『公研』2022年11月号「めいん・すとりいと」

 

 第一次安倍内閣以降、日本は「自由と繁栄の弧」「開かれたインド太平洋」を基本方針として掲げるなど、普遍的価値に基づく「価値観外交」を推進していると言われる。逆に言えば、従来日本外交はあまり価値観を前面に出すことはなかったと見られることが多いが、実際のところはどうだったのであろうか。

 第二次世界大戦以前の日本外交においては、大東亜共栄圏構想を掲げた第二次世界大戦期を除いて、政府が普遍的価値を掲げることは多くなかったという理解が一般的である。かつて入江昭氏は、『日本の外交』(中公新書、1966年)において、近代の日本外交は「抽象的な思想」が欠如した「無思想の外交」であり、「政府が道徳論や感情論を避け、地道に懸案の処理をはか」ろうとしてきたのがその特色であったと指摘した。

 「政府の現実主義、民間の理想主義」、すなわち政府の外交方針がほとんど常に現実主義的であったのに対して、民間のそれはほとんど常に理想主義的であったというのが、入江氏が提示した有名な見取り図である。

 日本が対外戦争への勝利によって海外領土や権益を拡大し続けたことを考えれば、入江氏が指摘した通り、近代の日本外交はきわめて現実主義であったと言い得る。しかしそれは、日本政府が「無思想」ないし現実主義一辺倒だったということにはならない。むしろ、当時圧倒的に強い影響力を有していた欧米列強からの支持を得るため、日本政府がしばしば積極的に彼らと共通の価値観を持つことをアピールしていた点は注目に値する。日清・日露戦争に際して発せられた開戦の詔勅では、日本が「文明」化を目指している国家であり、国際法を遵守しながら戦うということが謳われていた。日露戦争中日本は金子堅太郎をアメリカに派遣し、当時高まっていた黄禍論に反駁すると共に、日本が文明国の一員であること、国際法を遵守して戦争を行っていること、満州において門戸開放を擁護するつもりであることなどを訴え、成功を収めた。日露戦争は、ある意味では日本が官民を挙げて価値観外交を実践した初めての戦争であったと見ることができる。

 日本政府のこうした動きの背景には、当時の最高実力者・伊藤博文の考え方が反映されていたというのが私の見方である。伊藤は、日露戦争後、中国大陸への領土的発展は極力抑制すべきだという明確な志向を持っていた。また、イギリス、アメリカという海洋国家との連携を重視し、商工業の振興と通商貿易の発展を図るという点でも一貫性があった。伊藤はしばしば韓国併合の立役者と見られるが、近年の研究では、韓国併合に対しても消極的で、極力「保護国」にとどめようとしていたことも明らかにされている。伊藤は、帝国主義という当時の思潮の枠内で、可能な限り非軍事的発展とアジア諸国との経済的提携を追求した政治家であった。このような考え方は、立憲政友会の創立によって議会政治と自由主義を発展させようとした、彼の政治姿勢とも結びついていた。彼の政治構想は、その死後も、立憲政友会に加わった西園寺公望や原敬らに継承されていった。

 戦後の「吉田ドクトリン」ほど明確でも、広く共有されたものでなかったかもしれないが、第二次世界大戦以前の日本外交において、その大枠を規定した「伊藤ドクトリン」的な構想をある程度措定し得るのではないかというのが、私の仮説である。目下「伊藤ドクトリン」という視座に基づいて、戦前の日本外交の通史執筆の構想を練っているところである。

京都大学教授

 

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