『公研』2022年6月号「めいん・すとりいと」

 

 人に話を聞いて未知をひらく。そんなゼミを開いて12年が過ぎた。当初は「話を聞くなんて、誰にでもできる」「時代の先端をひらくキャンパスで話を聞くなんて考えも手法も古すぎる」とさんざんだった。

 インタビューではなくオーラルヒストリーを看板にしたおかげか、キラキラよりもゴリゴリを求める熱心な学生が集まってくれた。

 ここ数年、このゼミの卒業生が都心からやや離れたキャンパスまでやって来て、後輩とともに話し、学んでくれるようになった。彼ら彼女らは口々に「いろんなところで、あなたは聴く力がすごいと褒められるんですよ」と話してくれる。

 相好を崩しながら、いや、これは世評を気にする教員を喜ばせようというリップサービスに違いないと身構える。ところが誰もが異口同音に「褒められる」という。どうやら本当らしい。

 たしかに彼ら彼女らの聴く力は卓越しているのだから、正当な評価と素直に喜べばいいのだろう。だけれども、なにかひっかかる。世の中が聴けなくなっているように思われるからだ。

 自分が聴けているという気は毛頭ない。年を追うごとにメールは増え、ワークスペースで連絡と調整が続く。プライベートでもSNSで頻繁にやりとりしている。メディアのおかげでコミュニケーションの総量はずいぶん増えた。

 とはいえ、これで日々が豊かになったとは思わない。むしろ、こなしている感覚が積み重なっていく。テキストの海に埋もれていくようだ。

 こう書いていて、ふと気がついた。そうか、あの電話魔の友人は、このことをわかっていたのかと。不意にかかってくる電話は面倒でもあるのだが、彼とのやり取りが終わるとなんだかほっこりするのだ(大抵は遅刻の連絡なのだが)。

 文字は記録されるが、声は記憶されるとウォルター・オングは言う(『声の文化と文字の文化』)。声は表情や声音といった色と温度を持って記憶され、思い起こすたびに他の記憶とつながっていく。対話であればなおさらだ。

 しかし、なぜかリモート会議は記憶に残らない。オングは対面を「一次的な声の文化」、デジタルを「二次的な声の文化」として、その体感の違いを論じた。そうだろうが、テクノロジーも身体性も進化し、その差はずいぶん埋められたはずだ。

 問題は私たちのふるまいだろう。かつては人と会って話した後には、移動し、一服してから次の準備にかかった。そうした合間に「さっきの話」を反芻していた。今では前の会議が終わればすぐに次の会議のリンクを探して入室する。反芻の余地はない。

 オフラインも浸食されている。ステイホームのおかげで家族と話す時間は増えた。しかし、家が職場になり、次々と現れるタスクと会議にデジタル上で飛び回るうちに、家族との時間までも効率的に過ごしてしまう。これはいけない。

 オーラルヒストリーが日本で広まり始めたのはちょうど20年前。火付け役となったポール・トンプソンの『記憶から歴史へ』には「声なき声を声にする」というキャッチフレーズが書かれていた。すべての人に聴くべき声がある。文字ではなく、生身の人に話を聞き、考える。そう、ゼミではその喜びを伝えてきたのだった。

 先日、大切な同僚を失った。多くの人が鋭い分析眼に加えて、真摯に相談に乗ってくれる人であったと振り返る。自分の中に残る彼も、多忙を極めるなかで聴いてくれる、答えてくれる人だった。

 ほどなく戻ってくる日常は、オンラインとオンサイトが目まぐるしく入れ替わるものになるのだろう。願わくは、話を聞き、声を聴くことを喜べる心持ちでありたい。

慶應義塾大学総合政策学部教授

 

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