『公研』2024年10月号 第 656 回「私の生き方」

 

 

翻訳家 元神戸市外国語大学学長

木村榮一


きむら えいいち:1943年生まれ。神戸市外国語大学卒業。同大助手、助教授、教授を経て2005年8月から2011年3月まで神戸市外国語大学学長を務める。同大名誉教授。スペイン語圏文学の翻訳家として多数の翻訳書がある。著書に『翻訳に遊ぶ』『ラテンアメリカ十大小説』『謎ときガルシア=マルケス』など。翻訳した主な作品としてホルヘ・ルイス・ボルヘス『エル・アレフ』、フリオ・コルタサル『遊戯の終り』、ガルシア=マルケス『わが悲しき娼婦たちの思い出』『コレラの時代の愛』、マリオ・バルガス・リョサ『緑の家』、フリオ・リャマサーレス『黄色い雨』など。


 

大地主の御曹司から裸同然になった父

──1943年大阪のお生まれです。ご実家はどんなお仕事をされていたのですか?

木村 幼いころの父は、何万坪もの土地を持つ大地主で、米問屋の御曹司だったんです。小学生時代は「夏休みになると先生がたを人力車にのせて、浜寺という保養地にある別荘まで行って勉強したもんだ」と言っていました。その甲斐あって、大阪の名門校・明星中学に進んだんですが、祖父がいろいろな事業に手を出しては失敗したり、人にだまされたりして結局財産をすべて失い、裸同然で家を追い出されたそうです。そのせいで中学生だった父は学校を中退して家族を養う羽目になり、「どんな仕事でもこなしたが、中にはとんでもなくつらい仕事もあった」とよく言っていました。

──ボンボンからいきなり過酷な労働をすることになったわけですね。

木村 父の逞しさ、強さはたぶん子どもの頃に「明治7人斬り」事件で名を馳せ、逮捕後は瀬戸内海の離島に島流しされた人に剣術の指導を受けたからだと思います。その剣術家が刑を終えた後、大阪にきて実家の近くにあった理髪学校で剣術を教えていたんです。その方の凄まじいまでの剣術の指導と考え方の影響を受けて、体力はもちろん胆力も鍛えられたんでしょう。

 父の話では、一杯飲んでご機嫌になると、師範は「ぼうず、そばへ来い。見とれよ」と言うと、一方の手に竹の箸を持ち、もう一方の手に紙縒りを持って、その紙縒りで箸をぴしりと打つと真二つに折れたそうで、「あれはすごいものだった」と晩年になってよくその話をしてくれました。学校のほうは結局中学を中退し、以後さまざまな仕事に就いて懸命になって一家を支えたそうです。

 ぼくは戦時中の昭和18年に生まれました。近くに爆弾が落ち、母親がそれに驚いてぼくを産み落としたと聞いています。体重2キロ弱の未熟児で、お祝いに訪れた父の友人たちは、口をそろえて「こんなに小さいと、とても育たんやろう!」と言ったそうです。

──お母様はどんな方でしたか?

木村 母は引っ込み思案で、おとなしい人でした。ですが、一方で負けず嫌いで気の強いところがありましたね。ぼくは末っ子ということもあって、母には本当にかわいがってもらいました。大和三山に囲まれた橿原神宮に近い村の生まれで、母の父親は宮大工をしていました。子どもの頃は村でも評判の秀才で知られ、担任の先生は上の学校に進学させるよう説得したんですが、両親は経済的な理由から進学させなかった。それで祖父は拗ねてしまったんですね。

 宮大工としての腕は確かだったんですが、とにかく仕事に身が入らない、一日中タバコをふかしている祖父の姿が、今も記憶に焼き付いています。ぼくはそんな祖父に可愛がってもらいました。夏休みになるとよく、自分の娘(ぼくの母親ですが)のところにやってきては無心していましたね。ある時、そんな祖父が小学生のぼくにジュール・ヴェルヌの『十五少年漂流記』を買ってくれたんですが、あれがぼくの文学的な本との最初の出会いでした。ぼくの前に、豊穣きわまりない本(文学)の世界に通じる扉を開いてくれたのは、大和に住む祖父だったんです。

 その頃、ぼくの住む大阪の下町にもあちこちに貸本屋ができはじめたので、足繁く通うようになりました。当時は、岡本綺堂、直木三十五、吉川英治、野村胡堂、柴田錬三郎などの大衆文学の作家をはじめ、シャーロック・ホームズやアルセーヌ・ルパンが活躍する翻訳ものの推理小説もあり、宝の山に入り込んだような気持でしたね。

──ごきょうだいは?

木村 兄が2人に、姉が1人いました。ぼくは末っ子で、しかもかなり歳が離れていました。一番上の兄は勉強がよくできて、ある大学の経済学部を卒業すると、商社に就職して、香港、オーストラリアをはじめあちこちの海外支店を転々としていて、めったに顔を合せることはありませんでした。2番目の兄は気のやさしい人だったのですが、少しおとなしすぎるようでした。父に言われて家具の製造、販売をはじめたんですが、人と接するのが苦手で、セールスがうまくできなくて経営が苦しくなったんです。

 その窮状を救ったのが姉でした。姉は18歳で大きな材木商に嫁いだんですが、旦那というのが甘やかされて育ったのが災いしたのか、どうしようもない道楽者で、結婚して子どもも生まれたというのに家によりつかず、結局姉は子どもを連れて実家に戻る羽目になりました。

 

『罪と罰』に衝撃を受ける

──何ともひどい話ですね。

木村 姉と生まれた子どもはこうして実家に戻ってきたんですが、人生というのはわからないもので、その姉がやがてわが家の救世主になるんです。先にも触れたように、次兄の家具の卸売りはうまくゆかず、借金が重なる一方で父も頭を抱えていました。姉は商売が肌に合ったんでしょうね。「そんなに売れないのなら、私が売ってあげるわ」と言って家を一部改装して家具店を開いたのですが、これが大当たりでした。姉が店をはじめてからは、それまで売れ残っていた家具はもちろん、兄の工場で新しく作った家具や新たに仕入れた家具もどんどん売れていくんですね。まるで魔法みたいでした。

──お姉さんは商才があった。

木村 ただ実家に帰ったばかりの頃はさすがにひどく落ち込んでいて、毎晩泣いていました。心配した父がぼくに、「しばらくのあいだ隣で寝てやれ」と言ったくらいです。姉の部屋で寝るようになってしばらくして、長兄の残していった本棚にドストエフスキーの『罪と罰』というタイトルの本があるのを見つけ、それを読み始めたんです。あれは中学生の頃でしたが、衝撃的な出会いでしたね。まるで熱に浮かされたように読み耽りました。

──『罪と罰』ではどの登場人物に惹かれますか?

木村 ソーニャですかね。ラストシーンに向かうところで彼女の存在感が俄然増していく。そして罪を犯した主人公ラスコーリニコフの考え方を変えさせる。あれは本当に凄い展開ですね。

 ぼくは大学に入ってからも家具店を見事よみがえらせた姉に小遣いをもらって、本を買っていましたし、大学で教鞭をとるようになってからも経済的に世話になりっぱなしでした。

 

「これで刺して来い!」

──少年の頃はどんな子でしたか?

木村 生まれたときは未熟児だったけれども、小学生の4年生くらいから身体が大きくなりはじめたんです。しかし、中学に入ると、相撲が結構強かったのが災いして、番長グループに目を付けられて虐められるようになりましてね。学校に行くのも怖くなったんです。

 ある日、その中のひとりに追い掛けられて、家に逃げ帰ったんです。怖くて台所の隅にうずくまっていたら、父が来て「どうした?」と訊かれたので、「虐められた」と答えたら、台所にあった包丁をつかんでぼくの手に握らせると、「これで刺して来い!」って言うんです。「そんなことをしたら、警察に捕まるよ」と言うと、「そのときは身請けにいってやる」って。

──強烈ですね。

木村 あれが人生で一番怖かった(笑)。「男は一生に一度や二度はどうにも逃げようのない時がある。どうにもならなくなったら、その時は前を向いて死ね。人間はどうせいつか死ぬんやからな」と言われたのを今でも覚えていますね。

 あれから、いざという時はどうしたらいいのかを真剣に考えるようになりました。ああでもない、こうでもないと考えているうちに、人を刺し殺すなんてことはできるわけがない、だったら自分が死ねばいい、自分が死んだつもりになればいいんだと覚悟が決まったんです。すると、不思議と気持ちが楽になって、学校へも行けるようになりましたし、番長グループから逃げ回ることもなくなりました。

 

「何ヘラヘラ笑ってんの!」

──やはり勉強はできたのですか?

木村 まったくできなくて、落ちこぼれの生徒が集まる高校に進学しました。もともと情報を集めるのが苦手で、あまり出来のよくない同級生に進学について相談し、それを鵜呑みにしてしまうので、入学してからが大変だったですね。

 中学の英語の先生は、自分が答えられない質問をされると、ぶちぎれて「キエーッ」と叫びながらチョークを投げるという困った癖があり、ぼくたちはひたすらうつむいて授業が終わるのを待っていたんです。考えてみれば、その先生もほんの少し前まで英語は敵国語だと教えられていたんですから、まともに勉強しているはずがないんで、叫びたくなる気持ちも今ならわかりますね。

 それはともかく、高校に入って英語を勉強することになったのですが、何しろぼくは英語と言えばあの先生の「キエーッ」しか覚えていないんです。そんなぼくに質問する先生も先生です。中年女性の先生だったんですが、津田塾出身の才媛でした。ただ、こちらは何もわからないので、神秘の笑みを浮かべてやり過ごそうとしたんですが、これが裏目に出て徹底的にやられましたね。まず、大阪のスラム街で育ったぼくに歯切れのいい東京弁で、「何ヘラヘラ笑ってんの。あんた、バカじゃないの! そんな態度でこの先どうやって生きていくつもり? 人をバカにしたような薄笑い浮かべて人生の荒波を越えていけるとでも思っているの。ほんとにどうかしているとしか思えないわね」と延々三十分ばかり油を搾られました(笑)。

 普通ならその事件で英語嫌いになってもおかしくないんですが、あの時言われた堀端先生の言葉が心にささり、以後懸命に英語の授業の予習、復習をしました。先生の教え方も実にわかりやすくて、おかげで英語の成績がぐんと上がりました。実は、大学でスペイン語を学びはじめた時も、堀端先生の方式を用いて授業に臨んだんですが、英語を身に付けたときの基礎が活きたということでしょう。

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