あらためて平成の政治改革を考える【待鳥聡史】【清水唯一朗】【善教将大】

『公研』2020年9月号「対話」

待鳥 聡史・京都大学大学院法学研究科教授×清水 唯一朗・慶應義塾大学総合政策学部教授×善教 将大・関西学院大学法学部准教授

 平成の政治改革は、立法・行政・司法さらには地方分権や中央銀行などにまで及ぶ大改革だった。この変革を通じて、日本社会そして我々の政治への意識はどのように変貌したのだろうか。平成の30年間を振り返りながら、日本の統治システムを考える。

平成の政治改革は明治維新、戦後改革に匹敵する大改革である

清水 今日は、平成の30年間におこなわれた一連の政治改革をあらためて振り返りたいと思います。この改革を経て日本の政治システムはどのように変革されたのか、あるいは有権者の政治意識はどのように変化したのか──こうしたポイントについて3人で考えていければと思います。ちょうど今年の5月に待鳥先生が『政治改革再考──変貌を遂げた国家の軌跡』を出版されましたので、この本の内容に即して議論を進めていきたいと思います。

待鳥 『政治改革再考』は、客観的なデータや当時の報道などの資料を使って執筆しましたが、平成の30年間は自分自身の18歳から50歳近くまでのあらかたを占めるわけですから、書くことを通じてあの頃の社会の空気感を思い返すことになりました。懐かしさも感じましたが、同時に自分自身の人生も振り返るようなところがあり、なかなかしんどい作業でもありました(笑)。

 

清水 唯一朗・慶應義塾大学総合政策学部教授

清水 私もいろいろな場面を思い出しながら読ませていただきました。本書の中で90年代の政治改革は、明治維新、戦後改革に匹敵する大改革であり「実質的な憲法改正である」と指摘されている点は、とりわけおもしろく感じました。確かに改革は、いわゆる「三権」──立法・行政・司法のすべてに、さらには地方分権や中央銀行にまで及んでいますから、その規模はとても大きい。

 その一方で、国民はこの大改革を十分に理解してこなかったのではないかという見方もある。これは明治維新についてもしばしば言われることです。政治の中枢にいたエリートは、政府が進めた一連の改革の狙いをよく理解していたものの、国民は「近代化」の意味を理解できなかった。明治維新が成功例と見られる一方で、大正デモクラシー以降、日本は壊滅への道を突き進むことになります。このあたりの背景には政治エリートと国民との間に乖離、断絶があったという見方です。

待鳥 80年代末の時代は、有権者である国民の間にも改革ムードがあったと思うんですよね。熱に浮かされて改革に突き進んだわけではないにしても、それを求めるムードは確実にありました。ただ、政治改革の具体的な内容を国民が十分に理解していたのかと言われると、そこは私も疑問ですね。専門家にしても、わかっていないことが多かったのも確かですが……。どちらかと言えば、社会経済の西洋追いつき型の近代化が終わった時期における「都市住民の生活と意見」といった感じで、政治行政ももっと近代化すべきだ、という意見に賛同したというところでしょう。

 平成の政治改革に対しては、後になってからしばしば、「思ったような成果が得られていない」とか「改革によって新自由主義的な世の中が到来するとは想定していなかった」などと評価されることがあります。そう言われてしまうのは、有権者は改革について考えて支持したというより、社会のムードに同調してバックアップする存在だったからなのでしょう。

 だからこそ、「こんなはずじゃなかった」という感想を持ちやすいのだと思います。ただしそれは、エリートと非エリートの乖離とまでは言えないかもしれません。理解は浅かったかもしれないが、有権者もめざす方向性は共有していたわけですから。

善教 有権者がその時々の政治的なテーマをきちんと理解しているとは言えない、というのが僕の感覚ですね。有権者の政治知識に関する調査を何度かしていますが、平均値はとても低くて分散が大きいという特徴があります。どのジャンルにもヲタクがいるように政治にもヲタクがいて、そういう人はとことん知っていますが、三権分立の三権すらよくわかっていない人は意外と多いんです。若いから知らないというわけでも、年を老いているから知っているわけでもない。良くも悪くも等しく知らないんです。さらに言えば、世界的に見ても基本的に政治知識の分布には同じような特徴があります。

 平成の政治改革についても、多くの人はそもそも中身を知っているはずがないんです。でも思い返してみると、改革を後押しするムードは確かにありました。理解していないのになぜ応援したのか、知らないのにどうやって結果を評価するのかは大きな謎で、学術的な意味でもおもしろいと思います。

 盛り上がった背景の一つには、80年代の末から90年代初頭にはリクルート事件や東京佐川急便事件などの政治による汚職が相次いで発覚していたことがあるのだと思います。あの時は、自民党だけではなく社会党も巻き込むかたちで、多くの政治腐敗が明るみに出ました。これは何とかせんといかんという勢いが高まるなかで細川護熙さんが出てきて、支持をかっさらっていきました。そして1993年には擬似的な政権交代も行われた。

 当時の有権者が政治家に求めていたのは、もうちょっと国民のほうを向いてもらうことや、不正の防止などでしたよね。ですから、背景に政治不信があったことは間違いない。一連の政治改革のなかで、最初に手を付けられたのが1994年の選挙制度改革でした。衆議院の選挙区を中選挙区から、小選挙区と比例代表制を並立する混合制へと変えることになりました。ただ、この時も国民の多くは、この制度変更について十分な理解があったとは思えないし、結果を予測することもできていなかっただろうと考えています。

実現しなかった政権交代可能な二大政党制

待鳥 選挙制度改革は、日本の選挙のあり方を大きく変えたし、政党の組織や政党間の関係を大きく変えました。改革によって変化が起こると考えた人は多かったにしても、帰結を正確に見通せていた人は専門家も含めていなかったと思います。小選挙区比例代表並立制のような混合制については、選挙制度改革が行われた90年代初頭には、学術的な知見も足りていなかった。実例がほとんどなかったですからね。

 日本には戦前から続く、英国型の二大政党制への憧れがありますよね。この時も政権交代可能な二大政党制を理想のイメージとして、制度を設計していた節があります。なので、小選挙区中心の選挙制度を入れたら二大政党制になり、かつそれぞれの党内の規律が高まってまとまる、という期待があったのでしょう。それ自体は間違いじゃない。けれども、比例代表制が並立されることが何をもたらすかがわかっていなかった。当時は小選挙区制だと二大政党に、比例代表制は多党制になるという素朴な理解しかなくて、この二つを混合することによる弊害や効果は十分考えられていなかったわけです。

 実際その後に政権交代は実現しましたが、野党が分裂している現状は二大政党制とは程遠いものがあります。野党の分裂を助長しているのが比例代表制の存在で、分裂した野党とまとまった与党が闘うために小選挙区では与党が圧勝する。改革当時、比例代表制は、小選挙区制に反対していた社会党や小政党を取り込むための、ある種の糊代の役割として導入されたところがあります。どの領域の改革であっても、多数派形成のためには反対勢力を取り込むための妥協やその領域に固有の課題への配慮が必要になります。私は、こうした妥協や配慮を行うことを「土着化」と呼んでいますが、選挙制度改革においてはこの土着化が想定外の結果をもたらすことになりました。

 小選挙区制と比例代表制は意図が全く異なっていて、制度としての「食い合わせ」が悪いんですよ。ウナギと梅干しを一緒に食べるのは良くないなんて言われますよね。それぞれの食べ物は悪くないのに、組み合わさるとお腹を壊したりする。小選挙区制と比例代表制の組み合わせもそれに似たところがあって、二つが混合されたことで小政党が徐々に衰退するのではなく、むしろ大政党の分裂を促すという想定外の結果になってしまった。

善教 混合制に注目が集まったのは、世界的に見ても90年代に入ってからでしたよね。

待鳥 80年代から90年代初頭にかけてニュージーランド、イタリア、韓国などで並立制が採用されますが、そうした国でのケースが蓄積されて初めてわかったことが多くありました。日本はこれらの国と同じように世界にケースを提供する側であって、先行例を参照して導入したわけではなかったんですね。

 選挙制度改革に限らず、平成の政治改革の一つの特徴は、モデルケースがないことです。明治維新は西洋列強を調査した上でドイツの統治システムを模範にしました。戦後改革は、明らかにアメリカが教えてくれたことが多い。けれども今回は模範がない状態で、かつ自力で改革せねばならなかったので、自分たちで目標なり方法を考える作業が必要でした。

 もう一つの特徴は、平時の改革であることです。バブル経済の崩壊前後の時期ですから、経済面では大きな節目でしたが、「バブル崩壊は敗戦だった」と認識されるようになったのはもう少し後のことです。80年代末や90年代の初頭は、まだ「日本はうまいことやったのだ」という気分のなかにいたと思います。そういう時に行われる改革は、自信や余裕がある人が多いから支持もされやすいけれど、過去の成功体験を持った人を相手にするための難しさもあります。国民もなかなか満足してくれない。いろいろな妥協や配慮が不可欠になって、改革としては土着化のコストが大きくなる。私の認識では、近代の日本がやった改革の中では一番難易度が高かったのではないかと思います。

善教 一つ制度改革を行うと、それに連なる制度も同時に変わっていくように思います。ただ平成の政治改革は、行政改革や内閣機能の強化のように集権性を高める一方で、地方自治や中央銀行の改革のように独立性を高める改革も行われました。この両者の方向性は逆ですから、ちぐはぐしている印象も受けます。制度が一つの均衡をつくらずにうまく連動することなく、バラバラになっている部分もあるのではないか。こうした不整合な状態になってしまっているのか、個人的にはよくわからないところがあります。

待鳥 基本的には、白地からすべての制度を作り直すのではなく、既存の制度を個々に改革していくかたちでした。それは全体均衡ではなくて部分均衡の追求になりやすいので、領域ごとに最適解を求めたという感じですね。当然ながら、こういう改革は自由度が少なくなります。明治時代の国家建設も戦後改革も白地からデザインする余地が大きく、自由度がずっと高かったのではないでしょうか。

 どの領域でも、既存の制度に関して認識されていた課題は以前からあって、方向性についての議論は元からなされていたわけです。国際的にも常識あるいは主流になっている考え方もあります。そこに外から「改革すべきだ」という話が振られると、大抵は領域内ですでに議論されていた改革案が基礎になります。領域内での改革案としては多数派になれなかったが、外からの改革の流れと合流すると多数派になれる。逆に外からの改革理念だけでは具体案が作れないときに、領域内にすでにある案と結びつくと具体化できるわけです。

 このような進め方だと、それぞれの領域の壁を壊すことがまずできないのですが、80年代までの日本政治の意思決定のパターンもそれを助長していました。そこでは、領域ごとの自律性が高くて権力は分散的でした。つまり、それぞれの領域に小ボスがいっぱいいたわけです。平時の改革だから、こうした小ボスの支持がどうしても必要になる。その領域の課題への対処です、というロジックを優先させざるを得ないんですね。

自民党改革と同一視された政治改革

善教 明治の時代の改革は、全体的に整合性を保つかたちで行われたという理解が一般的なのですか?

清水 整合性があったというよりも、公家や武家といった土着化を必要とする勢力が強かったため、改革を慎重に進める必要がありました。順番に、段階を踏んで進めたわけです。明治維新(1868年)から明治憲法(1890年施行)ができるまでに、ほぼ4半世紀かかっています。その間に官僚制度によって中央政府を創設し、廃藩置県を行って地方分権を進めました。その次に内務省をつくり地方三新法を整えて、内閣制になり府県、市町村ができた。そしてようやく憲法ができたわけです。

 このように段階を踏んで改革を進めました。その都度、ある程度は土着化をして既存の利害関係を保ちながら、頑迷な反対派を排して進めてきた。そうした見方に立つと、明治の改革に比べて、なぜ平成の改革はこんなに早く進めたのかが興味深いところです。もう一つ、明治の場合は明らかに排除しながら改革していきましたが、平成では排除することなく進められたように感じます。排除ではなく、既存の体制の中で包摂しながら進めていった。このことをどう考えたらいいのか。

 自由度に関して言えば、私は戦後の改革には白地の部分はそれほどなかったと見ています。そこにはGHQがあり、彼らがある程度デザインしてきたものを土着化させながら進めることができました。各省庁はほとんどそのまま残りましたから、戦後改革はマイナーチェンジと言えるでしょう。むしろ、明治維新や平成の改革のほうが大きなモデルチェンジだったと考えます。

 

待鳥 聡史・京都大学大学院法学研究科教授

待鳥 平成の改革は、排除しなかったからこそスピード感があったのかもしれませんね。平時の改革ですから、改革前から排除が決まっていて、参加できない敗者がいないんです。だから絶望的な抵抗を続ける勢力は出てきにくいし時間的には早いんだけども、内容的には幅広い意見を少しずつ取り入れるかたちになりますから、全体のデザインとしては不整合が起こりやすかったのでしょう。

 戦後改革のときには、確かに行政機構や官僚制はあまり変わっていません。けれども公職追放された人たちがいますから、そこには白地ができたとも言えます。何より排除されるべき勢力は明白でした。

 その意味で注目すべきは社会党ですね。平成の政治改革は、社会党の相対的な影響力がどの程度かによって、かなり異なった過程になりました。具体的には、三つの時期に分けられるでしょう。最初の選挙制度改革の時はまさに改革反対派で、しかも野党第一党・与党第一党ですから、社会党を同調させるための糊代として並立制が採用されます。次が行政改革や地方分権改革の時期です。このときは自民党・日本社会党・新党さきがけ(自社さ)政権で、社会党に改革を提案させることで包摂する構造になっていました。最後の司法制度改革になると、政党としては衰退し、支持者は民主党に流れ込んでいましたから、独自の勢力としてはほとんど相手にしなくても良い存在になりました。

 しかし政党として衰退した後にも、旧社会党の支持者の存在は無視できません。社会党支持者は外交・安全保障や護憲に対するこだわりがとても強くて、勤勉な人が多いんですよね。社会党が社会民主党という小政党になり、エリートのレベルで事実上排除されても、支持者は残っていますから彼らの影響力はずっと伏在することになりました。

善教 僕も社会党の話は重要だと思っています。1994年に自社さの連立政権ができた時に、有権者の側では無党派層が圧倒的に増えています。冷戦が終結したことで、良くも悪くも資本主義VS社会主義という構図が意味をなさなくなる。そうした国際環境の変化を受けて、社会党が自らのアイデンティティーをどう確立するのかに注目が集まりましたが、結局は消滅していくことになります。政治の具体的なプロセスを反映して、この時期に有権者の持つ党派性が急激に弱くなっている。

 結果論ですが、平成の政治改革に大きな党派対立が生じなかった一つの背景なのかなとも思うんです。これがもし党派対立的に争点が形成されると、議論の進め方もまったく変わったのだと思います。偶然だと思いますが、平成の改革が始まる時期と政党の再編が重なったことは、改革のスピードの話とも関わってくるのかなという印象を持ちました。

待鳥 自社さ政権を通じて無党派層が増えたのはその通りだと思いますが、社会党的なるものを支持する人たちがいなくなったわけではないですよね。むしろ、民主党寄りだけど支持しきれない無党派層として残っていたのでしょう。彼らは外交・安全保障や護憲に強い関心を持っていて、十数年にわたって民主党の中や周辺で沈黙を余儀なくされた後、2015年の安保法制をめぐる議論の際に久々に表舞台に出てきました。彼らが沈黙していた時期には、改革のスピードという点では加速されました。こうした有権者が「再発見」されたことが、立憲民主党の結成と台頭につながっていくわけですが、日本政治の対立軸として望ましいかどうかは難しいところです。

 彼らは自分たちの構図の中に政治改革とその成果も位置づけるので、改革は新自由主義の手段、さらにはアメリカの言いなりになる手段だという理解になりがちです。もともと、90年代に改革に積極的だったのは、彼らが否定していた自民党政治を壊す手段、そして自分たちが望ましいと思う政策を実現する手段だと考えていたことも一因です。政治改革は政治の仕組みを変革する改革であって、新自由主義だろうが社会民主主義だろうが、どんな政策とでも結びつき得るものとして理解されていなかったわけです。それは、今に至るまで変わっていないように思います。だから、現時点での政治改革の評価として「政治改革の結果、新自由主義の社会が到来するのはおかしいじゃないか」とか「未だに自民党政権が続いているではないか」という話になる。

清水 政治改革が自民党改革と混同、もしくは同一視されていたということですね。当時の文脈を思い返せば、リクルート事件や佐川急便事件があって政治改革が求められたことは明らかですが、最初に着手されたのが選挙制度改革であったのはなぜでしょうか。この順番で進めたことが一連の改革に及ぼした影響が気になります。明治の場合は最初に行政構造を整備し、そこが安定してから様々な制度をつくっていきました。議会ができてからはメディアが、ついで国民がさまざまな反応を見せるようになります。

政治だけが立ち遅れていた?

待鳥 当時「経済一流、行政二流、政治三流」なんてよく言われていましたよね。80年代の人たちの時代認識からすると、一番悪いまま続いているところから変えるという発想になったのだと思います。社会党をはじめ野党やその支持者の間にも、今と比べると官僚制や行政機構の能力、公平さや清潔さ──実態は必ずしもそうではなかったと後でわかるんですが──に対する信頼度には高いものがありました。官僚制は、企業と組むことで高度経済成長を実現した日本の成功物語の立役者だとも受け止められていたので、改革の対象としてはまず「三流」の政治だ、ということになったわけですね。

清水 確かに当時は官僚に対する信頼感がありましたが、その後に不祥事が相次いだことで、国民の見方も変わっていきました。

待鳥 もう一つは、80年代に中曽根行革が行われたことも大きいと思います。国鉄など3公社5現業を民営化あるいは解体して、官僚機構のなかでもダメだと思われていた部門がある程度は改革されていました。それほど大きな効果はありませんでしたが、内閣機能強化にも着手していました。その意味で、行政改革はひと段落付いていましたから、次は不甲斐ない政治を改革すべきだと考えたことは自然だったのでしょう。80年代末を思い返してみると、政治家は腐敗と強く結び付いて受け止められていました。今でも同じ指摘がなされますが、「国会議員はこんなにいらないでしょう」とか「国会に来ても話も聞いていない人がたくさんいる」とか「実行できないことばかり公約に掲げている」とかね。威張っていてお金に汚い人たちという散々なイメージは、当時からですね。

 今ではちょっと想像がつかないかもしれませんが、80年代の末は社会経済的にはうまくやっていて、行政も清廉で、上手くいっていないのは政治だけ。だから、あとは政治を良くすれば日本はとっても良くなるんだという雰囲気は強かった。有権者の多数は、止むに止まれぬ事情があって、物事を何とか打破していくためには政治を変えなければどうにもならないとは思っていなかったでしょう。エリートの間では、日米経済摩擦への対応などを通じて、止むに止まれぬ事情があるという認識は次第に出てきていましたが……

清水 現状の社会経済状況にそれほど不満がないという雰囲気はありましたね。けれども政治は立ち遅れていて、細川護煕さんが出て来たときには、これでいよいよ政治が変わるんだという熱気がありました。他方、「お金のかからない政治」というのは、改革の目標としては本質的ではないし、最優先に掲げるテーマではないようにも思います。

待鳥 有権者にとって政治とお金の話が一番わかりやすかったからでしょう。もちろん、当事者である政治家たちは、自民党議員を含め、それが問題じゃないことはわかっていました。政治にお金がかかる主因は中選挙区制にあるので、選挙制度を改革しなければ政治とカネの問題は変わらない。また、自民党の単独長期政権が続いたことが腐敗の源泉だという認識もありました。だから、選挙制度を変えればお金の問題もなくなるし、政権交代も可能になるという議論が出てきたときに、みんな賛成したわけですね。

善教 政権交代が可能であるというは、有権者にとって重要なポイントだったのだと思います。小選挙区制で二大政党に収斂することよりも、大きい政党が政権を交代し得る仕組みをつくることには割合コンセンサスがありましたね。

待鳥 戦前から、二大政党間で政権交代が可能なモデルは想定されているわけです。政党政治はずっとイギリスが理想とされていて、これは改革当時にもそうでした。

70年代、80年代には野党による連立政権論があり、マスメディアも後押しします。「社公民」などの連立構想が議論されましたが、政党間の足並みは揃わないし、政策面も十分に練られていませんでした。しかも、この時期までに革新系の地方自治体は次第に行き詰まりが目立つようになって、80年代に入ると野党連立政権の実現可能性や魅力は大幅に低下します。それも小選挙区制の下での単独政権による政権交代を魅力的に見せることになり、改革を後押しした面もあったのだと思います。

政治家は小粒になったのか

清水 小選挙区はより優れた人物を選ぶという意義も強調されましたね。自民党も「党の近代化」を唱えていました。これから新しい人材が政治に入ってくるだろうという期待感があった。ただ、その期待は現実のものとなったのでしょうか。「小選挙区になって政治家がむしろ小粒になった」という議論もあります。また、小選挙区では有権者の一部でも嫌がる政策には関わることが難しく政治家の活動を縛っているとも指摘されています。

待鳥 新人を出す効果については、議論が分かれていますよね。中選挙区制は新人が出やすいという議論は確かにあって、自分の地盤が十分に固まっていなくても低い得票率で当選できるのは事実です。でも実際には、中選挙区制時代の80年代に顕著になっていたのは、二世議員がものすごく増えたことです。中選挙区制は得票率が15%ほどで当選できますから、先代から安定した地盤を継承すると、ほぼ終身の在任が約束されてしまう。実際、小選挙区になって二世議員は減っていると指摘する海外の研究者もいます。三代、四代やっていて、大臣クラスが連綿と出るような政治の名門家系は揺らがないが、そうでないレベルの二世は淘汰傾向にあるというわけです。

 いずれにしても選挙制度改革のときには、新人を発見して登用するにはどの制度がいいのかという議論はあまりなかったのではないでしょうか。新人の登用については、誰が党の公認候補になるのかが決定的な意味を持ちますが、このことが本当の意味で理解されるようになったのは、やはり2005年の小泉首相による郵政解散以降のことでしょう。それ以前は、政治学者の一部は公認候補の選び方を重視していましたが、メディアや一般の有権者はそんなに意識していなかった。実際にも、大体は現職優先で後は比例代表制との組み合わせで調整するくらいでした。

善教 有権者からすれば、個人を選ぶのか政党を選ぶのかという選択がありますが、選挙制度改革は良くも悪くも政党を選ばせる側面を持っていたと思うんですね。ただ、政治家の資質を見極めてから投票すべきだと批判する人は多いですし、中選挙区制がそうした見方を醸成させてきた側面もありました。ところが2000年以降になると、有権者は政党で投票先を選択するようになって、政治家自身も政党単位で動く傾向が顕著になっていきます。政治家が小粒になったかどうかは、結局のところ僕もよくわかりません。当選回数を重ねてきたことが小粒でないことを意味するのかどうかもよくわからないんですが、ただ政党本位になっていることの反動として小粒論が出てきていることはわかる気がします。

待鳥 あれは政治記者が「小粒」と形容したら小粒になるという、いい加減な評価なんですよ。政党を選ぶようにしようというときに使われる「政党本位」という言葉は、日本政治史では繰り返し出てきた表現ですが、これは戦前の日本語ですよね。だいたい今は「本位」という言葉自体あまり使われなくなっています。優先順位が高いという本来の意味合いで使われているのは政党本位くらいしかないでしょう。

 今回、政治改革に関する資料を読んでいて痛感したのは、改革にまつわる議論の言葉遣いがとにかく古いことなんです。選挙制度改革、地方分権改革、司法改革、どの分野にも古典的な雰囲気のする言葉がたくさん出てきました。先ほども話しましたが、政治改革には、各領域で昔から準備されていた改革のフレームに新しいアイデアが流し込まれた面がある。古めかしい言葉遣いは、こうした過程を反映している面があるのでしょう。たとえば、司法制度改革では「国民に身近な司法」という常套句が出てきます。新しい言葉のようにも聞こえるけど、ずっと言われてきた古い言葉です。

清水 陪審制度が議論された大正デモクラシー期から使われていました。

待鳥 そんなふうに、戦前との連続性すらあるような言葉がたくさんあるんです。先ほど清水先生は「戦後改革はマイナーチェンジだった」とおっしゃっていましたが、このあたりはその見方を裏打ちするような部分なのかもしれません。

清水 待鳥先生の言葉で言えば、「近代自由主義右派」の人たちが好んで使う言い回しですね。

待鳥 戦前の「オールドリベラリスト」以来ということですね。終戦直後にオールドリベラリストと呼ばれていたのは、戦前の自由主義者です。彼らの考え方の源流には、幕末開国期からの近代主義がある。日本の制度、社会構造、そして物の考え方をもっと西洋化、近代化しないといけないという発想ですね。そして、明治憲法体制の下でも個別の制度改革や運用によって、政治や行政のさらなる近代化は可能だと考えていた。

 平成の改革においても、そうした考え方が少なくとも改革案を考えているエリートのなかには強くありました。明治時代から連綿と続いている近代主義が、改革のバックボーンになっていたわけです。だから、言葉遣いが明治期からのリフレインのようになるところがある。行政改革や司法改革に関わった憲法学者の佐藤幸治先生(京都大学名誉教授)が、政府の諮問会議の場で「この国のかたち」という言葉を使っておられますね。これは司馬遼太郎に由来しているのでしょう。そう考えると、平成の政治改革は明治以来やってきた改革の延長線上にある大きな変革と捉えることもできるのではないか。

有権者は主体性を持つようになったのか

清水 有権者の理解度や意識に関する話が出てきましたが、そこから連想したのは明治時代の啓蒙の話です。明治維新後も、人々は主体性を持ち得ない「客分」だったが、日清戦争を経て初めて国民として主体的に行動するようになった、つまり、本当の意味で主権者になったという議論があります。一方で、日清戦争以降の国民たちは本当に主権者だったのか? という疑問も当然あります。その後1925年には男子普通選挙が導入されますが、投票権を持ったからといって主体的に物事を考えることができていたとは言い難い。ずっと機械的に投票していただけだという見方もあります。

 戦後になり、GHQは「民主主義です。主権者になってください」と盛んに日本国民を啓蒙しますが、そう簡単には客分意識は変わらなかった。私が戦後の改革をマイナーチェンジだと言ったのは、この点です。戦後はあまり排除がなかったとも言いましたが、共産党は別です。共産党が排除されたことは、チャンネルが一つなくなったという意味において、国民が主体性を獲得することを阻んだ側面があると考えます。

 平成の改革においても、客体から主体へという話がまた出てきました。改革の担い手が「ボトムアップからトップダウンに物事の決定行動を変えるべきだ」と主張しているときに、国民に対しては「もっと主体的にならなければならない」と言ってきたわけです。その結果、この30年間で有権者が主体性を持ったのかと言えば、あまり変わったようには思えない。

待鳥 有権者(あるいは国民)が主体にならねばならないということは、平成の政治改革の極めて重要なモチーフですね。そして、それは今日までにかなり浸透したのではないかと私は見ています。有権者が政治権力は自分たちがつくっているもの、政治家に一時的に貸し与えているものという意識は、80年代末より明らかに強く持つようになっていると思います。その意味で、2009年に民主党が自民党から政権を取り、2012年には自民党が政権を奪い返した2度の政権交代の意味は大きい。投票によって政権交代が本当に実現するという経験は、有権者に権力を創出する主体であると意識させることになったはずです。

 もちろん、主体となった有権者がある種の理念型としての近代人と同じかと言えば、そうではない。自分たちがつくり出した権力なのであれば、慎重に熟議してその権力を使うのが「あるべき近代人」でしょうが、実際にはそうなっていないことは確かでしょう。

 むしろ、この30年間で出現したのは、モンスターペアレントとかクレーマーなのかもしれないですよね。彼らはものすごく主体性が強い人たちですが、自分勝手な存在でもある。ある程度までは自分勝手を許容するのは近代社会にとって大切なことですが、それが望ましい主体性かと言われれば違うのでしょう。ただ、それは政治改革の結果というより、90年代くらいまでに日本社会の中に存在が準備されていたと見ることもできる。個性の尊重という話が、80年代の社会をめぐる言説にしばしば見られたことは間違いありません。

善教 地方分権改革の中では、主体という話は「参加から参画へ」とか「主体的なまちづくり」といった考え方とセットになっている印象を持っています。今現在の地方自治体の場で何が起きているかと言えば、一方ではまさに参画する主体としての住民がいて、他方では代理人たる地方議会の人たちを選ぶ有権者としての姿がある。ここには矛盾ではないですが、何らかのコンフリクトが2000年ぐらいからずっとある気がするんですね。

 だから「あくまで住民参加は、議会の決定を補完するのだ」という話が出てくる。そこをどううまく考えればいいのだろうかといった話は、実際にはよくわかっていないまま行政は行政で、どんどん権限を下ろしてさらに住民を参加させるという話を進めている。両者がうまく整合しないかたちで、住民参画が進んでいっています。それで「おまかせ民主主義」から脱却しているのかと言えば、実態は当然そんなことはない。もっとみんなが自治体や行政の決定や計画策定に関われる体制を整えるべきだといった話に関しても、「そうなのかな」という疑問がずっと拭いきれずに、中途半端で宙ぶらりんな状態が続いている印象を持っています。

待鳥 主体性とは、さまざまなことを自己決定するということで、広い意味では他人の言いなりにならないことですよね。有権者像としては、「自民党の人に長年お世話になっているから、他の人には入れられない」というように思考停止になるのではなくて、自分で考えて自分で判断するというイメージですね。

 善教先生の『維新支持の分析──ポピュリズムか、有権者の合理性か』によれば、維新の会の支持者は別に騙されているわけでも、橋下徹さんたちの主張をすべて盲目的に信じているわけでもなく、みな自分たちなりに丁寧に情報を処理していると述べられていますよね。大阪の有権者は主体的であるとも言える。

政治改革は料理を盛り付けるお皿づくりだった

善教 大阪は相当特殊ですよ。政党が十分に機能を果たせていなかったところに維新が出てきて、さらに維新VS反維新の綺麗な構図が生まれました。有権者が主体的に学習・選択するためには、明確な政治的対立軸が必要条件になるのだと思います。その条件が整うような環境が他の地域にもあるのかと言うと、ちょっと難しいかなと思いますね。

待鳥 確かにそうかもしれないですね。政治改革の帰結に対する不満の一つには、明確な対立軸が生み出せていないことがあります。かつての自民党と社会党の保守と革新ではダメだと言うけれど、それに変わるものがない。ただ、それは政治改革のせいじゃなくて、どこの国にも今はそうしたわかりやすい対立軸はないのが実情です。日本だけが生み出せていないわけでもなければ、政治改革をやったから生み出せていないわけでもない。もちろん、やらなかったら対立軸が生み出せていたということも有り得ない。今わかりやすい構図の対立軸を示しているのはほとんどがポピュリストでしょうが、これは多くの場合に虚偽に近い構図ですから。

 政治改革は、基本的には決め方の改革でした。私はこのことを、料理を盛り付けるお皿に喩えられると思っています。政治改革は新しいお皿をつくったのであって、そこに盛り付ける料理までは決めていません。もちろん、和食器には和食といった想定はあるにしても、実際に提供された料理が想定と違っていても構わないはずなんですね。多くの有権者は、政治改革という新しいお皿づくりを支持したときに、出てくる料理も一緒にイメージしたのだと思います。しかし、実際に出てきたのは想定した料理とは違っていて、本来の姿ではないと受け取った。だから、「つくったのはお皿だけです」と言われると釈然としないということなんでしょう。

 気持ちは良くわかるんですね。そもそも、改革がお皿だけをつくる作業だったことが認知されていないし、そこにのっている料理が自分の気に入らないものであれば、いっそう文句を付けたくなる。お皿の広告を見ていると、「盛りつけ例」とか「料理は商品には含まれていません」という断りがされていたりしていますよね。だから、政治改革にもああいう断りが最初から必要だったのかもしれません(笑)。

清水 改革の政治的コストが大きかったので、「システムを変えたのに新しい料理が出てこないではないか」という不満はあって当然という気もします。それ以前の自民党政治は、一応政策の競争をしていましたから、ある程度国民の支持を得られるような政策を立てることで多数派を形成していったところがありますね。

待鳥 そういう意味で言えば、やはり「新しい料理」を出そうとしない、今の野党のありかたには問題が多いと思います。外交・安全保障に主張の重点を置き、かつての社会党と似た主張を繰り返す政党のままでは、いつまでも自民党を脅かすことはできません。お皿が気にくわないと言っているけれど、お皿にのっている料理は有権者の力で変えることができるはずだし、それが政治改革の狙いだったわけですよね。「安倍政治を許さない」バッジを付けるような人たちは「制度改革で二大政党制の時代がくると言っていたのに、逆に自民党の独裁、安倍の暴走じゃないか。嘘じゃないか」と批判します。けれどもそうなった理由は、あなたたちが「安倍政治を許さない」だけでいつまでもやっているからで、「許さない」ための最善の方法は代わる人を首相の座に就けることなんですよ、とは思いますね。

清水 それも彼らの主体性だと言うこともできる。

待鳥 もちろん、そう考えることもできます。ただ、そこにあるのは慣性や惰性ではないかという気もします。新しい物事や状況を慣れ親しんだ思考の回路に落とし込んで、それで事足れりとしてしまう。有権者の世代交代が終わるまでは、こうした状況は続くのかもしれませんね。政権交代の記憶がなくなるのが早いか、世代交代が終わるのが早いか、野党とその支持者は時間との競争だという意識を持ったほうが良いでしょう。

現在の野党は政権奪取を本気でめざしていない

清水 台湾では政治腐敗がありながら国民党への支持が根強くありました。最大の理由は、「国民党の時代は経済成長していた」というポジティブな記憶です。実際には政策よりも人口ボーナスによる必然的な経済成長と見ることもできます。自民党に対しても、そういう記憶を持っている人たちは多いですよね。民進党に代わるまでの間に16年の時間がかかったのは、経済成長に変わる政策軸が見えてこなかったからだとも言われます。日本の野党も、現状、新しい対抗軸が未成熟であり、従来からある論点に留まってしまうから新しい政策も出てこない。

待鳥 かつては、自民党がローポリティクス(通商・経済を主要なテーマとする)をやってくれるから、社会党の議員は外交や安全保障で批判票を稼げば良いという構造ができ上がっていたわけですよね。私はそういう批判票狙いはズボラだと思うんですが、中選挙区はそういう人たちを生み出し、生き残らせる選挙制度ではありました。支持者も、野党を支持していても、その政党には政権担当能力は必要ない、具体的な政策は自民党と官僚に任せておいたほうが良いと思っていたりしたわけです。

 政権担当能力というのは、実際にはそんなに強い概念ではありません。民主党が一時期良かった時には彼らに政権担当能力があると判断して、有権者は投票しました。政権を獲得しそうな雰囲気が出てくると、政権担当能力への評価も上がる面がある。

 ただし、今の時点では自民党以外の政党が政権を担当できることを認める人が少ないことは間違いない。民主党が政権を失った後、その多数派を継承した立憲民主党が、外交・安全保障での政権批判票を取りに行って安住した感があるのは、ほんとうに惜しまれます。国民民主党は、旧民社党に似てきていますね。政策面の実行可能性は小さくないが、どうにも信用されなくて支持率が低い。立憲民主党との合流問題で主導権を握れなかったのも、支持されていないことが大きな理由でしょう。

清水 政策自体も自民党に食われてしまっていますよね。

待鳥 良い政策を提言しても、すぐに自民党に取られてしまっている。議員個々人の能力は高いと思うのですが、どの有権者に何をアピールするのかという戦略面では、立憲民主党に後れを取っていますね。

善教 将大・関西学院大学法学部准教授

善教 アカウンタビリティの側面は、だいぶ改善されたのではないかという気はしています。2009年には民主党がある種の不満の受け皿として機能して政権交代を果たした。けれども、民主党は期待に応えることができなかった。その結果として、2012年に自民党に負けたことは、きちんとアカウンタビリティが機能していたという意味では改革の成果だと言える。

待鳥 そこは私も全くもって同意見ですね。代議制での説明責任の取らせ方というのは、最後は権力を奪うことなんです。たとえばコロナ対策など有権者の関心が高いテーマについて、今の政権の政策がうまく行っているわけではないですし、2009年と12年の記憶はまだ残っていますから、適切な受け皿があれば、有権者は現政権以外の選択も考えるはずです。にもかかわらず、現在の野党は受け皿になることを本気でめざしていないのではないか、という印象すらある。これは改革の成果という点では後退です。

 野党の分裂を招いたのは並立制に一因があることは先ほど申し上げましたが、参議院を改革できなかったことも痛かったですね。参議院改革の議論もまったくなかったわけではないんです。1990年に出された「第8次選挙制度審議会」の答申のなかにも少し触れられていますが、そこには「現行の選挙制度には問題がある」といったことが書かれています。けれども、何のために参議院の選挙制度を変えるのかという目的については言及されていないし、衆議院との連動性の観点で考えられたことは過去にもほとんどないんです。ここに踏み込もうとすると、必ず憲法問題になるので、そこから先は同意形成が不可能になるんです。

 以前、朝日新聞におられた薬師寺克行さん(現在は東洋大学教授)が中心になって政治家にインタビューするプロジェクトに入れてもらって、政治改革を担った何人かの政治家に話を聞いたことがありました。その際にある政治家は、参議院改革については「時間とエネルギーがなかった」とはっきりおっしゃっていました。

 それもあるでしょうし、衆参両院で自民党多数の時代が長かったので、参議院の問題がよく見えていなかったこともあったでしょう。その後は今の言葉で言う「ねじれ」を経験していますが、1989年にねじれた後も、あの時点ではまだ民社党、公明党との協調路線を強めていましたから、参議院でも自公民が多数派を事実上つくることができた。2000年以降に見られたように、衆議院側の野党勢力が大きくなって、そのことが場合によっては参議院選挙にも影響して与党側が大敗することがあるとは想定していなかった。

清水 研究者の間でも参議院改革はほとんど俎上には上がっていませんでした。90年代には参議院の「カーボンコピー論」という表現もありましたね。

待鳥 カーボンコピーという言葉も古いですよね。もう何十年もカーボンコピーなんて使われなくなっているのに、未だにこの言葉が使われることがある(笑)。関心が薄かったことの表れなんでしょうね。

政治学は今の社会にどのような貢献ができるのか

清水 せっかく分野の違う政治学者が3人集まっているので、最後に今の政治学が果たせる役割について考えてみたいと思います。

待鳥 平成の政治改革において、政治学の経験分析(実証分析、データや史料に基づいて因果関係を解明する分析)の貢献は、意外に小さかったのだと思います。むしろ貢献は理論分析の側から出ていて、佐々木毅先生が1987年に出版された『いま政治になにが可能か』という本が、改革の指導理念を提示したという意味で大きかったと思います。経験分析をしてきた政治学者は、第8次選挙制度審議会に入って小選挙区制を主張し、改革案作成に貢献しました。ただ、経験分析から直ちに特定の選挙制度が望ましいと言えるわけではないので、その主張そのものは学術的というより個人的なものに近いと思いますが。

 当時と比べれば、政治制度についての理解は深まっているので、今もし同じような改革をするならば、政治学が貢献できることは遥かに多いでしょう。選挙制度にしても地方分権改革にしても、他国の例も含めて知見が蓄積されていますから、今の政治学は当時よりも精度の高い提言ができるはずです。

 けれども、今はそもそも国民の多くが政治制度に関心がない。そこが最も大きな違いではないかと思います。また、日本の政治全体が党派化しているということなのでしょうが、改革は党派的目的のためにあるものだという考え方が強くなりすぎてしまったので、学術的知見を活かすのはさらに難しい面があります。特定の政策の方向性──新自由主義でも社会民主主義でも何でも良いんですが──を実現するために政治学の知見が用いられている、と受け止められてしまっているわけです。そういう受け止めがなされるようになると、いかに学術的に確かだとされることを提示しても、まともに聞いてもらえない。

清水 むしろあちらの文脈で理解されてしまうこともありますね。

待鳥 インターネットが出てきて、SNS全盛の時代になってその傾向が一気に高まりました。私には、SNSはもうすべて結論ありきの世界のように見えますね。

善教 そうですか(笑)?

待鳥 SNSは基本的に短い文章でのやり取りだから、議論を深めるのは難しい。それにネット上には、短くてインパクトのある言葉で相手や読み手を騙すようなフレーズが溢れている。政治家がこうした印象に残るワンフレーズを演説に用いるテクニックを「サウンド・バイト」と呼びますが、ツイッターの世界なんかはまさにサウンド・バイトの応酬でしょう。

 そうなると、どういう結論や政策にするかという話とは離れて、決め方についてはこういう方法のほうがいいんじゃないのか、といった制度に関する議論にはほとんどみんな聞く耳を持っていない感じがしますね。こういう時代には政治学が貢献できることは非常に少ないのではないか。悲観ばかりするわけではないけど、そういう気持ちになることはありますね。

清水 政治学の様相もずいぶんと変わってきましたよね。2000年ごろから、政治学のテキストがずいぶん整備、更新されました。公共政策学の領域も充実しました。若手の官僚と話をしていると、こうした新しい政治学がベースになってきていることを実感します。今の学生も公共政策学をきちんと理解しています。その結果、役所のなかで2000年あたりを境にして世代の断絶があるように思います。

 2001年の中央省庁の再編以降の世代は、メンタリティもずいぶん違いますよね。2000年以前の官僚は、自分たちが政策をつくっていくという考え方を持っているのに対して、再編後に入った人たちには、政策は上から「降ってくる」という認識が強いように思います。しかし、彼らにはむしろ具体的に政策をつくる専門知がある。もう少しして、2000年以降に入省した世代の活躍の場が広がることで、政策形成に変化が生じるのではと期待しています。

善教 コロナの渦中で一番びっくりしたのが、西浦博先生(京都大学大学院教授)などの論文を出すスピードです。この数カ月でどれだけ書いているのかと驚きました。それに比べると、僕らはお金もなけりゃ人材も少ないですから。英語の雑誌に論文を載せるにしてもずいぶん時間がかかってしまう。ちょうど今書いている英語論文は、もう3年くらい格闘し続けています。

 自然科学系の人たちのように、世の中に役立つ発見を自分が示せるのだろうかと考えると、本当に自信がないですね。僕の研究なんてそもそも誰も聞いてくれないと思ってしまうこともあります。それよりもむしろ、きちんとした研究の成果ではなくて、印象論的に語っている論者の意見のほうが勢いや説得力を持って世の中に受け止められていたりします。

 そういう意味でも、政治学をどう役立てるのか、という話をする時にはしんどい思いがありますね。政治学は、分野が細分化してしまっています。僕はやはりミクロなところをどんどん詰めていって研究していって、その成果を後世に少しでも残していくという発想がどうしても強くなっています。けれどもそれは、世の中の関心や要求からはちょっと分離している気もしていますから、個々のパーツをまとめて全体としてどういう理解を示せるのかといった仕事も重要だと考えています。

 まさに今回の待鳥先生の業績のように全体像を示すような仕事をする方がいないと、これはどういう話なのかというところが見えづらくなります。結局は、この研究は何に役立つのかわからないという話にもなりかねない。ですから、細部にこだわった個々の知見をうまくピースとして全体のなかに当てはめる研究や、そうした役割をする人が今後は大事になってくる気がしますね。

いつまでも何十年前と同じ枠組みであるはずがない

待鳥 政治学も細分化なり厳密化が進んでいくと、サイエンス・コミュニケーター(非専門家に対して科学的なトピックを伝える役割をする人)のような存在が必要になるのでしょう。最先端の知見があるとして、それが今までの研究とどのように違っているのか、どういう点で一般の人にとって意味があるのか、それを説明する人が出てこないといけないのだろうと思います。ただ、人員もお金もないという場合には、キャリア上の分業としてやるのがいいかもしれない。ある程度、年齢が上がってきた人たちがそれを引き受けるわけです。どの分野でもそうした分業は見られますよね。

 政治学は、ミクロで厳密な研究のみが隆盛して、発表形式も英語での論文のみという方向に突き進むのはよくないと私は考えています。研究としての深化と社会との接点維持は、政治学にとっての車の両輪でなければならないと思います。難しくなっている面はあるにしても、政治学の知見は政治にも行政にもメディアにも影響を与え得るわけです。間接的・断片的かもしれないけれども、政治学の知見に依拠して行った決定が、人々の生活に大きな影響を与えることにもなる。だから、社会との接点の持ち方について、もっと意識を向けなければならないと思っているんですね。そのことを意識せずに全員がミクロな研究に没頭していたら、分野としては衰退しかないのではないか。

 他方で、厳密だが部分的な研究もどんどんやっていく必要はあります。丸山眞男が日本の政治を「無責任の体系」だと表現していましたが、彼が初めに使ってから50年以上経ってようやく、日本政治を語る際に、こうした言葉がほぼ使われなくなりました。もっと明晰で、国際比較や時系列の比較に耐える概念が使われるようになったからです。それは明らかに、ミクロで緻密な研究の蓄積がもたらしたプラスの効果です。政策論争には論理性以外の説得力も関係しますから、学術的な妥当性がある見解が優先されるとは限りません。そこはやや虚しいところだけど、政治学が直接的には影響を与えなくても、根拠がない話をしないとか、いつまでも何十年前と同じ枠組みであるはずがないとか、そういう原則は打ち立てていけるはずだと思います。

 ただ残念なことに、今はなんとなくその機運がしぼんでしまった感があります。何が原因で、どこが一番深刻なのかはよくわかりませんが、ひ<ょっとしたらちょっとしたところでお金を出し惜しむことが習慣のようになってしまったことがその背景にはあるのかもしれません。先ほど、緻密な部分分析と社会との接点は車の両輪と言いましたが、政治学に限らず、両方を維持するには人とお金が必要なんですね。今はそれがない。

 民主党政権時代に、「コンクリートから人へ」なんていう議論がありました。あの時は「人にお金をつける」という話があったのかもしれませんが、その前に「とにかくコンクリートをやめます」というところで終わってしまった。自民党に政権が戻ってからは「人からコンクリートへ」という感じもまた強まっていますし、人文社会系にはお金を出す雰囲気がほとんどありませんから、厳しいところですね。

第二次安倍政権をどう総括するか

──「対話」収録後、安倍首相が持病を理由に辞任することを表明した。第二次安倍政権への評価をいただいた。

待鳥 第二次安倍政権の特徴としてまず挙げられる7年8カ月に及ぶ長期政権になったこと、官邸主導による政策決定が顕著に見られたことは、いずれも1990年代から進められた政治改革の帰結だと言える。

 小選挙区中心の衆院選挙制度により野党を圧倒し、与党内部でも集権的な意思決定を行った。また、行政改革により強められた官邸の権限と人員を全面的に活用して、首相の意向を反映した政策を展開した。自民党の長期政権という意味で55年体制への回帰に見えるかもしれないが、その内実は全く異なる。むしろ、第二次安倍政権は55年体制を壊した政治改革の申し子だったのである。

 同時に、多岐にわたる政治改革ゆえに生じていた不整合や未着手が生み出す問題に対処できたことも、第二次安倍政権を支えた。政権発足直後に黒田東彦氏を日銀総裁に任用して独立性を抑えこんだこと、2013年参院選で「ねじれ」を解消したことで、政策過程において拒否権を持つ部門を封じこめた。アベノミクスや安保法制といった主要な政策は、日銀の独立性が重視されたり、衆参が「ねじれ」の状態にあったりしたならば、進めていくことはできなかったはずである。

 そして、最後には政権も政治改革の帰結に足元をすくわれることになった。いわゆる森友・加計問題などは、官邸への権力集中が負の方向に作用すると政策過程の透明性が失われる危険性を示した。新型コロナウイルス感染症への対応では、集権化されすぎて多様な考え方が入らなくなった官邸の迷走と、地方分権改革の結果として独自性を強めた地方自治体との連係の拙さが目立った。

 今後、政治改革が何をもたらし、いかなる課題が残されているのかを考える上で、第二次安倍政権は格好の検討材料になると言えるだろう。

善教 日本憲政史上、通算在職日数が最長となった安倍政権が幕を閉じようとしている。この長期政権をどう総括するかは、人あるいは立場により異なる。ただ、事実として指摘しなければならないのは、たとえ消極的であっても、多くの有権者が中長期にわたり支持し続けたということだ。無論それは多くの論者や識者が様々な観点から安倍政権に批判を浴びせ続けても、である。この安定的支持なくして長期にわたり政権を維持し続けることは不可能だったように思われる。有権者の無知を嘆く声もあるが、これらは単純に、そうでなければ自身の認知的不協和を解消できないことを吐露しているに過ぎない。なぜ問題があることを理解しながらも、多くの有権者は支持し続けたのか。なぜ他の選択肢に魅力を感じなかったのか。有権者が支持していたのは安倍という個人か、それとも自民党が培ってきた経験か。多くの謎(puzzle)を生み出した政権。安倍政権を一言で総括するなら、そのようになるのではないだろうか。

清水 8月24日、第二次安倍政権は連続在職日数で佐藤栄作政権を越え、歴代1位となった。

 多様性が広がりニーズが溢れかえる現代社会のなか、なぜここまで続いたのか。しばしば指摘されるのは、支持率が下降したタイミングで総選挙を行うという「奇策」である。それは前政権の記憶が国民に残るなかで奏功した。一方、14年の解散総選挙によって13年の参院選後に生まれた「選挙のない3年間」を自ら潰し、大きな政策転換の機会を失ったとも評される。政府全体をカバーする電子システムの整備、議会制度改革といった積み残しも目立つ。

 しかし、待鳥書が示したとおり、この7年9カ月は1980年代からの政治改革をまとめあげる性質を持つものであり、多分野で改革が進んだことも事実だ。その意味では社会構造変化に対応すべく改革を進め、沖縄返還をはじめ外交でも実績をあげて長期政権となった佐藤内閣と共通する。とりわけ、佐藤政権が楠田實(政治評論家、佐藤首相の首席秘書官を務めた)らの「Sオペ(佐藤オペレーション)」を駆使してチームによる改革に取り組んだことと、安倍内閣が官邸に編成されたチームを軸に改革を進めた手法は大きく重なる。

 長期政権のもと大臣や官邸スタッフが維持されて経験を積んだことは、国際政治の場を中心に有効に機能した。それは同時に、次の世代が育てられていないことも意味する。佐藤政権のあとも混乱が続いた。中央省庁再編、官邸機能の強化から20年。公務員制度を含め、もう一度、足元を見直す時なのではないだろうか。(終)

待鳥 聡史・京都大学大学院法学研究科教授
まちどり さとし:1971年福岡県生まれ。京都大学大学院法学研究科博士後期課程退学。博士(法学)。大阪大学大学院法学研究科助教授などを経て、2007年より現職。著書に『政治改革再考:変貌を遂げた国家の軌跡』『代議制民主主義』『首相政治の制度分析』『政党システムと政党組織』など。
清水 唯一朗・慶應義塾大学総合政策学部教授
しみず ゆいちろう:1974年長野県生まれ。慶應義塾大学大学院法学研究科政治学専攻博士課程単位取得退学。博士(法学)。専門は日本政治外交論。慶大総合政策学部講師、同大准教授などを経て2017年より現職。著書に『近代日本の官僚』『政党と官僚の近代』など。
善教 将大・関西学院大学法学部准教授
ぜんきょう まさひろ:1982年広島県生まれ。立命館大学大学院政策科学研究科博士課程後期課程修了。博士(政策科学)。専門は政治意識論、政治行動論、政治学方法論。関西学院大学法学部助教などを経て現職。著書に『維新支持の分析─ポピュリズムか、有権者の合理性か』『日本における政治への信頼と不信』など。
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