自分たちの意思決定を自分たちでやる手応えを奪われている

 高橋 みんながいろいろなところに起源があったと言い出しているわけですね。

 橋場 古代エジプト王のファラオの場合は、下々が話をまとめて来て、それに基づいて最終的な決断を下すやり方をとっていました。そのほうが統治をやり易いというのもありますが、民衆による意思決定と考える見方もあります。しかし、結局はファラオが上位権力ですから、デモクラシーと呼ぶことはできません。古代アテナイの民主政の場合は、少なくとも理念上は上位権力があってはいけないと考えていました。

 もう一つギリシア人が他の古代民族と違っていたのは、自分たちがやっているデモクラシーという政治体制が、君主政や貴族政などとは、どこがどう違うのかを意識化し概念化していたことです。プラトンやアリストテレスは民主政に批判的でしたが、それを古典に書き残しています。

 高橋 アテナイ人は言語化していますよね。

 橋場 一般の人も言語化しているんです。アテナイ民主政は、プラトンやアリストテレスのように体系的な政治理論を書き残さなかったのですが、悲劇や文学作品の中にデモクラティック・ソート(democratic thought)と呼べるような思想の断片が織り込まれていることは、最近の研究でしばしば言及されています。ですから、民衆も民衆なりに民主主義をよく自覚していたのだと思います。アケメネス朝ペルシアのように専制君主が支配している国家と、自分たちの民主政を比較して、一般民衆のレベルでもその良し悪しを自覚していたわけです。

 そこも他とは大きく異なります。そこまで捉えるのであれば、やはり民主主義の起源は古代ギリシアだったと言っても良いのではないかと僕は思います。

 高橋 僕もデヴィット・グレーバーは狡いなと思うところがあります。橋場先生がご指摘されたように、デモクラシーという言葉には、クラシー(権力)が含まれていますから、これはやはり権力の問題ですよね。グレーバーはアナーキストだから、彼がおそらく言いたかったのは、民主主義とは呼べない別の何かですよね。他に言葉がないので説明するのは難しいのですが、彼が政治の一つのシステムとして考えている自由な繋がりみたいなものですよね。それを民主主義と呼んでしまうから、おかしくなってしまう。グレーバーは、本当は別の言葉を使ったほうが良かったのかもしれないと思いました。

 橋場 そうですね。ただ、「共感できる部分もある」と言ったのは、やはりway of lifeが民主主義の本質だと思うんですよね。自分たちの意思決定を自分たちでやる手応えの喜び、それを普段我々は奪い去られています。政治を決めるのは永田町にいる人たちだけなので、いつも無力感を感じているわけです。選挙の投票日だけではなくて、もっと日常のなかにそうした手応えを感じる瞬間があってもよいだろうと思います。

 例えばマンションの管理組合でも学校のPTAでもいいのですが、よそから指図されないで、自分たちで自分たちの利害をよく話し合って決める機会を持つことですよね。そういうところから、本当の意味でのway of lifeのデモクラシーは育つのではないかと考えることもあります。

 高橋 way of lifeとしてのデモクラシーという限定を付けると、その言葉が活きてくるのではないかと思いました。デモクラシーだけだと、どうしても権力や国家などの機構の問題が第一にきてしまう。けれども、ギリシアまで遡ってみても民主主義がやはりway of lifeだったことは、重要な本質だと言えますよね。

 

ハンナ・アーレントのポリス観

 高橋 コミュニティのサイズに関しては、個人的にずっと考えていたことがもう一つあります。有名なハンナ・アーレントの『全体主義の起源』の中に、公共性というのはポリスで生きることだ、と述べている箇所があります。このニュアンスをきちんと理解するのは難しいのですが、単純化して言えば、ある意味では特権階級にある人たちが、公に生きるということを公共性だと言っているようです。特権階級というのは、アテナイの例で言えば、自由人に近いのではないかと思います。先ほどアテナイの人口は30万人くらいで、そのうち民会に参加する権利を有していた自由人は6万人ぐらいだっという話がありましたよね。そうすると全体の2割くらいですから、貴族ではないが特権的な立場にいる人たちになる。

 そしてアーレントはポリスのなかで政治的生活、法的生活を通じていろいろなことをしながら名前を売って、言葉を残して、歴史のなかで光り輝いて人生をまっとうすべきだと。それがアーレントの公共性の概念で、ポリスに生きる人間が一番やるべきことだと言っている。

 これはある意味では極論ですよね。そもそもポリスが存在していなければダメという話になっていますからね。今はポリスがないし、我々はもっと巨大な世界のなかにアトム化して生きています。代議制民主主義ですから、政治のことは人に預けることになっている。しかしアーレントは、そのすべてを「堕落なのだ」と言っている。彼女はポリス的な空間で生きる人間の公共性をある意味でものすごく理想化しています。橋場先生から見て、アーレントのポリス観はどのように感じられますか?

 橋場 ハンナ・アーレントはやはり哲学者ですから、我々歴史学者が見ているポリスとはちょっと見方が違います。これは今でもそうですよ。日本には西洋古典学会があって僕も委員をやっています。ここには哲学者・歴史学者・文学者の三者が集まるのですが、哲学者の学会報告を聞いても、ともすれば我々歴史学者には理解しがたいのです(笑)。

 高橋 話が合わないんですね。

 橋場 けれども、哲学者と話をすることは有意義ですね。同じポリスでも彼らが考えているポリスと僕が見ているポリスは、ずいぶん違っていて、ベクトルの隔たりがあることがわかります。対話することで、その違いを知ることは大事ですよね。

 僕が見ているポリスは、ハンナ・アーレントが考えたような美しいものではないですね。歴史的な事実として言えば、各市民がいきなりポリスに所属するわけではありません。まずは複数ある中小の集団に所属します。先ほどお話しした一〇部族はそれぞれ地域ごとにさらに三つに分かれます。それをさらに細かく区分すると、各集落に行き着きます。そこには「しがらみ」とも言えるような非常に濃厚な地縁、血縁の集団があります。各市民はそうした具体的な集団に所属することを通して、ポリスの市民であるという実感を肌感覚で知っていくことになります。

 さらには村落や街区などの各集落でも、マイクロ・デモクラシーをやっています。そこにも民会があって議長もいますから、ポリスの民会のミニュチュアみたいなことをやっているんですね。だからミクロコスモスとしての村があって、マクロコスモスとしてのポリスがあるという相似形になっているわけです。もちろんアーレントは、そうことは知らなかったのではないかと思うんです。

 高橋 アーレントの味方をするわけじゃないですが、哲学者は現理論と段階論を分けて考えるところがありますよね。マルクスは貨幣価値論を述べていますが、「それはどこにあるのか?」と言われても、あれは原理なので別に目に見えるものではないですよね。それと同じで、アーレントのポリスに所属して公共性を持つという理想論も一種の原理の話だと思うんですよね。

 橋場 それはよくわかります。彼女が理想としたのは、抽象的なポリスですね。

 

代議制は一種のフィクションである

 高橋 アーレントが理想としたポリスで生きることは、究極としては原理です。だからそれが不可能なことは彼女も当時からわかっていたのではないか。そう考えるとおもしろいなと思うんです。最初に「民主主義の本質」を考えたいと言いましたが、本質というのはつまりは原理の話ではないかという気がするんですよ。

 ただし民主主義はシステムでもあるので、そもそも原理とシステムを分けることができるのかという問題が出てきます。実は僕はそこに一番こだわっていて、ずっと悩んできたところなんです。

 それを説明するためには、今度は少しルソーの話をしたいと思います。教科書的に言えば、ルソーは『社会契約論』で民主主義の原理を書いたことになっています。僕はフランス語ができないので翻訳で読んでいますが、よくわからない。専門家に聞いても「僕もわからない」と言うし、解説書を読むとみんな違うことを言っている。意見が割れているので、難しいんですよ。でも民主主義の話をするのだったら、契約論がわかってないといけないと。

 橋場 そうなっちゃいますね。

 高橋 自分で納得のいく理解を今からお話します。ルソーはジュネーヴの出身です。ジュネーヴはアテナイくらいの規模の街ですから、民主主義を考える際にも実質的な規模としてはポリスは割とイメージしやすかったのではないかと思っています。ルソーの契約論で一番わからないのが、「一般意志」という概念なんです。ざっくりと言えば、まず民主主義というのは政治的なことを決めるシステムです。古代ギリシアの民主主義も決めるためのシステムですよね。そしてルソーは、どうやって決めるべきかの原理を考えた。まず人民には特殊意志があると言っています。要するに、みんながそれぞれに「オレはこうしたい」という意見があるということです。それらが集まって投票すると全体意志になる。ここまではわかります。

 ところがルソーは、それとは別ルートで一般意志というものが生まれてきて、それを決めるのがデモクラシーだとも言っています。ここで「ちょっと待ってよ」となりますよね。特殊意志と全体意志で決まれば、それで何の問題もないはずなのに、そこに一般意志が登場してくる。しかもルソーは、それを決めるのが民主主義だと言うので、みんな困ってしまう。

 よくわからないので、さらに詳しく読み進めてみました(日本語で)。そうしたら一般意志の決め方というのがあって、割と具体的に書いているんです。まず場所は、民会を想定しています。そこに参加する人たちは、情報を持っていないこと、それから党派をつくってはいけないことが前提になります。その上でみんなの意見を聞いて、原則として全員が意見を述べる。そして投票をして決まったことには、必ず従うと。そこに一般意志が表れると言っているんです。

 ですから、一般意志を決めるためには前提条件が必要になるわけです。どういうことなのか僕もいろいろ考えてみましたが、結局のところ特殊意志は党派性を帯びているわけですよね。だからこそ党派をつくらないという前提条件が大事になってくる。

 橋場 そうですね。そこがポイントだと僕も思います。

 高橋 つまり、一般意志は最初から最後まで個人として決定しなければならない。その場に一〇〇人いたら一〇〇人の話を聞く。もちろんそれでも意見を変えない人もいるでしょうが、それは仕方がない。ただ、納得するにはみんなの意志を知るしかないと。

 ルソーは、「直接民主主義以外はすべて嘘だ」「代議制は民主主義の腐敗だ」とも言っています。そういう意味では、ルソーは古代ギリシアの民主主義の中に一般意志の可能性を見ていたとも思うんです。もちろん六〇〇〇人のすべての意見を聞くことは、実際には不可能だと思いますが、橋場先生はどうお考えでしょうか?

 橋場 僕は、古代ギリシアの民主政が近代以降の人たちにどのように受容されていったのか、その変遷を考えることはとても大事だと思っています。受容史と言えるのかもしれません。昔そうした研究は、余録みたいに思われて軽視されていたところがありました。ところが、近代以降の人びとの古代ギリシアの捉え方が知らないうちに自分の意識に染み込んでいて、それが自分の考え方を縛り付けていたことに気が付くようになりました。

 アテナイの民主政で言えば、やはり「あれは衆愚政だ」という決め付けですよね。これにはやはり長い歴史があるんです。

 高橋 昔からみんなそう思っていたんですね。

 橋場 そうなんです。ジュネーヴ出身のルソーは直接民主政をよく知っているので、それにはすごく同情的で好意的です。ところが、実際のアテナイの民主政については、あまり良く言わないんですね。

 高橋 確かにそうですよね。

 橋場 ここは不思議なんですよ。ルソーはアテナイの民主政をまやかしだと見ていました。学者と弁論家、つまり専門家が牛耳る一種の寡頭政であると。いま高橋さんがおしゃったような原理で一般意志は決まってきます。しかし、それを実行するのは、神々の政体にしかできないことだとも言っている。やはりルソーはいろいろ難しいですよね。本人が言っていることも矛盾しているところがある。

 確かに我々は党派性を持っていますが、そこから自由になって判断することはできるとも思います。例えば、地域の自治会などの日常感覚レベルで考えると、この人は自分の都合だけでものを言っているのか、そうではなくて一〇年先のことまで考えているのか、というのはわかってきますよね。そういうのは、一般意志に近いのかなとも思っているんですけどね。

 高橋 僕もそう思います。ルソーが言っていることは難しいのですが、普通の言葉に翻訳してみたら案外当たり前のことなのかもしれません。つまり自分のことばかり言っていないで、もうちょっと大所高所から判断して意見を言えることですね。

 橋場 それを言える人と言えない人がいますよね。むしろそういう人物は、国会よりも市井にいるのかもしれない。

 高橋 今日は何度かコミュニティのサイズの話題が出ましたが、今の世界の大きさとデモクラシーは根本的なところで矛盾しますよね。一三〇億の人がいるなかで、社会に情報が行き交っています。こうした現代において、政治を進めていくシステムとして民主主義は、本質的な機能を発揮することができるのかという問題がどうしても出てくる。

 橋場 古代の民主政を研究している人間として、現代がどう見えるのかを考えることがあります。よく「デモクラシーとは何だと思いますか」と聞くと、「選挙に行くことです」とか「民主主義を守るためには選挙に行かなくちゃいけない」という答えが返ってきますよね。それはその通りですが、実は古代ギリシアでは選挙は胡散臭いものだと思われていたんです。

 高橋 歴史的にも大昔からそうですよね。

 橋場 だから、デモクラシー=選挙というわけでもない。デモクラシーが多数決であることも間違いではないのだけど、それだけがデモクラシーではないとも思うんですよね。

 けれども我々は、代議制という、政治を委ねる人を投票で決めるシステムのなかに生きている。これはもう仕方がないんですよ。規模が違うわけですから。

 高橋 いくらルソーに「まやかしだ」と言われようが仕方ないですよね。

 橋場 仕方がないですよね。けれども代議制が一種のフィクションであることは、自覚しておくべきだと思っています。代議士は国民の代表で、もちろん重い責任を負うことになりますが、他方で、権威と権力もその人に集中するわけです。我々はそのことをよく承知しておかなければなりません。そもそも一人の人間が他の多数の代理人を務めるということは、不可能な話です。

 高橋 代理はできないですよね。代議制は元々フィクションであるということには常に注意しなければならないと。

 橋場 もし古代アテナイの人がタイムスリップして、今の日本の国会を見たならば、極端な寡頭政だと感じるでしょうね。一億人以上も人口がいるのに、衆議院議員は四六五人ですから。「三〇人政権よりもっとひどい。よくこんなところに暮らしているな」と絶対に言うことでしょう。

民主主義の欠点を挙げようとする風潮は昔からある

 高橋 その視点はおもしろいですね。アテナイの民主主義から見たら、今の民主主義は寡頭政であると。

 橋場 もう間違いなく寡頭政に見えるでしょう。代議制自体がそう受け止められるでしょうね。なので、やはり警戒しなければならないということです。

 だからデモクラシーは選挙だけのように見えますが、本当はそれだけではないのだと思うんです。日本でも裁判員制度が始まりましたが、あれはとても大事なことだと僕は思っています。アリストテレスも、本当の意味で国が民主主義になるためには、みんなが裁判権を分けもっているのだという自覚が生じなければならない、と言っています。

 高橋 アリストテレスがめずらしく民主主義を褒めているところですよね。

 橋場 そうなんです。ここは不思議なんです。元々アリストテレスは民主主義者ではなくて、アテナイ民主政も衆愚政の一つと見なしています。彼はデモクラティアという言葉を、衆愚政とほぼ同じ意味で使っているんです。

 ところがアリストテレスは、『政治学』の第三巻でおもしろい問題を提起しています。一人のものすごく頭の良いスーパーマンみたいな人物が、独裁的な権力を握って支配するのがいいのか、それとも一人ひとりは凡庸だが、多数の人びとが話し合って統治するのがいいのか、という思考実験をやっているところがあります。

 意外にもアリストテレスは、凡庸だけど多くの人が政治に参加したほうがいいのだと結論付けています。

 高橋 それってデモクラシーですよね。

 橋場 けれども彼はデモクラシーとは言わないんですね。多数者による支配が良いと考える根拠として、次のような三つの比喩を使っています。一つ目はご馳走の喩えです。大勢の人がご馳走を食べるときに、たった一人が料理を振る舞うよりも、みんなが料理を持ち寄って食べたほうが美味しいと。

 高橋 それはそうですよね。いろいろなものが食べられる。

 橋場 「三人寄れば文殊の知恵」みたいな発想ですね。二つ目は、水の比喩です。水は少しだけの量の場合はすぐに腐敗しますが、海のように大きいと腐敗しづらいと。

 三番目の比喩は、一種の確率論です。スーパーマンのような無謬の人がいても、その人は神ではなくて人間である以上は間違いを犯す。一年に一度くらいは、頭のなかがおかしくなって間違った判断を下すこともあるだろうと。だからたった一人に無制限の権力を委ねてしまうと、重要な決断を間違うことがあると

 高橋 国全体が破滅することになる。

 橋場 それに対して、大勢の人が話し合って統治するのであれば、みんなの頭の調子が同時におかしくなる確率は、限りなくゼロに近いですよね。なのでアリストテレスは、意外と多数支配の肩を持っている。そこはプラトンとは違うところですね。

 高橋 民主主義の欠点を挙げていこうとする風潮は昔からずっとありますよね。

 橋場 世界史の教科書にも、つい最近まで「アテナイ民主政は衆愚政に堕した」と書いてありました。僕も高校の教科書を書いているので、その記述を削除したら、途端に教育の現場から文句がきました。「あれはやはり衆愚政治ではないか」と。これは今に始まった話ではなくて、ソクラテスの時代から知識人のあいだでは、民主主義を悪く言う言説のほうが圧倒的に強いんですよ。

 高橋 そのほうが楽ですからね。

 橋場 そうなんです。結局プラトンのように、論理的で体系的な思考もできる知識人の反民主主義的な言説だけが、古典として後世に残ることになります。そうしたバイアスのかかった解釈を、一九世紀以来の学者たちも鵜呑みにしてしまったところがありました。

 しかし、実際のアテナイ民主政が一八〇年間、大多数は文字も書けないような人たちから支持されて続いたことは、疑えないわけです。原理上、多くの人が支持しないと民主政は存続し得ないですからね。

 高橋 民主主義は生まれたときから、ずっと文句を言われていますね。けれども、結局のところ民主主義に取って代わるような仕組みは生まれてこなかった。

 僕は、民主主義は完結したシステムではなくて、そこで学ぶシステムだと考えるようになっています。18歳で参加して、そこでいろいろ学んでいくということですよね。民主主義は確かに欠点は多くて、それを指摘するのは簡単です。けれどもシステム自体はもう、ほとんど変わりようがない完成形があるので、それをどう支えて、どう使っていくのかは、我々の問題ということになるのだと思うんです。

(終)

 

 

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