『公研』2021年10月号「めいん・すとりいと」

 このところ、日本が「安い」ということを耳にする機会が増えたような気がする。要するに20年以上日本ではインフレがない状態が続き、賃金も上がらないのに対して、外国ではマイルドなインフレが続いて賃金も上がっているので、「円高」であるように見えるときがあっても、日本で働いている人々の購買力が落ちているという話である。

 日本の外で働いている人から見れば、その給料に対して日本の物価は非常に安く、お得にサービスを受けることができる。これはコロナ禍以前のインバウンド拡大の重要な理由であったし、逆に仕事で海外に行くたびに昼ご飯が高いなあと嘆く研究者の実感にも通じる。

 給料が上がることがなかなか期待できないので消費者は低価格志向を強め、消費者が買ってくれないから企業は値上げもできず、そのために給料を上げることもできない。悪循環で停滞しているというのはもちろんだが、それだけでなく価格に合わせてサービスの質を下げるという動きもある。たまに食べる個包装のスナック菓子を開けてみると、前と比べてずいぶん小さくなったなあと思うことは少なくない。原材料の値段が少しずつ上がっている中で実質的に値上げが進み、同じ給料で買うことができるサービスは減っていく。その減り方が目に見えると「貧しさ」を感じる度合いは高まるだろう。

 政治のほうもある程度は対策を見せている。あまりうまくいかなかったが「アベノミクス」の中では自民党政権が主導し、政労使が一致して賃上げをめざしていた。総選挙を目前にした自民党総裁選挙で勝利した岸田新総裁が「所得倍増」を唱えていたし、野党では国民民主党が給料を上げることを強調している。しかしそうは言っても、企業が消費者は値上げを受け入れてくれないと信じている限り、給料を上げることが難しいだろう。結局みんなが現在の「お値段据え置き」が続くと思っている限りはそれぞれの行動パターンは変わらず、その均衡は経済全体を縮小させることがあっても拡大させることはない。

 うまくいかないときは大きな改革──ビッグプッシュ──によって望ましい均衡を実現して人々の行動を一気に変えたくなるものである。一度給料上昇→値上げ→給料上昇の好循環が回り始めればうまくいくのだから、政治家には大きな刺激を与える政策を期待したい、と。20年以上議論されるリフレ政策は時にそのような期待をにじませながら展開されているように思われる。しかし、いわゆるアベノミクス第一の矢ではそのような均衡の転換までは生じてこなかった。

 10年近く続いた安倍・菅政権が終わり、そのタイミングで日本の「安さ」、もっと言えば新たな「貧しさ」が強調されつつあることは、これまでの経済政策のフレームワークを考え直すきっかけとなるかもしれない。本来あるべき豊かさを「取り戻す」のではなく、多くの国の後塵を拝していることを率直に受け止めて学び直し、キャッチアップをめざしながら経済体制の再構築を図るのである。企業に対して「給料を上げろ」と号令をかけるよりも、企業も含めた社会に向けて、優れているサービスや製品の品質に対して適切な値段を支払うように呼びかけることが先になるのではないだろうか。それがサービスの価値、そして私たち自身の生活を守ることにつながるのだから。
神戸大学教授

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