『公研』2018年1月号「対話」

奈良岡聰智・京都大学大学院法学研究科教授×清水唯一朗・慶應義塾大学総合政策学部教授

明治元年から150年が経った。明治維新は日本にどのような変化をもたらしたのだろうか。最新の研究報告をもとに考える。

「復古」なのか「革命」なのか「刷新」なのか

奈良岡聰智・京都大学教授

奈良岡 今年は明治元年から150年ということで、明治維新再評価の試みがいろいろなところで行われています。明治維新をテーマにした小説は数多くあるし、NHKの大河ドラマでも何度も取り上げられていますから、日本人はこの時代に慣れ親しんでいる。明治維新という言葉は日本人に根付いていますが、実は英語で翻訳した時には定訳がまだ定まっていないんです。まずは、「維新」にはどのような訳語が相応しいのかという話題から始めたいと思います。辞書には「Meiji Restoration」と書いてあります。「The Restoration」は「王政復古」を意味しますから、天皇が主権者として戻ってきた側面に着目しているわけです。しかし、王政復古は重要ではありますが、あくまで明治維新の中の一つの要素に過ぎません。そういうことを考えると、「Restoration」という言葉だけでは言い表すことができないところがある。

清水 かつて日本維新の会が「Japan Restoration Party」と英語名を付けて、物議を醸したことがありましたね。

奈良岡 「復古党」ですもんね。西洋史に通じた人からすると、非常に違和感のある名前です。

 最近では「Meiji Revolution(革命)」という訳語を使っても良いのではないかと言う研究者もいますし、「Renovation(刷新)」や「Reinvention(再創造)」が相応しいという意見もあります。それぞれ一理あると思うんです。私は「Revolution」を使うことに割と肯定的なのですが、清水さんはどうお考えですか?

清水 私も「Revolution」派でしたが、今挙げられたなかでは「Renovation」が一番しっくりきますね。近年の研究では、明治維新による変化よりも、江戸時代からの連続性が強調される傾向がありますよね。江戸末期に維新のインフラとなるものが醸成されていた。その見方に立つと明治維新は「Major Renovation」というのが相応しいように思います。

奈良岡 いにしえに学びつつ新しいことを行うという「維新」という言葉はまさに絶妙で、あの時代の変革をよく言い表していると思うんです。けれども、その語感は現代の日本人にとっては必ずしもしっくりこない面もありますし、外国人からするとわかりにくいのでしょうね。

清水 ピンと来なくなっているところがありますよね。他方、維新という言葉は、新しいと言いながらも何か危うい含意を持って使われてきたことも押さえておくべきでしょう。明治の後にも「大正維新」「昭和維新」という使い方がありましたが、そこには、それぞれの時代における明治維新のイメージが如実に表れているように思います。

奈良岡 昭和維新の時期は、ともすると明治維新をテロやクーデターを肯定する文脈で取り上げていたように思います。その一方で、昭和初期はマルクス主義の影響力が強い時期でもありましたから、明治維新を「天皇を中心とする絶対性の成立」であると否定的に受け止める議論もありました。

清水 あちらからもこちらからも明治維新への「挑戦」があったわけですね。

奈良岡 左右の色がついたことで、明治維新の意味合いがかえって捉えにくくなるというところがあったかもしれません。戦後になっても、明治維新をネガティブに捉える流れは根強くありました。左側からの議論でいくと、遠山茂樹先生などは、マルクス主義の図式に当てはめて明治維新はどの段階に位置するのだろうかということを大真面目に議論していた。さすがにそういう図式は、冷戦以降は影響力を失ったと思います。

 ただ、そうした評価の仕方はまだ残っていると感じています。最近広く読まれている本に、原田伊織さんの『明治維新という過ち』(講談社文庫)があります。この中で原田さんは明治維新を次のように評価しています。

 明治維新はテロリスト吉田松陰とその弟子たちが起こしたものであって、排外的であるし、外交的にも内政的にも無茶苦茶をやった。彼らの系譜を継いだ山縣有朋や伊藤博文も攘夷派の申し子であり、彼らがつくった明治国家の帰結が、第二次世界大戦での敗北であると。さらには、現代にまでつながる官僚支配やアジア諸国との非友好の遠因になっている、と評価しているわけです。私は最近この本がなぜ売れているのかよくわからなくて

清水 おもしろいですね。現代の明治維新の評価に対する反問ですね。明治100年にあたる1968年に明治百年記念式典が行われましたが、この式典を契機に明治維新や自由民権運動の研究が盛んになりましたよね。当時連載されていた司馬遼太郎の『坂の上の雲』に象徴されるように、戦前の歴史は決して悪いだけのものではなかったというストーリーテリングです。それは、太平洋戦争によって国民が負った精神的な負債を払拭する過程において、日本人にとって必要な処方薬でした。

 けれども、それから50年が経った現在では、サクセスストーリーとしての明治維新はもうお腹いっぱいという感じもあります。だからこそ、明治維新は誇らしい歴史であるという「常識」を打ち破ろうとする反問は、ハッとさせるところがある。現在、私たちが持つ「なぜ明治維新によってつくられた国家が失敗の道を辿ることになったのか」という問いに対して、一つの解を与えるように見えるのでしょうね。

奈良岡 確かにそうかもしれませんね。佐藤栄作政権は、明治維新100年を国家の誇りを取り戻すための一つの契機にするために積極的に活用しました。それに対して当時は、「復古主義であり、戦前への回帰である」という批判をしていた研究者がたくさんいました。こういう言葉はよくないかもしれませんが、そうした左翼の生き残りみたいな人が「昔とったきねづか」で再び明治維新マイナス論をしていると思っていました。今のお話を聞くと、必ずしもそれだけではなく、ある種の新しさを感じて明治維新のネガティブな面に着目する流れもあるのかもしれませんね。

清水 ポジティブに捉えた先にネガティブが出てきているというのは、健全ですね。

奈良岡 興味深いのは、原田さんは続編の『三流の維新 一流の江戸』(ダイヤモンド社)で、明治維新は間違っていたが、江戸時代の日本はすごかったといった江戸礼賛論を展開していることです。先ほど、明治維新の萌芽は江戸時代にあったという話がありましたが、維新を肯定的に見るにせよ否定的に見るにせよ、江戸時代を評価するという点ではコンセンサスができていますね。

清水 海外の日本研究者にも、江戸時代を賞賛する人は多いですよね。264年続いた江戸時代、同時期にヨーロッパが「三十年戦争」「百年戦争」という戦乱にまみれるなかで、日本は平和を保つことができた。それは研究する意味があると彼らは言います。同じような見方で戦後の日本と憲法を高く評価する向きもあります。

 そう考えると、彼らがなぜ「Restoration(復古)」という単語を使ったのかが見えてくる気がします。「Revolution」としてしまうと、江戸時代を否定することになりますから、江戸を否定せずに明治を語るために「Restoration」という言葉を選んだという見方ができるのではないでしょうか。

明治維新は人材登用革命でもあった

清水 明治維新を振り返るうえでは、新政府の基本方針とされた「五箇条の御誓文」を捉え直す必要があるでしょう。第一項「広く会議を興し、万機公論に決すべし」、第二項「上下心を一にして、さかんに経綸を行うべし」、第三項「官武一途庶民にいたるまで、おのおのその志を遂げ、人心をして倦まざらしめんことを要す」、第四項「旧来の陋習を破り、天地の公道に基づくべし」、第五項「智識を世界に求め、大いに皇基を振起すべし」──。一般的には第一項にある「広く会議を興し万機公論に決すべし」が、議会政治や民主主義の入口になったとして高く評価されます。

 私が注目したいのは、第三項です。それは、江戸末期から明治維新にかけての最も大きな変化は人材登用革命にあったと考えるからです。第三項には、皆が志を持つべきとあり、それを実現できる社会がめざされています。ここで示された考え方は、坂本龍馬や由利公正など維新の志士たちが依って立つ時代変革の正統性でもありました。誰もが自分の夢を持つことができる社会をつくるという名目を掲げることで、幕府を倒すことをも正統化したわけです。福澤諭吉は「一身独立して、一家独立して、一国独立する」と言いましたが、そうした理念を強く打ち出せたことには革命に近い意味があったと思います。

奈良岡 清水さんのご著作『近代日本の官僚』(中公新書)でも紹介されていた五箇条の御誓文の新しい解釈ですね。「万機公論に決すべし」という部分だけではなく、明治維新によって身分制が撤廃され、能力主義の人材登用が自由に行われるようになり、社会階層のあり方が大きく変わったことこそが重要であるという見方ですよね。

清水唯一朗・慶應義塾大学教授

清水 江戸末期から能力主義的な価値観が出てきていることは重要ですよね。対外危機にも国内情勢にも今までの家職的な仕事のやり方では追い付けなくなっていて、それに対応するためにも身分にかかわらず有能な人材を登用する必要が広く共有されていました。江戸後期には、幕府でも各藩でもそうした人材を登用するための教育システムを整備していきます。維新の担い手で見ても、西郷隆盛や大久保利通の出現は、鹿児島の郷中教育が産んだものですよね。つまり、明治の人材登用革命は、江戸時代にその基盤が整備されていたわけです。

奈良岡 江戸時代の身分制が、ヨーロッパと比べると緩やかだったことも重要だと思いますね。ヨーロッパは身分制が非常に強固で、貧富の差も大きいし、社会階層の壁を超えることはとても難しい社会だったと思います。日本の武士はヨーロッパの貴族に相当するわけですが、人口比で見るとかなり多い。それに養子もとれる。

 名字帯刀を許されていた者が武士以外にもたくさんいました。身分制は厳しかったけれども、中間的身分がたくさんあって、柔軟さを備えていたとも言えます。そうした江戸時代の人材登用の柔軟性が幕末に拡大して、明治維新以降に大きく花開いたとも言えるのではないか。明治維新は江戸時代にその芽があったという面と、その江戸を壊してやはり「Revolution(革命)」を起こしたという二つの側面がある気がしています。

清水 「Revolution」だとすると敗者が現れますね。

奈良岡 私は東北地方の出身ですから、「敗者の維新」というコンセプトには関心を持っています。明治以降、朝敵として虐げられた東北の諸藩の中から近代日本の建設を担った人材がたくさん出てきます。朝敵とされたことへの恨みを原動力にした人もいたし、見返してやるという気持ちを持っていた人もいる。考え方は多様でしたが、敗者とされた人たちも近代国家の建設に情熱を持っていたことは間違いないでしょう。

融通無碍な明治のエリート

清水 明治政府が最初に大学南校という教育機関をつくった時、そこは明治維新、戊辰戦争の勝者の子弟ばかりで占められていました。それに対して学生たちは、「五箇条の御誓文では、知識を世界に求めよ。皆が志を持って実現せよと言っているのに、敗者の子弟が大学に入れないのはおかしい」という申し立てをしています。その結果、貢進生という全国から学生を集めるシステムがつくられる。東北が輩出した後藤新平や原敬は貢進生でこそありませんが、この時期に確立された専門教育システムの中で頭角をあらわして評価されていった代表的な人物だと思います。

 けれども、この明治の教育システムを敗者の地にいた優秀な若者たちを政府側に取り込む周到な手段だったと見る人もいます。こうした見方は、その後の政府批判や官僚批判につながっていきますね。優秀な人材を地方に残さず、東京に集めて仲間にしてしまう。それこそが官僚政府の最も狡猾な姿なのであるという批判が明治・大正期には現れますね。奈良岡さんはどう捉えられますか。

奈良岡 江戸時代の幕藩体制はある種の連邦国家でしたから、それぞれの藩の中に人材がプールされていました。それがなくなって中央に人材が吸収されるという流れができたのは、その通りだと思います。ただし、単純にそれを官僚批判に結びつけることには、私は慎重であるべきだという考えですね。必ずしも集合体として官僚やエリートというものが存在していたわけではなくて、明治期のエリートのあり方は多様だったと思います。出入りが自由で、政治エリートが経済エリートにもなり、文化エリートにもなった。そして、それぞれの横のつながりもある。

 権力と反権力の関係も融通無碍です。明治14年まで政権の中枢にいた大隈重信が政変で敗れると、彼は反権力の旗頭になります。早稲田大学をつくり、郵便報知新聞をつくり、民権運動を展開して政府批判をする。しかし、1880年代後半になるとまた政権に復帰して、1890年代に初めての政党内閣をつくりました。大隈が代表例ですが、エリートには多様性、多元性、流動性がありましたから、地方からの中央への人材の吸収が単線的に行われていたと見なすのは、やや思い込みが過ぎる気がしますね。

 明治維新の時点での日本の人口は約3000万です。江戸時代は人口抑制を成功させた社会でした。江戸時代前半は、新田開発が進んで人口が増えますが、新田開発がある段階でストップすると人口も抑制します。ここには間引きがあったり、人権が十分ではなかったという問題も絡んでいるわけですが、社会経済としてはそれで安定した。それが明治以降になって近代化を始めると、貿易や重工業化によって富の生産拡大が始まりますから、それに付随して人口も増えた。そうすると、どこの家でも男子だけでも2、3人いるのが普通になります。長男は地元に残って市役所や郡役所に勤めるが、次男坊以降は地元に職がありませんから東京に行って立身出世をめざす。その兄弟が東京と地方で相互に連携していたことは、大事なポイントであるように思います。次男坊だった原敬などは、まさにそうですね。

 当時は多産社会でしたから、地方から中央に人材が出ていくという流れができつつも、地方も含めて社会全体の成長が可能だった。富の分配や情報の共有が比較的うまくいっていた社会だったと見ることもできます。

清水 エリートの流動性が高い。一つの仕事、一つのポジションにしがみつかずに、さまざまな仕事に就くことができた。地元を離れた次男、三男が東京で失敗したとしても、地元に戻ることができた。セーフティネットという言い方はそぐわないかもしれませんが、社会的なゆとりがあったのですね。

奈良岡 明治以降も旧藩意識はまだ強く残っていたし、大正、昭和になっても旧藩の人のつながりが大きな意味を持っていますよね。それが大きく打撃を受けたのが第二次大戦で、総力戦の経験の中で、そういう結びつきが希薄になったからだろうと思います。昭和戦前期までは旧藩意識、旧国意識が同郷の人材をすくい上げ、挫折した人を救済することがよくありました。セーフティネットはある程度当てはまる表現だと思いますね。

清水 明治維新で中央に人を集めたことが地方衰退の原因になったという議論がありますが、明治以降、東京に出てきた人は、そのまま東京に定着するイメージが根付いてしまっていますよね。実際は奈良岡さんのお話にもあったように、東京に出ていった人が地方に戻ることはしばしばでしたし、地元にいる長男と東京にいる次男、三男が密にコミュニケーションをとっていました。

 地方の側は、東京などの大消費地と結びつくことのメリットがよくわかっていた。例えば、長野県の生糸業者と横浜の結びつきなどはまさにそうですね。先進地に子どもを送ることは、情報のパイプをしっかりつくることであって経済活動です。だからこそ、彼らは大都市でつくった人脈を生かすために地元に戻る。彼らが働けるところ、自分たちの志を達せられるところが地方に存在している。

 現在、そうした引力が地方から失われていっています。若い人が地方に戻るインセンティブが薄れているわけですが、地元に戻ってきた人たちを活かす発想で魅力を高め、活性化に成功している地域もたくさんあります。そうした努力を無視して、あたかも人材を中央に集めていることがすべての原因であるかのように語ってしまっていては状況は悪化するばかりでしょう。それは、中央に依存していることを自分たちの言葉で吐露しまっている状態だろうと地方出身者としては思います。

 明治維新の後にも、後藤新平や原敬は、東北はこのままではダメなんだ。政府に助けられるばかりでなく、自分たちが自立してやっていくんだと人びとを鼓舞したわけです。東京に行って維新の精神に触れた人たちが、地方でそれを拡散していく構図ですね。

奈良岡 それが可能だったのは、やはり人口が増えていた多産社会だったことが前提にあったのだと思います。それに比べて現在は少子化社会で、地方が苦しい状況にあるのは間違いのないことです。新たな人材育成の仕組みを作るために頑張らなければならないということでしょうね。

坂本龍馬は「明治維新におけるインターネット」

奈良岡 次に明治維新の時代に活躍した人物たちについて語っていきたいと思います。明治維新期は、ヒーローがたくさん出たことでも特徴的な時代です。「維新の三傑」と呼ばれる大久保利通、西郷隆盛、木戸孝允。あるいは維新前に亡くなった人の中にも坂本龍馬や高杉晋作はじめとしてスター級の人材がたくさんいます。時代環境が人材をつくった側面もあるのかなと私は感じています。

 まずは坂本龍馬を取り上げたいと思います。彼が大人物だったかどうかについてはずっと論争があります。司馬遼太郎がつくり出した虚像だったのではないかという指摘がありますし、『竜馬がゆく』のもとになったアメリカの日本研究者マリウス・ジャンセンの研究も、実証性に問題があるとも言われています。もっとさかのぼると、自由民権運動を展開した土佐派が薩長に封じ込められ思い通りにいかないので、亡くなった坂本龍馬を持ち上げて自分たちの思いを仮託したのだという指摘もあります。15年ぐらい前には、龍馬は薩摩藩のエージェント(代理人)に過ぎず、大した役割は果たしていなかったいう議論が盛り上がったこともあります。最近の研究では、龍馬はそれなりの役割を果たしていたという議論にどうも落ちついてきているようです。

清水 もちろん、いつの時代にも優れた人材はいるわけですが、安定した社会では突出した人材は現れにくいですよね。幕末のように秩序がほころんできた時にはチャンスをつかんで頭角をあらわす場面が増える。坂本龍馬はまさにその典型です。彼は長男ではないし、下士の子です。安定した社会であれば世に出て来なかったでしょう。彼は、剣術で名を挙げて江戸に来た。当時において剣術はエリートになるための一つの方法ですからね。

奈良岡 剣術学校は今の大学のようなものですね。

清水 彼はそこでさまざまな人と出会い、最先端の知識に触れて、情報ネットワークに入りこんでいった。このことは龍馬の成長に大きな意義があります。彼は自分で読んで学ぶより、人と会って新しいことを知り、それを伝えることで人と人をつなぐ役割を果たしているメディアのような人だったと思っています。幕末には、そうした役割を果たす人がいますね。

奈良岡 勝海舟もそうですね。

清水 彼らが活躍できたのは、260もの藩にわかれていた時代にそれをつなぐことができたからです。龍馬は本家が豪商であり、子どもの頃から多くの人間に接する環境で育ちました。彼がメディアとしての役割を果たす能力は、そうした幼少期の環境と無縁ではないでしょう。性格からしても、西郷だと難しいでしょう。坂本龍馬は、「明治維新におけるインターネット」だったのかなと。

奈良岡聰智・京都大学教授

奈良岡 それはキャッチーですね(笑)。確かに陸奥宗光、岩崎弥太郎などいろいろな人が龍馬の周囲にはいました。龍馬が亡くなった後も彼らが龍馬のやろうとしたことを受け継ぎ、語り残したわけですから、やはり人や情報を集める力は尋常ではなかったのでしょうね。

 龍馬が暗殺されなければ、明治以降をどのように生きたかということも、繰り返し問われています。私は木戸や西郷が明治以降はパッとしなかったのと同じように、龍馬もあまり活躍できなかったかもしれないという気がしています。龍馬とは立場が違いますが、近い活動をしていた人物に、同じ土佐出身の後藤象二郎がいます。龍馬も後藤もビジネスと政治の両方に関心があるんですね。倒幕運動をやる一方で、商社もやる。後藤は明治になってからもそれで突っ走ります。土佐商会は岩崎弥太郎に売却しますが、自分でも多くの商売をやるんですね。けれども結局はうまくいかなくて、その負債を岩崎弥太郎に肩代わりさせる。

 自由民権運動の頃になると、今度は大同団結運動を展開してさまざまな勢力を糾合します。ですから、後藤にもメディア的なところがあったと思うんです。けれども、結局これもうまくいかなくて挫折することになる。龍馬が後藤象二郎のような軌跡を歩むことになったかどうかは、もちろんわかりません。ただし、ビジネスと政治を股にかけるような活動は、明治に入ると、継続するのが難しくなった気がするんです。龍馬といえども、幕末期のようにはいかなかったのではないか。

西郷像の変遷

清水 変革期だからこそできたということでしょうか。

奈良岡 そんな気がしますね。明治維新は、維新の三傑はじめ政治家、官僚に焦点が当たりがちですが、私は経済人の役割も大きいと思っていて、岩崎弥太郎、渋沢栄一といった企業家にも着目する必要があると思うんです。政府ができることは限られています。税金を集めて、それを差配する仕組みをつくるまでが国家の役割であって、その中でいかに成長をつくり出すかは、経済人の創意工夫にかかっている。彼らが事業をどのように大きくしたかと言うと、やはり企業として組織化したことがポイントでしょう。

 幕末の頃ならば、素人が集まって今まで誰もやってなかったことをやり、外国人とシェイクハンドして懐に飛び込んでいくだけである程度の成果を上げることができたかもしれません。けれども、おそらく明治になって数年の間で、そうしたやり方では頭打ちになったと思います。そこの壁は非常に高かったのではないか。

清水 龍馬はベンチャー、スタートアップに向いた人材ではあったが、それが継続的な組織になれたかどうかには疑問が残るわけですね。ネットワーク型の人材は物事を壊して新しいものをつくっていくプロセスでは貴重ですが、専門化が進んでいくとあまり役に立たなくなっていくところがあります。どこまでネットワーク型から脱皮できたかどうかが、その後の彼の人生を決めたかもしれませんね。

 大久保や岩崎が明治に入ってからも活躍できたのは、彼らが立場に対する責任を持っていたからだと思っています。責任を持っている人はブレないところがある。大久保は政府をつくることに責任を持っていたし、岩崎は自分の会社をつくり上げることに責任を持っていました。龍馬は、そういう責任がないからこそ融通さを持っていたわけですが、明治の国家建設期に自分が責任を持つ場所を得られたかというところは興味深いですね。西郷の場合も、なかなかその場を見つけられず、ああした最期にたどり着くわけですから。

奈良岡 いずれにしても龍馬は若くして亡くなりましたから、やはりロマンや想像をかき立てられるところがありますね。今後もいろいろなかたちで人々を魅了していく人物であることは間違いないだろうと思います。

 次に西郷隆盛と大久保利通ですが、西郷さんをどう見るか。あるいは彼がなぜ明治維新後にああいう軌跡を歩んだのかは、明治維新を考える上で重要なポイントだと思います。くしくも明治100年の前後に司馬遼太郎が『翔ぶが如く』を書き、その後に大河ドラマにもなりました。そして150年目の今年は、林真理子さん原作の『西郷どん!』が大河ドラマで放送されます。司馬さんが描いた西郷・大久保像と、今回の西郷・大久保像がどのように変わるのかも着目しているところです。

 西郷は、日本的リーダー像の典型と見なされることが多いですよね。太っ腹でどんと構えていて、細かいことは言わない。そして最後の責任はとる。それを体現するようなどっしりとした体格、風貌をしていて、大人風のリーダーだったとされています。実態がどうだったかは問わず、亡くなった後に西郷さんはそういう人物として見られてきました。

清水 「西郷さん」って、何であそこまで人気があるのでしょうね。政治学者の中では西郷よりも大久保のほうが評価されますよね。最近、家近良樹さんの『西郷隆盛』(ミネルヴァ書房)が刊行されて、評判を呼んでいますね。

奈良岡 私も読みました。600ページもあって分厚いですが、ぜひ一般の方にも読んでほしい本だと思っています。西郷さんの史料はあまり残っていないので実像を捉えにくいところがあるのですが、この本は等身大の西郷さんを描いているなと思います。西郷隆盛は虚像化されている部分があって、時代によって西郷像が変化しているのも興味深い。戦前は、征韓論を提唱したところから大陸進出の先駆者という像がつくられました。

清水 肯定的な意味で、ということですか。

奈良岡 そうです。そういう像は戦後には消えてしまいますけどね。自由民権運動の頃には官僚批判、有司専制批判をする人の中に、「西郷が生きていればこんなことにはなっていなかった」と言う人がいました。戦後になると、経営者の間で西郷さんは非常に人気がありますよね。このように二重、三重に虚像化されていくわけです。けれども、実際の西郷さんは何度か自殺未遂をするなど厭世的なところがあるし、大人風の指導者という側面だけでは捉え切れないところがある。

清水 悩みの多い青年だったわけですね。

奈良岡 激情家で人情深いという一般に流布している西郷像は相当程度正しいのでしょうが、それと同時に人とのコミュニケーションがちょっと苦手だったり、太り過ぎて体調不良になって、政治判断を誤ったりするなど人間臭いところがありますね。

清水 貼り出したお腹で、どっしりと座っている大人物風の指導者で、むしろ儒教的な君主像に近い気もしますね。自ら細かく指示を出すのではなく、部下がやってきたことをオーソライズする。長州の毛利敬親に近いでしょうか。西郷が仕えていた島津斉彬とはちょっと違いますね。

奈良岡 島津斉彬は技術に関心があって、具体的な政策や技術改良に率先して取り組んだ人ですね。

清水 西郷は、青年期はその薫陶を受けて実務的に動いていた印象があります。それがなぜ、おおらかで人を受け容れるリーダー像につながっていくんですかね。日本人の希望がそこにあったのでしょうか。

奈良岡 山本七平が神戸生まれのユダヤ人という設定でイザヤ・ベンダサンというペンネームを使って書いた『日本人とユダヤ人』(角川文庫)という本の中で、日本人を理解するためには西郷さんを理解しなくちゃいけないという議論をしています。西郷さんは、ヨーロッパの人間からすると理解しがたいリーダーである。征韓論もわけがわからないし、西南戦争も挙兵理由が不明なままだ。責任をとらずに、最後は戦争に負けて自分は死んでしまう。けれども、日本人は鷹揚で人情あふれる西郷さんが大好きだ。そういうメンタリティを日本人が広く共有していて、彼を理解することは日本人を理解することだとベンダサンは言っています。私などは西郷にそこまで共感はできない部分もありますし、日本人のメンタリティも変わってきているかもしれませんが、面白い指摘だと思います。

学者と官僚に人気のある大久保利通

清水 なるほど。明治維新よりも江戸時代に戻りたい願望があるのかもしれません。戦後のビジネスリーダーが西郷に理想像を求めるという話は興味深いですね。自分にはない要素を求める。大人風に振る舞うことが難しく、そういう人物がいない時代だからこそ、そうありたいと願う。けれども、自分はそうはなれず、「西郷さん」に理想を託すと。

奈良岡 みんながサラリーマン化していく中で、ああいう大人物でありたい。目の前にいる上司はつまらん人間だけど、ああいう人に上司であってほしいという願望が戦後の西郷像を生み出したとも言えますね。

清水 そうした西郷像も、虚像であるということになると、どこによすがを求めていいのか、難しくなりますね。

奈良岡 家近さんも西郷像を完全に否定したわけではなくて、やはりずば抜けた人物だったと言っています。他方で人間的な弱さ、意外と器量が狭いところがあったりするところも公平に見ている。そういうところも含めて、西郷隆盛の実像を捉え直していこうという試みなのだと思います。

清水 官僚の方と話をしていると、大久保利通が話題に挙がることが多いですね。政治家は坂本龍馬でしょうか。企業人は西郷隆盛。これはおもしろいコントラストですね。維新の三傑のうち、木戸孝允はどこにも出て来ない。

奈良岡 木戸は明治になると病気になったからね。西郷さんが理想のリーダーとしてもてはやされる一方で、大久保は理詰めな合理主義者であり、冷徹な権力主義者という像で語られることが多い。そういう面がありながらも、実は人間味があって部下をきちんと統制し、面倒見も良かった。友人や仲間もたくさんいるという面もあって、バランスのとれた大久保像も広まっているなと思うんです。

清水 大久保が霞が関で人気があるのは、仕事のやり方が近いからかもしれませんね。目の前の仕事をコツコツと積み上げて、到達点をめざす。大久保は決してビッグピクチャーを描くわけではありませんが、やるべきことをやっていく人ですよね。かつ、組織をしっかりつくり上げる。そうした責任感は持っている。そこは、龍馬や西郷とはずいぶん違う。

 西郷的な要素は山縣有朋に引き継がれて、大久保的な要素は伊藤博文に引き継がれる。西郷は基本的には軍人です。山縣が軍という組織の中で有能か有能でないかは別にして、周りの利益も考えて動き、大人物的に振る舞うこともする。山県は大量の意見書を残しているので、細かいことも得意ですけどね。

 大久保は、その時その時で優秀な人材を集めて、イシューごとに軍団をつくり問題に対応していく働き方をしますよね。仕事が終わったら「さようなら」で他に活躍の場を求めていってくださいというクールな部分もあったと思います。それは伊藤にも見られる仕事のやり方でもある気がするんです。温情主義的な西郷・山県ラインと、能力主義的な大久保・伊藤ラインという捉え方ができるのかなと。そう見ると、経営者が西郷のようにありたい、官界の人たちが大久保でありたいと願うこともよくわかりますね。

明治天皇が負っていた責任

奈良岡 「明治大帝」という言葉がありますが、やはり明治天皇という存在を抜きには明治時代は語れないと思うのです。明治天皇は1852年生まれですから、明治維新の時点では、個人の意思を表明できるような存在ではありませんでした。しかし1880年代ぐらいから政治的な役割を果たすようになっていきます。お父さんの孝明天皇が早くに亡くなり、政治的激動にのみ込まれることになりましたから、精神的に不安定になったり、必ずしも有能な政治家にならなかった可能性も十分あったと思うんです。けれども、あれほどの君主に育った。私は、明治天皇という名君なしには明治期の安定的な国の発展はなかったと考えています。ドナルド・キーンが言うように、「明治日本の奇跡」は明治天皇という存在があればこそだったのではないか。

清水 明治国家の発展と明治天皇の政治家としての成長は深くリンクしていますよね。明治初期は、政治的な中心をあまり明確にしないという戦略が必要だったと思います。藩閥政治は事実上の連立政権ですから、天皇がみずから意思を主張していずれかの肩を持っては困るわけです。幸い、その時期の天皇はまだ幼かった。時が進んで、憲法や議会が誕生し、本格的な立憲君主国家が歩み出すためには、君主がある程度政治的な調整機能を持たなければいけない。

 環境がそうさせたのか、あるいは本人が成長した結果として立憲的な運用が可能になったのか、ここはきちんと考える必要があると思います。明治天皇という一人の巨大な〝機関〟が負っていた責任、機能は他の政治家とは比べようがない。

奈良岡 誰にも代替できない巨大で重い役割を担っている。

清水唯一朗・慶應義塾大学教授

清水 かつ、自分が死んではいけないわけですよね。そこは大学で学生たちと話していてもなかなか理解されにくいところです。今の学生は、大学に来るまでに、あまり天皇についての議論に触れてきていません。天皇は政治的に中立であるなら、なぜ、どうやって中立であり得るのかということを合わせて考えなければ、総体として理解できませんよね。昨年11月にトランプ大統領が訪日した際に、天皇、皇后両陛下と面会しましたね。メディアではトランプ大統領のお辞儀の角度が浅かったことが話題になっていましたが、私は大統領の表情が気になりました。天皇陛下は太平洋戦争に触れたのち、戦後復興はアメリカがあってのことであるという趣旨のことを述べられた。この時の映像を見ると大統領の相好がそこで大きく崩れていることがわかります。政治的な権限を持たない中で、その強みを最大限に発揮する。相手の心持ちを変える力を持っているのだなと感じさせられました。天皇という存在がいることの意味や機能については、明治から150年経った今あらためて考えるべきかもしれません。

奈良岡 よく保守派の人たちは、天皇制の伝統をつないでいくことが大事だと主張していますが、その伝統というのは明治につくられたものが多いんです。それまで権力を持っていなかった天皇が主権者になったことが一番象徴的なところですが、人前に姿を表すようになったのも明治からです。江戸時代までは、基本的に天皇は御所から出てこないし、一般庶民はもとより謁見する公卿でさえも天皇の顔を見られなかった。それが人前に顔を出して行幸するようになった時点で、天皇のあり方が大きく変わっています。いまトランプ大統領との面会の話が出ましたが、明治天皇も外国人にも謁見し、握手もしています。それから、皇后も人前に出てくるようになった。

 問題は、伝統というのは何なのかということです。明治は国のあり方が大きく変わりましたが、同時に天皇や皇族のあり方も大きく変わった時代です。相当思い切った、多くの革新的なことをしてきたことを思い返す必要があると私は思っています。天皇のあり方も時代に合わせて変わっていかなければならない部分と、伝統をつないでいく部分の両方があるわけです。

 天皇が退位の意志を表明されて、その時期が2019年の4月末に決まりました。今年は退位に向けた準備が進む一年になります。いま皇室は直系の男子が少なくなってきていて、皇族数の激減が目の前に迫っています。皇室の存続が厳しくなっていることは、明治の初期と似ているところがあります。明治天皇は男子一人、お父さんの孝明天皇も男子一人、その前の仁孝天皇も男子一人でした。皇統をつないでいくことに対する不安や負っていた責任は、我々が想像できないほど大きなものだったと思います。

 今は、皇統をどのようにつないでいくのかということを国民全体で考えていかなければならないタイミングに来ているのではないかと思います。女性天皇あるいは女系天皇を認めるのか、女性皇族をどのように処遇していくのか。いろいろな意見がありますが、皇室、天皇の存在をどのように考えていくのか、早急に議論しなければならないと思いますね。

変わる必要があったのに変わらなかった30

奈良岡 我々は1970年代の生まれで、90年代に高校を卒業して大学に学んだ、いわゆる「失われた10年」と呼ばれる世代です(笑)。この世代は、冷戦が終わって世界観が大きく変わるという経験をしました。今の時代は明治維新、第二次大戦後に次ぐ「第三の開国」の時代なのであって、これから日本は大きく変わる。国を開かないといけないし、政治や社会のあり方も大きく変えなければならないという話を聞きながら成長してきた世代です。この90年代以降の日本をどう見るのか。いろいろな見方がありますが、おそらく明治維新や第二次大戦後ほどの大きな変革はできずにきたのがこの30年ではないでしょうか。

清水 ソ連が崩壊してそれまでのさまざまなレジームが変わったにもかかわらず、基本的な枠組みが変われずにいますよね。1995年にデジタル革命が始まり、仕事のやり方は大きく変わった。それにもかかわらず、朝9時に出勤して夕方5時まで会社で働くという形態は変わっていない。もちろん、マイナーチェンジは多くなされていますが、本的なモデルチェンジは手がつけられていません。

 憲法改正の動きがようやく本格化してきました。憲法は戦後70年変わらなかったことで聖典のように仰ぎみる議論がありますが、冷戦構造の中で変えようがなかったという現実的な評価が広がってきています。ソ連崩壊まではそういう時代環境だった。そうすると、問題はそれから現在までの30年です。変わる必要があったのに、変わっていない。何がそれを阻んできたのかを考える時期に来ていると思います。

奈良岡 同感ですね。

清水 さまざまな制度が組み合わされて成り立っているので、現状に合うように個別のマイナーチェンジを行えば、それなりに「動く、続く」。そうなると、メジャーチェンジは避けてしまう。そうした弥縫策を積み重ねてきた結果が現状でしょう。

 政治におけるガバナンス改革、統治機構改革が象徴的です。1994年に選挙制度改革が行われ、90年代後半に橋本行革が進み、2001年に中央省庁再編と官邸機能の強化がなされました。公務員制度改革も08年から始まり、14年には内閣人事局がつくられました。その結果、官邸に権力が集められ、非常に強いかたちで意思決定が行われるようになった。こちらもあちらもマイナーチェンジを進めた結果、おそらく一般の国民が想像していたよりも強いかたちで制度が更新された。

 問題は、マイナーチェンジを行う場合は、議論の幅もマイナーになってしまうことです。そうすると、制度はでき上がっているのだけれども国民の理解が追いつかない、印象と違うものが生まれて、批判に繋がる。

奈良岡 統治機構改革で言うと、1994年の小選挙区制の導入によって二大政党政治をめざそうという合意ができてから、もう二十数年が経ちます。衆議院だけ二大政党制に適合的な選挙制度改革をしましたが、参議院は権限も選挙制度もまったくいじっていない。それから、地方の選挙はいまだに中選挙区制、大選挙区制で、中央あるいは衆議院とは別の政治競合が行われている。それが中央政党が地方を掌握できていない原因だという議論があります。

 確かにマイナーチェンジを積み重ねたことで、首相や官邸のリーダーシップはかなり強化されました。大きな改革をした部分とそのまま放置された部分とが残っている。今はもう一回90年代前半の政治改革でやろうとしたことを見直して、再検討すべき時期に来ている気がしています。特に政党政治は、ポピュリズムの動きも相まって非常に混乱してきている気がするんです。

清水 今回のテーマに結びつけて考えると、明治維新の負の側面が出てきている気もします。明治維新は優秀な人材を政府に集めて、官僚の世界の中でうまく政策をつくり、それが実際に機能していって国家建設に成功しました。

 けれども、中央集権化は政治や国家に対する国民の意識を醸成することにはあまり成功しなかった。政治空間がどこまで広がるかが重要だと思うんですが、日本の近代はその空間が内閣と官僚つまり政府内に限られ、国民とは乖離していた。そのために議会での議論がなかなか広がりを持てなかったし、政治家の専門性も高くならなかった。政治や国家に対する国民の理解が醸成されなかったのは、このことの帰結なのではないでしょうか。

 戦後の日本社会は戦前を否定することが前提になったにもかかわらず、議論の空間は広がりませんでした。政治について議論をする人たちは運動的であって生産的でないという印象も加わってしまって、議論をしないという態度が一般的になってしまった。

 選挙のたびに、学生たちと「ボートマッチ」をやってみるとそれがよくわかります。ボートマッチというのは、投票先の政党を自分が実現させたいと考える政策で選ぼうというシステムです。学生たちと一緒にやってみると、彼らはその結果に、とても驚くんですよ。自分が思っている政党とまったく違う政党が結果として出てくる。政治学を学んでいる彼らでさえ、イメージで政党を見ていて政策で見ていないわけです。政党側が政策を伝えられていないのと同時に、国民側の理解がまだ十分でないことを思い知らされます。

明治維新を現代の問題として受けとめる

奈良岡 確かに政治について議論することを避ける傾向はあるかもしれません。ただし、まったく遠ざけてしまっているわけでもないと思います。大河ドラマは好きだし、時代劇、小説、それから漫画でも、明治維新は広く題材になっていて親しまれています。龍馬も西郷さんも身近な存在として感じられていると思います。「明治維新のような大変革を起こす」ということは、今でもよくスローガンとして掲げられますよね。

 今必要なのは、過去の絵空事のように明治維新を捉えるのではなくて、それが現代の問題にもつながっていることを再認識することなのかもしれません。憲法改正にしても統治機構改革にしても、現実を生きる我々の目の前でも大きな変革は展開できるはずだし、主権者たる我々はそれを担っているということを自覚する必要がありますね。

清水 もっとも、こうした「避けて遠ざける」状況は、東日本大震災を期に変化してきているように感じています。広く意義が認められることであれば、従来の秩序を乗り越えてやっていく。そういう発想が出ていますよね。そうした「跳ね返り」を受け入れる素地も日本社会に生まれてきている。今までは、成熟している社会だからこそ新しい人が出にくい状況がありましたが、「何かおもしろいものが出てきた」と肯定的に捉えられるように変わってきている。

 3・11以後、特に若い人たちを中心に新しい団体やNPO、NGOをつくって活動する動きが盛んになっています。そうした動きをプロボノとしてサポートする大人も出てきている。ここは明治維新の頃に似ていますよね。明治維新は、秩序のヒビから吹き出してきた西郷や大久保や坂本があり、彼らをサポートする有力者がいました。各藩の藩主や豪商などが支えて、イノベーションを実現したわけです。もちろん今の状況の中で明治維新のようなレボリューションが起こるとは思いませんが、イノベーション、リノベーションをしていく人材が出てきていて、変わろうとしている。平成の次の時代に向けた維新の芽が出てきています。その芽に対して、既存の社会がどう向き合っていくのか。このことこそが明治維新を現代的な課題として考える意義なのではないでしょうか。

奈良岡 同感ですね。90年代はバックパッカーブームで、多くの若者が海外を旅しました。今の若い人たちは海外旅行や留学にあまり行かなくなったとも言われますが、それでも知的好奇心の強い人たちはたくさんいて、彼らは身軽に海外に行きますよね。英語も概して我々の世代よりうまいし、外国人に対して物おじすることもない。世界に直結して、どんどん海外に飛び出している。それこそが日本の希望ですね。

清水 「智識を世界に求め、国の基礎を振い起こす」──
五箇条の御誓文の五番目ですね。それがようやく達成される時代を迎えつつあるのかもしれません。 (終)

奈良岡 聰智・京都大学大学院法学研究科教授
1975年青森県生まれ。京都大学大学院法学研究科博士後期課程修了。博士(法学)。専門は日本政治外交史。2014年より現職。著書に『対華21カ条要求 とは何だったのか』『加藤高明と政党政治 二大政党制への道』など。
清水 唯一朗・慶應義塾大学総合政策学部教授
1974年長野県生まれ。慶應義塾大学大学院法学研究科政治学専攻博士課程単位取得退学。博士(法学)。専門は日本政治外交論。2017年より現職。著書に『近代日本の官僚』『政党と官僚の近代』など。
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