『公研』2021年11月号「めいん・すとりいと」
今月、拙著『頼朝と義時』(講談社)が刊行される。執筆にあたって、源頼朝の政治的軌跡を改めて検討して気づかされたことは、頼朝は必ずしも平家滅亡にこだわっていなかったという事実である。
周知のように、頼朝の父である源義朝は平治の乱で平清盛に敗れて亡くなった。頼朝は罪人として伊豆に流された。現代の常識では、頼朝にとって平家は父の仇であり、滅ぼすことを心に誓っていたように感じられる。けれども、現実は異なる。
伊豆での挙兵から一年後、頼朝は後白河法皇に密使を送った。頼朝の言い分は以下のようなものである。挙兵は朝廷に対する謀反ではなく、後白河院を軽んじる平家を討つためである。(清盛の病死によって)後白河と平家が和解したのであれば、平家打倒には固執しない。かつてのように源平両氏が朝廷に仕え、東国を源氏が、西国を平家が支配すれば、内乱を鎮圧できるだろう、と。
そこで後白河が頼朝の提案を平宗盛(清盛の嫡男)に打診したところ、宗盛は「頼朝を討つことは亡父の遺命であり、朝廷からの命令であっても従えません」と断ったという。
頼朝が平家との和平を本気で望んでいたかどうかについては議論がある。当時の頼朝勢力は朝廷から反乱軍とみなされていたから、賊軍の汚名から逃れるための方便として言っただけで、いずれ平家を滅ぼすつもりだったという見方もある。
しかし私は、本心からの提案と考えている。この時期、木曽義仲が台頭しており、頼朝をおびやかしていたからである。
頼朝を源氏の嫡流と考えている現代人は多いだろう。だがそれは、頼朝、そして後に成立する鎌倉幕府の一方的主張にすぎない。頼朝挙兵時点では、頼朝が源氏の頂点に登ることは、決して自明の前提ではない。
当時、東国の各地で源氏の武士たちが各々の判断で挙兵しており、頼朝に従わない者も多く存在していた。木曽義仲もその一人である。義仲は自分こそが源氏の棟梁であると考えて軍事行動を起こしていたのだ。
仮に頼朝提案が通っていれば、頼朝は朝廷から源氏の棟梁として公認され、義仲ら諸国源氏の上に君臨することができただろう。中世人にとっては家の継承こそが最重要である。父義朝と清盛が武家の棟梁として並び立っていた往時を再現することは、頼朝にとって親の仇を討つことよりも大きな意味を持っていた。頼朝は平家を滅ぼすことより、源氏のトップに立つことを優先したのだ。
その後、木曽義仲の快進撃により平家は都落ちする。すると頼朝は義仲を滅ぼし、再び平家との和平を模索する。平家討伐にこだわる後白河の意向によって一ノ谷合戦が行われ、源氏軍が大勝するが、それでも頼朝は平家殲滅には後ろ向きだった。頼朝はあくまで平家を降伏させることを考えていた。
ところが、後白河の意を汲んだ源義経が、頼朝の許可を得ずに壇ノ浦合戦を強行し、平家を滅ぼしてしまう。これによって安徳天皇と三種の神器の一つである草薙剣が海に沈んでしまった。この義経の失態が、頼朝と義経の対立の伏線になる。
俗に「源平合戦」と言うが、頼朝は平家よりもむしろ義仲や義経など、同じ源氏のライバルに敵愾心を燃やした。この「源源合戦」の側面が、頼朝の冷酷なイメージを形作ったと考えられる。
もっとも、本来の敵と戦うより身内と戦うことに熱心になる現象は、歴史上しばしば見られる。太平洋戦争中の陸軍と海軍の争いは広く知られている。昨今の政治でも、衆院選より自民党総裁選のほうが良くも悪くも白熱していた。歴史学界にもそういう面があるように、私には思われるのである。
信州大学特任助教