『公研』2020年10月号 第608回「私の生き方」

土井正博・元プロ野球選手、野球指導者

お袋を助けてやらな

──1943年大阪のお生まれです。

土井 生まれたのは大阪市港区ですが、すぐに河内の柏原市に引っ越してそこで育ちました。親父は姉が1歳、僕がゼロ歳の時に戦死していますから、僕らきょうだいは父の顔を知らずに育ちました。フィリピンのバシー海峡で亡くなったと聞かされました。

 物心ついたときには、お袋は機械でタバコを巻いてタバコ屋に卸す内職をしていたのを見ていました。それから家に文房具なんかを置いて、商売もやっていました。母の兄が書店をやっていて、そこから本を回してもらって本屋さんもやるようになるんです。中学生くらいからは、本を配達して家の仕事を手伝っていました。走って本を届けると、お駄賃やお菓子をくれたりすることがあってね、それが嬉しかった。母子家庭でずっと苦労しているのを見てたから、「お袋を助けてやらな」という思いは小さい頃からありました。

──小さい頃からスポーツ万能でしたか?

土井 徒競走でも幅跳びでも何をしてもほとんど一等賞でした。姉も運動がよくできて、砲丸投げで全国大会に出場しています。小さい頃は、一つしか歳が違わないのに姉貴に押さえ込まれると、太刀打ちできないくらいやった(笑)。

──野球が好きになったきっかけは。 

土井 小学校4年生の時に、深津先生という女性の先生がいてたんです。ある日、「職員室に来なさい」と呼び出されるんです。やんちゃで喧嘩ばかりしていて悪さで目立っていましたから、てっきり怒られるものだと思っていました。そうしたら、竹のバットとソフトボールをくれたんです。

「校庭で棒切れ振り回して暴れたりするんやったら、これで野球をして遊び」って。あの時は、本当にびっくりしました。それからは、毎日三角ベースですよ。それがおもしろくなって、夢中になってバットを振り回しました。中学校に入ったときには、相撲部や陸上部などいろいろなところから「来てくれるか」と誘われましたけど、野球一筋でしたね。

──当時、憧れたプロ野球選手は?

土井 西鉄ライオンズの豊田泰光さんがカッコええなと思っていました。中学生のときに、大阪球場でアイスクリームの売り子のアルバイトをしていたんです。たくさん売ると配当がもらえるんやけど、僕はアイスを売るのはそっちのけで野球ばかり観ていました(笑)。小遣い稼ぎにはならんけど、そこでたんまりとプロ野球の試合をタダで観られるのが嬉しかったんです。

 西鉄と南海は当時の黄金カードで、お客さんがいっぱいでね。ナイターのカクテル光線に照らされる豊田さんをスタンドの上から見ていると、ものすごい男前に見えたんです。中西太さんはそうでもなかったけど(笑)。

 西鉄は「野武士集団」と呼ばれていて、僕らも気性の荒い河内の育ちやから彼らのそういう雰囲気が好きだったんだと思う。そのアルバイトで初めてプロ野球選手を見ました。それよりも前はプロ野球選手はメンコに描かれていたりして、メンコを集めていたから選手の顔や特徴はそれで覚えていたんです。

 豊田さんの次に憧れたのは、やっぱり長嶋茂雄さん。本当のスーパースターですよ。僕は、通算ホームラン数では長嶋さんの記録を抜くことができたけど、現役のときは長嶋さんの数字を目標にして追い掛けていた感じでしたね。

──高校は大鉄高校(現・阪南大学高等学校)に進まれていますね。野球部が強豪だったわけでもない。

土井 実は高知商業から「うちに来ないか」とお誘いを受けていたんです。それで僕も高知に行くつもりでいてたんですが、卒業間近になってこの話がなくなってしまうんです。受験はどこも終わっていましたから途方に暮れましてね。ソロバンでも覚えて家の仕事を手伝ったらいいかとも思っていたんだけど、たまたま本の配達先に、大鉄高校の校長をされていた小林菊次郎さんの息子さんのご自宅があったんです。「高校はどうするんだ?」と聞かれたときに、「実はまだ決まっていないんです」と答えたんです。「それじゃあ父にお願いしてあげようか」という話になって、卒業ギリギリで進学先が決まりました。

 人の縁というのは本当に不思議なもんやなと思いますね。本の配達をしていなかったら、この話もなかった。大鉄に進んでいなかったら、野球を続けていなかったでしょう。

高校を2年で中退し近鉄に入団

──1年生からエースで4番だったそうですが、同じ大阪にライバルと言える存在はいましたか?

土井 中学時代から対戦していたピッチャーに、のちに阪神に入団した久野剛司がいました。1年生で八尾高校のエースになっていて、夏の甲子園でいきなりベスト4まで行ったんです。この年の秋季近畿大会県予選準決勝で、久野と対戦する機会がありました。彼を目当てにプロのスカウトがたくさん来ていましたが、その試合で「思いっきり行ったれ!」と振ったらホームランになった。中学時代にも久野を打っていましたからね、打てないはずがないとは思っていたんです。

 このホームランをきっかけにして、スカウトの目に止まるようになるんです。一番関心を持ってくれたのが、当時近鉄のスカウトをされていた根本陸夫(後に広島、西武、ダイエーなどで監督を歴任)さんでした。僕からすれば、生涯の恩師となる人です。

 今でもたまに考えるんやけど、高知商業に行っていればスカウトの目には止まらんかったんじゃないか。高知商業には1学年上に徳久利明っていうものすごいピッチャーがいて、近鉄には僕と同期で入団しています。徳久は1年目から15勝を上げて新人王になるんです。やつも我が強いし、僕も生意気だから同じチームにいれば、間違いなく揉めていたと思うんです(笑)。

 そうなると試合にも出られていなかったかもしれないし、スカウトの注目を受けることもなかったかもしれない。大鉄は大阪府の予選ではベスト8くらいで、なかなか甲子園には行けない。強豪ではなかったけど、自分にとっては良い選択でした。

──春の選抜甲子園では1回戦で愛知県の東邦高校と対戦していますが、敗退しています。土井さんは失策されたとか。

土井 レフト線に来た打球を足で蹴ってしまったんです。ボールが点々と転がっているうちに、ランナーが生還しました。致命的な失点で1回戦で敗退することになりました。2年生の春だったから、「夏もあるし、3年もある」とすぐに気持ちを切り替えられた。あれが最後の夏だったりしたら、その後も引きずったかもしれない。ただ、夏の予選では〝怪童〟と呼ばれた尾崎行雄がいる浪商に敗れました。3年生になる前に高校を中退して、近鉄バファローズに入団しますから結局あの春の選抜が唯一の甲子園になりました。

──スカウトの根本さんは、土井さんの気を引くために美味しい食事をご馳走したりして接近されたのでしょうか? 

土井 そういうことは一切なかったですね。そんな話があったことは、僕は何も知らんかったからね。根本さんは僕が学校で授業を受けている間に高校の先生を通じて、お袋を説得に掛かったんです。お袋は最初は猛反対でした。一つ年上の姉が同志社大学に進学していましたから、僕のことも大学まで進ませたいという思いがあった。僕も高校は卒業するまで通うつもりやったんです。ところが、根本さんの猛アタックの前にお袋の気持ちも変わっていって、「大事なことやからよう考えや」と言うようになった。そして最後のところでは「どないする?」と僕に聞いてきた。

 僕からしたら、大学に行って勉強したいという気持ちは始めからありませんからね(笑)、その言葉を聞いて「プロに挑戦したい」と覚悟を決めました。放課後に一人で球団に出向いて入団契約書にサインしました。

 ずっとお袋が必死に働くところを見ながら育ったし、生活が苦しいことはよくわかっていました。高校を辞めてプロ野球選手として稼いで、少しでもお袋に楽をさせてあげたいと思ったんです。

──高校を中退させてまで有望な選手を獲得するというのもすごい話ですね。今そんなことをしたら大問題になるでしょうね。

土井 まだドラフト制度がなかったからね。当時は中学校を卒業していれば、選手と直接話をして契約できたんです。「あなたを買います」という感じでした。東映に入団した尾崎行雄さんや阪神の古沢憲司なんかも高校を1年で中退して阪神に行っています。

解雇の危機を救った恩師・別当薫

──こうして1961年に近鉄バファローズに入団されます。新人でも給料は良かったのですか?

土井 フランク永井さんの『13800円』という歌が流行っていて、あの頃の大卒初任給とされていたけど、月に5万円もらってました。新人は、合宿所に入るから暮らしていくのにお金はそんなに掛からないから、毎月ほとんどを実家に仕送りできました。

 一軍のレギュラーになったら翌年からは寮から出てもいいんだけど、入団してから2、3年はだいたい寮に入る。寮には厳しい門限もあって、野球漬けの生活をするには素晴らしい環境ですよ。若い頃は外に飲みに行くこともほとんどなくて、お酒を飲まれない先輩の関根潤三さんがよく餃子を奢ってくれたことは覚えています。

──プロの投手と対戦して、やっていけるなという手応えはすぐに掴まれたのですか。

土井 僕は1年目に二軍で3割近く打っていたんですよ。一軍のチームもダントツで最下位だったし、秋には自分を一軍に上げて試してくれると思っていました。けれども、結局1度も上げてくれなかった。自分ではプロでもやっていけるという気持ちはあったけど、半信半疑でしたね。一軍の監督だった千葉茂さんは、コツコツ当てるタイプの打者を好むんですよ。「ピストル打線」なんて言われていて、右方向に流して打つことが求められた。でも僕はホームランを打てる打者だと思っていたから、強く振ることにこだわっていたんです。そうしたら、シーズンが終わった後に球団から解雇を通告されました。

──高校を中退させてまで獲得したのに、1年で解雇通告とはあんまりですね。

土井 当時は70人くらいの選手を雇ってもよかったんです。それに今のようにたくさんの契約金をもらって入団するわけやない。背広なんかを買うための社会人として生活をはじめていけるだけの支度金が用意されただけだから、次々と入団させて、「使えない」とか「監督の構想に合わない」となると簡単にクビを切られたんです。

 ところが、千葉さんが球団を去ることになって、別当薫さんがあらたに監督に就任したんです。構想から外された選手たちも秋季練習で集めてチームの編成を再構成することになった。そして別当さんは、ご自身もホームランバッターでしたから僕の長距離打者としての資質を評価してくれた。整理対象になっていたのに、今度は僕をチームの主軸として使うと言ってくれたんです。まだ18歳やったから、話題つくりの意味もあって「18歳の4番打者」なんて言われるようになるんです。

──危機一髪でしたね。

土井 別当さんからは「いろいろな人があれこれ言うだろう。聞く耳は持たなければあかんねんけど、自分のことは自分でやるんだぞ」と言われたことを覚えています。「3年間はとにかく辛抱して練習に集中しなさい。遊びほうけるな」と何度も忠告されました。

 4番打者の重圧もあって最初はなかなか打てなかったから、「スタメンから外してくれ」と直訴したこともあったんです。それでも別当さんは僕を辛抱強く使い続けてくれました。3年目には、本塁打28本、打点98、打率2割9分6厘の成績を残すことができた。

──3年目で才能が開花した。

土井 自分がコーチになって預かった連中にも「3年間は集中して努力しなさい」と助言しています。ホップ・ステップ・ジャンプじゃないけど、松井稼頭央も中島宏之も秋山翔吾もみんな3年目に成果が出てくる。1年目から打ちまくったのは、清原(和博)だけでしたよ。

──プロ野球選手は、使ってくれる監督に出会うことが大事になってきますね。

土井 その通りです。コーチは選手にアドバイスはできるけど、育てることはできないんです。結局は試合に使ってもらえなければ伸びることはない。コーチは監督に「あいつはいいものを持ってますよ。使ったら伸びます」と進言はします。でも、使うのは監督です。だからね、監督が誰を使うのかがものすごく大事になってくる。

投手と打者の駆け引き

──成績を残し続けることはたいへんですね。相手も研究してくるし、新しい才能も次々と現れてくる。

土井 最初の頃は、南海の杉浦(忠)さんが投げているとまったく打てなかった。打席に立つと野村(克也)さんは、投げるコースを教えてくれるんですよ。「スライダーいくぞ!」と言うと、実際にスライダーが来ましたが、それでもかすりもしない。「次は真ん中行くぞ!」とまた宣言するんですね。野村さんは中腰になっている。杉浦さんはアンダースローだから、地面から浮き上がってくるような球筋なんです。「低いな」と思っても、やっぱり本当に真ん中。だから、なんぼ教えてもらってもちっとも打てなかった。

 僕は野村さんには、ずいぶん可愛がってもらいました。ただね、可愛がってくれるということは、自分よりずっと下に見ているということなんですよ(笑)。

 それでも、やられっぱなしというわけにはいかないから、工夫するわけです。若いうちはね、実績のある投手からは見下ろされて投げこまれるんですよ。稲尾(和久)さんが投げていると、アンパイアもだいたい向こうの味方ですよ。2ストライクに追い込まれて、際どいコースを見送るとだいたいストライクです。臭いなと思ってもストライク。それで後ろを振り返ったりすると、「前を見ておけ! お前10年早いわ!」と怒られる。

 稲尾さんがね、「若造にフォアボールで歩かせるのが1番もったいない。三振を取るために3球も4球も投げるのもムダ。打たせて料理したら、1球で済むやん」と言っていたのを人伝てに聞いたことがあるんです。それからは初球からガンガン打ちにいきました。いいピッチャーに追い込まれてしまうと、圧倒的に不利になるんです。だから、僕は三振がものすごく少ないんですよ。

──実績のある投手に呑まれてしまったら打つことはできませんね。

土井 そう。プロの世界は、経験を積んでいくと、今度は相手の投手に対して見下ろしてボールを待てるようになるんです。村田兆治や山田久志が相手でも、こちらが悠然と見送れば、アンパイアも「ボール!」と言ってくれる。そういう投手と打者の力関係が、審判の判定にも微妙に影響してくるんです。ピッチャーはそこにあまりはまってしまうと、ひどいジンクスに入ってしまうこともある。

 今の阪神の藤浪晋太郎はそういう状態ですよね。いいときは、打者を見下ろすようにして豪速球を投げ込んでいたけど、それが「コントロールが悪い」という雰囲気になってしまうと、臭いところがすべてボールに取られてしまう。それが続くことになると、あれだけの球を投げられる藤浪でも自信をなくしてしまう。「またか、またか」と周りも見ることで、さらに悪循環に入ってしまって自滅してしまっている。

 藤浪のことは、環境を変えるためにも旅に出したったらいいと僕は思う。アメリカの3Aでも台湾でも韓国でも今までとはまったく違う環境に身を置いて1からやり直す。本当に1回谷底に落とすくらいの荒治療が必要かもしらんね。そこで良い投球をして自信を得て這い上がってきたら、昔の自分を取り戻せるんやないかな。

自分の打撃を掴む

──土井さんは、現役時代は優勝とは無縁で、弱いチームに在籍されていました。通算2452安打は、日本シリーズを経験していない選手で史上最多という不名誉な記録になっています。あまり気分がいいものではなかったのではないでしょうか。

土井 チームの勝利のために戦っているわけだから、負けてばかりいることは気分がいいわけがない。でもね、プロだからそこは個人プレーに徹していました。それぞれの選手がなんぼ力を合わせて戦っても、プロ野球はシーズンを通じて戦うから、どうしても戦力の差が出てしまう。それでも個人個人がベストを尽くして目立たんことには、お客さんもきてくれない。

──オールスターでは1967、68年の2年連続でセ・パ両リーグ合わせて、ファン投票1位になっていますね。長嶋さんよりも多い得票数です。

土井 パシフィックには、野村さんと張本(勲)さんという大打者がいたけど、二人は人気はイマイチでした(笑)。もちろん実力はものすごいんだけどね。セ・パ合わせて人気投票で1位になったときには、王貞治さんと二人で『週刊ベースボール』の表紙になったこともあるんです。あれは忘れられないね。嬉しかったですよ。

 「人気のセ、実力のパ」なんて言われていたけど、セ・リーグに対しては「何クソ!」という気持ちがいつもありました。セ・リーグにもすごい打者はたくさんいましたが、王さんと長嶋さんの他の選手には絶対に負けてないという気持ちでいましたね。

──パ・リーグのライバルにはオリオンズの榎本喜八さんがいましたが、どんな打者だったのでしょうか? ロッテファンの間では伝説的な存在です。

土井 川上哲治さんにイメージが似てたと思う。泥臭い印象なんだけど、バットコントロールがものすごい。安打製造機ですよ。でも足が遅いんですよ。張本さんにしてもイチローにしても安打製造機と言われた人は、足が速くて内野安打が多いでしょ。でも、榎本さんは足が遅いのにヒットが多いんです。実質的な意味では、ヒットを打つのが一番上手かったと思う。

──野村さんは榎本さんについて、「独特の雰囲気に呑まれて、ささやく余裕もなくした」と述懐されています。殺気立った雰囲気があったとか。

土井 そう。袴を着させたら似合う感じの武士ですよ。榎本さんは、合気道もやっていましたから集中力がものすごい。僕も合気道には興味を持ちました。それで巨人に在籍されていた岩本尭さんが近鉄の監督をやられていた時に、岩本さんのツテで僕も東京の道場まで合気道を習いに行ったこともあるんです。その道場には榎本さんや王さんを指導したジャイアンツの打撃コーチをされていた荒川博さんも通われていました。シーズンオフに心技体を鍛えることにも繋がるだろうと、1回自分もやってみようと思ったんです。

 そんなことから荒川さんと話をするようになって、荒川さんから「アウトコースを真ん中にしなさい。踏み込んで打てば、アウトコースも真ん中になる」とアドバイスをいただいたんです。王さんは入団してから6、7年経っていて、守備側が極端な王シフトを敷くようになっていました。王さんは、引っ張ることにこだわっていたからね。ガラ空きのレフト方面に流し打ちをすれば、もっと打率を上げることができたんだけど、それはせずにアウトコースも引っ張れるように踏み込んで打つことを習得した。

 同じように、僕も全部引っ張って打つことを意識するようになったんです。それでいて、インサイドを攻められてもさばけるようにならなければ一流にはなれない。それからは、インサイドをさばくことを徹底的に意識して練習しました。それで僕は滅法インサイドに強くなった。この年に本塁打を40本打ったんだけど、右方向に飛んだのは1本だけでした。ただ、この時に自分の打撃を掴むことができたと思いましたね。

──1974年に長く在籍された近鉄から博多に本拠地を置く太平洋クラブライオンズに移籍されています。新天地を求めた背景には何があったのですか?

土井 江藤慎一さんが太平洋クラブライオンズの選手兼任の監督に就任されて、「『山賊打線』をつくりたいんだ。博多に来てくれ」という話があったんです。江藤さん、白仁天などが集められて打線を組むことになったんです。近鉄はちょうど前の年に西本幸雄さんが監督に就任したところでした。僕は守備に難があったから新チームをつくるにあたって、西本さんは僕をトレードに出したわけです。

 ところが、翌シーズンからパシフィックでは指名打者制が導入されることになって、僕は守らなくても打席に専念できるようになりました。それで、34本を打って本塁打王を獲得することができた。今まで何度もあと一歩というところで個人タイトルを獲り損ねていましたから、ようやくという感じでした。

──西本監督は判断を誤っていたかもしれませんね。

土井 近鉄はこの年の後期リーグで優勝して、僕もホームラン王を獲れましたから、お互いにとっていいトレードだったと思っています。

──1977年には2000本安打を達成されて、ご結婚されていますね。身体が資本のプロ野球選手にしてはご結婚が遅いなと思いました。

土井 ライオンズの連中は豪傑揃いでしたから、結婚などせずにいることが「かっこいい」と思っているところがありました。それを真似して粋がっていたんですよ。「男は黙って勝負」みたいなのが美徳だとされていた時代の雰囲気がありましたから。けれども2000本安打の達成を一つの区切りにして、結婚しました。結婚式には別当さんに父親役を務めてもらい、根本夫妻に仲人をお願いしました。根本さんには、子どもの名付け親にもなってもらっているんです。

「若手に場所を譲るためにも辞めてくれ」

──ライオンズは経営状況が悪化して西武グループに身売りすることになり、埼玉県所沢にホームグラウンドを移すことになります。

土井 太平洋クラブライオンズは、中村長芳さんという政治家の秘書だった方がオーナーだったチームでしたが、次第に資金がなくなって西武グループに身売りすることになった。西鉄時代から所属していた選手は、博多に愛着があるし、所沢に移転することに反対した選手もいました。博多は食事も美味しいし、生活するにも素晴らしいところでしたからね。

 だけど、所沢は野球をやるにはいい環境だと僕は思いました。野球が好きで行くわけだし。オーナーの堤(義明)さんは強いチームをつくりあげようと本気でした。僕は根本さんに話を聞きに行ったんですよ。「10年間は投資を続けると言っている。その間に強いチームをつくる」と言うので、僕も西武ライオンズで自分の経験を活かしたいと考えた。

 最初はボロボロの選手ばかりでしたが、野村さん、田淵幸一、山崎裕之など、実績のある選手を客寄せも兼ねてとにかく獲得していったんです。それから根本さんが秋山幸二、伊東勤、工藤公康なんかの有力な新人をどんどん横抜きしていきました。「大学に進学する」とか「就職する」と宣言していた選手をドラフト指名したり、球団職員にして他球団から指名されないように隠しておいたりしてね。規則すれすれの裏技やけど(笑)、根本さんはチームを強くするためにありとあらゆることをやったわけです。

──1981年に引退をご決断されます。ただ前年には本塁打23本を打っていますから、成績を見ると、衰えが出てきたわけではないと感じました。

土井 根本さんに呼ばれましてね、「若手に場所を譲るためにも辞めてくれ」とお願いされたんです。「まだやれる。なんで俺が辞めなきゃあかんの?」という気持ちはありました。通算の安打数でも長嶋さんの記録までもう少しというところまで迫っていたから抜きたいという目標もあった。せやけど根本さんは、「お前ひとりがまだチームにいることによって、秋山(幸二)とか伊東(勤)がゲームに出られなくなる。お前も昔、18歳で出してもらったことを考えてみろ。若い選手を一人でも育てようと思えば、ベテランがユニフォームを脱ぐことがいちばんいいんだ」と言うんです。実際に2軍に行って、秋山や伊東を見ましたよ。もう惚れ惚れする素晴らしい才能でした。彼らのために一つの場所を空けてやらなあかんな、とすぐに思えました。自分を犠牲にしてでもチーム全体を強くすることを考えなければならないな、と。

 それに根本さんが監督を退任されて、後任に管理野球を徹底することで知られた広岡(達朗)さんが就任することが決まっていましたからね。僕も自分のスタイルで現役生活を続けてきましたから、管理野球に合わせることはもうできないと思ったんです。若いうちならば適応できるけど、長いことやってきていますからね。息苦しくなることはわかっていました。そういうベテランがいることは、チームにとってプラスにはなりません。引退するときがきたな、と思えました。

──プロ野球は、チームメイトもライバルですから厳しい世界ですね。毎年新たな才能が入団してきて気の休まることがない。

土井 ポジションが違うとライバル意識を持つこともないけど、同じだったりするとしっくりはいかないものですよ。主軸として打っていた頃は、若い選手にいろいろなことを教えてあげたりもできる。でもそれは、まだ抜かされないという自信があるからです。そういうベテラン連中も、実力が落ちてくると負けたくないという気持ちになる。そうなると同じチームにいてもライバル意識は常にあって、若手に助言する余裕はなくなります。チームはその繰り返しで、変わっていくわけです。それが宿命ですよね。

根本陸夫の人物像

──恩師の根本陸夫さんについてお伺いしていきます。根本さんに見出された選手たちは、皆とても信頼されていますよね。実際の根本さんは、どんな方だったのですか?

土井 インテリのヤクザですよ(笑)。眼光鋭くてね、あの眼でガッと睨まれると本当に怖い。でも選手の面倒見がよくて、人情派なんです。根本さんは野球を辞めてからは、鉄鋼業にも携わっていたから、野球以外の世界のこともよく知っていました。僕らはいつも「お前たち野球バカではダメなんじゃ。社会人として一般常識をもっと勉強しろ」と言われてました。それから、「60歳になった時にどんな大人になっていたいのか? 引退した後の人生のことも考えろ。野球なんか付録みたいなもんだぞ」ともね。若い頃は「なんやこのおっさんは?」と思ったけどね。野球を引退して、解説の仕事をしたり、コーチとして選手を扱うようになってからは、本当にその通りやなと思うようになりました。

 根本さんは野球の現場以外の交流範囲が広くて、ものすごい人脈がありました。球団のオーナーや経営者、マスコミや政治家なんかの有力者と話ができるし、自分の足では運ばれへんようなところにも知り合いがいて、助けてもらった選手もずいぶんいましたね。

 広島、西武、ソフトバンクで監督をされましたが、根本さんが指揮しているときは、強くはない。だけど選手の素質を見抜く目があって使った選手たちは、その後に必ず伸びていくんです。広島にいた時には、衣笠祥雄や山本浩二を見出した。根本さんが辞めた後には、そうした選手たちが育っていって常勝チームになるんです。西武ライオンズのときも、ホークスのときもそうでした。目先の勝利にはとらわれずに、どんなチームをつくるのか常に先のことを考えていましたね。

──1994年には王貞治さんがホークス(当時の親会社はダイエー)の監督に就任されます。根本さんが王さんを福岡に招聘したことは、今のような観客動員も多い人気もあるパ・リーグになった上でも画期的でした。

土井 うまくいきませんでしたが、根本さんは長嶋さんを西武ライオンズに引っ張ろうとしたこともあるです。福岡に王さんを呼んだときには、「王と長嶋を日本シリーズで対戦させたいんだ」と言っていました。プロ野球全体が盛り上がるにはどうしたらいいのか、という発想が常にありましたね。現場と球団のあいだに、うまく入れる根本さんのような人材が本当はもっと必要なんだろうけど、難しいですね。あれだけの人脈や知恵を持っている人はなかなかいないですよ。

愛弟子、清原和博について

──現役を引退されてからは、名打撃コーチとして数々の大打者を育てています。1年目に担当することになったのが、清原和博さんでした。背番号3を継承した愛弟子であり、平成を代表するスラッガーです。けれども、引退後に違法薬物に手を染めてしまいファンを裏切ることになりました。ただ今年6月には執行猶予期間も満了しています。育ての師としては、清原さんの今後についてはどう思われますか。

土井 手を差し伸べてやりたいなという気持ちはある。今でも人気があるし、あのキャラクターはプロ野球界にとっては得難い存在です。せやけど、芸能人が薬物で再逮捕されたりすると、その度にまた名前が出たりもする。断ち切ることは容易じゃないのだろうとも思う。どうしても、あいつは大丈夫やろうか。止められないんじゃないだろうか、と心配にもなる。それでもいつかはもう一度ユニフォームを着させてやりたいと僕は思っている。根本さんならそう考えて、あれこれ手を尽くしたんじゃないかと思いますけどね。

──入団当初の清原さんの印象は?

土井 最初からどことなく影がありましたね。ドラフトで巨人に指名してもらえなかったことへの恨み、大人の世界はこんなものか、という気持ちはあったと思う。はっきり言えば、最初にライオンズに入ってきたときは腑抜けやった。キャンプを見ていても、魂が抜けていましたね。注目されて入って来たから、プロ野球の世界の洗礼を浴びるわけです。バッティングピッチャーにしても、意地悪な球を放ってバットを折られたりする。甲子園で騒がれたときとは当然ギャップもある。それに大人の選手たちに囲まれて、新しい生活を始めるわけだから、1年目は普通は環境に馴染むだけでもたいへんなんです。

 ところが、それも吹っ切れた5月に入ったくらいからポンポン打ち始めた。周りはとにかく騒ぐ。「新人王だ」とか「新人で30本以上のホームランを打つんじゃないか」とか。そうなると、僕にしてもコーチは初めての経験だから、こっちが重圧に感じるようになって、一気に白髪が増えた(笑)。

 清原が調子を崩した時に、根本さんのところに相談に行ったことがありました。「周囲が新人王、新人王と言っているけど、獲れないかもしれません」と言ったら、「アホか! 新聞記者の話なんかほっておけ。お前が18歳だった頃どんな気持ちでいたのかを思い出せ」と怒られましたね。一回りも年上の人たちがユニフォームを着て一緒にやっているのだから、野球以外のことも気を遣わなければならないのだからたいへんですよ。

 根本さんは、「新人王だ!」と言い立てる周囲の声とは反対に「ゆっくり育てたらいい。いま対戦しているのは、村田兆治や山田久志だ。見下ろされてかかってくるのは当たり前だ。3、4年経ったら、清原と同世代の投手がマウンドに立つようになる。その時には清原はその連中を見下ろすように打席に立って自然に打てるようになる。それまで待ってやれ」と。それを聞いて楽になりました。周囲の声が大きくなっていたから、僕も技術的なことばかりに頭が行っていました。この時の経験は、その後にいろいろな選手を預かって教えるときにも役に立ちましたね。やっぱり根本さんの経験ですよね。

身体を大きくすることの弊害

──清原さんは通算本塁打525、打点1530と球史に残る偉大な記録を打ち立てていますが、本当はもっと実力があるのではないかという印象もありました。

土井 18歳でライオンズに入団してきたときはね、鋼が「ガッ!」と回転するようなスイングをしていました。コマを強く回したときに、芯を中心にしてギューンと回るような感じです。ブレない軸で回転して打てていました。自分の18歳の時点と比べても、清原のほうがはるかに上でした。

 僕はライオンズのコーチを合計で4回任されています。清原は最初の3年を受け持って、彼が10年目に入ったときにも見ています。しばらく間が空いたわけだけど、久しぶりに見たときには身体にキレがなくなっていました。コマで言えばね、止まっているように見えた。入団当初はバランスのとれた鋼のような肉体だったのが、上半身ばかり大きくなっていて、軸で回転して打てなくなっていたんです。身体が大きくなり過ぎていました。

 挙げ句の果てには、膝がやられてしまった。松井(秀喜)にしても金本(知憲)にしても身体を大きくすると、どうしても膝に負担が掛かる。ところが、現役の選手はそれがわからんわけです。本当は下半身を頑丈にすることが大事なのに、ベンチプレスを上げたりして上半身に筋肉を付けようとする。日本は伝統的に「走れ! 走れ!」の練習です。そういう身体で走りこんだら余計に膝に負担が掛かる。背中に10キロの重りを背負って走っているようなものですからね。それでは、膝がもちません。それがわかっていたら、もっと自分の身体を大事にしたはずですが、もう一つ自分の身体を管理できなかった。

 上半身を大きくして腕だけで振るようになったのは、ボールが飛ぶようになったからですよ。昔は逆方向へのホームランなんてなかなかなかった。それが今は詰まっても、振り遅れても逆方向でスタンドに入ったりする。野村さんの時代は年間29本で本塁打王でしたが、今は40本以上ですからね。本当はもっと技術を上げることで、ホームランを打てるようにならなきゃならんと思うけどね。

打撃の極意

──「ホームランバッターは天性のもので育てることはできない」とも言われますね。

土井 横綱の白鵬みたいな身体の資質は、ホームランを打つのに向いているんじゃないかと思っているんです。ポチャッとしているけど肥え過ぎていない。動きは機敏で、それでいてどっしりしている感じですね。あれは、ものすごく内転筋が強いからですよ。小さい時から馬にまたがって、落ちないようにギュッと内転筋を締めている習慣があったから下半身が強いんじゃないかと思う。

 昔の中西太さんも今の中村剛也もああいうタイプの身体付きをしていて、バットを軽く振っているのに遠くに飛ばすことができる。だからホームランバッターを育てようと思えば、下半身で踏ん張れる身体をつくることです。関取が日々やっている股割りなんかは、効果的ですよ。上体ばかりに力が入ってしまって。見た目にも力んでいるようだったら、とても打てるもんじゃありません。

──多くの人からアドバイスを受けることでかえって混乱するとよく聞きます。そう考えると「教える」ことは難しいなと思います。

土井 僕はね、選手が聞いてこなければ教えないんです。バッティングというのは、自分でどこが悪いかをわかっていなければ、それをコーチが治してやることはできないと思っているんです。これは、医者に診てもらうことと同じですよ。病院に行くときは、頭が痛いとかお腹が痛いとか、痛いところを先生に伝えるわけでしょ。それが「どこか身体が悪いんです」と言われても、診断しようがない。バッティングも同じで、自分のスイングのここがおかしいと自分でわかっていなければ治しようがない。選手が悪いところを自分で意識できていれば、そこを徹底して改善させることができるんです。

──期待されて入団してくるエリートばかりですから、そうした選手にコーチとして接することを怖いと感じたことはありませんか?

土井 スカウトは選手の素質を見込んで、必ず伸びると思っているから獲得するんです。それをコーチが触って壊してしまうことは、本当は失礼なことなんです。だから、こちらから教え込むんじゃなくて、自分でどうするのか考えなきゃならない。自分のスイングは「今まではこういうところが違うな」というポイントを自分でわからんことには、伸びることはないんです。

 その課題を自分で見つけて、「バットが重たく感じる」とか「肩が早く開く」とかそういうふうに自分で意思表示をしてきた選手は治しやすいんです。こうしたら開かなくなると具体的な助言ができる。

 コーチが選手を自分のものにして、「ああせぇ。こうせぇ」と教えてしまうわけにはいかないんです。自分で気付いて自分でつくったものは、コーチと選手が離れることになっても絶対に忘れることがないし、自分で治すことができる。これを人任せにしているような選手は、絶対にスタープレイヤーにはなれません。

 このことは、子どもを持つお母さんたちにも言いたいですね。何でもやり方を教えてしまうんじゃなくて、間違ってもいいから自分でやらせてみる。自分で工夫して考えることが大事で、親が先に決めてしまうのは絶対にダメやと思う。結局ね、最初に別当さんや根本さんに散々言われたように、「自分のことは自分でせねばならん」ということですよ。バッティングに限らず、あらゆることに通じることだと思っています。

──ありがとうございました。聞き手 本誌・橋本淳一

ご経歴
どい まさひろ:1943年大阪府生まれ。61年大鉄高等学校を2年生時に中退し、近鉄バファローズに入団。2年目のシーズンから1軍に定着し、主軸を務める。74年太平洋クラブライオンズ(現在の西武ライオンズ)に移籍。81年現役引退。パシフィック・リーグを代表する長距離打者として長く活躍する。75年本塁打王。64年、67年最多安打。67年、68年、78年ベストナイン。通算安打数2452、通算本塁打数465本。1985年西武二軍打撃コーチ就任して、以降西武では4度コーチを務め、韓国のサムソンライオンズ、中日ドラゴンズでもコーチを歴任。名打撃コーチとして、数々の大打者を育成した。
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