2023年7月号
5月は、米国では卒業式のシーズンである。筆者の所属するサザンメソジスト大学(SMU)でも5月13日に執り行われた。
今年の卒業生は、コロナ禍に翻弄された学生といっていいであろう。1年生の春学期の途中、ちょうど折り返し地点になるはずだった春休みにコロナ禍でキャンパス閉鎖に見舞われた。したがって、後半7週間は実家からリモートで授業を受けざるを得なくなった。学生の中には、両親が海外在住ですぐの帰国もままならず、友人の家に居候し、ソファーで寝泊まりして残りの学期を全うした者もいた。
今年の卒業式では、政治学専攻の卒業生70人とその両親、家族、友人を含む500人の聴衆に向かって「Charge」とよばれる祝辞のスピーチを行った。学部の教務主任として、6人の学生に賞を授与する役目、一つひとつの賞の由来とそれに対する当該学生の功績を述べる役目も果たした。準備にかなり時間をとったが、思い入れのある学生たちの旅立ちに感無量であった。
SMUが、まだワクチンが開発されてもいなかった2020年8月に、全米に先駆けて学生をキャンパスに戻したのは、学生たちに質の高い教育を提供したい一心からであった。リモート授業ではなく対面の授業が不可欠だという判断に基づいた決断をした。先生には多大な負担を強いることになったし、事務方の心身の負担も大きかった。スピーチの中で、教務主任として先生たちに感謝の念を伝えることも忘れなかった。
学生たちと接していると、岩崎宏美の『聖母(マドンナ)たちのララバイ』の一節に思いを馳せることがある。
この都会(まち)は 戦場だから
男はみんな 傷を負った戦士
この歌がヒットした1980年代前半の日本とは違い、今の米国は男女を問わず「マドンナ」であり、「傷を負った戦士」である。この日の学生たちの晴れやかな笑顔を見て、親たちのあふれんばかりの感謝の気持ちと喜びに接していると、労苦が報われた幸せに満たされた。
筆者は第2次ベビーブーム世代なので、日本で育ったときに激しい受験競争を経験したが、米国はいつの時代もそれを上回る弱肉強食の競争社会である。今はそれにソーシャルメディアが加わる。10代の多感な時期にインスタグラムをはじめとするSNSに囲まれて育ったらどうなるか想像してほしい。米国でも日本ほどではないにしても少子化が進んでいる昨今、親が「これをすれば将来は安泰」というものを求めて、インターンシップだ、ロースクールだと血眼になる。親の期待に応えようとして心を病んでしまう子どもも少なくない。
映画監督の黒澤明は、若き日の俳優山﨑努に「あのね、映画作りは、自動販売機にコインを入れてジュースを買うようなわけにはいかないんだよ。毎日毎日、目の前にある仕事を一生懸命やる。そうするといつの間にか終わっているんだ」(2022年8月14日付『日本経済新聞』「私の履歴書」)と言ったそうであるが、大学での人づくりにも通じる至言である。「学生時代にこれをすれば将来成功する」といったマニュアルは存在しないということを学生にも親にもわかってほしい。
目の前の課題に格闘し、七転八倒していると展望が開けてくる。そのときに必要になるのはコミュニケーション能力である。どんなに技術革新が進んでも、人は機械や、コンピューター、ロボットより、思いやり(compassion)、創造力(creativity)、柔軟性(flexibility)の面で長けている。また、そうあるべきなのである。逆にいえば、こうした能力を磨かずに官僚的な対応に終始するような人は、近い将来オートメーションの波に呑まれて自分を失うこと必至である。コロナ禍前のプロトコルに拘泥しているような組織は存在意義がなくなるという危機感を抱いたほうがいい。
「明日死ぬと思って生きなさい。永遠に生きると思って学びなさい」(Live as if you were to die tomorrow. Learn as if you were to live forever.)とはマハトマ・ガンディーの言である。人とのコミュニケーションは「一期一会」であり、「学び」は一生続く。どんな瞬間も二度とはめぐってこない。そんな覚悟を持ちながら、楽しき日々を過ごすのが豊かな人生であろう。サザンメソジスト大学(SMU)准教授