生きて行こうと強く決心していたんですが、しまいには先輩のお母さんとか色々な人から説得されることになり、しょうがないから一度帰るだけ家に帰ってみようと考えます。
そこで、初めて親と腹を割って将来について話をしました。父親から「お前は何がやりたいんだ」と詰められて、僕は「自由になりたい」って答えたんです。すると父は、「自由になるのはいいけど、お前はまだ高校生だし、何か問題を起こせば親の管轄だから、それはムリだ。ただ、学校にちゃんと行って、居場所を伝えれば好きにしていい」と。それを聞いてラッキーと思いましたね(笑)。学校に行く約束を守れば自由にしていいわけですから。そこから、学校にだけはちゃんと行って、毎晩ディスコに通うディスコ漬けの日々でした。
──やはりディスコには踊りに行っていたのでしょうか?
SAM そうですね。ダンスとの出会いはディスコです。中学3年生の時に同級生ですごくませている子がいて、彼のいとこが六本木のディスコで働いていたので、その同級生はディスコに詳しかった。
そんな彼が、ある時突然休み時間に教室で踊り始めたんです。こんな踊りがあるんだよって感じで。「黒人は挨拶の時にこういうハンドシェイクをするんだ」とか、「仲間のことをブラザーと呼ぶんだよ」とか、今まで聞いたこともないような世界の話を彼がしてくるんです。中学生の僕は彼の話す世界がすごくかっこよく見えたんですね。
自由なダンス
──その友人の影響は大きいですね。
SAM 彼の家に遊びに行くと、ソウルやR&Bとかブラックコンテンポラリーのレコードが流れていて、中学生なりに部屋にブラックライトをつけて雰囲気をつくるなど、大人びたことをしているやつでしたね。彼の影響でそういうジャンルの音楽が好きになりました。
その彼に「俺たちもディスコに行きたい」とお願いして、初めて行ったのが高校1年生の時。いざ行ってみても自分たちはまったく踊れないので、フロアではどうしたらいいのかわからなかった。そんな中で、常連の人がバーッと出てきてサークルをつくり、真ん中で人が踊るんですよ。それがものすごくかっこよかった。当時の僕からすると完全にスターです。「なにあれ」って目が釘付けでした。
──見ているだけではなく、SAMさん自身もこうなりたいと思ったのでしょうか?
SAM 何かがピンときましたね。その時に見たダンスも、いま思えば全然大したことないんですよ。でも、当時は本当にかっこよく見えて。ディスコダンスっていうものに一瞬で魅了されてしまった。ジャズダンスでもクラシックバレエでもタップでもない、いわゆるディスコミュージックで踊るダンスっていうものがすごく自由なダンスに感じたんです。自分もああなりたいと強く思いました。
──ダンスの技術はディスコで磨いていったのですか?
SAM そうですね。ディスコに行けばダンス仲間もいますし、常連の人も色々教えてくれます。ディスコ内でダンスチームをつくったりもしましたよ。昔はディスコがそれぞれダンスチームを抱えていて、僕たちも「自分たちのチームをつくりたいね」と思い、まずはどこかの常連になることを計画しました。新宿の「ニューヨーク・ニューヨーク」というディスコが新しくオープンすると聞いたので、初日から毎日通い詰めて、お店の人とも仲良くなって計画通り常連になりました。そして、常連同士でも仲良くなり、ダンスチームを結成します。「ミッキーマウス」というチームです。色々なディスコのコンテストで優勝しているような連中ばっかり集まったチームで、結構上手かったですね。
「ニューヨーク・ニューヨーク」は夜中の1時に閉まるので、その後に朝まで踊れる場所をメンバーとその取り巻きの30人ぐらいの大所帯で、歌舞伎町をぞろぞろ移動しながら探すんです。そうやって色々なディスコに顔を出していくうちに、「ミッキーマウス」が歌舞伎町で有名になっていきました。当時、レコード会社が新譜を出すとディスコでかけてもらうというプロモーション活動が流行っていて、その一環として僕らのチームも「今度新曲出るから、この曲をひっさげてディスコを7、8軒回って踊ってくれないか」と声をかけられ、そういう仕事をもらったりしていました。これが高校3年生の時期でした。
──この時期にもうダンサーとして生きていくと決めていたのですか?
SAM そうですね。はっきりとダンサーになりたいと考えていて、親にもそれは伝えていました。ただ、夢はありましたが成績が卒業できるかどうかギリギリのラインでした。高校3年生の時はほとんど学校には行っていませんでした。行っても週に2、3回ぐらいで、一晩中踊っていたので授業が眠くて眠くて。もちろん通知表は赤点だらけ。体育のような技能の授業は参加すらしていないので評価無用でした。それでも熱い担任の先生がムキになって、「3学期の補習を全部受けたら卒業させてやる」と情けをかけてくれて、なんとかギリギリ卒業することができました。
──お母様はダンサーという職業に対してどう感じていたのでしょうか?
SAM 母親は父親にバレないように陰でフォローしてくれていましたね。高校卒業後は父に家を出ていくよう言われたので一人暮らしをしていましたが、その家賃を母親が最初のころは出してくれたりしていました。
貧乏旅行で全国のディスコを回る日々
──ダンサーとして食べていけるようになったのはいつごろでしたか?
SAM いつからですかね……。高校卒業して少し経ってからでしょうか。新宿のディスコで踊っているときにスカウトされたんですよ。ガマガエルみたいに大きな体をした、すごい怪しいおじさんに、「明日の朝10時に原宿ダンスアカデミーに来い」と言われたんです。なんだかよくわからなかったのですが、その人は「いや、来ればわかる」と。そして次の日その場所に行ってみると「今日からお前ら俺のチーム入れ」ということになった。
そこでやっとわかったんですが、そのおじさんはドン勝本さんという全国ディスコ協会の重鎮だったんです。その協会はDJを30人ぐらい抱えていて、全国各地にあるディスコにDJを派遣するということをしていました。月に1度はDJ会議なんかもあったりして、派遣されたDJが東京に戻ってみんなで店の状況を報告し合ったりしていました。
──ダンサーとしてスカウトされたのでしょうか?
SAM そうですね。全国ディスコ協会がスペースクラフトというダンスチームを持っていて、原宿のダンスアカデミーでディスコダンスを教えていました。当時はディスコダンス教室なんてなかったので、それ以前は仲間内で色々な情報を合わせて我流でダンスを学んでいました。そこでようやくディスコダンスの基礎を学びました。
そのチームは夏になると提携している全国のディスコを回りショーツアーをします。機材は自分たちで持っていく貧乏旅行です。お盆の時期に4時間満員電車に揺られて東北地方に行ったり、日本全国すべてのディスコを回ったと言ってもいいほど辺鄙なディスコにも行きました。お客さんが一人しかいない時もあった。それでも、ダンスが好きだったのでそういうことも楽しかったですね。ただ、ドン勝本会長が全然お金を払ってくれなかったんですよ、彼はケチだったので(笑)。それが理由でゆくゆくは離れることになるのですが……。