「シリアをめぐる闘争」は続く【池内恵】

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『公研』2024年12月号「めいん・すとりいと」

 

 シリアのアサド政権が、2024年12月8日に崩壊した。11月27日にシリア北部イドリブに反体制勢力「シャーム解放機構(HTS)」が率いる反体制派の連合勢力が大規模攻勢に出てから、12月1日のアレッポ陥落、そして12月8日のダマスカス陥落と、わずか12日間でシリアの強権体制が瓦解した。

 ロシアに亡命したと見られているバッシャール・アサドの父ハーフィズ・アサドが国防相だった1970年のクーデタで全権を掌握、翌年に大統領に就任して以来、2000年のバッシャールへの「世襲」を経て、半世紀を超えて続いてきた「アサド王朝」の恐怖支配は、倒れる時はあっけなかった。

 頑健と思われていた独裁体制が崩壊したことの精神的、戦略的な波紋は中東全域に及んでいる。内戦と恐怖支配から逃れて難民生活を送ってきた者たちは故郷への帰還を急ぎ、国内で息を潜めてきたシリア人たちは、表に出て歓喜を爆発させる。宗教的少数派が主導したアサド政権の支持層は虐殺と迫害を恐れて身を隠し、命乞いをする。筆舌に尽くしがたい強制収容所の惨状の開示は、怒りと絶望と虚脱を増すばかりである。

 アサド政権崩壊の中東政治への影響は大きい。20世紀後半に現代の中東地域が形作られる中で、シリア、イラク、エジプトというアラブ世界の三つの軍事大国が、民族主義を掲げ、求心力を競ってきた。1990年と2003年の戦争でイラクが混乱と分裂の渦に巻き込まれて弱体化した後で、内に対しては旧態依然の民族主義・反米イデオロギーを連呼しつつ、国民を恐怖政治で従わせ、外に向かっては地域大国や超大国の戦略的均衡の隙間に位置して存在を維持してきたシリアのバース党支配体制は、中東地域の安定の礎石の一つを提供すると共に、停滞の一因でもあった。

 2011年に始まる「アラブの春」の民衆蜂起に苛烈な武力弾圧で対峙し、シリア内戦を惹起して政権に立て籠ってきたアサド政権が依存を深めたのが、地域大国イランであり、イラン系のレバノンの民兵組織ヒズブッラーであり、域外大国ロシアだった。これらの支援勢力から軍事力や外交力を借り、反米・反イスラエルの「抵抗の枢軸」を謳いつつ、巧みにそれらの「敵」との対決は避け、「シリアの安定」の価値を米国やイスラエルに一定程度認めさせて存在を許容されるのがアサド政権の常套手段だった。

 米国はオバマ政権期にシリア反体制派への支援に腰が引けており、アサド政権による化学兵器使用を踏み越えてはならない「レッドライン」と宣言しながら軍事制裁を回避し、反体制派の梯子を外した。イスラエルはシリアにおけるロシアとの協調を優先してきた。

 反体制派がなぜ突如として力を得たかは後世の解明を待たねばならない要素が多々あるが、イスラエルがレバノンのヒズブッラーの指導部メンバーをほぼ全面的に殺害する大打撃を与え、イランへの軍事的圧迫を強めたことで、中東の二大地域大国と言えるトルコとイランの勢力バランスが、大きくトルコ側に傾き、イドリブでトルコによって提供される安全地帯で存在を維持していた勢力に有利となったという点が大きい。そのトルコにしても、アサド政権の打倒を諦めかけ、サウジアラビアやUAEなど湾岸産油国に続いて宥和に傾いていた。トルコに見捨てられる日が迫る中、イラン側の勢力が急激に弱体化した好機に、アブー・ムハンマド・ジャウラーニー率いるHTSが「乾坤一擲」の攻勢を仕掛けたところ、予想外に早期・大規模な成功を収めてしまったというのが現在の見方である。

 アサド政権崩壊によって生まれたシリアの権力の空白を埋めようと、国内・国外の勢力が殺到する状況である。シリア内戦の中で現れたイスラーム国に対抗するために米国の支援を得て北東部で実効支配を確立し、アサド政権とも付かず離れずの関係にあったクルド系民兵組織YPGが主体であるシリア民主軍(SDF)は、トルコが支援しクルド勢力を敵視するシリア国民軍(SNA)との戦闘を繰り広げ、イスラエルは新政権の軍事的弱体化を図る空爆を行い、1967年から占領しているゴラン高原の支配をさらに拡大しようとシリア領土への侵攻を深める。中東の勢力均衡の中心であるシリアをめぐる闘争は続く。

東京大学教授

 

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