『公研』20243月号「めいん・すとりいと

 

 1960年代に活躍した偉大な経済学者サイモン・クズネッツのジョークに、「世界には4種類の国々がある。 先進国と発展途上国と日本とアルゼンチンだ」というのがある。日本とアルゼンチンは異常値という意味だ。

 日本がここに登場しているのは60年代の高成長ゆえだ。もはや高成長ではないのでその意味での異常値ではない。しかし、別な意味で今なお異常値だ。

 約200の国々を、インフレ率の高い順に並べると、過去20年以上にわたって日本は最下位近くをウロウロしていたことがわかる。つまり、インフレ率の観点で日本は異常値だった。同様に、中央銀行の政策金利の国別ランキングでも日本は長い間、最下位またはその近傍で、異常値だ。

 つまり、日本は物価と金利、そして賃金も含めた主要3変数が国際的にみて異常値であり、彼のジョークは今なお生きている。

 「異端」の国、日本に変化の兆しが現れたのは2年前の春だ。これまで価格転嫁に消極的だった企業がコスト上昇分の転嫁を始めた。それを受けて、労組は、ベアなし、定昇のみの弱腰から脱却し、23年春闘では30年ぶりの高水準の賃上げを達成した。現在進行している24年春闘はそれを上回る勢いだ。さらには、3変数のうち残る金利についても、日銀の金融政策の転換が近いと言われている。

 デフレ脱却は、政府・日銀の長年の懸案だった。しかし、様々な取り組みはことごとく失敗に終わった。では、今回はどこが違うのか。

 重要な違いとしては、第1に消費者のインフレ予想の変化がある。物価は据え置かれるものという、世界の歴史でも極めて稀な、日本の消費者の「当たり前」がようやく変化した。稀にしか起きない出来事(パンデミックや戦争など)が契機となって、物価と賃金は緩やかに上昇するものという新たな「当たり前」が定着しつつある。

 第2は人手不足だ。労働供給の不足を補うべく、これまで女性やシニア世代の労働参加を促し、綱渡りでやってきた。しかしそれも限界に達した。パンデミックからの回復局面で労働需要が急速に増える中で労働供給が追いついていない。

 これらのマクロ的要因は間違いなく重要だ。けれども、これだけでは今回の変化は起きなかっただろう。最も大事な変化は「ナラティブ」だ。ナラティブ経済学とは、バブルや金融危機など大きな経済変動にはそれぞれのストーリーがあり、それが人から人へと伝播することにより大きな変化が起こるという考え方だ。

 日本の物価と賃金が海外と比べ異常なまでに安いという認識、そして、この傾向が今後も続けば、日本人は海外から何も買えなくなってしまうという、素朴な危機感が21年頃からSNSを含むメディアでじわじわと拡まった。象徴的なワードが中藤玲氏による「安いニッポン」だ。これが消費者・労働者・企業経営者の行動を変化させ、デフレ脱却の原動力になった。その意味で、今回の脱デフレの主役は、政府でも日銀でもない。私たち自身だ。

 現時点では、ナラティブの変化は全国民に浸透するところまでは至っていない。守旧派はいつの時代にもいるもので、過去の「当たり前」を声高に主張する向きが少なくない。しかし「異端」に戻るという選択肢は、私たちには最早ない。

 社会全体として、「異端」を脱する強い意思と覚悟があるのか──それがいま試されている。

東京大学教授

 

 

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