『公研』2024年2月号 第 648 回「私の生き方」

 

 

詩人
谷川俊太郎


たにかわ しゅんたろう:1931年東京生まれ。52年詩集『二十億光年の孤独』でデビュー。現在に至るまで翻訳、劇作、絵本、作詞などジャンルを超えて活躍。62年「月火水木金土日のうた」で第4回日本レコード大賞作詞賞、75年『マザー・グースのうた』で日本翻訳文化賞、82年『日々の地図』で読売文学賞、2006年『シャガールと木の葉』『谷川俊太郎詩選集1~3』で毎日芸術賞、16年『詩に就いて』で三好達治賞など数々の著作で受賞歴がある。米国の漫画家チャールズ・M・シュルツの『ピーナッツ』の翻訳者としても知られる。


 

阿佐ヶ谷、淀、北軽井沢

──1931年のお生まれですから、92歳になられました。このインタビューでは谷川さんの歩みのいくつかの場面を振り返っていただき、詩作の源を探っていこうと思います。戦争中に京都の淀に疎開されていたそうですね。

谷川 母の姉のところにお世話になりました。母の父(長田桃蔵氏)は、戦前に衆議院議員だった代議士で、淀に大きな屋敷を持っていました。自分が育った東京の阿佐ヶ谷の家よりもずっと大きくて、ブルジョアの家に行ったみたいな感じでね。子ども心にそれがおもしろかったですね。東京はだいぶ食べ物が乏しくなっていましたが、京都にはまだいろいろな食べ物がありましたから、京都のほうが暮らしぶりはずっと良かった。

──疎開と言えば、都会の子が農村に行ってギャップに驚いたりしますが、逆のパターンですね。

谷川 当時は疎開先で苦労した人が多いと思うけど、僕の場合は東京での生活よりもめぐまれていましたね。ただ、言葉のアクセントには苦労しました。学校で教科書を音読すると、みんな京都のアクセントで読むわけです。淀で育った母は京都のアクセントで話す癖がありましたから、少しは馴染みがありました。ただ僕は東京の阿佐ヶ谷で生まれ育ったものだから、標準語のアクセントしかできない。僕が読むと、みんなが笑ったのを覚えています。そんなに違うのかと思いましたね。東京から来て文化的な背景も違うものだから、いじめられたりもしました。

──北軽井沢には強い愛着があるとか。

谷川 少年時代を振り返ると、北軽井沢が思い浮かびます。赤ん坊の頃から毎年夏になると親が連れて行ってくれましたから、僕にとっては第二のふるさとみたいなところでした。北軽井沢は上州ですが、浅間山という噴火山が近くにあって信州的な自然のあるところです。阿佐ヶ谷の実家は田舎という感じじゃないし、田園的な雰囲気もあまりないところですから、北軽井沢は自分にとっては一番身近な自然でした。

 ただ北軽井沢は本当の田舎とは違って、割と都会的なところでした。父(谷川徹三氏、哲学者、法政大学総長などを務める)は、法政大学の先生をしていました。法政は、貧乏学者のために北軽井沢にある程度の土地を用意していたんです。そこに小さな家を建てさせて、夏はそこで勉強してもらおうというわけです。だから、北軽井沢は学者や作家たちが集う村のようになっていました。いま考えると、自分をちゃんと受け入れてくれる土地だった感じがしています。

 戦争が激しくなって行けなくなった時代は、本当に北軽井沢に飢えていました。行きたくて仕方がなかったけど、子どもだから、もちろん一人ではムリでした。行けなかった時間のことも記憶に残っているんです。高校生くらいだったかな。一人で行ける年齢になったときには、さっそく北軽井沢に行きました。この土地に自分は影響されていて、僕の身体の半分をつくったという印象を持っています。

 

「今こんなものを書いているんだけど」

──同世代の子たちとはうまく交流ができずに、居心地の悪さを感じていたと。

谷川 そうですね。僕は一人っ子だったものだから、友だち付き合いがあまりうまくなかったんです。それで友だちという存在に一種の恐怖感を持っていた気がします。友だちとは遊んではいたんだけれども、夢中になってわいわい遊んだりすることはなくて、一人で何かを創ったりしているほうが好きでした。

 つまり同級生たちを一群の同世代の人間としては、考えていなかった。こいつとはこういう関係、あいつとはああいう関係というふうに、それぞれ個人的な関わりを持つようなかたちで付き合っていましたね。だから、基本的には学校が好きじゃなくて、一人で本を読んでいるほうがずっと得意でしたね。家には本がいっぱいあったし。

 日本が戦争に負けて学校が混乱していたこともあるけど、進学した東京都立豊多摩中学校(旧制)に通うことも嫌になって、学校は結局中退することになりました。夜間部に移って何とか出ているんです。

──ご両親は心配されたのではないですか。

谷川 父からは「大学に進学したほうがいい」と繰り返し言われましたが、とにかく僕は数字に弱かった。数学がダメ、物理がダメ、記憶力も悪いから歴史がダメという感じでした。父から「これから一体どうするんだ」と聞かれたときにも、僕はそれに反論することが何もできなかった。仕方なく詩を少し書き溜めていたノートを、「今こんなものを書いているんだけど」と言って見せたんです。

 父は若い頃に自分も詩を書いていたし、文学の友だちも多かったから、その時代の詩を鑑賞する力がある程度あったんですね。親バカなんだけど、僕の詩を認めてくれました。それで父は、交流のあった三好達治さんに僕の詩を見てもらったんです。そうしたら、三好さんが気に入ってくれたんですね。三好さんの紹介で、『文学界』に「ネロ他五編」が掲載されることになりました。それ以降、詩人として生活するようになりました。

──お父様に自分の詩を見せることに気恥ずかしさは感じませんでしたか?

谷川 詩というものは、どんな詩でも常に気恥ずかしいものですよね。自分で書いた詩を自分で読んでも同じです。これで食べていかなきゃいけないという気持ちと同時に、気恥ずかしさはありました。

 詩を書いていることを父に話したことはほとんどありませんでした。ノートを見せたときは、受験勉強をしたくないという気持ちばかりでした。結果、大学受験をせずに済んで良かった。

──詩を書いてみようと思ったきっかけは?

谷川 直接のきっかけは、文学好きの友だちに勧められたことでした。それから、大学受験の準備もしなければと思っていたときにめくっていた『蛍雪時代』という受験雑誌も最初のきっかけでしたね。この雑誌の後ろのほうには投稿欄があって、下手な詩が並んでいました。これなら自分にも書けるんじゃないかと思って、詩を書くようになったんです。

 

 

父の月給をすべて自分の懐に入れていた

──1952年に詩集『二十億光年の孤独』でデビューされます。詩人という職業は、それだけで生活していけるものなのでしょうか?

谷川 僕が物書きとして自立しようとしていた時代は、詩が生活の足しになると考えた人はほとんどいませんでした。それで生活をしていけるとは思われていなかった。僕はそのことが癪に障ってね。どうにかして、自分の詩の原稿料で食っていこうと覚悟した記憶はあるんです。けれども実際には、最初の数年間はそれだけで暮らしていくことはとうてい難しかった。僕は一時期、大学勤めをしていた父の月給を取りに行く人だったんですよ。その月給をすべて自分の懐に入れてもいいという了解を得ていたんです。

──本当ですか。すごい話ですね。

谷川 親のお金で何年間かは過ごしていました。当時結婚していた妻は、そのことをすごく嫌がっていました。いつの間にか、自分の原稿料だけで食べていけるようになりましたけどね。

 今はコピーライターや歌謡曲の作詞家という職業が成り立っていますよね。そのなかには我々が書いてきた現代詩よりもおもしろいものもあるなと思います。けれども、現代詩はそういった詩とはちょっと違いますよね。やっぱり難解でよくわからないところがあるから、愛好家しか関心を持たない。だから、小説や歌詞とは違って、一つの独立したジャンルとして扱われていました。

 そういう状況に、反発していたんですね。僕は大学にも行かなかったし、自分で生活していく手立ては他に何もなかったわけです。自分にできる唯一のことは詩を書くことであって、それで経済的にも自立しなければならないという気持ちが強くありました。

だから、文章を載せる雑誌にしても、他の現代詩の人たちならば敬遠するような流行りの女性誌などからも注文があれば、喜んで応じていました。その依頼にふさわしい詩を書こうという気持ちでずっとやってきました。初めから他の現代詩の人たちとは違うスタンスでいたんじゃないかな。

──クラシックの作曲家や画家も、貴族の依頼に応じるかたちで作品を残していたことを連想しました。

谷川 当時はお金持ちの貴族がパトロンでした。芸術家たちは、最初は彼らが喜ぶもの創って、それでだんだん有名になっていったわけですよね。現代詩の場合はパトロン的な存在はいませんから、雑誌などの原稿依頼に応じて、コツコツと仕事をこなしていくことになりました。ただ、注文に応じるために仕方なく書いていたと感じたことは、ほとんどありませんでした。出版社からの依頼にしても、時代の雰囲気や傾向を踏まえて「何か書きませんか?」といった仕方が多かったんです。編集部の注文と自分が書きたいものが割と一致していたことのほうが多かったですね。

 

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