『公研』20243月号「私の生き方

十七世名人
谷川浩司

 

能登は思い出の地

──元日に能登半島で大地震が発生し、甚大な被害が出ました。能登地方に行かれたことはありますか?

谷川 能登には3度訪れたことがあります。そのうち2度は、自分自身のタイトル戦と結び付いているので、よく覚えています。最初に訪れたのは、1996年の1月のことでした。プライベートで妻と二人で金沢市を旅行した後に、七尾市にある和倉温泉にも立ち寄ったんです。ホテルの予約もしていなかったのですが、当日たまたま加賀屋さんに空きがあったので宿泊することになりました。

 この時は、羽生善治さんとの王将戦七番勝負を戦っている最中でした。羽生さんはすでに六冠を制覇していて、全冠制覇に向けて私が保持していた王将のタイトルに挑んでいました。当時はまだ叡王がありませんでしたから、七冠はすべてのタイトル獲得を意味します。

 前年の95年は、阪神淡路大震災があった年です。私自身も神戸で被災するなかで、同じく羽生さんとの王将のタイトル戦を戦い、この時は4勝3敗のフルセットでタイトルを防衛できました。その翌年、羽生さんはすべてのタイトル戦を防衛して、全冠制覇に向けて再度私に挑んできたわけです。

 96年の2回目の防衛戦は1局目、2局目を落として2連敗しました。本来であれば、次の対局に向けて研究しなければならないはずですが、あの時は前人未到の七冠をめざしている羽生さんの活躍に社会的にも大きな注目が集まっていました。羽生さんが主役で私が脇役であることはよくわかりますが、この役回りは精神的には厳しいところがありました。それで妻を誘ってどこかへ行こうと考えたんですね。

──気分転換を兼ねて、能登に旅行に行かれたわけですね。

谷川 はっきり言えば、逃げてしまったところがありました。あの状況に耐えられなくなっていたのだと思います。結局この時の王将戦で私は4連敗することになり、羽生さんは七冠制覇の偉業を達成します。

 2度目の能登訪問は、竜王戦の第4局が七尾市の和倉温泉で開催されたときでした。1997年のことで、私は35歳でした。この時は、真田圭一八段を相手に4連勝のストレートで竜王のタイトルを防衛できた。

 ですから、私にとって能登はとても苦しい記憶と喜ばしい記憶の両方がある、思い出深い場所です。今回の震災で多くの犠牲者が出てしまったことに心を痛めています。

 

阪神淡路大震災で被災

──1962年神戸市のご出身です。95年の阪神淡路大震災では神戸で被災されたそうですね。

谷川 1月17日は、六甲アイランドの自宅マンションにいました。街自体が割と新しいところでしたから、六甲アイランドはそこまで大きな被害はなかったんですね。ただ、島から橋を渡った先にある液化プロパンガスを貯蔵するLPGタンクがあって、そこがガス漏れしているらしいことがわかりました。橋を渡らなければ、どこにも行けません。文字通り孤島から脱出できなくなり、翌日18日は島の南側に避難することになりました。情報も少なく自分たちがこの先どうなるのかわからなかった、あの時が一番不安でしたね。

 六甲アイランドを脱出できたのは、19日の朝9時半くらいでした。私は運転ができないので、妻が運転する車で神戸から大阪に向かうことになりました。20日には大阪で順位戦の対局が控えていたので、何とかそれに間に合わせたかったんです。当然、車は渋滞していましたから、大阪に着いたのは夕方でした。

──ご実家は被害が出たのですか?

谷川 実家は、浄土真宗のお寺です。揺れの激しかった須磨にありましたから、家は全壊認定を受けることになりました。両親は大きな怪我もなかったのですが、当日はなかなか連絡が取れなかった。地震発生から2時間くらい経ってから、「いま小学校に避難している」と母から連絡があったときは、本当にホッとしたことを今でも覚えています。

 あの時は被災地にいて、いろいろな思いがありました。あの大震災では、神戸、阪神間や淡路島と、大阪とでは被害の出方にずいぶん差がありました。神戸がとても酷い状況になっているのに、大阪はすぐに通常の生活に戻っていたことに何か釈然としない気持ちを感じたこともありました。けれども今にして考えると、大阪の被害が大きくなかったからこそ、神戸の復興が早く進んだとも言えます。支援やボランティアの人たちが、割合すぐに入ってもらえたところがありました。

 やはり自然災害への対応は、被害が出ていない地域が被災地を支えることが基本になります。ですから、東日本大震災や今回の能登半島地震を見ていても、交通の便が悪いところや道路などのインフラに被害が出ると、復旧が遅れることになってしまう。今後に備える上でも、大事なポイントになるのではないかと思っています。

──ご著作などでは神戸への愛情をよく語っていますね。

谷川 神戸は港町ですから新しい文化を受け入れる土壌があって、そこが好きですね。「風通しがいい」という表現がいいのかなと思っています。神戸は東西に長くて、南が海、北にはすぐ六甲山が連なっています。人が住める土地は狭いですが、山から海が見えるし、海からは山が見える。普段はあまり意識することはないのですが、気に入っているポイントですね。

──ご実家は浄土真宗のお寺ですが、人の出入りが多い環境でしたか?

谷川 私の祖父が高松寺の本家から分かれて興したのが、実家の高松寺になります。父は2代目ですから、そんなに大きなお寺ではありません。普通の家と変わらないぐらいの大きさですね。それでも檀家さんが亡くなられたりすると、ご葬儀や法事などはありましたから、そうした際にはいくらか慌ただしくはなります。ただ、お寺は普段は静かなところですよね。偶然かもしれませんが、将棋の対局も本当に静かな中で行いますから、集中力を培うという意味では、静かな環境で育ったことは役立ったのかもしれません。

──谷川さんもお経を読まれるのですか?

谷川 お経を読むのは、大晦日と元旦の年に2回だけでした。父からお寺を継ぐように言われたことはなかったですね。

 

最初のライバルは兄

──初めて将棋をやったのはいつですか?

谷川 5歳の時でした。父が兄弟喧嘩を少しでも解消させようと考えて、将棋盤と駒を与えたと聞いています。55年以上も前のことですから、子どもの遊び自体があまり多くない時代ですよね。幼稚園から帰ってきては、毎日のように兄と将棋をしていました。勝負がはっきりとつくところが良かったのだと思います。すぐにのめり込むことになりました。

 最初の2年間ぐらいは、ほとんど兄とばかり対局していましたし、その後も日常的に対局していました。

 小学校2年生になると、父が私の師匠である若松政和先生の将棋道場に連れて行ってくれました。毎週、土曜と日曜に通っていろいろな相手と対戦することになり、本格的に将棋を習うようになりました。父は、我々兄弟が対局するところを見守るだけで、自分が将棋を指すわけではないんですね。だから、退屈していたかもしれません。父には、自分でもやってみてはどうかと勧めたのだけど、「棋士の人生観には興味はあるが、将棋自体には興味が湧かないのだ。おまえがタイガースファンなのに野球をしないのと同じだよ」なんて言っていました。

──当時、将棋の奥深さを意識するような対戦相手との出会いはありましたか?

谷川 やはり師匠の若松先生ですね。最初は飛車、角落ちのハンデを付けてもらっても勝てなかった。プロの凄さを感じましたね。

 小学校3年生の夏休みのことですが、東京の東急百貨店で開催された「将棋・よい子日本一決定戦」に兄と一緒に出場しました。私は本来なら低学年の部なのですが、高学年の部に参加して優勝しました。兄も中学生の部で優勝しています。

 それまでも、神戸の子ども大会に出て地元の新聞に取り上げられて名前が載ったことはありましたが、東京の大会で優勝できたことは大きな自信になりました。まだアマチュア初段くらいの実力でしたから、そんなに強くはなかったのですが、小学生で一番になれたことでプロの棋士になりたいと意識するようになりました。小学3年のときの文集では、「ぼくのゆめは、しょうぎ名人だ」と書いているんです。

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