心が震えた体験で意識が変わる
松本 でも一つ、それまでは「お父さんってすごいな。自分も大きくなって後を継ぐんだ」みたいな子供の考え方から変わったきっかけがありました。
僕が高校生ぐらいのとき、父親が佛像を納めるんで、お寺に一緒に連れて行ってもらったことがありました。すごい大きなお寺の真ん中に佛像が置かれていて、父親のおかげで自分まで高い席(上座)に座らせてもらったんです。その場所から「後ろを振り返ってみなさい」と父親に言われて見た先には、本当に大勢の信者さん檀家さんが一緒に祈りを捧げてはったわけですよ。
「父ちゃんすげえな。これだけの多くの人を感動させられる作品をつくって、こんな高い席で偉いお坊さんから一目置いてもらえて」と気持ちが昂ったんです。でも「いや、そこじゃないよ」って言われて見たのが、席につけなくてお堂から溢れた人の中にいた高齢の親子と思われるおばあちゃんとおばさんです。娘さんのほうがお身体が悪そうで、おばあちゃんに支えてもらいながら一生懸命に手を合わしてはったんですよ。
父親に「ああいう人たちのために、こういう佛像は必要なんだ」って言われたときに、自分は華やかな部分しか目がいってなかったんだと気づいて、本当に心震える経験をしました。
多くの人に感動を与えられ、そして衣食住に関わるものじゃないにもかかわらず、これだけ切実に欲してる人がいらっしゃる。それが何百年何千年と続いていくっていうのが本当に魅力的というか奥が深いというか、ロマンをすごく感じたっていうのがあります。自分も多くの方に未来永劫必要とされるような佛像をつくれるようになりたいと、そのとき本当に思いましたね。
父親が佛師になった契機
──お父様はどのようなきっかけで佛師になられたのでしょうか。
松本 元々、父親の家は貧しかったので、小さい頃から金持ちになることが将来の夢やったんですね。というのも、身体の弱い弟の面倒を見るつもりだったからです。しかし、盲腸を取るくらいの簡単な手術やのに、医療ミスのようなかたちで急に弟を亡くしたんです。父が高校生の時でした。毎日両親は泣いてて、父も悲しみの行き場所がなかったんです。
こんな救いのない状況に佛はいるのかと思って佛像を独学で学んだのです。佛像を彫っているときだけは余計なことを考えずに無心になることができた。気がついたら父はずーっと彫り続けていたんで、家中彫刻だらけになってたそうです。ある種、取り憑かれている状況の父を見かねた高校の恩師が、野崎宗慶先生という慶派(佛師の流派の一つ)で昭和最後の生き残りと言われている師のところへ連れていってくれました。でも1年半で野崎先生が亡くなられた。父親は最後の弟子でしたから、ご子息が「親父の後を受け継いだのは君しかいないのだから、『明慶』と名乗って慶派を継いでくれ」と言われて、そこから松本明慶を名乗るようになったんです。
──たった1年半の修行だったんですね。他で修行はしたんですか?
松本 他へは行かなかったんです。「自分の師匠は野崎先生一人しかいない」と亡くなられた後も先生のスピリッツを携えていたからだと思います。僕も、もし父親がお星様になっても「父ならどうしたか、こう言いそうやな」とか、そのスピリッツを引き継いでいれば、わかることがあると思うんです。だからそういうことを感じられる信頼関係があったんやと思いますね。
熱帯魚屋で全国に名が轟く
──佛師は不安定な職業だったのではないかと思います。どのように生計を立てていたんでしょうか。
松本 もちろんすぐに、佛師だけでは食べていけません。父親は早くに結婚をして、22歳の時に僕が生まれてますから、家族を養うために彫刻をやりながら副業してました。僕が幼小の頃、熱帯魚屋をやってたんです。学生の時から生物が好きで詳しかったから。
当時アマゾンから稚魚を仕入れて販売するのが通常のルートやったんですけど、父親はそれやとコストもかかるからといって自分で卵から育てる、いわゆるブリーダーをやって全国に名が轟くくらい有名なお店になったんですよ。
店自体はちっさいんですけど、水槽の置き方一つにしても、一つでも多くの種類の魚が見せられるように水槽を縦置きにして工夫したり、自分で棚を溶接したり、先見の明があってとにかくバイタリティーの塊みたいな人でした。だからと言って店舗を広げるんではなく、あくまでも彫刻をするための副業でした。
だから僕が小学校高学年のとき、父が京都朝日会館で個展をしたのを機に彫刻で一気に名が知れ渡るようになったら、あっさりと熱帯魚屋はやめてしまったんですよ。収入でいったら熱帯魚屋のほうがはるかに多かったんですけど。あくまで家計を支えるためのことやったんで、とにかく彫刻の技術を伸ばしていくための時間の邪魔になるからといってやめてるんです。
──少し勿体ないような気もしますね。
松本 彫刻をやっていくことにブレがなかったんやと思います。それに、父親には京都朝日会館で個展をやるずっと前の若い頃から弟子がいたんですよ。その弟子を育てていかなあかん、という気持ちも後押ししてたんやと思います。
熱帯魚屋をやっている時から遊びにくる子やらいるんですが、飯を食いに連れていってやったりして段々とついてくる子が増えたんですね。父は親分肌で人を育てることについても能力がある人なんで。幼かった僕でも父のそういった雰囲気をよく覚えています。
大人がつくったと疑われていた
──明観様はどのように技術を習得していたのでしょうか。
松本 小さい頃から彫るのが好きでした。遊びの延長やったんですね。
玩具屋さんで色々見て、ギミックを観察して自分ならここまでできるなとか、こうやったらどうかなとか、色々やりたくなってアイディアやモチーフを真似してきてつくるんです。そうすると「こんなアイディアや技術は大人でないとできひん」て言われて疑われるんです。アイディアは真似しましたけど、つくったのは僕です。父親は絶対に手伝ってくれませんでしたから。
その頃つくったのは、例えばモデルガンを置く台です。拳銃を握っているような手の形を彫刻しました。それから夏休みの宿題も木製の立体パズルや、コインが仕分けされる貯金箱など「親に手伝ってもらったんやろ」って言われるくらい完成度が高かったんです。
──どんなお子さんでしたか?
松本 問題児でしたね(笑)。ある日、作務衣と下駄で高校に行ったことがありました。校長先生に呼び出されましたけど、「用事があるんやったら、校長から来いよ。なんで僕が行かなあかんのや。作務衣は先生たちが着てるようなスーツよりもずっと日本古来のもんではないか。だから何が悪いんや」と、言い負かしてましたね(笑)。
──工房に入ったのはいつですか?
松本 19歳の時ですね。1年間はサラリーマンしてるんですよ。高校を出てからすぐにでも工房に入ろうかと思ってたんですけど、父親が「一度、京都で老舗の佛具屋さんで宗派や佛像のことを学んでこい」と、佛具屋さんに頼んどいてくれたんです。でっち修行みたいなことを受け入れてくれはって、1年間勤め終わって僕は工房に入門しました。そん時、弟子はまだ10名そこそこくらいでした。僕が入ってからは、あっという間に弟子の数も増えていきました。
僕は2代目として、お金の管理の役割も担ってます。父親は職人気質なので、仕事がとにかく一番なんで、他の雑務とか二の次になってしまうんですよ。だから僕は30歳の時から経理を任されてるんですけど、衝突が結構ありましたね。父親は財務を気にしないので、平気で数千万単位の高価な木材を仕入れてきたこともありました。どんぶりでしか勘定していないので、僕が細かくやりくりしていると「ビジネスマン気取りか」と言われてバチバチの喧嘩をしたこともあります(笑)。
──そんなに高い木材があるのですね。
松本 信じられないかもですけど、今工房にある材料の中でも伽羅、沈香など貴重な香木は大変高価なんです。1グラムが金より高く取引されてます。埋木うもれぎといって、土の中から掘り起こしてくる化石みたいな材料で、希少価値がとても高いんですよ。こういう素材を使って彫る佛像は、小さくても1千万円を超える場合があります。