『公研』2022年7月号「めいん・すとりいと」

 「もはや(冷)戦後ではない」
と、言われてしまいそうな世の中である。
 何しろ「戦車に乗って隣の国へ攻め込む」という古めかしい戦争を、われわれはテレビやSNSで嫌というほど見せつけられている。これまで所与のものとしてきた常識を、根本から見直さなければならなくなっている。
 今から思えば、冷戦終結後の1990年代にはいろんな夢が語られたものだ。貿易自由化が成長を加速して、発展途上国や旧共産圏の経済をテイクオフさせる。インターネットが多様な意見を吸い上げ、世界をひとつにする。そして自由と民主主義が勝利する。中国だって民主化するかもしれない。今となっては、まるで「ユーフォリア」に感じられるけれども、90年代とはそんな時代であった。
 「マクドナルドがある国同士は戦争をしない」というテーゼもあった。出典はニューヨークタイムズ紙の名物コラムニスト、トマス・フリードマン。90年1月にモスクワで初めて開業したマクドナルド店の盛況ぶりを見れば、そんな風に思えたのであろう。
 一般論として、生活水準が上がれば人々は戦争を望まなくなる。あるいは政治的な自由を求めるようになる。ところが経済的な繁栄は、かならずしも平和を保障するものではない。「ビッグ・マック」はウクライナやジョージアにもあったわけだから、この仮説は21世紀になって完全に破綻したことになる。
 ロシアとの経済交流に、とりわけ力を入れていたのがドイツである。ウィリー・ブラント政権の「東方外交」の時代から、彼らは半世紀にわたって旧ソ連との経済的な結びつきを深めてきた。1970年、当時の西ドイツはソ連に鉄パイプを送り、それが欧州へ天然ガスを供給する契機となった。
 「ヴァンデル・ドゥルヒ・ハンデル」というらしい。英語で言えば“Change through trade”、つまり貿易を通じて変革をもたらす。経済成長が続けば中産階級が勃興し、彼らは自由を求めるとともに社会を安定化させるだろう。かくしてロシア発のパイプラインは全欧州に張り巡らされ、安価なエネルギーを供給してくれた。それはまことに結構なことであった。
 ところが今になってみれば、欧州が支払ってきたガス代は軍事費に化けて、ロシア軍のウクライナへの侵攻にも使われたことになる。欧州としては、エネルギーの対ロシア依存度を高めてしまった結果、経済制裁を行うのも一苦労となっている。
 もちろん懐疑的な人たちもいた。外交・安全保障論の大家、岡崎久彦氏は「経済の相互依存関係が深まれば戦争はなくなる」といった議論を耳にすると、「ああ、それはエンジェルだよ」と一言で切り捨てたものである。
 ノーマン・エンジェルは英国労働党の議員であり、作家であり、平和運動家であった。第一次世界大戦の直前に、「大国間戦争はもはや不可能になった」と唱えたことで知られる。岡崎大使いわく、政治と経済は全く別物だから、両者を結びつけて論じるとエンジェルのような間違いをやらかすのだよと。筆者は経済界の人間の一人として、複雑な思いでそれを聞いていたものである。
 思うに貿易とは、「この値段で買えればハッピー」な人たちと、「この値段で売れれば儲けもの」という人たちが取引する行為である。だからかならず双方が得をする。貿易が伸びれば富が増え、生活は豊かになる。夢がある。それは保証していい。
 ところがプーチン大統領にとっては、夢とは「帝国の復活」であった。Change through tradeといっても、「変化」の方向までは決められない。自分勝手な「片想い」には、くれぐれも用心しなければならない。
 ひとつだけ反省点を挙げるとしたら、貿易は確かに良いことだが、エネルギーを単なる「財」として扱うべきではなかったのではないか。エネルギーは国家安全保障そのものであり、そこには変な「夢」を持ち込むべきではない。21世紀には、冷徹なリアリズムが求められよう。

双日総合研究所チーフエコノミスト

 

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