2025年4月号「対話」

 

ロシアによるウクライナ侵攻から3年以上が経過した。

転換点を迎える今、これまでの対応をどう評価し、どのようなかたちでの停戦をめざすのだろうか?

 


まつだくにのり:1959年福井県生まれ。82年東京大学教養学部卒業後、外務省入省。96年在アメリカ合衆国日本国大使館一等書記官、98年在ロシア日本国大使館参事官、2001年外務省大臣官房海外広報課長、03年日本国際問題研究所主任研究員兼研究調整部長、04年外務省欧州局ロシア課長、07年在イスラエル日本国大使館公使、10年デトロイト総領事、13年人事院公務員研修所副所長、15年から香港大使兼総領事、18年駐パキスタン特命全権大使、2110月駐ウクライナ特命全権大使を拝命。2410月離任、外務省退官。


つるおかみちと:1975年東京都生まれ。98年慶應義塾大学法学部卒業後、同大学大学院法学研究科、米ジョージタウン大学大学院で学び、英ロンドン大学キングス・カレッジ戦争研究学部で博士号(PhD)取得。専門は現代欧州政治、国際安全保障。在ベルギー日本大使館専門調査員(NATO担当)、防衛省防衛研究所主任研究官、慶應義塾大学准教授などを経て、2025年から現職。著書に『欧州戦争としてのウクライナ侵攻』『模索するNATO:米欧同盟の実像』など。


 

 

大使公邸から見えたミサイルの光跡

鶴岡 2022年2月24日、ロシアがウクライナへの全面侵攻を開始してから3年あまりが経過しました。第二次トランプ政権の誕生によって停戦に向けた動きが見え始めましたが、停戦そして和平までの道のりにはまだまだ多くの障害が存在します。

 本日は、昨年10月まで在ウクライナ日本国特命全権大使をされていた松田さんと、現代欧州政治や国際安全保障を専門とする私で、ロシアとウクライナをめぐる論点を整理し、ウクライナ、そしてヨーロッパの将来を展望するようなお話ができればと思っています。

 松田さんは2021年10月24日、ロシアによるウクライナの全面侵攻が始まるちょうど4カ月前に、在ウクライナ日本大使に着任され、キーウで開戦当日の様子を目にされています。開戦を実際に見た日本人は限られます。最初にお聞きしたいのは、3年経った今、当時を振り返って何をお考えになるかです。まず、現地ウクライナで侵攻の予兆はどのように感じられたのでしょうか?

松田 ロシアの動きに対して嫌な予感がしたのは2021年の春、私がまだパキスタンで大使をしていたころです。ウクライナとの国境付近でロシアが軍を集結させ、演習名目で軍事活動を活発化させました。その後、同年の6月に米露首脳会談が開かれ、それを踏まえてロシアは一度活動を低下させます。

 そんな中、8月15日には駐アフガニスタン米軍の撤退がきっかけとなり、タリバンが20年ぶりに首都カブールを占領するという事態が起きます。まさにこれはバイデン政権の外交政策が失敗したことの表れです。大混乱の中でカブールが陥落し、大使館も閉鎖され、多くのアフガニスタン人や各国の国民がカブールから命からがら逃げました。このアメリカの失敗を受け、9月以降、ロシアが再びウクライナの東部国境付近に軍を集中させ軍事活動を活発化させたのです。

 私はこの一連の流れを在パキスタン大使として、アフガン人の撤収を支援しながら注視していましたので、ウクライナに大使として21年10月に着任した当初から、「ロシアによる侵攻が始まるのでは」という考えがすでに頭の中にありました。さらに年が明けたころからは、問題は戦争が起きるかどうかではなくて、いつ・どこで始まるのか、そしてウクライナは準備ができているのか、欧米はウクライナを支援する準備ができているのかといった懸念が頭を占め始めます。

 こんなモヤモヤした気持ちで、2月24日が訪れました。明け方の4時頃、ロシア軍が最初に放ったミサイルの光跡が大使公邸から見えたときに、ついに始まったなと思ったと同時に、不思議と心が落ち着いたのを覚えています。もう余計なことは考えなくていいと。始まってしまったからには、まずは残っている在留邦人を何とか逃がして、次にウクライナを支援するために日本政府と連携を取り大使としてできることはやる、といった覚悟です。

 当時を振り返って不思議だなと思うのが、人間は物事が不透明で千々に心が乱れているときより、物事がはっきりと目の前で動いているときのほうが腹が据わるんですね。そのおかげで曲がりなりにもきちんと勤めを果たせたと思いますし、それが今日まで続くウクライナ支援にいささか貢献できたとすれば、外交官としては満足しています。

 

 

バイデン政権の対応がロシアの決定にどう影響を与えたのか

鶴岡 パキスタンでの経験が繋がっているのは興味深いですね。カブール陥落はアメリカの力の衰えを象徴する出来事だったと言えます。特に、アメリカが敵対するロシアや中国に対しては明確なメッセージになりました。ここで露呈したアメリカの弱さが、やはり少なからずウクライナの全面侵攻と繋がっていたのでしょう。

松田 開戦前のアメリカに関して付け加えると、2021年12月7日にバイデン大統領とプーチン大統領は、オンラインで会談をして、アメリカは会談後に記者会見を開きます。そこで、「ロシアが軍事侵攻をしたら、アメリカが軍事介入しますか」との質問が出たのですが、バイデンさんは「介入しません」と明言したのを先生も覚えているかと思います。

 私はこのバイデンさんの回答が今でも引っかかっています。アメリカの大統領として言うべきだったのは、「もしロシアがウクライナに軍事侵攻したら、アメリカとして全てのオプションをテーブルの上に残しておく」という一言だったと思うのです。この一言があれば展開が変わっていたかもしれない。私だけでなく、多くのウクライナの方が同じように思っています。なぜあのときバイデンさんはあんなことを言ったのだろうかと。ウクライナの人と話をすると、折に触れてこういった話を聞きます。

 要するに、バイデン政権のもとでカブール陥落という失態を晒し、ロシアがそれに乗ずる動きを見せた。にもかかわらず、ロシアに圧力をかけるチャンスをバイデン政権は必ずしも生かしませんでした。これが全てではありませんが、確実に大きな要因となって2月24日を迎えたのではないでしょうか。

鶴岡 ご指摘のバイデン発言には、私も当時から違和感を持っていました。なぜここでロシアを安心させるのかと。ロシアにとって一番避けたい事態は、ウクライナ侵攻時にアメリカが介入してくることですから、その恐れを取り除いてくれたことになります。

 他方で、未だに自分の中で結論が出ないのが、仮に「全てのオプションがテーブルの上にある」とバイデン大統領が言っていたとしても、本当に抑止が機能したんだろうかという点です。やはり、バイデンさんの発言だけでなく、カブール陥落および米露会談含めた流れの中でロシアは判断し、侵攻を決行したのでしょう。アメリカが口先だけで介入をほのめかしたとして、実行に移せたかは疑問です。そうするとむしろ、アメリカの信頼問題に関わってくる可能性がありました。あの時期のバイデン政権の対応がどう影響を与えたのか、まだ結論が出ていません。

松田 今のご指摘は非常に重要です。やはり言葉だけでは不十分で、アメリカはそれを裏付ける行動をするべきだったとは思います。ウクライナ自身が開戦の予感を一番敏感に感じ取っていたので、21年の秋以降は米欧に対して武器支援を訴え続けていましたが、ウクライナ側の評価では結局開戦に至るまでの支援はまったく足りていなかった。

 一方、トランプ政権は、開戦直後のキーウ攻防戦で大活躍したのは第一次トランプ政権で提供されたジャベリン(対戦車ミサイル)であると、アメリカの支援を強調します。これはこれで間違ってはないんですね。ジャベリンがなかったら、キーウ攻防戦でロシア軍を撤退させることはできなかったかもしれません。

 

 

当初は誰も本気ではなかったウクライナ支援

鶴岡 まさにおっしゃるような米欧の対応は、今後しっかりと検証する必要があると思います。その上で、当時を振り返ってやはり強調すべきなのは、そもそも米欧は誰もウクライナ支援に本気ではなかったという点です。今日の感覚では、米欧諸国が当たり前のようにウクライナ支援にコミットし、武器供与をしてきたように感じてしまうかもしれませんが、当初はそうではありませんでした。松田さんがおっしゃるようにジャベリンだけだったのです。

 また、ジャベリンも開戦が迫る中で慌てて数を追加した経緯があります。その時点では、それ以上の支援をするつもりがNATO諸国にはなかったのです。なので、ロシアの想定通りに侵攻が成功し、3年が経過した今、「そういえば昔ウクライナという独立国家があったね」となっていた可能性は大いにありました。少なくとも米欧は、ウクライナが持ちこたえられずに敗北してしまう結末を、ある程度は覚悟して受け入れていた側面がありました。なので、あたかもNATO諸国が最初から全力で支援していたかのようなストーリーに切り替わってしまうのは、非常によくないと思っています。現実は違いました。

松田 そうですね。開戦前に欧州諸国はウクライナ支援に本気になれなかった。ここには、「ウクライナ側にも原因があった」と、関係者が反省の念を込めて言っていたのを聞いたことがあります。クリミア侵攻のとき、軍の高官に就いていたウクライナの友人は、「まさか、かつての兄弟同士の国で殺し合いをするとは2014年の時点で思いもしなかった。だからあっという間にクリミアは取られてしまったのだ」と。

 クリミア侵攻後、ロシアが東部ドンバス地方に軍事介入を始めたとき、初めてウクライナ国内で、これはまずいのではといった空気が漂います。そこで最初に立ち上がったのは、軍ではなく地元の民間人や財界人たちでした。彼らが慌ててボランティアを募り、ロシア軍およびロシア軍の援助下にある分離主義者たちと対抗しました。

 この経験がきっかけとなり、将来何か起きたときには自国でしっかり対応できるようにしなくてはいけないといったウクライナの警戒感が高まり、NATO型教育・訓練システムによる将兵の再教育が急速に進められるのです。

 もちろん22年のロシアの侵攻を完璧な備えで迎えられたわけではありませんが、14年のウクライナとは士気も戦力も圧倒的に異なっていました。だから、ウクライナは今まで持ちこたえることができました。

 ロシア軍はここの読みを間違え、22年も短期間で占領ができると考えていたので、食料や燃料を2、3日分しか持っていなかったのは有名な話ですよね。欧米も14年のウクライナと同じことが起こると思っていた。ただ、ウクライナだけは、次は国が全部なくなってしまうと事の重大さを認識していました。その覚悟の表れが2月25日夜のゼレンスキー大統領による、SNSでの「我々はここにいる」で始まるメッセージ動画です。当時、私もキーウの大使公邸の地下シェルターであれを見ましたが、涙が出ました。外国人の私ですら強く胸を打たれたのですから、多くのウクライナ人を奮い立たせたと思いますね。

鶴岡 あのメッセージ動画がウクライナにとって抵抗の出発点になりました。

 そして、開戦当初ジャベリンすら出し渋っていた米欧諸国は、日を追うごとに榴弾砲、歩兵戦闘車、旧ソ連製戦車、ロケット砲と支援が手厚くなり、1年後にはNATO加盟国製の戦車の提供に至りました。遅かったとの批判も当然ありますが、結果として当初考えられなかったような規模の武器支援になりました。

 何がそれを可能にしたのか。一つはウクライナが供与された武器を効果的に使い、国民が一丸となって勇敢にロシアに抵抗したことです。抵抗力が示され、支援しても大丈夫だと米欧諸国が考えました。すぐに倒れてしまう国に支援をしても意味がないからですね。二つに、想定を超えてロシアの行動が酷すぎた点です。あまりの悲惨さにNATO諸国もアメリカも目を背けるわけにはいかなくなったと。

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