『公研』2021年6月「めいん・すとりいと」

 この春からサバティカル休暇をいただいてベルリンにいる、はずだった。この記事もドイツから見た日本を書くことになっていた。しかし、いま私は日本にいる。思うようにはいかない。

 気持ちを切り替えて、自宅の机で100年前の資料に向き合っている。1918年に第一次世界大戦が終わり、国際政治は実力重視の旧外交から、価値重視の新外交へと変わった。二国間外交に代わって、国際連盟に代表される多国間交渉が秩序をかたちづくる。時代の転換点だ。

 1919年には民族自決の思想が浸透した。中国はもちろん、日本の統治下にあった朝鮮や台湾でも民主化を求める声が大きくなる。内地でも男子普通選挙と婦人選挙権運動が広がっていく。

 もっとも、この国の人々は大戦景気に湧いていた。1920年にごく短い不況があったが、すぐに大正バブルが訪れた。政府は多額の公債によって市場にだぶつく資金を吸収し、公共事業に投じていく。よかった、恐れていた不景気はこなかった。そう安心したころ、戦後不況がやってきた。

 それにスペイン・インフルエンザの第二波、第三波が追い打ちをかける。ああ、100年前も人々は思うようにいかない時を過ごしていたのかと、すこしホッとするのは罪だろうか。

 令和からの安直な共感をよそに、当時の感染は猖獗を究めた。首相が感染し、元老の山県有朋は生死の境をさまよった。鹿鳴館の華ともてはやされた大山捨松は女子教育の確立に奔走するなかで、西洋建築のパイオニアである辰野金吾は国会議事堂の設計コンペのさなかで命を落とした。混乱が窺われる。

 政権を担ったのは原敬である。初の本格的政党内閣を組織したことで知られるが、利益誘導に長け、権力におもねり、民衆を顧みず、遂には命を落としたと、その評価は長らく高くない。

 いかにも古い、高度成長期に流布した「力の政治家」のイメージである。彼が自らを力強く鼓舞した日記が残っていることが、戦後日本政治とあいまって、このマッチョな像を定着させた。そんな人物が「平民宰相」と歓迎されるだろうか。

 彼は盛岡藩の家老格の家に生まれながら、戊辰戦争で敗者の悲哀を味わった。受験に二度落ち、ようやく入学した学校は退学させられた。

 なんとか入社した新聞社では経営陣の交替により隅に追いやられ、転職先も半年で辞めた。官界に潜りこむと賊軍の子と見下され、政党に転じると官僚臭がするとさげすまれた。

 そこから這い上がっただけに、原はよく人の苦労に寄り添い、気持ちを掴んだ。困窮する者には生計の道を開き、障害のある者には手厚く接した。政治参加を求める婦人たちの活動も支援した。

 しかし、そうした柔和な顔を見ていたのは、半径5メートル以内で親しく接した人だけであった。自分に厳しい彼は、強い政治家であろうとし、批判されるとかえって強情に返してみせた。

 日本はフォロワーシップの国である。強いリーダーより堅実なフォロワーが後押しする社会だ。原はフォロワーに頼らずリーダーシップで押し通そうとした。政権をめざす闘将としてはそれでよかったが、国民のリーダーとしては物足りない。

 原がその限界に気付いたのは1921年のはじめであった。国民とともに歩む。そう決めると新聞や雑誌を通じて盛んに国民に語り掛けるようになった。彼は名実ともに平民宰相となった。

 春には皇太子が訪欧して各地で大歓迎を受け、夏には緊張関係にあったアメリカから軍縮会議の誘いがきた。インフルエンザも終息し、未来が見え始めていた。

 それから100年、平民宰相の矜持は今も日本の民主主義を見つめている。リーダーとして、フォロワーとして、100年前の教訓は多い。慶應義塾大学教授

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