三〇人政権時代と「記憶の抹消」
高橋 ただ、アテナイは結局スパルタに戦争で負けてしまいますよね。橋場先生の本を読んで意外に感じたのは、実はアテナイの民主政はスパルタに敗北を喫した後に最盛期を迎えたのではないかというご指摘なんです。
ここの歴史の見方は、従来とは大きく違いますよね。これまでの歴史の通説だと、ペロポネス戦争でスパルタに敗北したことをきっかけにアテナイの民主主義も衰退していったかのような語られ方をしてきました。ペロポネス戦争に負けた後のアテナイで、民主主義が盛り上がっていく過程についてお聞かせください。
橋場 戦争に負けた後のアテナイは、紀元前四〇四年に民主政を転覆され、三〇人政権という極端な独裁政権に移行します。ところが、これがひどい恐怖政治に陥ってしまって、半年ももたなかった。それでスパルタも次第に理解を示してくれて、その応援もあって民主政が復活することになります。
高橋 占領国が自分たちの政治体制を押し付けるのはありそうなことですが、それをやらなかったスパルタは偉いと言えるのかもしれませんね。
橋場 他のポリスではやっているんですよ。テバイにはやはり貴族政を押し付けようとしましたが、結局は失敗しています。実はアテナイの三〇人政権も、スパルタの国制に由来しているのではないかという説もあります。スパルタには昔から長老会という元老院みたいな機関がありますが、その定員が三〇人なんです。
高橋 それを真似た可能性があると。
橋場 最初はスパルタの傀儡政権でしたが、スパルタの内部事情もあって、アテナイ統治のスタンスが変わるんです。スパルタの指導者層もよく喧嘩するんですよ。権力闘争に敗れた側の指導者が去って、アテナイ民主政に理解のある人が後からやってきたわけです。
スパルタにとっても、いつまでも他国に干渉し続けるのは難しいことでした。というのは、スパルタは国内にヘイロタイ(ヘロット)という農奴階級をたくさん抱えていました。
高橋 国内に反乱要因があるんですね。そんなにアテナイにかまけていられない。
橋場 そうなんです。放っておくと地元で火の手が上がるおそれがある。だから、同盟国でさえあれば、アテナイ人に好きな政治体制を選ばせようということになったのだと思います。
アテナイ人自身にとっては、三〇人政権の時代があまりに苛烈だったので、そこには戻りたくないという気持ちが強くあったと思います。この時代には、わずか数カ月のうちに一五〇〇人の市民を引っ捕らえて殺してしまうということが起きました。殺害された人の財産を、すべて懐に入れてしまったわけです。当時アテナイ市内にいた人で、自分の親族や友人が殺されなかった人は、ほとんどいないというくらいひどい時代でした。
ところが、それだけの殺し合いをやった寡頭派と民主派は、わずか一カ月か二カ月くらいの間に話し合いを付けて、民主政に戻ることが決まります。しかもこの時に、「記憶の抹消」ということをやるんです。
高橋 どういうことですか?
橋場 三〇人政権時代に起きた惨劇は、それはもう忘れたくても忘れられない恨みです。けれども、それを言い出したら絶対に和解が成り立たない。なので、その時代に起きた残虐行為は、「なかったこと」にしようと取り決めたんです。
高橋 ルワンダ内戦では、ツチ族とフツ族が激しく対立しましたが、あそこも強制的に民族和解したんですよね。そうしないと国がもたないからと。
橋場 アテナイの場合は、強制的に記憶をまるごとなかったことにしなければ、再び市民団が分裂してしまうことがわかっていたのだと思います。アムネスティ・インターナショナルという人権NGOがありますが、英語で大赦令のことをアムネスティと言います。これはギリシア語のアムネステイアから来た言葉です。
高橋 アムネスティの語源は大赦令なんですか。
橋場 「ア」はギリシア語の接頭辞で否定を意味します。ムネステイアが記憶です。
高橋 記憶をなくすのがアムネスティなんですね。
橋場 いつまでも覚えていたら絶対に復讐することになるので、フィクションを共有して忘れたことにしたわけです。
高橋 アテナイの人たちは、結構フィクションをつくりますね。やはりそこは文明国ですね。
デモクラシーは政治制度ではなくway of life
高橋 橋場先生は、アテナイの民主主義は三〇人政権の後に頂点に達したとお考えですが、その根拠をお聞かせください。
橋場 古代アテナイの最盛期については、学者によっていろいろな意見があります。一九世紀以降から私の先生くらいまでの世代は、戦争に強かった時代をマックスと見ています。ですから最盛期はペリクレスが生きていた時代(紀元前五世紀半ば)ということになる。この時期は、同盟国の盟主として頂点に立っていました。確かにこの時代、軍事力という点で国力は最大でした。
ところが、ペロポネソス戦争(紀元前四三一~四〇四年)の敗北で同盟国の盟主の座から転落します。同盟国も失ってしまいます。紀元前四世紀に入ってから、かつての勢いを取り戻そうとしますが、もう回復することはできなかった。昔の学説では、それをもって「アテナイは衰退した」とされてきたわけです。
高橋 世界史の教科書では、スパルタに負けた後のことは記載されていなくて、文化の話になりますよね。
橋場 そうなんです。そしてマケドニアが台頭してきて、アレクサンドロス大王の話になりますよね。けれどもアテナイの民主政が一番成熟したのは、やはり紀元前四世紀だと僕は考えています。史料が最も残っているのもこの時代です。
民主政の一つの区切りになっているのが紀元前三二二年です。マケドニアに侵攻されたアテナイは、民主政をいったん廃止します。我々は、戦争に負けたアテナイの人たちが自信を失って、自分たちで民主政をやめることを決断したと勘違いしがちですが、実はそうではないんです。マケドニアの占領軍がやって来て、民主政を放棄することを強制したわけです。
高橋 ここは日本の敗戦に似ていますね。
橋場 ちょうど反転したかたちでそっくりですね。アテナイは戦争に負けて民主主義をやめさせられましたが、日本は戦争に負けて民主主義を受け入れることになった。
マケドニアからすれば、民主政を放っておくとアテナイは再び反マケドニアの旗を掲げるだろう。そう考えてやめさせたわけです。けれども、アテナイ人はそれを承服できません。デモクラシーは、自分たちの祖先から受け継いだ生活様式ですから、絶対に手放したくないわけです。
高橋 政治制度ではなくて、やはりway of lifeであると。
橋場 生きることと肌感覚で結び付いているんですね。実際に四年後には反旗を翻して反乱を起こしますが、まもなく鎮圧されています。しかしその後も、アテナイは反乱を繰り返します。ですから、アテナイはマケドニアに負けてすぐに民主政をやめたわけではありません。アテナイ人の民主主義への思い入れはものすごく強くて、そう簡単には息の根を止められなかったわけです。
高橋 最終的にはどうなったのですか?
橋場 アレクサンドロス大王が亡くなると、ヘレニズム時代が到来します。この時代にポリスが衰退したと言われていますが、そうではないんですよ。ヘレニズムという時代の概念は、一九世紀のドイツの学者が勝手につくり出したもので、当事者のギリシア人たちは新しい時代に入ったとは思っていません。
高橋 そりゃそうですよね。歴史家が勝手に区分をつくっているんですからね。
橋場 だからポリスは存続したし、民主政もまだ生き延びています。ただしポリスが自分の考えで外交的な独立を保つことは、前よりも難しくなりました。いわゆるヘレニズム三王国──プトレマイオス朝エジプト、セレウコス朝シリア、アンティゴノス朝マケドニア──が鼎立して、アテナイはその間を泳ぎ渡っていくことになります。
高橋 独立性はだいぶ棄損されていたとしても、だからと言って完全に占領されているわけではないんですね。
橋場 完全に占領するのはなかなか難しいことです。本当の意味で首根っこを押さえ付けられて直轄支配されるのは、紀元前二世紀半ばにローマに征服されてからです。それまで民主政は細々と続くんですよ。それに、ローマ帝政になってからも民会は開かれていました。
高橋 それはすごいですね。
橋場 民会は形骸化していますが、紀元後三世紀くらいまでは民会決議碑文が残っています。ですから世界の教科書に記載されていた時期よりは、ずっと長いスパンでアテナイの民主政を捉える必要があると思っています。
デーモス(民衆)がクラトス(力で支配する)
高橋 ここまで橋場先生に「民主主義の歴史(過去)」について聞いていきました。ここからは、「民主主義の本質」それから「あるべき姿(未来)」について、最近僕が気になっていることを投げ掛けていきたいと思います。
アメリカの人類学者デヴィッド・グレーバーが書いた『民主主義の非西洋起源について』という結構有名になった本があります。民主主義が古代ギリシアで誕生したことを疑っているかのようなタイトルですが、よく読むとギリシア起源であることに反対しているわけじゃない。
橋場 確かにそうですね。
高橋 あえて挑戦的な言葉を使っているのでしょうが、グレーバーが考えたことはデモクラシーの本質に関わってくるところがあると思っています。彼の考え方では、デモクラシーとはある種のコミュニティ内で自由に意思決定をしていくことですが、問題になるのはコミュニティのサイズです。今の民主主義は、選挙や裁判といった大掛かりな仕組みを国家が関わることで維持されていますよね。けれども彼は、もっとサイズが小さいものがデモクラシーの本質なのだと言っています。そう考えると、先ほども「大きなポリスだった」という話がありましたから、アテナイは当てはまらないことになる。
グレーバーは、西洋以外にもデモクラシーが実践されていたマイナーなコミュニティが他にもいろいろあると主張しています。例えば、海賊などもそうだと。そうした非西洋的な経緯があって、民主主義が成立していったと考えたほうがいいと言っています。
『民主主義の非西洋起源について』にはもう一つおもしろい視点がありました。アメリカ独立革命のときに制定された憲法は、いわゆる民主主義のもとにつくられたものではない。主流派は共和制で、彼らが想定していたのはいわゆるローマの共和制であって、民主主義派はアナーキスト(無政府主義者)だったという指摘です。
僕らはアメリカをデモクラシーの元祖みたいに思っていますが、アメリカは共和制であってローマだと彼は見ている。このことには驚きました。僕たちがデモクラシーと考えてきたものが割とあやふやなものになってきますからね。デヴィッド・グレーバーのこうした問題提起に対しては、橋場先生はどのようにお考えでしょうか?
橋場 共感できる部分と、そうではない部分がありますね。グレーバーのような議論には、いわゆるオリエンタリズム批判やポスト・コロニアリズムの影響があって、何でも西洋起源ではダメだという態度が明確にありますよね。そういう意味では、古代ギリシアやローマは特にそういう槍玉に挙げられやすいところがある。
高橋 西洋起源の親玉みたいなものですからね。
橋場 そこはわからなくもない。けれども、歴史的な事実としてみたときに、民主主義の定義を無視しているところがあります。デモクラティアというギリシア語は、デーモス(民衆)がクラトス(力で支配する)という構造になっています。つまり、民衆が権力を握るということを意味しているんですね。なので、単にみんなで意思決定するだけではなくて、実際に権力を行使するわけです。古代アテナイの場合は、裁判権も民衆が持って、役人も民衆が担ったわけです。アリストテレスの有名な言葉に、民主政とは「順繰りに支配し、支配されることだ」というものがあります。あれはくじ引きのことを言っているのだと思いますが、民主政の定義とも考えることができる。
高橋 民衆が権力を行使することが民主主義のポイントであると。
橋場 コミュニティの規模については、とても興味深いですよね。確かに、日本にも民主主義的な小さなコミュニティがあった地域がありました。宮本常一は、西日本の村落にある寄合について書いています。戦後の農地解放の問題などでは、寄合でかなり時間をかけて話し合っている様子が紹介されています。村の寄合は、井伏鱒二の作品にもよく出てくる。
高橋 あれも話し合いですよね。投票はしない。
橋場 そうなんです。日本風の集団的な意思決定のあり方ですね。寄合がなければ話もまとまらなかった。しかし、農地解放をやると決めたのは、日本国民ではなくてGHQでした。寄合に集っていた人たちは、権力を行使していたわけではありません。上位権力はあくまでGHQであって自分たちではないわけです。
古代エジプトにもメソポタミアにも寄合のような集団的な意思決定の仕組みはありましたから、それをもってヨーロッパが民主主義の起源ではないという主張はよく耳にします。