『公研』2022年12月号「めいん・すとりいと」

 

 なんとも激しい1年が終わろうとしています。これまでの常識がつぎつぎと覆っていく、なんとも慌ただしく、不安な時代が到来したようです。

 100年前の日本も、欧州大戦(第一次世界大戦)、ロシア革命による国際秩序、社会秩序の激しい変化に晒され、人々は不安に苛まれていました。当時を今になぞらえる論も見られます。

 そうした偶然もあってでしょうか。今年、100年前に没した山県有朋が注目を集めたことはみなさんご存じのとおりです。

 もっとも、歴史を対象として研究する身にとって、やや意外の感がありました。近年の研究によって、大久保利通や伊藤博文、原敬のイメージは大きく変わりました。彼らはいずれも政党政治の樹立に寄与しており、民主化の文脈から、現代を生きる私たちが肯定的に捉えやすい人物でした。

 一方の山県はどうでしょうか。藩閥、陸軍、官僚を率いて権勢を張ったという強権的な像が固着しているように思います。緻密な研究もいくつか現れてきましたが、イメージを変えるには至っていないようです。戦後、帝国主義の負の遺産もあり、その存在はさらに受け入れにくくなったのでしょう。

 その意味で、それぞれが担った役割だけで評価するのはやや酷なのかもしれません。今回、山県は伊藤の死を悼む文脈で知られるようになりました。近代日本のリーダーとして並び称される二人ですが、伊藤と山県ではマネジメントのあり方がまったく異なります。伊藤はいわばプロジェクト型です。憲法調査、対外交渉、政党組織、朝鮮経営など、その時の課題にあわせて人材を集めて進めました。

 伊藤プロジェクトは華々しく、清新であり、人々の注目を集めます。しかし、彼らのチームはプロジェクトが終わると解散されます。激務が終わったとたんに放り出されてしまうのです。伊藤系の人材はさぞ大変だったことでしょう。

 それに対して、山県はメンバーシップ型を取りました。陸軍はもちろん、地方自治をつかさどる内務省や産業振興を担う農商務省、さらには財界まで、面倒見のよい山県のもとには多くの人材が集まりました。時には伊藤の淡白さに不満を募らせた者も山県のもとに奔っています。

 彼らは山県という大きな傘の下で強い紐帯をもって活動します。伊藤プロジェクトのような派手さはありませんが、特定の分野に高い専門性を持ち、着実に治績を上げていきました。長期的に専門性を持って継続する彼らは、陸軍閥、官僚閥、ついには山県閥と呼ばれるグループとして捉えられるようになります。伊藤と山県の、対照的なリーダー、グループ像が見えてくるでしょう。

 戊辰戦争を経て、新知識を求める伊藤は博文と名乗り、革命のなかで命を落とした友を惜しむ山県は有朋と名を改めました。知の政治家として歩み始めた伊藤に対して、山県は情の政治家であったともいえるでしょう。

 華々しく成果を挙げるプロジェクト型の伊藤、地道に人と政策を育てるメンバーシップ型の山県。両者はふたつ並び立つことでバランスをなし、成果をあげる関係にありました。だからこそ山県にとって伊藤を亡くした喪失感は絶大でした。

 10年の歳月をかけて山県を落胆の淵から救ったのは原敬でした。彼は政党内閣によってプロジェクト型とメンバーシップ型の融合を実現して、対立構造になりやすい両者を横断するガバナンスを現出しました。

 その原が凶刃に斃れた89日後、山県は失意のうちに世を去りますが、彼らが構築した政官協働のシステムは、その後も生き続けました。

 2022年に山県が脚光を浴びたのは偶然なのでしょうか。そうだとすれば、あまりに示唆に富む偶然のように思われます。

慶應義塾大学総合政策学部教授

 

 

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