『公研』2020年8月号「めいん・すとりいと」
中尾 武彦
コロナ禍でいつもより長い時間を家で過ごすようになって、今までより本を読む機会が増えた。最近手にとった1冊が舩橋晴雄著『反「近代」の思想─荻生徂徠と現代』だ。荻生徂徠(1666年─1728年)について知っていたことは、五代将軍綱吉の時代に赤穂浪士の処分に関し、助命説もあるなかで名誉ある切腹を進言した儒者であること、古典落語の「徂徠豆腐」で、貧しい修行時代に近所の豆腐屋に毎日差し入れを受けたことを一生忘れず恩に報いたという話ぐらいだ。
この本を読んで印象に残ったことの一つは、すでに江戸前期に、江戸、京都を含めて全国の儒者たちの活発な交流があり、著書の出版や書簡、塾生たちや雇用主たちの記録から克明に人物が追えるということだ。また、徂徠は、統治の学問として朱子学が支配的になるなか、古代中国の古典を直接読み解く古文辞学を確立したのだが、その後「徂徠ブーム」とも言える時代があったというのも興味深い。
徂徠の真骨頂は、徹底した「反近代」の思想にあるという。貨幣経済の浸透で物価が上がり武士が困窮するという問題への徂徠の解決方法は、「上下ともに心のままの世界」を改め、身分の差に応じて限りある資源を分相応に消費する「制度」を構築することだ。また、武士が本来の知行地に戻ることを勧める。諮問した八代将軍吉宗も、さすがに意見を取り入れることはなかった。つまり徂徠の思想は当時ですら「時代錯誤」性を持っていたわけだが、それゆえに、「今日の問題を考える時代性がある」と舩橋氏は述べる。
この本をきっかけに、改めて「近代」とは何なのかを考えた。基本的には、西洋史で、ルネサンス、「地理上の発見」以降を指す言葉だ。アジア諸国の経済発展を見てきた立場から、あえてその今日的な要素を挙げてみる。社会の次元では、世俗主義、合理的・科学的態度、個人主義、都市化、政治の次元では、選挙による民主主義、権力分立、私的所有権、人権(自由、平等)、国民国家、経済の次元では、毎年経済が成長するという前提、市場経済システム、各国間の貿易・投資の促進、技術の発展と生産性向上、といったことになろうか。徂徠が考えたような定常状態の社会ではなく、「進歩」を旨とする社会と言えるだろう。
近代化は20世紀後半にアジア諸国を含む世界の多くの地域に浸透し、21世紀に入ってからも、新興国の成長は著しく、貧困削減が進むなど、世界には「進歩」が見られる。デジタル技術や人工知能、新しい材料、あるいは新しい医療などによって、人々の生活がさまざまな領域でよくなっていることは確かだ。
しかし、同時に、我々が言わば当たり前に受け取ってきた「近代」というものの成果が、相次ぐ金融危機、気候変動、自然資源の限界、各国に広まる宗教主義、速すぎる技術革新、民主主義を支えてきた各種の権威の失墜、それにコロナ禍などのチャレンジを受けて、危ういものに見え始めている。「近代」のなかの、いわば異なるフェーズにある各国の間の対立関係が増していることも不安を高めている。一定の教育を受けて、真面目に仕事をし、家族を支えれば、プライドをもって安定した一生を送ることができるという近代社会の期待が崩れてきていることも問題だ。
どうすればよいのだろうか。「近代の超克」などということにはしばしば害のほうが多い。私自身は、上記のような近代を支えてきた諸要素は、人々の基本的な、人間的な欲求に根拠があり、長い間にわたる人類の営為の成果であって、今後も変わることのない価値を持っていると思う。簡単な答えはない。
思いつくのは、直面する諸問題へ真摯に対応していくことのほか、地域などのコミュニティへの回帰、民主主義を支えるはずの諸制度の再強化と専門性へのリスペクト、といった当たり前のことばかりだ。みんなで知恵を絞っていくしかない。各個人が驕りを捨て、徳を高め、中庸をめざす姿勢も大事だろう。最後は徂徠先生の言うことに少し似てきてしまったようだ。みずほ総合研究所理事長