『公研』2021年12月号「めいん・すとりいと」

 

 野党離れが顕著だ。10月末に行われた衆議院議員総選挙で、野党第一党の立憲民主党は100議席に届かず、与党第一党の自民党は単独過半数を超える優勢を維持した。野党第一党が四度にわたって100議席を下回ったことはかつてない。

 政権交代可能性が実質的に消滅しかかっている現状は、小選挙区制を導入した眼目にもとる。野党には政権担当能力を回復、いや、涵養するための党運営が求められている。

 国民の支持をひとたび失ったあと、堅実に実力を涵養して政権に返り咲いた先例はふたつある。大正期の原敬・立憲政友会と、昭和期の浜口雄幸・立憲民政党だ。100年前、千変万化する国際情勢と定まらない民意を前に、ふたつの立憲政党はどのように党の育成と政権復帰を図ったのだろうか。

 原敬は苦境のなかで総裁となった。大正初期、藩閥政治打倒を叫ぶ憲政擁護運動が吹き荒れた。その渦中で政治的安定を志向した政友会は、国民の怨嗟の的となる。前総裁の西園寺公望は混乱の責任を取って退隠し、原が後を受けた。

 続く第12回総選挙で、原・政友会は経済政策を前面に出して争うが、第一次世界大戦への参戦を掲げて派手な選挙戦を展開する大隈重信率いる政府、その与党となった立憲同志会を相手に、党史上最大の敗北を喫した。

 原はこの敗北を転機とした。党幹部を実力のある若手に入れ替え、政策本位の政党に作り替えていく。官僚、財界出身の優秀な中堅を政友会に取り込み、彼らを中心に政務調査会を再編して、政策立案能力を高める。改革は党中央に留まらず、機関誌に多くの政策論や統計表を掲載して、党員への政策知識の普及に努めた。それは政党にとって基盤となる地方組織の涵養にも有効であった。

 こうした堅実な党運営を続けたことで、信頼を徐々に回復し、政権に近づく実感が生まれていく。政友会は次の選挙で第一党の座を回復し、第一次世界大戦後の戦後経営という難局を前にして政権を託される。同内閣は戦後不況のなか、四大政綱を掲げて着実に政策を実行し、続く総選挙で絶対安定多数を獲得した(拙著『原敬』)。

 当時としては平均に倍する長期政権となった原内閣は、首相の暗殺という変事によって断たれた。それは幸か不幸か政界に新たな展開を引き起こす。原を失った政友会が主導権争いから分裂し、政界再編と、再度の護憲運動がもたらされた。

 この間、苦節10年と言われる道を歩んでいたのが、立憲同志会の後身である立憲民政党である。浜口雄幸は幹部として同党を長く支えた。自らも落選の経験を持つことから、党内の弱者にも配慮を怠らず、長く政権から遠ざけられた同党の勢力回復に力を尽くした。

 浜口が総裁となったのは、政友会から分裂した政友本党が憲政会と合同し、立憲民政党が誕生したときである。田中義一陸軍大将を総理・総裁に迎えて広い支持を集める政友会に対し、民政党は寄り合い所帯であった。

 この新政党を浜口はじつによく統御した。考えてみれば、民政党系は浜口ら桂系官僚と河野広中ら立憲国民党の不満分子、さらには大隈伯後援会などを糾合した非政友連合であった。異質なものを丹念にまとめ上げることに、浜口は長じていた。

 その際に軸となったのは、民政党が得意とする社会政策などの新しい分野の要望を汲み上げ、議会中心主義を貫徹する姿勢であった(川田稔『浜口雄幸』)。

 日替わりで討論会を開いて耳目を集めた自民党の総裁選に比して、立憲民主党の代表選は地味であったが、最終演説はいずれも聴くものを惹きつけた。令和の野党の再起はそのように果たされるのだろうか。それとも連立与党の優位が続くのだろうか。

慶應義塾大学総合政策学部教授

 

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