『公研』2022年1月号「対話」 ※肩書き等は掲載時のものです。

 小林武彦さんのご著書『生物はなぜ死ぬのか』にも触れながら、脳科学者として多くのメ ディアでご活躍中の茂木健一郎さんと「死をどう考えるか」「日本人・ヒトへの提言」など私たちに身近な問題について対話していただきました。

 

死ぬものだけが進化できる

小林 私は、生物学的には死をこう捉えたらいいのではないかということを考えて『生物はなぜ死ぬのか』を書きました。

 生き物の死に方は、ヒト以外はほぼピンピンコロリです。ただ、人間は知性が高く、老後も長いため、死にどう向き合うのかなどについていろいろ考えてしまいます。生物学ではなく脳科学に近いですね。死を人生のゴールのように捉えているのは、他の生き物にはない悩みです。今日はそんなことについてお話しできたらいいなと思います。

茂木 生物における多様性と適応の問題はすごく面白いと思っています。小林先生の『DNAの98%は謎』を読んで気づかされたのは、死因がガンになってきたのは、結局ヒトが長生きするようになったからです。そうなると必ずしも寿命を延ばすことは、クオリティ・オブ・ライフを考えると良いことにならない可能性もあるというロジックは面白いですね。

小林 寿命が長いイコール幸せではないということは、言いたかったことの一つです。まず、「生物はなぜ死ぬのか」ですが、私は生物学的に明快な答えを持っていて、それは生物が誕生した38億年前からずっと続いていることです。38億年前には化学反応で生命のみたいなものができ、その種はいつも変化して作り変えられて多様性を持つようになりました。いろいろな試作品を繰り返し作りながら、ある日突然、進化のプログラムがオンになったのです。それは、いろいろなものを作っては良く複製できるのが残り、あとはすぐに壊れる、という「変化と選択」のサイクルです。専門用語で言う変異と適応のサイクルが回り始めたのです。

 これは非常に強いプログラムで、レゴブロックのようにものを作るのですが、その材料が重要です。作ったものがどんどん壊れなければいけないからです。壊れないと新しく作るための材料が供給されない。サイクルを効率よく回すためには、必ず多様なものを作り、それをどんどん壊し、そして何かが残るということを繰り返す。最初は生命の種はRNAという物質だったのですが、やがて細胞になり、細胞が集まって多細胞になり、私たち──ヒトになるまで続く進化のプログラムが動き続けました。いろいろなものを作っては壊し、変化と選択の結果、我々が今ここにいるのです。

 ですから、生物はなぜ死ぬのか、私たちはなぜ死ぬのかと言うのは、生物学的な問いとしては間違っていて、死ぬものだけが進化できて、今存在しているわけです。私たちは、死ぬべくものとして存在しているということです。では、私たちが死とどう向き合っていかなければいけないのか、あるいは知性を持った生き物として死をどう捉えるかを考えていきたいと思っています。

 

生物を気楽に考えすぎているのではないか

茂木 私は今、脳科学をやっていますが、もともとは物理学科なので数物系の人たちの動向もずっと見てきました。最近気になるのは、人工知能や、脳と機械を直接つなぐブレイン・マシン・インターフェースなどの研究者が、生物学的なリアリティから離れてしまった傲慢さと言うか、問題を単純化しすぎる傾向です。

 老化・寿命を制御すると言われる酵素であるサーチュインの活性化や、NMN(ニコチンアミド・モノヌクレオチド)を投与すると杭老化効果があるみたいなことが意外と軽く言われています。我々の脳の記憶とか意識を全部コンピューターに移してしまおうというマインド・アップローディングとか、ホールブレイン(全脳)エミュレーションも気軽に言う人がいます。

 小林先生が『DNAの98%は謎』でお書きになっているように、生物のメカニズム──例えばDNAにはタンパク質の非コード領域があるという話とか、ものすごく複雑でまだわかってないことがたくさんあります。生き物というのはそんな簡単ではないというのが先生のご著作から一番に受け取ったメッセージでした。

小林 例えばヒトのライフスパン(寿命)は長くても大体100年程度ですね。茂木先生の専門である脳は、生物学者からしても理解が大変です。バラバラに分解しても絶対わからないでしょう。賢い生物学者は、進化の道筋をたどって単純な脳からこういうふうに複雑化してこうなっているだろうというモデルを作るわけです。昔は単純なモデル生物としてアメフラシを使っていました。最近はその辺は全部飛ばして、いきなりヒト、しかも記憶のみならず意識、それとコンピューターの融合みたいなことを考え始めていて、ちょっと私はついていけないところもあります。

茂木 私はもともと生物物理の研究室にいたので、その感覚はよくわかります。今、文明全体あるいは学問のあり方として、生物を気楽に考えすぎているのではないでしょうか。

小林 全く同感ですね。要するに、生物は変化と選択をものすごく長い時間をかけてやってきたわけです。決して効率性を重視して変化したわけでもない。多少、効率性もあったかもしれないけれど、偶然性がメインです。ですから、DNAの98%に何かわからない部分を私たちのゲノム(遺伝情報)が持っているわけで、それだけでも理解不能ですよ。人間が生物を作ろうと思ったら、98%は意味があるようにして、意味がない部分は2%くらいにして設計して、逆にはしないですね。

 ですから、宇宙の中で地球だけに生物がいるとか、ゲノムの中でもほんの数%だけが意味があるとか、私たちが考えるより壮大なスケールの作成物なのです。そういうところは、まだ考えが及んでないのではないでしょうか。

 ただ、茂木先生がおっしゃるように、コンピューターの進化・発展はすごいですね。それに生物学者も支えられているところがあって、ゲノム解析はコンピューターの性能が上がったからできました。コンピューターのほうがものすごく進化してしまって、私たちは一生懸命そこについていくという構図になっています。生物学もそのような関係で、脳の理解はともかく、まずコンピューターで同じようなものを作ってから、みたいなやり方になってきたのでしょう。

茂木 生物学が面白いのは、一見ムダに見える領域をいろいろ調べていくといろいろな役割を果たしていることがわかってくることです。あるいは生物は統一した原理でできているわけではなくて、あり合わせの、それこそレヴィ=ストロースが言うブリコラージュ(日曜大工)的な使い回しをしてきている。かつて私が生物物理の研究室にいた頃、ゲノムが全部わかったら生物のブループリント(設計図)がわかるとか、あるいはその後出てきたシステムオーム──細胞の中にある構成する分子が全部わかったらシミュレーションができて細胞が再現できるみたいな、楽観論からどんどん遠ざかっている気がします。ひとことで言うと、何か複雑でよくわからない(笑)。

小林 要するに、生命を理解することが生命にできるのかということですね。

生き物の将来は簡単に予想できない

茂木 小林先生は、ご専門のリボソーム(細胞の細胞質中にある、タンパク質合成の場となる小粒子)の研究に青春を捧げたと本に書かれていましたが、一生かけても生物を極め尽くせないのではないでしょうか。

小林 そうだと思います。おそらく生物ができたときはRNAという物質が遺伝物質だったと思われます。RNAは自分で自分を編集する能力が高い。DNAはRNAより安定しています。RNAはちょっと不安定な分、自己改造能力が高いのです。一時期RNAとDNAが共存していたのでしょうが、DNAのほうがだんだん優勢になって、ある段階でRNAからDNAにスイッチせざるを得なくなります。RNAはあまりに変化し易すぎて、複雑な構造を維持できないからです。それこそ変化と選択でDNAが勝ってしまったのです。

 ただ、DNAにも問題があって、DNAは反応性が低い分、RNAに比べて多様性がつくりにくいのです。それで酵素(生体内外で起こる化学反応に対して触媒として機能する分子)としての能力も低いので、タンパク質の助けが必要になった。そのときに一回負けた感じになっていたRNAがリボソームを作って生き残ったのです。

茂木 リボソームがないと生き物は成り立たないわけですね。

小林 一番支持されている生き物の定義は、「自分でタンパク質が作り増えることができる」ことです。ウイルスはリボソームを持っていません。ごく稀に持っているウイルスもありますが、ほぼ持っていない。バクテリアから我々まで、生物はリボソームを持っていて自分でタンパク質を作り自活して生きることができます。ですから、ウイルスは生物ではないという分類になっています。でも、ウイルスは増えたり変異したり生物っぽい動きをしますけど……。ただ、自分だけでは生きていけないので、生物のカテゴリーには入れてられていません。

茂木 日本人は、安心・安全という言葉がすごく好きですが、この世が予測可能かどうかについては、なかなか難しい。2021年のノーベル物理学賞は、真鍋淑郎さん(気象学)、クラウス・ハッセルマン(同)、ジョルジョ・パリージ(理論物理)の3人が受賞しましたが、彼らは大まかに言うと複雑系の研究者です。さかのぼれば、1960年代にエドワード・ローレンツが唱えた「バタフライ効果」──ブラジルの1匹の蝶の羽ばたきはテキサスで竜巻を引き起こすか? にたどり着きます。複雑系の立場から言うと、天気予報の場合、現在の状況からだいたい2、3日より先は確かな予想ができなくなるそうです。ローレンツは2008年に亡くなっていますので、今回のノーベル賞には入りませんでした。実は、2021年は複雑系科学に焦点が当たった年でした。

 コロナウイルスについて、いろいろな専門家が感染者数の変化などをシミュレーションされたけれど、あまり当たらない。ウイルスは非生物ですが、やはり生き物は、将来どうなるかをそう簡単に予想できないですね。

小林 生物は複雑系の最たるものですね。例えば、約6500万年前にたまたま隕石が地球に落ちて恐竜が絶滅したので、それまで隅っこで生きいていたネズミみたいな小さな哺乳類が進化していろいろな種類が出てきて、その中で生き残ったのがヒトなのです。明らかに偶然ですよ。私たちが存在する必然性は一つもない。そこが生物学の面白いところでもあり難しいところです。偶然が大きく、全てを説明できないのですよ。

 例えば物理学や化学の場合には、ビッグバンから始まって、ある意味、反応の連鎖と言うか、それで説明できるところもあります。生物の場合には、地球上という限られた場所で、ある条件でたまたまできてしまったということです。たまたま、高い知性を持ったサルが進化してヒトが現れた。しかし、科学技術を発展させ宇宙の成り立ちまで理解できるようになったヒトは、自分の死は免れない。そのジレンマを執筆しながら考えましたね。

 

死のタブー視とアンチエイジング

茂木 私がまだ大学院生だった頃に、知り合いの学生が論文か卒業研究のために面白い調査をしました。死後、自分が存在しないことに対する恐怖と、死の痛みに対する恐怖はどちらが大きいかというアンケートをとったのです。当時の私は、死後に自分が存在しないことのほうが怖いと思っていたのですが、実際のアンケート結果は、多数が死の痛みが嫌だということでした。先生自身はどうですか。

小林 私も、死ぬときに痛いのは嫌だと思います。

茂木 死後に存在しないことについては?

小林 自分が生まれる前は存在しなかったわけです。その状態に戻るだけだから、それはそれで致し方がないのかな。死ぬときの痛さはスネをぶつけたときに比べたらもっと痛いのだろうと考えると、単純にはそう思いますね。

 ただ、それは今そう思うのであって、もっと年を取って、身体の自由が利かなくなったときにはわからないですね。もういいかなと言うか、痛みに対する危機感を感じなくなっているかもしれません。

茂木 意識の生物学的な意味についていろいろな仮説があります。一つは情報処理の統合がありますが、やはり死の恐怖というのは意識が持っているかなり大きなメカニズムです。例えば、やってはいけないことをやろう──そういう無意識の衝動が起こってきたときに意識がそれをモニターして最後に拒否権を発動するという説が有力ですけれど、死は怖いし痛いかもしれないから死を踏みとどまる機能は、おそらく生き物としてはかなり意味があると思います。これは生物一般には、人間的な自己意識とか、死の恐怖はどうなっているのでしょうか。

小林 それは生存本能、逃避本能として、ほとんどの生物が共通して持っていると思います。やはり痛いのは怖い、死ぬのは嫌だというのがあるから生き残れた。自ら痛みに突入する生き物、自ら死ぬ生き物は生き残っていないと思います。

 人間が複雑なのは、生存本能と逃避本能にプラスして、社会性の生き物なので、死に対する要素としては社会の中での培われた恐怖、孤独、疎外感などもかなり大きいことでしょうね。

茂木 私が養老孟司先生とお付き合いを始めたのが、1997年くらいだから四半世紀前になります。20年以上前からおっしゃっていたのが、集合住宅は死んだ人間を運ぶことを考えてない──要するに、棺桶のような大きさのモノの搬入搬出を想定していなかったということです。その頃から養老先生は、死というものが社会から隠されていることを盛んにおっしゃっていました。それから20年以上経って、死が隠されているというようなことさえも超えて、死があたかもゲームオーバーみたいな、何かすごく軽いものになってしまっている感じがします。そのあたりどうお考えになりますか。

小林 死をタブー視する意識は、日本では強いと思います。お葬式に参列して帰宅すると、玄関で塩をまきますね。それは日本人にとって普通のことですが、死を嫌うと言うか、悪いもの恐ろしいもの怖いものと考えるという意識があるのでしょう。

茂木 生物の世界では死ぬのが当たり前──特に細胞にはアポトーシス(プログラム化された細胞死)があるから死ぬのが前提です。そもそも細胞は、ターンオーバー(組織や細胞の増殖と死滅)します。

 人間だけが死をタブー視したり抗ったりする。あと、アメリカは不老不死に対する願望がものすごく強い社会ですね。日本人から見ると、ともすると荒唐無稽な本をアメリカの方が書いて……

小林 500年生きることを目標にしているベンチャー企業があったりしますね。

茂木 ご遺体を凍結保存して将来、医学技術が進歩したときに解凍して復活するみたいなことも研究しています。

小林 グーグルも老化の原因究明の研究に投資しています。私のアメリカ人の知り合いにも、定年退職した後グーグルに就職した人がいます。

茂木 アンチエイジングや寿命を延ばす研究は、どのくらい期待できるものなのでしょうか。

小林 その問いに答えるのは難しいのですが、何も特別なことをしなくても今の寿命の伸び率からすると、115歳から120歳が人間のハードとしての限界で、そこまではいけるだろうと言われています。120歳を超えた人類は1人しかいなくて、フランスのジャンヌ・カルマンさん(1875年1997年)という女性です。その次は119歳です。実は115歳を超えた人は、人類史上50人ちょっとしかない一方で、100歳を超えている人は、日本だけでも9万人います。ですので、人口統計学の研究者は、115歳のあたりで明らかに壁があると言っています。

 あくまでも自然の状態ではこういうことですが、仮にアンチエイジングの効果がある薬ができた場合には、人間のハードとしての限界の壁を突破する可能性はなきにしもあらず、という感じですかね。そういうものをめざして研究している方もいます。

 ただ、問題はそこではないのではないかと私は思うのです。長く生きてもガンや認知症になってしまう確率が高いので、そちらが同時進行で解決しない限り、ハードとして、存在としての生が続いていたとしても、ご本人も周りもハッピーではないわけです。アンチエイジングでも、健康寿命を延ばすという意味においては重要ですが、単に寿命を延ばすのはちょっといかがなものかという感じはします。

死を受け入れられるメンタリティの醸成

小林 長く生きたいというのは、誰でも持っている普通の欲、生存本能そのものだと思います。生存本能というのはおそらく若い人ほど旺盛です。年を取ってきたら、できるだけ減ってほしい(笑)。ずっと若いままの生存本能そのままだと、やはり死は相当つらい。本人にとってもそうですし、周りの人もこんなに元気な人が……と思ってしまうじゃないですか。だから、ある程度年齢を重ねていく意味というのは、死を受け入れるようなメンタリティになっていくことがかなり重要な要素かなと最近思ったりします。

茂木 先生はご著作に、共感能力についてお書きになっています。私はそれが鍵だと思いました。私たち脳科学者が人間だけの機能としてよく挙げるのは、心の理論という相手の心の状態を読み取る能力です。これにはいろいろな議論がありますが、やはり一番高度に発達したかたちを持っているのは人間になるのでしょう。

 誰かが亡くなったときに皆さんは追悼のツイートをするのですけれど、本当に亡くなるのはその人を憶えている人がいなくなったときだみたいなこと言うじゃないですか。例えば、手塚治虫さんご本人はもう亡くなっていますが、彼の作品や人となりはみんなが覚えていると、手塚治虫さんが我々の中で生き続けているという言い方もできる。私の希望として、著名人や偉人だけではなく、ごく普通の市井の方もみんなの記憶に残るとか、共有して受け継いでいくことがあると死の恐怖から遠ざかれるような気持ちになれるのではないでしょうか。

 自分は世界の中で唯一の存在で死んだら無に還るという人間の自己意識は勘違いだと思うことがあります。個体の壁というのはそんなにたいしたことではないと。先生が真社会性(動物の示す社会性のうち高度に分化が進んだもの)を持つ例として挙げられているハダカデバネズミもそうですけれど、一つひとつの個体より集団として、その種全体として生き延びていく生き物がいます。実は、人間も本当はそれに近いのではないかという感じがします。

小林 社会性の生き物というのは、集団の知、意識の共有、価値の共有というものが強いから社会がつくることができると思います。その根本は共感力──相手がこう思っているから自分はこうしなければならない、あるいはこうすると相手がそう思うだろうなというような、お互いの精神的な絆の強さが社会を支える根底にあるのです。同時に絆が強いから自分だけの問題ではなく、自分が死んだときにあの人は悲しむだろうと考えて悲しくなったり辛くなったり怖くなったりするのでしょう。

 

「老年的超越」の境地

小林 「老年的超越」という言葉をご存知ですか。もしかしたら、人類を救うかもしれない概念です。年を取るといろいろ辛いこともあるじゃないですか。もちろん、いいこともあるのですけれども、あちこち痛かったり病気になったり身近な人が亡くなったりするなど身体的にも精神的にも辛い事が多い。そこを何とか頑張って乗り越えると、ある時期──85歳くらいになると幸福感が増すという研究結果があるのです。

 ある程度年を取るといろいろなことが気にならなくなる──人生の欲が減るのでしょうね。そうすると、幸せな気分になってきて、自分が生きることに対する欲も減って、安らかな気持ちで死を迎えられる。だから、私たちはその境地までいかないとダメなのではないか。いろいろなことに関して欲があるうちは、死への恐怖が払拭できないのかなと思います。

 感力も社会性を大切にするある意味「欲」と同じような側面も持っていて、最終的には「よきにはからえ」の境地に達するのが理想的です。そこまで頑張って生きることが、人類が死と向き合う一つのヒントだと思っています。

茂木 私はお能の演目『姨捨(おばすて)』が好きで、あれは老婆の魂が浄化されて天に昇っていく話ですね。それが、今先生がおっしゃった老年的超越につながることだと思いました。

 今の社会は若ければ若いほど価値があるという価値基準があると思います。例えばテレビの視聴率では、かつては世帯視聴率だけだったのが、コア視聴率──ある年齢層の視聴者がどれくらいいるかを重要視するようになってきました。かつて小林秀雄が講演で、隠居が大事なのだと言っています。ちょっと枯れた隠居の価値観が重視されない社会は成熟していないということです。今は年長者に対して老害だとか、そういうことばかり言う若い人が増えた印象がある。あと、若者の間では論破という言い方が流行っているのですが、おそらく老年的超越の境地になると論破なんて興味ないのでしょうね。

小林 人の上に立つとか人をやり込めること自体、人の欲から来ているわけです。年を取ってある程度達成感に満たされて、そういうことから解放されたときに初めて、人間は死と正面から向き合って悔いなく死ぬことができるのかなと思います。

 それと、世代間の摩擦は、世代間でのバランスを考えない上の世代の責任逃れにも原因があるのかもしれません。研究者の世界に限っても、若手に対する過剰期待というものがあります。それは若手にとって負担です。

 日本が沈んでくるのは若手にお金がいってないからだとか、ポジションが少ないからだとか言われます。ある意味真実なのだけれども、それ以上の勢いで若手の人数が減っています。私の研究分野で博士課程に行く人は15年前の半分です。他の先進国と比べてもダントツに低い進学率で、投資するべき若手は数的にもそんなに多くない。だから、本当に日本の科学技術あるいは国力を高めていこうとか、知の継承を図っていこうと言うのなら、それぞれの世代にそれぞれの役割があるのだから、そこをバランスよく考えていかなかったらムリですよ。

 若手を指導するのは上の世代の人でしょ。その上の人がしょぼくれていたら、若手はその世界に入ってこないし、伸びようがないじゃないですか。人間というのは相当独創的な人以外は必ずロールモデルを探すのですよ。全くゼロから始めることができるのは一部の天才だけです。普通は目標となる人をモデルとしながら独自性を探していく。

 

エイジズム──日本の中に二つの世界がある

茂木 私はいわゆるエイジズム(年齢差別)がよくないと思っています。ケンブリッジで留学したときにお世話なったホラス・バーロー教授はチャールズ・ダーウィンのひ孫です。2020年に98歳でお亡くなりになったのですが、晩年まで毎日大学に来ているのです。ケンブリッジにも引退という概念は一応あるのでしょうが、ホラス・バーローさんは毎日学内で誰かと議論していました。ああいう姿を見て思うのは、日本では98歳で現役というのはあまり見かけません。

小林 90歳を過ぎても診療しているお医者さんはいらっしゃいますが、企業や大学では制度的にムリですね。

茂木 そういう方がいらっしゃることを考えると、多様性を言うわりには、エイジズムをナイーブに言う人が多いですよね。

小林 はっきり言って日本は年齢差別状態ですよ。私は、定年制はいかがなものかとずっと思っていました。高度成長のときのように、どんどん労働者人口が増えている状況だったら必要だったかもしれない。ただ、今のように人口減少の中にいて、定年で辞める人より下から上がってくる方が、特に研究者の世界では圧倒的に少ないのに、65歳で追い出しているわけです。これでは日本の科学力が下がるのは当たり前ですよ。

 こういうこと言うと、上の人が辞めないと若い人が出世できないと言われます。それは制度の問題であって、ポジションを増やせばいいのです。今は一つ席が空かなかったら次の人は座れないみたいな椅子取りゲーム状態です。全体的にプレーヤーの数が減っているのだから、実際には椅子は余っている。そこにどんどん座らせればいい。一刻も早く柔軟な定年制運用をやってかないと、この国を支える人がいなくなってしまいます。

茂木 組織にいらっしゃる方は定年制を厳格に運用する傾向がありますけれども、いわゆるフリーランスとか独立して仕事をしている方にとって年齢は関係ない場合が多い。だから、日本の中に二つの世界がある気がします。組織から離れて独立してやっている人たちはエイジレスなのに、組織に属している人たちが定年制に縛られているのは、なんかもったいないですよね。

小林 もったいないし、定年制の根拠が薄いですよ。私が小学生の時代は70歳の方はかなりご老人でした。背中が曲がっている方も多くて「お年寄り」という感じでした。今の70歳の方はかくしゃくとしています。

茂木 個人差も大きいですね。例えば少々記憶力が衰えたとしても、他のこと──判断力が上がっているとか、そういうことがよくあります。一律に年齢で切っていくことには生物学的な根拠はないし、そこは考え直したほうがいい。

小林 少子高齢化の中でそこを変えないと日本は潰れてしまいますね。働ける方はある程度のご年齢まで働いて、人生を謳歌していただかないと持続可能な社会の維持はムリです。

 

ストレスを減らす社会をつくる

茂木 ハダカデバネズミには基本的に老化がなくて、死ぬ確率がフラットであるという理解でよろしいですか。

小林 はい、おっしゃる通りです。年を取ってもほぼパフォーマンスが下がらない。それでピンピンコロリで死にますので、その集団にかける負荷がほとんどないのです。要するに介護状態になっているネズミはいない。ハダカデバネズミの生き方を見ていると理想的なのだけれど、そこだけ真似ることはできないと思いますけどね。

 ヒトは年齢によって能力に差は出て来ます。例えば、100メートル走で70歳の方は20歳の方より一般的に遅い。一方で、思考力みたいな面では、昔から長老に聞けという言い方があるように、経験を積んで論理的な思考が強化されることもあると思います。脳というのは神経回路なので、よく使われるルートが残って(整備されて)ムダなルートが減ってくると、ショートカットして結論を出せる能力は若年の方よりも高齢の方のほうが高くなるからです。

 だから、全体的な記憶力や新しいものに対する適応能力は下がっているかもしれないけれど、明らかに歳を取ったほうが優れているところを無視して、加齢によって全てのパフォーマンスが下がるという考え方は危険だし、誰も得しないですね。

茂木 ピンピンコロリは一つの理想ではありますね。そういう社会をつくれば労働力不足も補えます。生物学の知見から、そういう生き物もいるのだから、人間もそういう生き方をめざすのも悪くないという社会的な合意ができるかもしれませんね。

小林 ハダカデバネズミが素晴らしいと思うのは、寝ている個体が多いことです。上野動物園に行くとネズミの寝室があって、いっぱい寝ています。ああいう姿は他の小型ネズミではあまり見られません。他のネズミも寝ますが、外敵に狙われるから短時間だし、いつもゴロゴロしているわけではない。ハダカデバネズミはある意味で守られた環境に住んでいて長寿です。しかも、社会的分業という役割分担がある。1匹の女王ネズミだけが子供を産んで、あとの子育て、食料の調達、巣の守り、それと布団係みたいのもいます。なぜ分業が必要だったかと言うと、ストレスが減るからですよ。ハダカデバネズミ以外の小型ネズミは、ワンオペで子育てから餌の調達、外的からの守りも全て自分でやらなければいけない。それはストレスフルですよ。だから、寿命は延びないのです。

 我々も含めて社会性の生き物の分業というのは、ストレスを減らして、余暇を増やして、昼寝する時間をつくらなくてはいけないのだけれど、そうなっていないところが、人間社会の一番残念なところですね。

茂木 なるべくストレスを減らすような社会をつくることを社会的に合意してやったらいいと思います。ところが、ストレスがない人を見ると、周りの人がやっかみますね。

秋元康さん、松任谷由実さんと会ったときの感想を、夏休みの子供みたいだ、と私は喩えています。創造的な仕事を続けている方の秘訣は、ハダカデバネズミが寝ているのと同じようにストレスがないことにあるみたいです。忙しいはずなのに、余裕を漂わせる雰囲気があるのですよ。日本の社会でああいう感じが広がっていくといいですね。

小林 私も「忙しい」という言葉を使わないようにしています。周りにプレッシャーかけないほうがいいし、忙しいオーラって伝染しますからね。それは最悪だなと思っています。

 

なぜ自由な時間が減っているのか

小林 ハダカデバネズミのいいところは分業によって、使える時間が増えることです。その時間に、昼寝もしているのですが、実は分業のための教育をしているのです。それで、ますます効率よく社会を回すことができる。我々は教育をサイドに置くところがある。コロナ禍がひどいときに言われていたのは、まず人の安全、その次は経済を回すで、教育は後回しでしたね。小学校、中学校、高校、大学という段階で、彼ら彼女らはその時期でしか勉強できないこと、体験できないことがたくさんあるに、それができなかったわけです。

 あとから経済を回すあるいは立て直すことはできるかもしれないけれど、教育は時間を戻して小学校1年からやりましょうということはできない。そこをもう少し考えなければいけなかったと思います。だから、教育に時間を使うとか、余暇の時間を使うとかという余裕がある社会がうまくできないのかなと思っています。

茂木 共感能力が鍵のような気がしています。私は小中高生に今何が流行っているのを聞くのが好きなのです。話を聞いてわかるのは、彼らの世界には新聞やテレビはない。ネットニュースすら読まない──と言うのです。世の中で何が起こっているかをどうして知るのだろうかと思ったら、彼らはTikTokやYouTube、オンラインゲームには接しているわけです。

 共感能力について言うと、ある世代の常識と別の世代の常識は違うから、世代とか文脈を超えて共感できるようなものをつくるといいと思います。

小林 SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)が年齢に関係なく皆さん好きな意見を言っていくというような、ある意味理想的なプラットホームなのかなと思ったときもありましたが、実際は落書き的な世界が多くなってしまいましたね。悪い意味でストレス解消的に使われて、発信者があまり守られなくて、普通の発言者はストレスを感じるようになってしまった。

 そういう意味では、今私たちが使っているメール、LINE、Zoomといったネットコミュニケーションツールも多分過渡期のものなのだと思います。自分の生活を見ると、テクノロジーが進歩したことによって、余裕ができたか、人を教育する時間が増えたかと言うと、全く逆ですね。1日のうち3分の1はメールに返事していますよ。それは10年前には確実になかった時間です。

茂木 おそらく大学でも会議が多いと推察しますが、リモートができることによって無意味な打ち合わせの依頼が増えました。テクノロジーの進歩によってムダなこともやるようになっていることはありますね。

小林 新しいツールがあるから使ってみるということなのでしょうね。その行為が時間を奪ってしまう。

 私は新幹線通勤しているのですが、会社勤めの人が多く乗る電車です。ところが最近、私が見るところ会社員っぽい時間の過ごしている方はあまりいませんね。スマホでゲームしている方が多い。あとは映画やドラマを観ている。新幹線は仕事の移動という先入観があったものだから、そんな感じで時間を潰す方法もあるだと、ちょっと羨ましく思ったり、これで大丈夫なのかなと思ったりしています。

茂木 動物行動学で言う拘禁反応──例えば籠に入れられた鳥はやることがないから身体を左右に動かしたり、動物園のシロクマが限られたスペースの中で行ったり来たりする──ああいう繰り返し行動は、やることがなくてストレスが溜まっているときに起きるのでしょう。あくまで私の個人見解ですけれど、単純なゲームをやっている人は、本当は自分を向上させることがあるのかもしれないのだけれど、ある種、閉じ込められている状態でゲームをしたり映像を観たりしているのは、おそらく動物行動学的な反応だと思うのですよ。

小林 Zoomによる遠隔会議の数が増えたし、メールの数も増えました。一方で私たちの「昼寝」の時間は減っている。本当は新しいツールによって、いろいろなことを教育する時間が増えるとか、リラックスして過ごせる時間が増えてなければいけない。ハダカデバネズミとは逆行しているのです。私たちがそうしているのではなくて、そうさせられているのか。要するに、余暇を消費させるビジネス、例えばゲームなどに時間を使われてしまっているのかと思っています。

 

日本人の好奇心の衰えを感じる

茂木 私は日本人の好奇心の衰えを強く感じています。ブルーバックス(講談社が刊行している自然科学や科学技術の話題を一般読者向けに解説・啓蒙している新書)は比較的好調だと編集部から聞いていますが、それは同業他社があまりないからでしょう。例えば、『サイエンティフィック・アメリカン』(科学雑誌)は、人口比で日本の10倍くらい発行しています。イギリスの『ニュー・サイエンティスト』(週刊科学雑誌)はキオスク(新聞スタンド)で売っています。今の日本人は好奇心が低下しているのは、国の危機だと見ています。

小林 私や茂木先生は好奇心が強めの人だと思います。だから、ここまで来いとは言いませんけれども、もうちょっと日本人全体に好奇心がもっと旺盛であってもいいかなとは思います。

 好奇心は問題意識とも繋がってくる。日本人からそういうセンスが減ってくると、新しいものを作り出すことができない国民になってしまいますよ。

茂木 私は脳科学者として意識の問題を解こうとしています。これは多くの人が解けないだろうと思っていて、私の研究者人生をゲームに喩えると、無理ゲーと言われるものですね(笑)。

 多くの研究者がコネクショニストモデル(人間の脳の神経細胞に対応した処理ユニットのネットワークを用いて人間の認知の仕組みを理解しようとするアプローチ)で、0と1を繋いだ抽象化されたモデルからスタートするのですが、脳は細胞であり、細胞が意識を生み出しているわけだから、そこを全て俯瞰しなければダメだと最近強く感じています。今日の対談を前にして、小林先生の本や論文を読んで、ここにヒントあるかもと思いました。そういうことを考えていると、時間がいくらあっても足りないですね。同時に、そういう時間が一番楽しいじゃないですか。そういう感覚が日本の社会全体から失われていると感じます。

小林 ゲームは、やり始めるとハマってしまい延々とプレイしてしまいますよね。ギャンブル性があったりしていろいろなヒトの弱点を突いてきます。そういう意味では、すごく進化した遊びなのだと思います。ただ、ゲームは人工的に好奇心を煽るところがあって、自分の中から湧き出ているわけではないですね。若いときからゲームばかりやっているのは、私たちが期待しているような好奇心を持つ文化の継承には繋がらないかもしれませんね。

 

人間は創造的な生き物

茂木 今いろいろな人が「科学技術立国の危機」を言っています。それは好奇心が育っていない教育の問題もあるのかもしれないし、やはり科学の面白さが伝わっていないことがあると思います。

 小林先生の『生物はなぜ死ぬのか』で面白かったのは、生き物の死に方に「(ネズミなど小動物の)食われて死ぬ」という死に方があるという話です。

小林 食われて死ぬのも偶然獲得した戦略です。それによって逆に生き残れる個体もできる。残念なことに、だいたい老齢個体が食われるのですが……

茂木 生体機能が落ちている個体が食われるわけですね。

小林 彼らも食われることが目的ではなかった。もともと早熟で子供をたくさん産むネズミは食われても、種の存続には全く問題ない。そういう進化をしたのだから、食われて悲しいということではないのです。

茂木 人間は生き物としてどういう淘汰圧(環境条件や他種との競合)に自らを置こうとしているのでしょうか。人間が今後長く存続する可能性について、先生のご見解は?

小林 悲観的です。100年くらいもてばいいのではないでしょうか。

茂木 フェルミのパラドックス(地球外文明の存在の可能性の高さと、そのような文明との接触の証拠が皆無である事実の間にある矛盾)についていろいろな説明の仕方がありますが、一つは先生も指摘されているように、文明を持った生き物は長続きしないということです。

小林 最終的には好奇心の枯渇だと思うのですよ。私たちは近い将来、ずっとゲームをして過ごすようになってしまうかもしれない。そうなってしまったら、私たちの存在意義はほとんどなくなるのではないか。人間は創造的な生き物なのです。好奇心がなくなったらもう前に進めない。

 今(2021年12月時点)、前澤友作さん(衣料品通販大手ZOZOの創業者)が宇宙を飛んでいますが、こういうことをどんどんやったらいいですよ。

茂木 宇宙旅行のような活動は、好奇心の発露そのものでものね。

小林 私は本の中に、人類の将来は100年くらいで終わるのではないかと書きましたが、唯一望みは宇宙や海底──そういう未知なところへ進出することです。できれば宇宙開発がいいですね。そこにお金を使ってもらって、宇宙ステーションに完全にコントロールできる生態系を作ってはどうでしょうか。もう地球上では大規模開発はやめて自然の保護に舵を切って欲しいのです。

 お金が余っている人が下手にお金を使ってしまうと地球を壊しますから、お金は宇宙開発や環境の回復に投資してほしいですね。特に宇宙開発では創造力をフルに発揮して、人工知能でもワープ技術でも地球外生命の探索でも何でもやっていただければいいかなと思います。

(終)

 

小林 武彦・東京大学定量生命科学研究所教授

こばやし たけひこ:1963年神奈川県生まれ。九州大学大学院修了(理学博士)、基礎生物学研究所、米国ロシュ分子生物学研究所、米国国立衛生研究所、国立遺伝学研究所を経て、現職(生命動態研究センター ゲノム再生研究分野)。前日本遺伝学会会長。現在、生物科学学会連合の代表も務める。著書にベストセラー『生物はなぜ死ぬのか』『DNAの98%は謎 カ命の鍵を握る「非コードDNA」とは何か』等。

茂木 健一郎・脳科学者
もぎ けんいちろう:1962年東京都生まれ。東京大学理学部、同大法学部卒業後、同大学大学院理学系研究科物理学専攻課程修了。理学博士。理化学研究所、ケンブリッジ大学等を経て、現在に至る。「クオリア(意識における主観的な質感)」をキーワードとして、脳と心の関係を探求し続けている。著書に『脳と仮想』(第4回小林秀雄賞受賞)『今、ここからすべての場所へ』(第12回桑原武夫学芸賞受賞)等。
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