『公研』2020年11月号「interview」

NPO法人WELgee代表 渡部カンコロンゴ清花

日本には多くの難民が暮らしている──。こう聞くと怖いと感じる人もいれば、保護すべき脆弱な存在と見なす人もいるだろう。しかし、彼らの多くはサバイバルを乗り越えたタフで優秀な人材だ。難民を日本にどう活かすべきなのか。29歳の社会活動家のチャレンジを聞く。

国家が守ろうとしない存在に関与する

──世の中に関心を持つきっかけはありましたか?

渡部 7歳のときにバングラデシュに行く機会がありました。叔母が現地で看護師をしていて、夏休みに2週間くらい遊びに行ったんです。その時に同じくらいの背丈の女の子がお水を売りにきたんですね。それが彼女の仕事だと知って、「あのお水を買いたい」と叔母に言ったら、「川の水だからあなたは飲むことはできないよ。それでも、これからもずっとあの水を買い続けて彼女の家族を支え続けることができるのなら買ったらいい」という話をされたんですね。それで日本との圧倒的な違いを実感しました。私は買えなかった。でもその子と友だちになりました。日本に戻ってからもずっと覚えていて、大きくなって教科書で途上国や難民に触れたページが出てくるたびにその情景を思い出しました。

──小さい頃から国際志向だったのですか? 英語は好きでしたか?

渡部 高校生のときに、世界数カ国から高校生と大学生が集うエコキャンプに参加してセルビアからきた青年と仲良くなったんです。彼は内紛を経験していて、兵士として1日30キロ以上も歩いた話や戦争の記憶がトラウマとして残っていることなんかを話してくれました。この時にもっと英語ができるようになれば、自分が興味あることを自分で質問ができるんだなと気付いて、英語の勉強が楽しくなりました。とは言え、田舎にいましたから使う場所がないんです。私は浜名湖とみかん畑に囲まれた三ヶ日町(現・浜松市)と富士市で育ったので、地元で育って地元で就職する同級生もたくさんいる環境でしたから。

 ただ、国際協力にはずっと興味を持ち続けていたので、現場に行ってみたい気持ちがあって、それで大学は国際文化学科に進みました。当時は、何になりたいといった具体的な職業名はわからなかったんですが、自分なりに調べて国連の職員とかJICA(国際協力機構)などの機関があることを知って、おぼろげですがそういうことに興味を持つようになっていきました。

──学生時代にバングラデシュの紛争地域に行かれていたそうですね。

渡部 大学の5年目と6年目にバングラデシュのチッタゴン丘陵地帯に滞在しました。5年目に現地のNGOでお手伝いさせてもらって、6年目に国連開発改革(UNDP)の平和構築の部署でインターンをしていました。チッタゴン丘陵地帯はバングラデシュの南東部、ミャンマーやインドとの国境に位置し、ここには12の先住民族がいて12の言語があります。彼らは先住民族の文化や言語、暮らしを大事にした独自の自治を求めていて、軍事政策や同化政策を推し進める政府とは長く対立してきて紛争が絶えなかった歴史があります。私は12ある民族のうちチャクマ民族の地域で暮らしていて、チャクマ語もしゃべれるようになりました。

──チャクマ語にはどんな特徴があるのですか。

渡部 言語としてはベンガル語の系譜にありますが、ずいぶん違っていますね。文字が使われないという大きな特徴があります。存在はするのですが、書ける・読めるのは一握りのお坊さんくらいで、主に口承で言葉は引き継がれています。紛争が続いたことでそれを残すことが難しかった経緯もあります。長く政府から弾圧されてきた地域ですから、言葉や文化が奪われてきた歴史があって、子どもたちも学校に行ったら、もちろんベンガル語で教育を受けるし、役所の手続きもそう。本人たちもチャクマ語はどんどん廃れていくだろうと自覚していて、もっと小さな民族集団では、実際に母語を喋れなくなっている若者が増えています。

 チャクマの人たちはバングラデシュに暮らしていますが、国が守らない存在でもあるんです。そこに存在していながら国から守られない人たちに関与することが、いかに難しいことかを痛感する2年間になりました。

──暮らしている国家が自分たちを守ってくれない。

渡部 彼らは先住民族、その前に国民でもあるのですが、長い間その国自体から弾圧を受けていました。目の前で村が焼かれるようなことがあっても、国連機関は何もできないというものすごく大きな理不尽さがありました。本来は国が守ってくれるはずの存在を国が消そうとしている。国際支援も手が届かない。

 こういう人たちにどうやってアプローチすべきなのか。いろいろと考えていくと、現地のNGOでも限界があるんです。頑張れば頑張るほど政府のブラックリストに載って警戒されるし、そもそも先住民族の人権を扱うような団体は政府からの活動の認可がおりず登録できない。ジャーナリストも消されていくような世界です。だからこそ国連の役割が重要なのだ、とも思いました。けれども国連は絶対中立を謳っていますから、民族対立のある地域である特定の民族だけを支援することはできないんです。この2年で国連という大きな組織が何をしていて、何ができないのかをずっと考えるようになったんです。

 それで国連でも、ジャーナリストでも、現地NGOでもない違うアクターが絶対にいるはずだと考えて、それを探すようになったんです。結局バングラでは葛藤、理不尽さを抱えて日本に帰ってくることになりました。

東京で難民と出会う

──大学を終えると、普通であれば就職を考えますよね。

渡部 JICAを通じてバングラにもう一度戻ろうと思いました。当時ちょうど始まる予定だった、先住民族が暮らす地域も含めた地方行政の能力強化プロジェクトに、今度は二国間支援という立場で関われる機会だと思いました。そこに申し込んで合格して、いよいよバングラに行くという時にテロが起こりました。2016年7月にイスラーム過激派がダッカのレストランを襲撃して、JICA関係者の7名の日本人を含む28名が亡くなりました。私はJICAのプロジェクトで長期間滞在する予定でしたが、外務省から「緊急帰国命令」が届きました。まだ行ってもいないのに……。こうして、バングラ行きの話は取りやめになって私の進路もなくなりました。バングラに戻るつもり満々でいましたから、就職活動は何もしていませんでした。もう11月だしどうしようかとも思いましたが、もともとJICAでのインターンを終えた後に行こうと考えていた大学院への進学を思い出したんです。

 これまでの経験から人間の安全保障をやりたかったので、東京大学の駒場キャンパスにある総合文化研究科国際社会科学専攻とコスタリカにある国連平和大学が候補になりました。願書と申し込み時期などいろいろ見比べて見て、上京することになりました。静岡県の田舎とバングラデシュの山岳地帯にしか住んだことがなかったのが、24歳にして初めて東京で暮らすことになりました(笑)。ところが、いろいろあって東京で難民の人たちと出会っちゃって、大学院生になる1カ月前に彼らと小さな試行錯誤が始まり、それが自分の本業になっています。

──急展開ですね。どういうことですか?

渡部 そもそもは、起業家の支援を目的にしているNPO法人のETIC.が主催している「MAKERS UNIVERSITY」という学生起業家プログラムに参加したことがきっかけです。「どんな世界をつくりたいか」──そのビジョンが近い参加者同士で集まって、グループワークをする作業がありました。手法は様々であっても、思い描く社会で話し合うわけです。既存の社会から取り残されたり、課題に直面する人たちが、自らの可能性を活かせる方法を話し合った気がします。自然災害などの被災者、シングルマザー、情報弱者の高齢者、障害のある人たちなどが挙げられていて、これらの中からどれかを選んで発表するわけです。ここにたまたま「難民」があって、私たちは難民をピックアップして調べてみることになりました。

 ググってみて初めて日本にはたくさんの難民申請者が来ているけど、ほとんど難民として認定されていない現状や収容などの人権問題などがあることを知りました。それで、フィールド・ワークをして、実際に難民に会って話を聞こうとしたら難民に会えないという現実に直面したんです。日本にも支援団体はいくつかあるので、アポを取って「当事者に会いたいです」とお願いすると、「個人情報やセキュリティの問題があって紹介はできません」とことごとく断られてしまう。今ならその理由をもちろん理解できますが、その時はこちらがどれだけ当の難民に会いたいと思っても、そのチャンネルがないことに衝撃を受けました。ウェブサイトには「難民に関心を持ちましょう」とか「手を差し伸べましょう」と盛んに書いてありましたからね。

 なので、次に自分で難民の人たちを探してみることにしたんです。支援団体のサイトには、「ホームレスになったりネットカフェで寝泊まりしたりしている難民もいる」とあったので、それならと終電後の深夜の渋谷を歩き回ってみることにしました。

──夜の渋谷を歩き回るのは怖くなかったですか?

渡部 ちょっと前までバングラデシュの紛争地域にいましたからね。ジョギングしていると銃を持った兵士の集団とすれ違うようなところでしたから、東京の街が怖いとは一切思いませんでした(笑)。実際に渋谷から探索を始めた頃、コンゴ民主共和国からきた3人組に出会うことができて、そこから芋づる式に多くの難民の話を聞くことができました。アフリカの人が多くて、見た目はずいぶん年上に思えたけど、話をしてみると「あれ? 同い歳なの!」ということがずいぶんありました。

──彼らはどうして難民になったのですか?

渡部 コンゴ民主共和国はジョゼフ・カビラが18年にわたって大統領を務めていました。民主的な選挙が行われず、その間にますます独裁となった政権が反対する者たちへの締め付けをどんどん強めていった経緯がありました。3人組は大学を卒業してそれぞれ働いていましたが、今度こそきちんとした選挙をやろうという大学内から起こった運動に関わっていた人もいました。彼らに限らず長く続く独裁に対して大勢の若者たちが声をあげ始めたわけですが、それに国が憤慨して運動に関与した人たちを一斉逮捕したんです。首都では殺された人も大勢いました。一回逮捕されたら、生きて戻れるのかどうかはわかりません。

 そんな大混乱があったために2015年、16年頃はコンゴ民主共和国から多くの人が逃げています。ものすごい数の人が日本だけではなくて世界中に逃れていたんですね。

──コンゴの3人組はなぜ日本を選んだのでしょうか?

渡部 彼らはわざわざ日本を選んだというわけではなかったそうです。あまりにもコンゴが混乱していて、仲間も殺されて、ここでは仕事も学びも続けることができなくなったために、しばらくの間どこか他の国に行こうという決意をしたんですね。だから、難民になろうとも考えていなかった。しばらく安全などこかの国に行けるのなら、どんな手段でも、どの国でもと思っていた時に「いいチャンスがあるから日本で働かないか?」というビジネスマンが現れた。「日本はもうすぐオリンピックもあるから、君たちのような健康で若い労働者を求めている」って。それで何の縁も知識もないけれども、アジアに行ってしばらく頑張ってみて、祖国の状況が変わったらまた戻ろうということで、家族と別れて日本に来たそうです。

──ビジネスマンというのはブローカーですよね。

渡部 その通りです。ブローカーの正式な定義があるわけではありませんが、仲介の業者だったのかもしれません。そのブローカーには多額のお金が支払われていたかもしれないし、パスポートも正当に使われたどうかもわからない。働き口も約束されていたとも限りません。人の移動というのは大きなお金が動きますから、斡旋会社、人身売買、ブローカー、仕事紹介など線引きが難しいときさえあるブラックな世界ではあります。けれどもその話に乗っていなければ、3人組は友人たちのようにコンゴ民主共和国で死んでいたかもしれない。紛争や脅迫、政治的混乱からどうにかして逃れる時に、手段を選んでいられなかったと語る人は多いです。

8カ月時間を潰しながらとにかく生き延びる

──コンゴ民主共和国の3人組に沿って話を伺っていきます。難民である彼らはどのような立場で、東京で何をしていたのでしょうか?

渡部 出会った当時、彼らは東京の街でひたすら時間を潰していました。ある時は四谷見附公園で野宿したり、ある時はマクドナルドで朝まで過ごしたり、冬場の寒いときは終電まで山手線にずっと乗って過ごしたそうです。なぜ何もせずに時間を潰しているのかと言えば、就労許可がないからです。日本に来た難民申請者は、まず政府に対して難民認定申請を行うことができます。日本政府がその申請を受理して、審査結果が出るまでにはとても長い時間が掛かります。それは1年かもしれないし、5年かもしれない。10年かかるかもしれません。どのくらいなのかは、本人たちにもわかりません。ただ、とりあえずは審査をするので、「待っていてね」という状態におかれることになるんです。そうなると、不法滞在の状態ではないので、日本国内に居ることはできるんです。その時に貰えるのが「特定活動」という難民認定のための審査を待ち続ける期間に付与される在留資格です。難民認定申請中は日本政府から母国に送還されることはないのですが、「特定活動」という不安定な在留資格を渡されて待ち続けたり、場合によってはその在留資格も得られなかったり、収容される人もいたりします。

 けれどもその「特定活動」の在留資格も、付与されてから最初の8カ月は働くことは許可されていないので、ただ生き延びることしかできない。国連の難民キャンプも申請したら皆入れるような政府のシェルターもありませんから、何もできない状態で時間を潰しているんです。シェルターを提供しているNPOや市民団体もありますが、とても足りる状態ではありません。今も多くの人がそういうことをやっているという現状があります。

──最低限の食事を提供するような団体はまた別にあるのですか。

渡部 NPOやボランティア団体はありますが、日本に来た難民皆が毎日お腹いっぱい三食食べられるほどもらえるかと言えばもちろんそうじゃないし、他の国がやっているように政府がシェルターを委託しているわけでもないんです。NPOが持っているシェルターも、需要が供給に追いつかないので一気に埋まっちゃいます。多くの場合、脆弱性の高い人、女性や障害がある人が優先されるので、特に若くて健康な男性にはなかなか回ってきません。コンゴの3人組もそうでした。

 日本にやってくる難民の多くは、祖国ではひどく貧乏だったわけではないんです。祖国を逃れる以前は銀行で働いていたりジャーナリストだったり、当たり前の生活を送っていた人たちです。ただ、日本の物価を考えると本国ではまとまった金額である10万円を持ってきていても、あっと言う間に底が突きてしまいますからね。

──すさまじいサバイバルです。

渡部 彼らは自分たちの国でも何度も危機をくぐり抜けて日本に来ていますから、とてもタフです。でも、先が見えないことは精神的にはとてもきついですよね。将来に対して具体的な見通しが立てば、爆弾は降って来ないし、襲撃もされないから頑張ろうとなると思うんです。けれども、難民認定の結果が10カ月なのか2年なのかわからないとなると、絶望感に苛まれる人も出てきます。最初は「命を救ってくれた日本に感謝している」と言っていた人が、ひたすら待っている間に心も体もボロボロになっていくケースがたくさんあるんです。

 ただ、私は3人組と出会って話を聞かせてもらうようになってからは、彼らに大きな可能性を感じるようになりました。彼らはもともと貿易などのビジネスをやっていたり、ファッションのデザインをやっていたりゴスペルの先生だったりしました。彼らの話を聞いて思い出したのがバングラデシュの先住民族たちのことでした。生まれた地域や民族、政治情勢によって、その後の生き方が大きく制限されていたんです。とても優秀でおもしろくて未来の可能性を秘めた同世代がいっぱい居ましたが、先住民族だから仕事にも通らないみたいなことが往々にしてあったんです。そういう現実を目の当たりにしては、彼らにも自ら選んだ生き方ができるはずだと感じていました。私はそれをずっともどかしいと思っていて、新しいアプローチでどうにかできないかと思案していたんです。コンゴの3人組は難民という境遇ではありましたが、ずっと自由で可能性があるように感じたんです。

 それに多様性に満ちているとは言い難い日本にとって彼らの存在自体がとっても意義あるものだし、その能力とサバイバルを生き抜いた強さを日本の社会でも活かせるはずだと考えるようになったんです。彼らが時間を潰していた深夜のマクドナルドでコーヒー一杯で粘って、彼らの話を夢中になって聞くうちに、難民を支援するのではなくて、私たち日本社会に何か新しい価値をつくりだそうという視点を持つようになりました。こうしてコンゴの3人組をはじめとした同世代の難民の若者たちと一緒につくったのが、NPO法人WELgeeです。WELgeeは、WELCOMErefugee(難民)を意味しているんです。脆弱な難民を一方的に支援するのではなく、日本社会で可能性を開花できる仕組みを考えはじめました。

日本にやって来るハイスキル難民人材

──難民を支援する対象ではなくて、日本社会の活力となってもらおうという発想ですね。それで、学生起業家プログラムでの発表はどうでした?

渡部 社会を変えるアイデアに関心のある100人もの学生が集まっていて、それまで「ブロックチェーンの力で社会の繋がりを変える」とか「ITでアフリカの農業に革命を起こす」とか「ジェンダーの問題にアートの観点を取り入れて訴求する」とかいろいろな発表があって、どれも拍手喝采でした。ところが、私たちが発表すると会場は「シーン」と静まり返っちゃいました(笑)。「難民ですか? 治安が悪くなるんじゃないか」とか「日本にも困っている人たちがいるのになぜ海外の国籍もないような人なのか。そういう人たちを社会保障で面倒を見るとキリがない」といった意見が相次いだんです。ちょうどその時にドイツで難民に紛れたテロリストが女性をレイプしたニュースが流れていたこともあって、難民のイメージは悪かったのかもしれません。学生起業家プログラムに参加するような「意識の高い系」の若者からも厳しい反応でした。

 最初は、そういう受け止められ方をされましたが、私たちはもうちょっと切り口があるはずだとこの課題を追求していきました。そうしたら、この学生起業家プロジェクトのメンターの一人だった黒越誠治さん(デジサーチアンドアドバタイジング代表取締役)がWELgeeの事業に関心を持ってくれるようになったんです。「本当にそういう可能性がある人たちなら、その難民さんを連れて来てよ」という話になって、コンゴ、アンゴラ、ロシア、ガザなどから来た若者がデジサーチのオフィスに出入りするようになって、いろいろなディスカッションが始まったんです。当初は黒越さんの中でも難民をとても脆弱で、国を着の身着のまま逃れてきて支援を待つばかりの弱い存在だというイメージがあったのかもしれません。大多数の日本人が同じだと思います。

──私もかつてのインドシナのボートピープルや最近のシリア難民のような存在をイメージしていました。

渡部 もちろんシリアから来る難民もいますが、そもそも着の身着のまま母国から逃れてきたような人は日本まで辿り着けないんです。パスポートを持っていなくて、お金もなければ日本に来られません。ですから、シリアからヨルダンまで夜通し歩いて逃げた、という文脈とはだいぶ違うんです。

 東アフリカから難民としてやってきた若い男性は、民主主義のためにいろいろな情報を提供するプラットフォームを運営していて、数十万人ものフォロワーがいる影響力のある人でした。ところが、祖国で政治的弾圧を受けるようになるんです。彼がいよいよ捕まりそうになった際に、応援する人たちは「君が逃げなければ、この国の今後はどうなると思っているのだ。少しずつお金を集めるからまずは君が逃げて、平和になってから国を立て直すような人になって欲しい」と言ったそうです。こうした願いを託されて逃げてくる人物は、ある意味その領域で未来を託されていたり、ゼロから1を切り開く力があったり、逆境に対してアクションを起こすことができると期待されています。

 そういう人材を含めた人々が飛行機で逃れて来るのが、日本で難民申請をする人々の特徴にもなっているんです。なので、2030代の男性で単身でやって来るケースが圧倒的に多いんですね。デジサーチの黒越さんもそうした難民たちとの対話を通じて、「君たちが彼らの可能性に着目するのであれば、長期的に応援したい」と申し出ていただいたんです。

──厳しい環境を乗り越えてきた人材ですから逞しさはありますよね。今の日本社会に欠けている点かもしれません。

渡部 難民には本当にいろいろな方がいましたね。北アフリカから来たアフリカ大陸の空手チャンピオンや、中央アフリカの歌手がいたりしました。彼は祖国ではSMAPのようによく知られた存在で、カッコいいイメージのグループでポップな曲を歌っていたんです。けれども、独裁化してゆく政府を批判するような曲を歌ったために政権から睨まれることになります。民主化運動を展開する活動家から、「今度の選挙こそ大統領選挙をちゃんとやろう。民主主義の歌を作って君たちが歌ってくれ」とお願いされて、それに応えたらYouTubeで滅茶苦茶バズった。それに危機を覚えた政府から「消せ!」という命令が出た。グループの一人だけ日本に逃れることになったけど、残りのメンバーは祖国でどうしているかはわからないそうです。

 難民申請者の中には、夫婦で逃れてきて日本で子どもが生まれることもあります。しかし、出生地主義ではないので日本国籍が付与されるわけじゃないんです。それに難民だからゆえ、祖国の大使館にも行けません。祖国が守ってくれないから、日本に難民申請している経緯がありますからね。だから、どこにも出生届けを出せなくて、無国籍になるケースも多いです。

 いま埼玉には3000人くらいのクルド人が難民申請をしながら住んでいますが、日本で生まれた多くは国籍がありません。そして時間が経てば経つほど、無国籍の子どもたちが増えていくことになります。彼らは小学校、中学校の義務教育期間には学校に通えても、大学進学はほぼ無理だし社会保障もない。難民認定を受けられないことの弊害はこういうところにも現れています。

難民人材を必要とする企業とマッチングさせる

──WELgeeの事業内容についてご説明いただけますか?

渡部 WELgeeは約6割が事業収益で、約4割が個人寄付や助成金・企業の協賛によって成り立っています。この分野に政府や行政からの補助金や助成金が付いたり、委託事業となることはほぼありません。

 事業の柱になっているのが、「JobCopass」です。今お話ししてきたように日本にやって来る難民には人間的に優れた人材がたくさんいますから、「彼らを雇用しませんか」と企業に紹介しています。逆境を乗り越えてきた難民人材たちが日本にはたくさんいて、彼らが持っている能力や経験、可能性を必要とし活かせる分野や企業があるはずだ、という仮説のもとにずっとやってきました。なので、決して一般的に外国人労働力としてイメージされる人手がとにかく足りないから日本人の若者が集まらない3K現場で働いてもらおうとか、雇用の調整弁として安い労働力としてだけ使ってもらおうという発想ではありません。例えばグローバル化のなかで、アフリカで新しいビジネス展開をしたいと思っている企業にとって、アフリカで起業を経験した人材がいてくれたら大いに強みになる可能性があります。それから、新規事業開発においてはチームに多様性があることがますます重要になってきています。社内のダイバーシティを推進するためにも、難民人材は大きな価値を持っています。

 こうした人材は、企業側からしても独自に発掘することは難しいわけです。難民からすればハローワークに行っても日本語が喋れない、在留資格が不安定という段階でことごとく終わってしまいますから、お互いにとって出会うきっかけがないわけです。市場もない。そこを結びつけるのがJobCopassで、こうした難民に特化した人材紹介サービスを厚生労働省の有料職業紹介事業制度の許可を取得して行っています。難民人材と企業がマッチングされて、雇用に至った場合にフィーをいただいています。求職側と求人側をマッチングするという意味においては、リクルートなんかと同じ構図ですね。

 JobCopassの最大の特徴は、我々が難民人材と企業と長い期間を伴走するところにあります。まずは面談フェーズがあって、じっくりとライフプランについて話をします。今までどのような経験をしてきて、どのような能力を持っているのか、そしてそれを将来的にどのように活かしたいと考えているのか面談したうえで、その人材を登録企業に紹介していきます。

 関心を持ってくれた企業には、必ずお試し雇用を挟んでいます。働いてみることで見えてくる向き不向きもありますし、企業にとっても正社員として雇うことはドキドキすることですからね。この2年間で9名の難民人材が実際に雇用されています。今では170社くらいとつながりができて、ヤマハ発動機、大川印刷、コミットなど6社で採用に至っています。

──正社員として高度な業務に就くことが目標になっているわけですね。

渡部 そこはとても難しいところです。誰でもできる派遣や日雇いのアルバイト・マッチングをすれば、今日寝るところもないという200人に仕事を提供できるかもしれないのに、なぜそれをしないのかという葛藤は常にあります。労働基準法も守られていないようなブラックな現場も含めて、とりあえず日雇いで9000円を得られるような仕事は実はたくさんあるんですよ。解体の現場や食品工場などは人手が足りていないので、難民であっても在留資格を持っていなくても斡旋する仲介業者も存在しています。けれども、そうしたブラック労働では労災も下りないケースがあるんです。「それでもいいから働きたい」という難民もいますから難しいわけですが、この先にWELgeeが望んでいる仕組みの構築があるのかと言えば、やはりそれは違いますね。

──企業からすると、難民の法的な立場がきちんと確立されていなければ、雇うことは難しいと考えるのではないですか。

渡部 難民の人たちがJobCopassを使うにはいろいろな条件が必要になります。先ほどお話ししたようにまずは不安定ではありますが、「特定活動」という在留資格を得ます。8カ月経つと、そこに就労許可がもらえます。これは6カ月ごとに更新していかなければなりません。次の目標は、きちんと企業に雇用されることです。そして、在留資格を「技術、人文知識、国際業務」の安定した就労系ビザに企業と一緒に書き換えていくことをめざします。一般的に日本で働いているホワイトカラーの外国人と同じように就労できる在留資格のことです。これに書き換えることができれば、技術を持った外国人として長期的に働き生きていくことができて、「難民」として生きていかなくてもよくなるのです。

 けれども、この在留資格に書き換えるための法律上の条件が難民にとっては厳しいことが多いんですね。まずは大卒以上であること、それから卒業した学部の専門性とこれからの仕事の職種が関連しているとか、そういう部分も見られたりする。ただ、難民の場合は大学を卒業したことを証明する書類を持ってこれなかったり、そもそも大学のある地域が爆撃されていたりしていますから、そこをクリアしていくことが意外と難しかったりします。

JobCopassはこうして難民人材と企業がマッチングしたらそれで終わりではなくて、その後も長期間にわたって伴走することに特徴があります。だから、ビジネスとして成り立たせることがとても難しいという課題に直面しています。コストをなるべく下げて利益率を上げたかったらマッチング後はもう関与せずに、次々と新しいマッチングが成立することをめざすのが従来の人材紹介業です。普通は就活に何年も伴走したりはしませんよね。けれども私たちは、彼らが安心・安定して生きられることを目的として伴走するので、そこに惜しみなく時間も使っています。そうすると、費用対効果の観点では、人材紹介の会社からは「赤字でしょ」と笑われちゃうぐらいになってしまっているのが現状ではあります。

 ただ、暗中模索で始まったJobCopassを数年トライアルする中で、乗り越えるべき課題や道筋が明らかになってきたこともあります。今までは難民認定をひたすら待つだけでした。未来の選択肢がない。それはとても受動的で辛いことですが、「技術、人文知識、国際業務」の在留資格を取得するために必要な条件を一つひとつクリアすることで、新しい選択肢が見えてきた部分は大きな違いかなと思っています。

なぜ日本の難民認定率は極端に低いままなのか?

──道が見えていれば頑張れるわけですね。

渡部 JobCopassはWELgeeの事業の柱ですが、それ以外にも企業向けにセミナー事業も展開しています。私たちは「アンバサダー」と呼んでいますが、難民の人たちがWELgeeのファシリテーターと一緒に講師として企業向けのワークショップをやったり対話の場を持ったりして、ダイバーシティ研修やリーダーシップ研修を開催しています。JobCopassとセミナー事業で収入の約6割を占めています。残りの4割は、毎月2000円から1万円くらいの範囲で応援していただいている100人ほどのマンスリーサポーター(個人寄付)、それから、企業の助成金・協賛も含めたハイブリッド型になっています。

──日本は難民認定の割合が極端に低いですね。2018年の法務省の統計によれば、申請者10493人に対して認定されたのがわずか42人でした。

渡部 どこの国でも誰でも簡単に難民として認定するわけではありません。ただ、日本は他の先進国と比較すると圧倒的に認定率が低いところがあります。同じようにシリアから逃れた兄弟であっても、ドイツでは難民として認定されて日本ではされなかったこともあるんです。こうした例はよく見られます。

 日本は、難民条約の解釈の仕方がものすごく厳格で、政権に命を狙われたことで国から逃げてきた難民に対しても、「個別的・具体的に狙われた理由」をペーパーとして提出することを要求します。これが膨大な量があるんです。例えば、民族対立が背景にあって、自分の村がすべて焼き討ちにあったとします。こうしたケースでも日本政府は個別的・具体的な理由を求めるので、「私が狙われた」ことを証明しなければなりません。そうすると焼き討ちによって村が消滅したとしても、それは「あなた個人ではない」ということになる。拷問されたとしても、その証拠になるものを提出するのはあまりにも厳しいと思います。拷問中にビデオは撮れませんからね。それでも認定する側は証明として求める。こうした厳格な審査は、難民だからこそ置かれた状況を理解することにはとても追い付いていません。ずっとそこが変わっていないので、21世紀になって20年以上経っても1%以下の認定率であり続けている理由になっています。

 そもそも難民条約は、第二次世界大戦が終わった後にできた枠組みですからもうとっくに古くなっています。当時は今みたいな大規模な人の強制移動が起こるとは誰も想定していなかった。国家間ではなくて国の中の紛争が生まれることやジェンダーによって迫害される人の存在、地球環境の破壊によって住めなくなる島が出てくるなんてことは、まったく想定していなかったわけです。70年前にできたものですから、条文のどこにも載っていないLGBTQ(性的マイノリティ)が理由で迫害される人のことは守りようがないんです。時代的な齟齬が出てきていますから、見直す時期がきているという専門家や研究者の指摘があります。

──難民認定が進まない一方で、外国人を労働力として受け入れようという流れは加速しています。コンビニの従業員を見てもいろいろな国の人が働いています。ただ日本は長く均質的な社会でしたから、先行世代にはこうした多様性に慣れずに「怖い」と感じる人も多いですね。

渡部 私たちよりもさらに下の世代になると、同じクラスに外国人児童がいたりすることが珍しくなくなっていますよね。東京で生まれ育ったりすると特にそれが当たり前になっている。日本語はペラペラだけど、ルーツは外国にあるという人も増えていますよね。それから私のように日本で生まれ育った人でも、留学先で知り合った人たちとその後もSNSで日常的につながっていたりもします。一緒に授業を受けたり、一緒に遊んだりする人たちが日本国籍なわけではないことだって、当たり前になってきている。

 だからと言って、自分たちと異なる人が社会にいることを怖いという意識を持ってしまう人に対して「それは間違っている」とは言えないと思うんですね。その人の感じ方ですから。それに、いわゆる保守的な方が、「外国人が入ると日本文化が崩れる」と言われた時に、「それは違うと思う」と私たちが言える立場でもない。それは一緒に語りあったり笑ったりした経験がなかっただけだと思っています。職場に外国人が誰もいなかったら、初めての外国人社員さんに不安を感じるということも同時にわかります。

 ただ、コンビニで働く店員さんの国籍・出身が多様性に満ちていることを見ればわかりますが、もうそれが普通の光景になっていますよね。10年前とは状況がだいぶ変わりましたから、次の10年が経つと意識はさらに変わるのだと思います。

難民を日本社会に活かすという発想に変える

──今後の展開については?

渡部 JobCopassの「育成・採用・定着」という一貫した伴走を通じて、高度難民人材を日本の企業が雇用し、活かし合う前例が生まれてきました。けれども、そこに再現性を持たせていく必要があります。そのためにもゆくゆくは、現在の法規制の複雑さにも風穴を開けていきたいと考えています。具体的には、祖国に戻ることができない人たちが、「難民認定をひたすら待つ」ことに加え、主体的に未来を築くことも選択肢となるようにしてゆく。

 ポイントになるのは、難民を支援するという発想から、多様な人材を日本の社会・産業界に活かすという発想に変えていくことだと思っていて、高度難民人材の雇用を日本がどうやって多様な人材を活用していくのかという今後の未来志向な政策課題の一つにできないかと模索しています。いまWELgeeでルールメイキングチームを発足させたところです。企業と難民人材のマッチングはいい事例が積み重なってきたので、この成果を企業さんと一緒に政治に伝えていき、どのように政策をつくっていくかにチャレンジしたいと思っています。

 国際法上も人権の観点からも、難民の保護は非常に大切です。難民条約に加盟している国々に課された義務でもあります。しかし、難民を単に保護すべき存在とのみ見なし続けると、どうしても議論の中で財政的な限界が生じたり、先に述べたような証拠提出の厳密さで認定には至らなかったりする。けれども、別に難民保護は「一方的に守ってあげなくてはならない」ということではないのです。彼らでさえ「働くことで僕らも日本社会の一員になって貢献したい」と言っているわけです。これは活かす手しかない! というかたちで発想の転換をして、見出されていなかった価値を生み出して行くことをめざしたいですね。グローバルな人の移動の中で、これからの日本の政策は、日本にとっても国際社会にとっても新しい戦略を描いて行けるという新しい例を示すことができれば理想ですね。 (終)

聞き手・本誌 橋本淳一

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