『公研』2023年2月号「interview」

 牧歌的なイメージのあるモンゴル。しかし、そんなモンゴルでヒップホップが文化として根付いていた。

国立民族学博物館 学術資源研究開発センター 准教授 島村一平

 

「俺、前世はここモンゴルで生まれたんじゃないか」

──ご専門は文化人類学、とりわけシャーマニズムを中心としたモンゴル文化研究です。そもそもなぜモンゴルに魅了されたのでしょうか?

島村 私は大学を卒業後、ドキュメンタリー番組を制作する会社に入社しました。モンゴルに魅かれたのは、テレビの取材で訪れたことがきっかけです。それは、ジャズミュージシャンの坂田明さんが、国際的な混成バンド「空艇楽団」を組んで1カ月間、モンゴルや中央アジアを旅しながら現地の民族音楽の演奏者たちと共演するという、夢のような企画でした。国際協力基金のプロジェクトです。楽団のメンバーには、アメリカの著名なベーシストのビル・ラズウェルや西アフリカの瓢箪リュート「コラ」の奏者フォダイ・ムサ・スソ、ギリシャ出身のギタリスト、ニッキー・スコペリティスに、バイオリンの金子飛鳥さん、日本の民謡歌手や尺八奏者の方々などなど、実に多彩なアーティストが名を連ねていました。おもしろいところでは、ポップス歌手のEPOさんも参加していました。

 当時、モンゴルや中央アジアは社会主義が終焉したばかりで、どんな民族音楽があるのか西側からすると「神秘のベール」に包まれていました。そうした中、この楽団にNHKの取材班が同行し、BSの特番を制作することになったのです。しかし私は当時、モンゴルには全くと言っていいほど興味はなく、どちらかと言えば黒人音楽が好きな若者でした。ですから、本音だとアフリカやジャマイカに撮影に行きたいと考えていたんです。まあ、そこが後々ヒップホップの研究に繋がってくるわけですが……

 そんな私でしたが、上司から「島村なら旧社会主義圏でコミュニケーションが取れるだろう」と判断されました。と言うのも、私は以前に大学でロシア語を学んだことがありました。第二外国語なんですが(笑)。当時、ロシア語にハマり、ソ連という謎の国を見たくなったんです。そこで大学3年の頃、ユーラシア大陸横断の旅に出ました。おそらくそういった経験が買われて、モンゴル・中央アジアの取材メンバーに選ばれたのだと思います。

 しかしこのADの仕事が、現地でもめちゃくちゃ忙しかったのです。スタッフや現地との打ち合わせに撮影準備、トラブル対応、機材の片付けに撮影テープの整理など、海外ロケなのに平均睡眠時間が3時間という世界でした。

 そんなロケ中、草原で泊まったある夜のことです。私は夜中の2時過ぎまで片付けをしていました。聞こえてくるのは、微かな風の音と、馬の嘶きぐらい。ふと空を見上げると、そこは満天の星。その時、突然閃いたんです。「あれ、ひょっとして、俺は前世、ここモンゴルで生まれたんじゃないだろうか」って。極限状態になると、人間って爆発的な妄想力を発揮するみたいです(笑)。そう感じてしまったらもうどうしようもない。帰国してからも、モンゴルに帰りたくて仕方なくなっていました。番組放映後に会社を辞めて、1995年にモンゴルに渡ります。

──モンゴルに戻った目的は何だったのですか?

島村 特にはっきりした目的があったわけではなく、あえて言うならば、自分なりのドキュメンタリーを撮ろうと思っていました。海外に長く住むには、長期の学生ビザを得られるので、学生になるのが1番です。大して勉強する気はなかったですが、とりあえずモンゴル国立大学の外国人向け語学コースに通うことにしました。1年間語学コースで勉強しているうちにおもしろくなり、もう少し勉強したいと思いました。そこで、モンゴル国立大学の大学院(民族学専攻)を受けたら運よく受かってしまったんですね。

──大学院での研究内容は?

島村 当時、私はシャーマニズムに関心を持ち始めていました。モンゴルはチベット仏教の国なのですが、シャーマニズムは仏教が入ってくる前からの彼らの古い信仰形態です。シャーマンは、鹿や鷲のような衣装をまとい大きな革張りの太鼓を叩きながら精霊を憑依させてメッセージを人々に伝える人々です。しかし、初めてシャーマンの儀式を見た時、何が起こっているのか、全く理解できなかった。そこでシャーマンの祈祷歌や精霊の言葉、シャーマンが誕生する社会条件などといった文化的・社会的な背景を勉強したいと思うようになったんです。いま考えるとエキゾチックなものに対する憧れがあったんでしょうね。

──モンゴルと言えば遊牧民やホーミーなど牧歌的なイメージがあるので、ヒップホップとはあまり結びつかないです。

島村 意外なことですが、2022年現在、モンゴル国の総人口のうち遊牧民の占める割合は10%にも満たないです。と言うのも、社会主義崩壊以降、急速に都市化が進行し、今や総人口の半分近い160万人が首都ウランバートルで暮らしています。高層ビルやタワマンが建ち、人々はファストフードを食べ、SNSを楽しむ。つまりモンゴル人の多くが日本で暮らす人々と同じ都市生活者です。

 そんなモンゴルですが、2000年を過ぎた頃から、もの凄い勢いでヒップホップ(ラップ・ミュージック)が流行りだしました。今では、人口340万人の国でモンゴル・ヒップホップの動画再生回数が数百万回、中には1000万回を超える曲もあるくらい親しまれています。ヒップホップはアメリカで生まれた文化ですが、「ヒップホップは、モンゴルを代表する文化の一つだ」と言えるほどです。

 実はヒップホップは、モンゴルの伝統的な口承文芸と親和性が高いです。モンゴルに限らず中央ユーラシア、多くの地域の基層文化は、遊牧文化です。遊牧民たちは家畜を連れて移動しながら生活しているので、できるだけ持ち物は少ないほうが良い。本などは荷物になります。その結果、文学も書き言葉よりも喋り言葉、つまり口承文芸が発達するのです。かつてモンゴルや中央アジアの口承文芸を担う吟遊詩人たちは、弦楽器を弾きながら、時には三日三晩もかかるような英雄叙事詩を歌い語っていました。このような口承文芸を可能にしているのが、「韻踏み」というテクニックです。長い物語を語るとき、文頭の韻を揃えておくと覚えやすくなるんですね。つまり韻踏みは、リズム感を整えるだけでなく一種の記憶術でもあります。

 モンゴルには昔からこうした韻踏み文化が根付いていました。そして英雄叙事詩だけでなく、ことわざや慣用句、祝詞や呪いの言葉にいたるまで、全てに韻が踏まれています。現代詩でも韻が踏まれますし、学校のモンゴル語の教育でも韻踏みが教えられます。ですから1990年代、社会主義が崩壊しアメリカからラップミュージックが入ってきたとき、彼らは違和感なく受け入れられた。ヒップホップのラップも口承文芸も韻踏み文化ですからね。モンゴルでヒップホップが流行るには、このような文化的な背景があったのだと思います。

 

シャーマンの憑依とラッパーのゾーンは同じ仕組み?

──では、このヒップホップとシャーマニズムの繋がりについてお伺いします。島村さんはシャーマンが儀礼で韻を踏んで祈祷歌を歌いながら、精霊を降ろしていると書かれていますよね。これがヒップホップのラッパーが、フリースタイルをしながら、いわゆるゾーンに入る現象と同じだと指摘しています。そもそも島村さんは、シャーマンに精霊が本当に憑依してきていると信じていますか?

島村 実際のところわからないです。判断保留です。しかし、少なくとも彼らが演技しているようには見えない。演技臭さがないんです。ロシア国境近くにある、フブスグル県ダルハト族のシャーマンに会いに行ったときは、かなり衝撃を受けました。80歳近い老婆のシャーマンが、太鼓をたたきながら一種のトランス状態になり、精霊を憑依させ歌い語ります。そしてその儀礼は、夜中の12時から明け方近くまで続きました。お年寄りではなくても、ここまでの長時間、20キロ以上の衣装を身に着けて歌い踊るのは体力的に厳しいですよね。これは演技だけではできないなと。

──やはりこういうものは証明が難しいのですね。学問的にシャーマンはどう位置付けられているのでしょうか?

島村 前提として、シャーマンは精霊や動物といった非人間と直接交流する存在と定義されることが多いです。直接交流とは直接見たり、聞こえたりするということです。一方、一般的にキリスト教や仏教などの大宗教の司祭や僧侶と呼ばれる人々は、神や仏の声を直接、聞いたりはしませんよね。シャーマンの経験は直接的なんです。

 シャーマンは、大きく魂を幽体離脱させて別の世界を見て語る脱魂型と、恐山のイタコのように霊を憑依させて語る憑霊型に分類されます。あるいは自分の意識はあるが、霊の姿や声を感じる憑感型というタイプもあります。モンゴルのシャーマンは基本的には憑霊型です。我々には、シャーマンが、本当に精霊やカミと交流しているのかはわかりません。ただ現地の人々によって信じられている現実を、まずはその通りに記録するというのが文化人類学の基本的態度です。しかし、最近では認知のレベルでシャーマンは何かが実際に見えたり聞こえたりしているということがわかってきました。これは認知宗教学や認知心理学の分野で、主にアメリカで盛んに研究されています。

 80年代、精神分析学者のリチャード・ノルは、シャーマンが認知レベルで精霊を見たり、声を聞いたりできるとし、「メンタル・イメージ能力の開発(mental imagery cultivation)」と名付けました。その方法の一つが感覚遮断です。例えば真っ暗な洞窟に入って何も見えない状態だと人は、幻覚のようなものを見始めます。次に重低音の効いた大音量の音楽です。ライブに行って精神状態が変わるのと同じ原理で、精神が通常の状態ではなくなります。

 この理論をさらに発展させたのが、ターニャ・ラーマンというアメリカの宗教人類学者です。彼女はアメリカのキリスト教原理主義者の一派であるペンテコステ派の人々を対象に、幻覚や幻聴をもたらすような宗教実践の研究をしました。ペンテコステ派と言えば、トランプ前大統領の支持層として有名です。彼らはメガチャーチと呼ばれる巨大な教会に集まるのですが、そこではまるでロックのライブのように大音量の音楽が流れています。そうした環境の下で信者たちは気持ちが高ぶり、跳ねたり踊ったりしながら、神の姿を見たり神の声を聞く経験をするのです。つまり彼らは嘘をついているのではなく、認知レベルで実際に神を見ているのです。ラーマンはこのような技法を「内的感覚の開発(inner sense cultivation)」と呼びました。シャーマニズムやトランス現象は、人間の内的世界を明らかにする上で極めて重要な研究領域だと言えます。

 興味深いのは、シャーマンたちは霊的な存在を認識するインプットだけではなく、憑依してきた精霊の言葉を語る、アウトプットもしている点です。そこでポイントとなるのが、モンゴルの韻踏み文化です。シャーマンも精霊を呼ぶための召還歌や神を讃える歌で韻踏みをしています。

精霊が憑霊したモンゴルのシャーマン 2014年ウランバートル市   島村一平撮影

 

2010年頃、私と長年一緒に仕事をしていたドライバーがシャーマンになってしまうという事件が起こります。ごくごく親しい人がシャーマンになったので、ストレートに、憑霊現象ついて聞いてみました。そうすると、彼はこう語りました。「兄さん(モンゴルでは親しい年上の人をこう呼ぶ)、シャーマンに憑霊する精霊って人じゃないんだよ。言葉なんだよ。ある日、師匠から学んだ精霊の召喚歌を歌っているうちに、自然と言葉が出てきたんだ。そのときの意識? 自分の意識はあったさ。ああ、(もう1人の自分=精霊が)適当に嘘くさいこと言いやがって、と思っていた。でも韻を踏んで精霊の召喚歌を歌い唱えているうちに、言葉が勝手に出てくるんだ。自分でも何を言っているかわからないけど、その言葉が精霊なんだ」と。衝撃的でした。しかも調査を続けていくと彼だけでなく、別のシャーマンたちも似たようなことを話すのです。

 つまり憑霊とは、韻を踏むことで、自分が意識して語れる言語とは異なる、意識的に操作できない言語を自動的に語らしめる方法だ、ということがわかってきたのです。まさにこれはラッパーたちが、フリースタイルで韻を踏み続けることによって、ゾーンに入り言葉が降りてくるという状況とそっくりでしょう? 事実、世界中のラッパーが似たような経験を語っています。以上のことからシャーマンのトランス状態と、ラッパーのゾーンに入る現象は、本質的には同じ韻踏みという身体技法によってもたらされたものではないか、という仮説を立てるに至ったのです。

──シャーマンの精霊の降ろし方がわかってしまったということですか?

島村 そのような見方もできるということですかね。もっと言うならば、この方法を使えば誰でもシャーマンになれてしまうということです。日本のシャーマンとして知られる卑弥呼やイタコは、何か特別な力を持った人をイメージしますよね。ところがモンゴルでは2010年頃、人口の1%近くがシャーマンになってしまいました。まるで感染症のようにシャーマンが増えていったのです。大事なのは、モンゴルのシャーマンの場合、韻踏みの技術や条件が揃えば、ある程度誰でも憑霊やゾーンに入ることができるということです。モンゴルのシャーマン増殖現象は、このことを図らずも証明してしまった。

 残念ながら、日本は韻を踏む文化がしっかりと根付いていなく、ただのダジャレと思われてしまうことが多いような気がします。しかし宗教学者の鎌田東二先生によると、古代日本の歌では韻が踏まれていました。古事記にある「日本最初の和歌」として知られる歌があります。ヤマタノオロチを倒したスサノオノミコトが妻を得て、新居をつくるときに詠んだ歌です。スサノオが「須我(すが)」という地で「吾が御心すがすがし」と話すくだりから、韻というかダジャレなのですが、そこで詠んだのが以下のような歌です。「八雲立つ 出雲 八重垣 妻ごみに 八重垣作る その八重垣を」。三浦佑之先生の『口語訳 古事記 神代篇』の訳によると、「八重にも雲がわき立つ 出雲の八重の垣よ 共寝に妻を籠めるに八重垣を作るよ その素晴らしい八重垣を」となっています。つまり新妻と新居で暮らすことの喜びを歌った素朴な内容なのですが、見事に韻が踏まれています。

──韻踏みは、人間が本能的に気持ちいいと感じるのですね。

島村 そうですね。同じ音を繰り返すって心地が良いですよ。そもそも韻踏みは「音声中心主義の発話」だと言えます。普段私たちは、意味を考えながら喋っています。これを「意味中心主義の発話」だとするならば、韻踏みの発話は、意味よりも音を揃えることに意識を向けた「音声中心主義」です。音を操作することに意識を集中すると、意味がどんどん壊れてきてしまう。例えば、フリースタイルのラップも、時々訳がわからないことを言ったりしています。

──シャーマンが言っていることも、時々訳がわからないときがあるのでしょうか?

島村 そうですね。なので、シャーマンの隣には通訳のような人物がいたりします。この音声中心主義の面白い点は、意味中心だと組み合わさらないような言葉が繋がることで、斬新な表現や意味が生まれる点です。しかもそれが人間の真実を突く言葉だったりする。いわゆる「刺さる」のです。音声中心主義という点では、シャーマンもラッパーも同様です。彼らは意識では操作できないレベルで、何か真実を伝えるような言葉を生み出しているのではないでしょうか。

 

忖度しないモンゴル人

──モンゴルのヒップホップは政治的な不満や主張をストレートに表現するそうですが、政府に禁止されたりしないのでしょうか?

島村 そういう曲が放送禁止になることは、時たまあります。一つ例を挙げると、2000年代にダイン・バ・エンへ(戦争と平和)というヒップホップグループが出した、『大統領への手紙』という曲です。放送禁止の処分を受けました。この曲では、深刻化する貧困に対し何もしない政治家たちへの批判が歌われています。

 日本でも政治批判をするヒップホップはありますが、モンゴルのおもしろいところは、こういう曲が爆発的にヒットすることです。最近も政府のコロナ対策を批判したヒップホップの曲のPVが、たった2日でYouTube再生回数が50万回以上を記録しました。人口が340万人の国ということを考えると、驚異的なヒットです。さらに、曲の力だけではありませんが、それが内閣総辞職に繋がりました。モンゴル人はおかしいことには「これはおかしい」とはっきりものを言います。彼らは、元々遊牧民なので個人主義者的です。空気を読んだりする習慣もありません。

──遊牧民が個人主義的というのは?

島村 遊牧民は季節ごとに、家畜のえさとなる良い草を求めて住む場所を移動したり、季節によって住みやすい場所に移動します。そのため、遊牧民たちは村のような定住村落を形成してきませんでした。遊牧民は土地を所有しませんが、牧草地として利用します。牧草地利用のルールは早い者勝ちです。しかし早すぎると、牧草がいい状態ではないし、遅いと他人に取られてしまう。そこで遊牧民のお父さんは、牧草の状態や他の遊牧民の動向などを視野に入れ、いつ、どこへ移動するかを決めます。だから彼らの意思決定は、個人主義的になりますし、優秀な遊牧民ほど意志が強く交渉に長けた人物であることが多いようです。もっとも牧畜作業を一緒にするために他人と一緒にキャンプすることはあるのですが、季節が変わると別れてしまいます。彼らは季節ごとにお隣さんが変わる暮らしをしています。

 こうした社会では、個人主義的な精神が養われるのでしょうが、それは遊牧をやめた現在でもモンゴルの人々に強く残っているように思われます。もっとも20世紀になり、モンゴルはソ連の影響下で社会主義化すると、役場や学校、医院を備えた定住村落が人工的につくられるようになりました。それに首都ウランバートルは、この100年で人口が約6万人から160万人へと膨れ上がりました。

 興味深いことに、もともとモンゴルには、いじめに相当する概念がありませんでした。遊牧社会は、村をつくらないので村八分や同調圧力とは無縁です。現代でも個がしっかりしているので、誰かが「こいつが気に入らないからみんなで殴ろう」と言っても、「俺はそうは思わない」と言う人が必ず出てきます。強い者にも忖度したりしません。その一方で個人対個人の喧嘩は比較的、多く起こります。モンゴル人は空気を読みません。なので、協調性は比較的低く、チームワークは苦手なようです。最近では、彼らもそれを認識しているようでモンゴルの求人広告を見ると、「チームワークができる人」という条件が入っていることが多いです。この忖度しない姿勢は、モンゴルから日本が学ぶべきことの一つだと感じています。

 

教科書にも載る、口喧嘩の文化

──牧歌的なイメージが変わりますね。

島村 そうなんですよ。また、モンゴル人は交渉術に長けています。そうでもないと、今頃ロシアと中国という大国に飲み込まれていますよ。日本の4倍の国土に人口60万人(20世紀初頭)だった国が、ソ連と中国の間で独立を保てたのは、彼らの高い交渉能力があったからです。かつてソ連の衛星国だと言われたモンゴルですが、裏舞台ではソ連に対して巧みな交渉を行っていました。頭を下げるばかりではなく、時には相手を論理的にやり込めたりもする。

 そもそも遊牧民は交渉の名人です。観光で訪れた人からすると、羊の放牧も子供に任せる遊牧民の父親は、いつもお酒ばかり飲んでいるように見えることがあります。しかし父親には大事な仕事があります。それが馬に乗って他の家を訪ね、お酒を飲みながら、「次はこの家はどこに移動するか」と偵察することです。さらに酒を飲みながら、その遊牧民と移動場所を含めたいろんなことを交渉します。遊牧民たちは、日本的な根回しはしません。むしろ他者に偽情報を流し、他の遊牧民と交渉したりすることで、自分にとって有利な移動先を確保するのです。酒の席で次の移動先について話題になると、たいていはわざと嘘を言います。ちなみに遊牧社会では、お互い適当に嘘をつくので、他人の嘘に対しても寛容です。ともかく、遊牧民は交渉力が高くないと生きてはいけません。

 こうした交渉の文化は、ヒップホップの文化にも通底するものだと言えます。遊牧民はお互いにディスり合う喧嘩歌の文化があります。「ダイラルツァー」と呼ばれる子供の掛け合い歌です。ダイラルツァーとは、「攻撃する」「侵入する」を意味する動詞ダイラハから派生した語で、衝突や双方からの攻撃を意味します。実際、2人の歌い手がお互いに順番に即興で韻を踏みながらディスり合います。

 また以前、大学で教えていた時に、モンゴル人の口喧嘩の上手さに興味をもち、それを研究対象にした学生がいました。彼女はモンゴル留学中にウランバートルの市場でひたすら口喧嘩を録音したんです。それを会話分析の手法を使って分析したら、口喧嘩に勝つために20個もの方法があるとわかったんです(安藤晴美「モンゴル人のヘルール(口喧嘩)の技法」島村一平編『大学生が見た素顔のモンゴル』(サンライズ出版)所収)。つまり遊牧民たちは、子供のころから韻を踏みながら相手を言い負かす術を学んでいるわけです。こうした文化的背景の下で、モンゴルのヒップホップ文化が生まれてきているのです。

 また、モンゴルでは、口喧嘩が起きるのは日常茶飯事ですし、子供の時から口喧嘩に慣れています。まるで、フリースタイルのラップバトルを日常で行っているようなものです。モンゴルの政治家や外交官の交渉力が高いのも納得です。人と交渉する能力は、机上の受験勉強だけでは、決して鍛えられないと思います。

──モンゴルでは馬頭琴やホーミーなどの伝統音楽とヒップホップがよく掛け合わされるそうですが、それは伝統音楽をクールなものと捉えられているからでしょうか?

島村 モンゴルでは、口承文芸とヒップホップに文化的な連続性があるのと同じように、音楽にも文化的な連続性を持たせることが当たり前になっている節はあります。この文化的連続性は、図らずも社会主義体制が生み出した副産物です。社会主義体制下では、発展史観の下で伝統的な遊牧生活は遅れているものと見なされました。つまりモンゴルの文化自体が遅れているとされたのです。

 1925年、スターリンは東方勤労共産主義大学の学生集会で「内容においてはプロレタリア的、形式においては民族的な文化こそが社会主義が近づきつつある普遍文化である」と発言しました。これを受けてモンゴルでは、民族的な形式を持ちながら革命的な新しい内容を持つ文化がつくられるようになったのです。民族舞踊には、ロシアン・バレエの技法が取り入れられ、馬頭琴のような楽器もチェロを参考に改良が施されました。こうして誕生したのが民族楽器オーケストラです。馬頭琴はそもそも一人で演奏するものですが、それだけでは遅れているので、そこに西洋のオーケストラという要素を加えて「発展」させたのです。コントラバスがないなら大きな馬頭琴をつくって馬頭コントラバスをつくっちゃうとかですね。この掛け合わせを、モンゴル人は当時「発展」と呼びました。

 一方、ソ連など外国から入ってきた文化を自分たち流に改変することを「モンゴル化」と呼びました。例えば、遊牧民が暮らす草原に行けば使い古した自動車のタイヤが家畜の水飲み用の容器として使われています。軽トラの荷台の上に乗用車のボディの後ろ半分を切り取って載せて、ワンボックスカーをつくってしまった例もあります。これらを当時はモンゴル化と呼びました。特に民族的な要素を含んでいなくてもモンゴル化と呼ぶところが興味深いです。音楽の世界では、一つ例を挙げるとアジア音階が取り入れられたシンフォニーが作曲されたりしました。これもモンゴル化です。自分たちが主体的に変えていくことが重要なんでしょうね。

 モンゴルでは、社会主義崩壊以降も、結果的に文化を融合させる発想が生き残りました。その結果、伝統音楽は西洋音楽と融合し発展する一方で、ポピュラー音楽はモンゴル的なもの(例えばヨナ抜きのようなアジア音階)と融合することでモンゴル化していきます。ヒップホップの民族音楽との融合も起こりました。モンゴルでは国宝級の伝統音楽の演奏家がロックやヒップホップのアーティストとコラボすることも、珍しいことではありません。

 それにしても「伝統が発展する」というと、日本語として違和感がありますよね。日本では、伝統文化と言えば、昔のままに保存されたものを指すことが多いような気がします。あたかも伝統文化は基本的には保存されるもので、変化することは許されないかのようです。あるものを伝統文化と名付けた時点で冷凍保存してしまっているのではないでしょうか。例えば着物は、現在、日本の伝統的な民族衣装として理解されていますが、元々は単なる着るモノでしかありませんでした。着るモノなので、今の服の流行同様に時代に応じて変化するものでした。しかし、日本に訪れた欧米人たちによってキモノは伝統的な民族衣装だと理解され、新しい意味が与えられました。その結果、キモノは発展する道筋が閉ざされます。私は別にソ連型社会主義に与しているのではないのですが、この社会主義による偶然の副産物は、伝統文化を考える上で重要な視座を与えているように思います。

ヒップホップグループICE TOPのライブにて 2016年ウランバートル市 島村一平撮影

 

戦略的に世界を狙う

──今後、モンゴルのヒップホップが世界の音楽シーンに出ていくことはありますか?

島村 まず、世界的に聞かれる音楽になるためには、英語の世界的な拡大による言語帝国主義の問題があります。やはり今は英語ができる人が一級市民という考えが、益々強くなっています。国際的なポピュラー音楽の市場は、韓流の活躍を除くと英語ばかりで、これは英語の歌が売れる仕組みをアメリカやイギリスが確立したからです。おそらくモンゴル人もその状況は理解していて、今モンゴルのアーティストも積極的に英語の歌を歌い始めています。その背景には、韓国の存在が大きいのでしょう。BTSの成功を近くで見ていますから。GINJINという男性ラッパーや Mという女性ラッパーは、英語の曲を出し始めました。どんどん海外に出て発信していこうというマインドセットを持った人がモンゴルには多いような気がします。ヘヴィメタルのThe Huというバンドは、すでに世界的に成功しています。彼らは、馬頭琴とエレキギターをかけあわせた馬頭エレキギターを演奏し、ホーミーも入れながらヘヴィメタルを奏でます。最初に欧米で火がついて、日本でも何千人規模のホールでコンサートをしています。戦略的に海外進出を行っているバンドなので、モンゴルより海外で人気がありますね。なので、いつかはわからないですが、モンゴル人ラッパーたちが国際的なステージに立つ日も、そう遠くないんじゃないかなと思っています。

──島村さん自身は、ヒップホップを歌わないのですか?

島村 残念ながら私はひたすら聞くのみです(笑)。

──ありがとうございました。

 

聞き手:本誌 薮 桃加

 

ご経歴
しまむら いっぺい:1969年生まれ。93年早稲田大学法学部卒業。98年モンゴル国立大学大学院修士課程修了。国立民族学博物館講師・滋賀県立大学人間文化学部准教授を経て現職。著書に『ヒップホップ・モンゴリア』(青土社)『憑依と抵抗』(晶文社)等。

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