廃仏毀釈で渡仏していた佛像を修復する
──佛像製作だけではなく、多くの修復も手掛けていらっしゃいます。以前お父様とフランスのギメ東洋美術館が所蔵している佛像を修復されたそうですが。
松本 僕が工房に入って3年経った22歳のときでしたね。当時西武百貨店グループが「フランス国立ギメ美術館創立100周年記念」としてギメの古佛の美術品を日本に誘致して展示するという企画がありました。それをフランス政府に持ちかけたところ、傷んできている部位を直して返却することを日本に里帰りさせる条件として提示されました。そこで、150体以上の佛像修復でうちに声がかかったんです。
これほどたくさんの佛像は、元々廃佛毀釈が行われていた明治時代に、フランスの事業家エミール・ギメが宗教調査使節として来日した際、日本から持ち帰った佛像だったんです。
僕がこの依頼を受けてまず思ったんは「こんなに素晴らしい佛像が全部向こうに行ってしまってたんか」と廃佛毀釈への怒りが込み上げたことです。しかし、父親からは「日本にあったら戦争で焼けてたかもわからんぞ」と言われて。日本にはないけど世界のどこかにあるのと、この世からなくなってしまうのと、どちらが良いか──そう考えると、ギメに助けてもらったんやな、と気持ちを切り替えることができました。
──修復でご苦労された点は?
松本 苦労というか、ジレンマが大きかったです。歴史的なものであるがゆえに、修復したいけどできないっていうジレンマです。我々が修復した佛像は古いものなので、過去に何度も修復されてきている佛像です。でも当時直した人の技術が未熟やったんで、明らかに元々の作者とは腕前の違う人がつくった部位がある、という違和感があったんですよ。だから当然その部位も修復したくなってしまいます。でも、その時代から佛像は100~200年の間、身体の一部としてついてきて人々からの祈りを支えてきはった。その歴史を背負っておられるわけです。それをどう捉えて、どこを修復していくかです。
それはギメの時に限らず修復のときは、毎回葛藤があります。理想的にはもっとオリジナルに近かったであろう形に僕らが直したほうが、これから先何百年たったときに違和感なく納めてもらえるんです。でも、それが施主さまの意向と違って、修復したいっていう自分のエゴだとしたら、やって意味がないこと。だから施主さまであるお寺さまとかともご相談をかけながら決めていくことなんですよね。
理解し難い保存修理
──修復に必要な技術とは、なんでしょうか。
松本 佛像修復の時、古いものであればあるほど、取れたパーツがなくなっているんですね。
例えば室町時代につくられた佛像だとして、江戸時代前期に取れた右腕をAさんが、さらに江戸後期にBさんが左腕を修復したとします。それぞれ修復はしたけど下手だったり、元の佛像を真似て修復できてないと、1体の佛像なのに明らかに右腕と左腕、さらに元々の作者とはテイストが違うものが三者三様に浮いて見えてしまうわけです。僕らはそういう作品を見たときに、ものすごい違和感として、すぐに気づいてしまうんですよね。だから上手いだけではダメです。モノマネ力が必要ですね。
うちには、修復する時のルールがあります。修復する対象の佛像を見て、その佛像をつくった人の技術より遥かに凌駕した技術を持っていて、なおかつモノマネをする能力がないと修復をやってはいけません。例えば歌手のモノマネで、歌はうまくてもその人に声の質やトーンが似ていないとモノマネになりませんよね。本人よりも上手く歌っては、違うもんになってしまうでしょ(笑)。
佛像の修復も、修復した部分がめちゃめちゃ綺麗でも、他の部分とテイストが違うと修復にならないんです。つくった人のテイストを見て、その人やったらこの破損している部分はこうやってつくったんやないか、と癖とかタッチを読み取ってつくれば全く違和感なく直しができるんです。
でも世の中は圧倒的に修復する側の技術が下になっていることが多いんです。他よ所そではパテで修復したりしてますが、それは邪道中の邪道ですから、やめてくれと思います。パテで直すと色でごまかせたとしても、パテの上に塗った色と木の色は退色の仕方とか色の痩せ方が違うんで、月日が経てばどんどん目立ってくるんですよ。
僕は、同じ素材で木目まで揃うように木で修復しているので、現時点でどこを直したかわからないような状態になっています。ここから同時に経年変化を起こしていって、時が経てば経つほど余計わからなくなるんです。つくった人と会話してるみたいな感覚でやっているから、何も折れてなかったように直せるんです。
でも、ここまでの技術がないからか、最近「保存修理」っていうことを言い始めている人もいます。なんやそれ、と思いましたけど。
例えば、指が折れてありませんでした、となったら「指が取れてるのがオリジナルやから、ここに新しく指をつけるのはやめましょう」と言って再現されない。「残った指はこれ以上折れないようにしましょう」って言って樹脂で固めたりしてしまうんです。樹脂で固められた指は、プラスチックのような見た目になってしまいます。
──佛像の一部が欠けていることに対して、考え方が違うのでしょうか。
松本 僕らにとって佛像を修復するときは、やっぱりドクター目線なんですよね。医療に喩えて言うなら、僕は患っている部位が完治できる治療方法を提案しているのですが、「余計なことだ」と望まないんです。身体の一部が欠損していたら、治してあげたいと思うのが当然だと思うんですが──。そういう修復の現場が多くて、理解し難いと感じています。
美術と佛教美術は違うジャンル
──現代は、必死に祈りを捧げていた古い時代とは佛像を見る目が少し変わってきているのではと思います。佛像を美術作品として見られることや佛像ブームは、つくる方の目線からすると、どのように映りますか?
松本 僕はね、あんまり佛像ブームには関心ないんですよ。そういった取材を受けたこともありますけど、別に僕はブームに乗っかって佛師になったわけじゃないんです。他人からすれば、佛師なんてそんなこと今でもやってる人がいるのか?っていうようなマイノリティな仕事かもわかりませんけど。平安時代から続いてる職業の一つで、僕らはそこにすごい誇りを持ってます。
もちろん佛像彫刻は美術の括りにも入ってくると思うので、それはあえて言うなら美術の中でも「佛教の美術」っていうジャンルやと思うんですよね。
なんで僕が美術としてひとまとめにしないかっていうと、絵画とかはその作品の素晴らしさの前に、誰が描いたか、のほうが先に来るからなんですよ。
例えば一本の線を書いた紙があったとします。それにピカソのサインが入っただけで途端に価値が出ますよね。ピカソの作品は非常に素晴らしいですが、サインがなければおそらくただの線です。
絵画や陶芸などの芸術は先ず作者が誰か、という先入観で見ている場合があると思います。でも佛像彫刻って名前を表に出さないんです。例えば古いお寺さまにある阿弥陀さまでも、その佛像を観てファンがつきます。それは、誰々がつくらはったから、っていうことではないと思うんですよ。それが佛像の世界であって、絵画とか陶芸とかの世界との一番の違いなんやないかと思います。だから、うちの工房でつくっていない佛像であっても名前は関係なく素晴らしいクオリティのものであれば素晴らしいと思えるんです。誰かれのサインがあるから値段が上がるとか、曖昧なものと僕らのとは同じに並べて欲しくないです。
松本明慶の素晴らしい技術を弟子たちが継承して、磨き上げられた技術に価値があると思っています。