『公研』2023年5月号「めいん・すとりいと」

 この春休み久しぶりに台湾に出張してきた。行き先は、台湾海峡に浮かぶ澎湖(ほうこ/ポンフー)諸島。台湾本島の西方約五〇キロ、中国大陸(福建省)の東方約一四〇キロに位置する島嶼群である。大小六四の島々から成り、複雑な海岸線の総延長は三〇〇キロを超える。豊かな自然と独特の文化を持つため、台湾では観光地として人気があり、台北や高雄から飛行機で簡単に行くことができる。

 澎湖諸島は、日清戦争後(一八九五年)に締結された下関条約によって、台湾本島と共に清から日本に割譲され、一九四五年まで日本領であった。そのため、諸島内には日本統治時代の史跡が数多く残されている。例えば、中心都市・馬公にある澎湖県政府(県庁)の建物は、一九三四年に日本が建てた旧澎湖庁舎を引き継いだものである。近くには、旧澎湖庁長官官舎も残されている。この建物は現在澎湖開拓館という博物館になっており、同諸島の歴史が分かりやすく展示されている。この他馬公市内には、旧貴賓館、旧税関、旧郵便局、旧日本軍宿舎などもある。

元澎湖庁長官舎。現在は澎湖開拓館として公開されている(筆者撮影)。

 これまで私は、台北、長春、瀋陽、大連、青島、ユジノサハリンスクなど、日本統治時代の建物が残る都市を少なからず訪問してきた。馬公に残されている史跡は、それら大都市のものに比べて小規模ではあるものの、大変よく保存されており、負けず劣らず魅力的であった。近年澎湖県は観光開発に力を入れているが、現在のところ日本人観光客が多数訪問する観光地とはなっていない。今後日本・台湾間の相互理解促進のためにも、これらの史跡がより積極的に活用されることを期待したい。

 澎湖諸島には、軍事関係の史跡も多数残されている。これは、同諸島の地政学的条件と密接に関係している。古来同諸島は、台湾本島攻略のための軍事拠点として重視されてきた。一四一七世紀、同諸島は倭寇や海賊の活動拠点であった。一七世紀に東アジアに進出したオランダは、同諸島を台湾支配の足がかりとした。明の復興を目指して中国大陸から逃れた鄭成功も、同諸島を拠点としてオランダを駆逐し、一六六一年に台湾に鄭氏政権を築いた。その後同諸島は清が支配したが、清仏戦争(一八八四八五年)の際には、フランス軍が同諸島に侵攻した。一〇年後の日清戦争に際しては、日本海軍が同諸島を占領し、その後馬公に要港部を置いて軍港として活用した。澎湖諸島には、オランダや日本が築いた城堡や砲台、フランス軍人の殉職記念碑、日本軍上陸跡地の記念碑などが残されており、こうした歴史を偲ぶことができる。

澎湖諸島最南端に位置する七美島の南海岸。台湾軍の通信施設が存在する(筆者撮影)。

 このような澎湖諸島の地政学的条件は、今も変わらない。第二次世界大戦後台湾に逃れた蒋介石政権は、日本軍が同諸島に遺した軍事施設を継承した。現在同諸島は、台湾海軍の拠点であり、地対空ミサイルや早期警戒レーダー基地も配備されている「国防の最前線」である。同諸島の防衛の実態は、三月三一日放映のNHK「国際報道2023」でも紹介されたが、私も澎湖本島で何度も戦車や装甲車を目撃し、現地が緊迫している様子を感じた。台湾は、実効支配している離島が中国から侵攻された場合、大陸に近い金門島、馬祖島や南沙諸島に属する太平島は放棄するが、澎湖諸島では徹底抗戦する方針であると伝えられている。だとすれば、台湾有事が発生した時、この美しい島々は戦場と化すことになる。そうならないことを祈るばかりである。

京都大学教授

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