なぜアテナイが民主主義の起源と言えるのか
高橋 民主主義と言っても、基本的には今の話しかしないですよね。けれども民主主義を歴史的な生成物として見ると、そこにも始まりが存在しています。何事においても、起源を辿っていくことで構造や意味がわかってくることがありますよね。それでは民主主義の起源は何なのでしょうか? 世界史の教科書には古代ギリシアのポリス(都市国家)の一つアテナイで誕生したと記述されていますが、なぜアテナイが起源と言えるのか。
当然まったくのゼロから生まれてくるはずはないので、それ以前にも似た仕組みが絶対にあったはずです。にもかかわらず、なぜアテナイが民主主義の起源と言えるのか。その根拠をお聞かせいただけますか。
橋場 これは大問題です(笑)。専門家のあいだでも意見が分かれています。ギリシアに初めてポリスと呼ばれる都市国家ができたのは紀元前八世紀ぐらいで、それこそホメロスの時代です。どこのポリスでも最初は出生貴族による寡頭支配、つまり貴族政から始まっていて、家柄と富が圧倒的に物を言う社会でした。
それが紀元前八世紀から紀元前七世紀にかけて、ポリス市民のあいだで揉め事が起こるようになります。一種の派閥闘争ですね。どこでも起こることですが、それによって貴族政が動揺していきます。貴族たちはそれを抑えて再び秩序を取り戻すために、各ポリスでいろいろな処方箋を試します。
最初はそれまで貴族が独占していた、記憶だけが頼りの慣習法を成文化して、神殿の壁など誰でも見られるところにそれを刻むことから始めました。みんなが法にアクセスできて、裁判もより公平に行うことによって人びとの不満も吸収できると考えたわけです。
高橋 成文法をつくるということですね。
橋場 それで治まるポリスもあるんですよ。ところが、治まったらもう動きは止まってしまいます。小さいポリスは揉め事が解消されると、そのまま貴族政が維持されることが多いんです。とかく田舎というところは、門閥支配が強かったりしますよね。
ここはよく誤解されるところです。古代ギリシアのポリスは小さな都市国家だから、みんなが集まることができた。だからこそ直接民主政ができた、という考え方をよく聞きますよね。
高橋 そう言われていますね。
橋場 実際は逆なんですよ。例えば、クレタ島のポリスは門閥が昔から威張っていて、成文法を取り入れるなどの処方箋を試すと、それで秩序が回復しました。そして、一種の改良された貴族政が、そのまま何百年も変わらずに続くことになりました。けれども、大きなポリスでは、いろいろな手を打ってもダメだったりします。そうなると次には僭主政(独裁政)が現れて、貴族の権力闘争を強制的に力で抑えることで秩序を回復させようとします。
ところが、独裁政はポリスにはあまり向かないんです。初代の僭主(独裁者)が優れた人物で、民衆を可愛がって育てるというケースはよくありますが、二代目になると恐怖政治になってしまう。「ギリシアの僭主で三代続いた例はまれだ」と言われていて、暗殺されるか追放されるかのどちらかです。
アテナイも同じ経験をするんですね。結局、独裁もダメだということになったときに出てきたのが民主政です。ではアテナイが他のポリスと何が違うのかと言えば、それは人口が桁違いに多いことです。
高橋 そこがイメージとは違っていますよね。アテナイは小さいポリスだと勘違いされていたけど、実際はギリシアの諸国家のなかでは圧倒的に大きかった。
橋場 巨人と小人ぐらいの差があります。普通のポリスの全人口は二〇〇〇人~三〇〇〇人くらいで、面積にしたら世田谷区くらいの規模です。それに対してアテナイは神奈川県くらいの大きさでしたから、町と県くらいの差がありました。人口は、最盛期で成年男子市民が五万~六万人です。家族や奴隷も含めると、二〇万~三〇万の人がいました。
高橋 市民の権利がある人だけで五、六万人ですか。大都市ですね。
橋場 しかもアテナイは商工業が盛んで、人の出入りがさかんなポリスです。基本的には農業社会ですが、食糧を自給できないので輸入する必要がありました。現在でもアテネ周辺の土地は石灰岩だらけで土も真っ赤です。穀物栽培には適さない土地なので、食糧を輸入しなければ三〇万もの人たちが暮らしていくことはできなかった。なので穀物商人たちがたくさん出入りしていました。こういう多種多様な人びとが大勢住んでいるポリスをまとめることは、容易ではありません。放っておけば各地に貴族が蟠踞・割拠するようになりますから、何とか一つに統合することは最重要課題でした。
しかも、アテナイは戦争に弱かったんです。紀元前六世紀の末までは負けてばかりいました。
高橋 大きいポリスなのに戦争には強くなかった。揉め事も解決できないとなると、アテナイは問題ばかりですね。
橋場 そうなんです。いろいろな処方箋を試してみても、アテナイはうまくいかなった。そこで紀元前六世紀末に初めて導入されたのが民主政でした。代々アテナイの各集落に住んでいることが証明されれば、自由人の住民すべてに、平等な参政権が与えられることになりました。アテナイ市民は、一人一票の権利を持ったわけです。
【関連年表】
前650ごろ | ドレロスの碑文。現存最古の
ギリシャ語による国制法碑文 |
406 | アルギヌサイの海戦。
将軍の裁判と処刑 |
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594/3 | ソロンの改革 | 404 | アテナイ降伏。30人政権樹立 | |
561 | ペイシストラトス、僭主となる | 403 | アテナイ民主政回復 | |
510 | 僭主政打倒。ヒッピアス追放 | 399 | ソクラテス裁判 | |
508/7 | クレイステネスの改革。 | 386 | 大王の和約(アンタルキダス条約) | |
アテナイ民主政の基礎が築かれる | 378 | 第2回アテナイ海上同盟 | ||
506 | アテナイ、スパルタなどの侵入を撃退 | 371 | レウクトラの戦い。 | |
490 | マラトンの戦い | スパルタ、覇権を失う | ||
480 | サラミスの海戦 | 355 | アテナイ、同盟市戦争に敗北 | |
479 | プラタイアの戦い | 338 | カイロネイアの戦い | |
478 | デロス同盟結成 | 337 | コリントス同盟 | |
462 | エピアルテスの改革。
アテナイ民主政の完成 |
334 | アレクサンドロス大王、
東方遠征開始 |
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454 | デロス同盟金庫、 | 322 | アテナイ民主政、 | |
アテナイに移される | マケドニア占領軍により廃止される | |||
431 | ペネポネソス戦争勃発(~前404)。 | 318 | アテナイ民主政回復 | |
冬、ペリクレスの葬送演説 | 317 | パレロン区のデメトリオス、 | ||
430 | アテナイに疫病流行 | アテナイの執政官となる(~前307) | ||
413 | シチリア遠征軍壊滅 | 148 | マケドニア、ローマの属州となる | |
411 | アテナイに400人政権樹立 | 86 | スラ、アテナイを略奪 |
クレイステネスの改革
高橋 ここはぜひお聞きしたいと思っていました。現代に生きる我々は、制度としての民主主義を知っています。なので「民主政が導入された」と聞くと、民主主義の仕組みもセットになって社会に入っていった状態を思い浮かべます。議会や投票があって、法律を整備して裁判所を設置するといったことですね。我々は二五〇〇年以上の民主主義の経験がありますから、それを想像できます。けれどもアテナイは起源ですから、先行する民主主義が存在しないですよね。
橋場 その通りです。貴族が威張っているのが、デフォルトの状態でした。
高橋 それではなぜ、アテナイではデモクラシーを実践することができたのでしょうか。いつ、どのようにして民主主義の仕組みを知ったのでしょうか。
橋場 アテナイのデモクラシーは、紀元前五〇八年の「クレイステネスの改革」から始まったとされています。クレイステネス自身も名門貴族の出身ですが、アテナイでは貴族の親玉同士がいつまで経っても内部抗争を止めない状況が続いていました。対立が激しくなると、執政官筆頭であるアルコンという役職を選べない事態に陥ります。そういう年のことをアナルキアと呼んでいました。ちなみにこれがアナーキー(無政府状態)の語源なんですよ。
高橋 「アルコンなし年」だから、アナーキーだったんですね。
橋場 アルコンは一年の任期ですが、貴族政の時代は強大な権限を持っていました。貴族同士がアルコンの座をめぐって、権力闘争を繰り広げた結果アルコンを選べなかったことが、紀元前六世紀には二回あったんです。
こうした状況を嘆いていたクレイステネスは、「こんなことをやっているからアテナイは弱いのだ」と考えて、社会改革を一挙に実行します。最初に手を付けたのは、社会編成の原理を変えることでした。それまでは伝統的な地縁・血縁を基本にした、なかなか解きほぐせないしがらみのような大きなグループがいくつもありました。それをすべていったんチャラにして、生まれや貧富に関わりなく、一人が一票の参政権を持つことにしました。いきなり民会での多数決で物事を決めるのではなくて、その準備機関として五〇〇人評議会という議会を設置しています。
高橋 民会は「クレイステネスの改革」以前からあったんですよね?
橋場 民会は昔からあります。ただクレイステネスは、いきなり民会などの制度から手を付けることはせずに、まずは社会の編成を変えることに先に取り組みました。
高橋 ここは先生の本で読んでびっくりしました。それまで社会にあった様々なグループを入れ替えたんですよね。
橋場 シャッフルするんです。
高橋 なぜそれを思い付いたのですかね。すごい発想ですよね。
橋場 それが不思議です。ここにはいろいろな論争があります。クレイステネスが自分の発案でいきなりこれを実行したとはとても思えませんよね。いずれにせよ相当洗練されたアイデアですから、よほど年月をかけて構想を温めてから実行したのだと思います。
「クレイステネスの改革」で興味深いのが、これが一種の「想像の共同体」であることです。それまでおたがいに知らなかった、まったく別々の集団同士を新たに結び合わせているわけです。
高橋 それまでは、地縁か血縁による結びつきしかなかったですよね。
橋場 あるいはその両方ですね。それをトランプのカードをシャッフルするようにして、新しく一〇の部族をつくりました。それらの部族は、別に地縁集団でも血縁集団でもない、言ってみれば書類上で成り立つ集団です。沿岸地域、内陸地域、都市地域に住む人たちから、それぞれ一グループずつくじ引きで選んで、一つの仲間として結び付けました。
しかしクレイステネスが巧妙だったのは、各部族に「あなた方は一人の始祖から生まれた同族である」という、フィクションの血統意識を与えたことです。アテナイの神話に登場する英雄や王様を始祖として、その名前を各部族に付けました。新部族は始祖を祀るお祭りをやったり、集会を開いたりするようになります。そして、それぞれが軍団になっていきます。
高橋 軍隊ですね。
橋場 そうです。役人の抽選もそれらの部族から選びます。これがフィクションの血縁集団であることは、みんなわかっているのです。
高橋 嘘だとわかっていても、言うことを受け入れたのですか?
橋場 第一世代は「しょせん嘘だろ」という反応を示したかもしれませんが、第二世代、第三世代になると部族内で実際に通婚しますから、五〇年くらい経つと、フィクションの設定を信じるようになるんです。
高橋 偽史が本当の歴史になっちゃうんですね。
橋場 そうです。興味深いのは、大改革を行ったクレイステネス自身も、自分の名前を歴史から消してしまうんですよ。
高橋 確かにそうですよね。クレイステネスの名前はその後は出てこないですよね。
橋場 歴史からはまったく姿を消します。その背景について研究している学者がいますが、有力な説は、「民主政をつくったのは自分だ」といった偉業にしてしまうと、それがまた彼本人の個人崇拝につながってしまうから、何か別の、虚構のシークエンスを考え出して、それを信じ込ませようとしたのではないかと。
高橋 めっちゃ優秀じゃないですか(笑)。
橋場 かっこいいなと思いますね。後のアテナイ人たちは、民主政をつくったのがクレイステネスであることを忘れてしまうんです。そして、それを忘れさせたのも、実は本人のしわざではないかという説があります。テセウスという神話上の王様が民主政を創設したということにして、それを記念する祭祀を始めさせたのではないかと。
高橋 別の伝説をつくって、自分は陰に退いたというわけですね。民主主義は、制度を敷く前にそういう下地がないと、草も生えないし花も咲かないのかもしれないですね。
アテナイ市民は選挙をあまり信用していなかった
橋場 クレイステネスはそうした下地つくりには一生懸命でしたが、その代わり経済関係や財産関係にはまったく手を付けなかった。彼は、農地解放や土地の再分配のようなことをやると、絶対に反動がくることを知っていたのだと思います。先例のソロンの改革では、それで揉めることになりましたからね。だから、貴族が所有する土地を取り上げたり、──貴族が代々の神官となって氏子に地元の神殿を拝ませる支配を祭祀権と言いますが──そうした宗教上の特権を奪ったりすることもなかったんです。
高橋 下地つくりの後の、民主主義の具体的な制度としては何から始めたのですか。
橋場 最大の改革は、やはり国の政策は民会で民衆が多数決で決めることになったことですね。実際に紀元前六世紀の末あたりから、民会決議碑文が現れるようになります。
高橋 六〇〇〇人が集まったという有名な「プニュクスの丘」での会議はその頃にもうすでにあったのですか?
橋場 ここは議論が分かれています。最初はアゴラだったようですが、そこから「プニュクスの丘」に移りました。それが「クレイステネスの改革」の頃だったのか、もう少し後なのかは今でも議論があります。
市民たちは民会にやってきますが、国土が広いので、当初は大体年に一〇回くらいしか集まれません。そうすると民会の議題の準備を担当する常任執行機関がどうしても必要になります。それが、新たにつくられた五〇〇人評議会です。これは(紀元前五世紀に入ると)抽選で評議員を決めます。任期一年で、評議員に一度選ばれたらもう再任されないという決まりがありました。
高橋 抽選というこのあまりにも有名なやり方は、どのような経緯で導入されたのでしょうか。さすがにこれもクレイステネスが導入したわけではないですよね。
橋場 やっていないですね。クレイステネスが最初につくったときの五〇〇人評議員は、選挙で選んでいたようです。それがペルシア戦争などを経て紀元前五世紀の四八〇年代になって、初めて抽選制という仕組みが導入されるんです。選挙の仕組みについては、ギリシア人は前からよく知っているんですよ。アルコンの選任も、もとは選挙だったようです。ただ、アテナイ市民は、選挙は貴族政的な制度だと見なしていましたから、あまり信用していないんです。
くじ引きで何かを人に割り当てるというやり方は、ホメロスの時代からギリシア人はよく知っています。昔から財産分与する場面などでも使われていました。古代ギリシアは長子相続制ではなくて均分相続制でしたから、三人の息子がいたら財産を公平に分けなくてはなりません。そのための方法として、くじ引きはよく知られていました。ただ、政治的な役職をくじ引きでやるのは、アテナイが最初でした。非常に革新的な試みだったと思います。
高橋 そう思いますね。裁判官まで抽選で決めるのはすごいですよね。誰がどの役割を担うのかまったくわからないということを徹底してやっている。滅茶苦茶ラディカルですよね。ただ抽選自体は、以前からあったんですね。
橋場 デモクラシーはアテナイ人にとって、社会を統合するための一つの手段です。そうしないと、いがみ合い・殺し合いを始めることになってしまいます。国がどうしても治まらなかったので、民主政が導入されたわけです。苦肉の策だったところもあるわけですが、民主政はアテナイ市民に受け入れられます。それは、民主政になってから戦争に強くなったことも大きかったと思います。
アテナイは「クレイステネスの改革」が成立した直後、スパルタやテバイなどの国々が干渉してきて攻め込まれました。けれども見違えたように強くなって、すべて撃退してしまうんですね。その後も同じようにマラトンの合戦(紀元前四九〇年)やサラミスの海戦(紀元前四八〇年)でも戦争に勝利しています。先ほどお話しした部族軍が成功しているわけです。
高橋 それは成功体験になりますね。民主主義だと強くなると自信を深めることになった。
橋場 民衆も自信を深めて、別に家柄が高くなくても、抽選で選ばれた普通の人でも役人が務まることを次第に覚えていったのだと思います。